スタンピード
しかし、今はシークヴァルトに『他人の頭を気軽に踏んではいけません』という教育的指導をしている場合ではない。彼がすぐにエリアスの頭から足を外してくれたこともあり、凪はひとまず面倒ごとは後回しにして、ざっと状況を説明することにした。
「シークヴァルトさん。この人は、ノルダールの孤児院で一緒だったエリアス。ついさっき、ここに来て……って、あれ? エリアスって、どこから来たんですか?」
しかし、説明しようとしたところで、詳しいことはあまり知らされていないことに気付く。ぎこちなく顔を上げたエリアスが、感情の透けない声で言う。
「南の、ウエルタ王国。急速に悪化した地脈の乱れのせいで、ルバルカバ砂漠の北側は、今や一面雪と氷の大地だ。ウエルタ王国側は、スパーダ王国に何度も聖女の派遣を要請したらしいが、一向に返答が来ていない」
「まさかの外国」
砂漠が雪景色になってしまっているということにも驚かされるが、そこが遙か離れた異国の地であることに、凪は少々気後れしてしまった。
(だって、今までこの国から出たこと、ないんだもん……)
いずれはこの国以外でも聖女として働くことはあるのだろうけれど、今の凪が行ったことのある最も遠い地は、ほんの一時間ほど滞在した東の砦だ。
ちなみに、この世界でパスポート代わりとなっているのは、個人登録カードである。他国へ赴く際に個人登録カードの携帯は必須だし、もし何か問題を起こした場合には祖国へ強制送還されることもあるという。
「俺たちが拠点としていた村は、スタンピードに呑まれて破棄された。村の連中の撤退援護が、俺たちに命じられた最後の仕事だ。俺は、連中の撤退を確認したあと、気絶したステラをカプセル型シェルター魔導具に入れて、ここに来た。……俺にもっと魔力が残っていれば、一緒に連れてきたかった」
言葉を失った凪の隣で、シークヴァルトがぼそりと呟く。
「それでおまえは、そのステラってのを助けてくれって、うちの聖女さまに泣きつきにきたわけか?」
「ああ、そうだ。俺の命に、リオの助力を願うだけの価値があるかはわからない。だが、今の俺にはそれしか差し出せるものがない」
真顔で言われ、凪は思わず片手を上げた。
「いや、別に命はいらないです。それから、今のわたしはナギ・シェリンガムですので、ナギと呼んでください」
「ナギ? ……名前、変わったのか?」
困惑するエリアスからの当然の問いかけに、凪は少し迷ってから頷いた。
「そんなようなものです。とにかく、わたしはあなたの命については受け取り拒否をしますので、今後の命の使い方については自分で考えてください。――それで? ステラが入っている魔導具っていうのは、あとどれくらい持ちこたえられるものなんですか?」
シークヴァルトからの若干訝しげな視線を感じたけれど、今は凪の名前について議論する余裕はない。強引に話を戻した凪に、少し考えるようにしたエリアスが答える。
「……魔導具そのものは、あと三ヶ月は稼働していると思う。ただ、いくら生命維持機能がついているといっても、ステラの汚染痕は相当酷かった。魔力暴走がはじまるまで、そう猶予はないはずだ」
「つまり、一刻を争う感じなのは間違いないと。……ん? エリアスはもう怪我も治っているんですし、魔力封じの枷を外したら、すぐにステラを連れて帰って来られるんじゃないですか?」
これはもしや、シークヴァルトを無駄に呼び戻してしまったのでは、と慌てる凪に、エリアスが苦悩に満ちた顔になる。
「それが許されるなら、今すぐそうしたい。だが、あちらはスタンピードのまっただ中だ。ステラの入った魔導具はそう簡単に踏み潰されるような強度じゃないが、おそらく大量の土砂や瓦礫の中に埋もれていると思う。無数の魔獣たちの攻撃を防ぎながらステラを回収するのは、俺単独では不可能だ」
つまりエリアスは、聖女の護衛を担う魔導騎士団の戦闘能力も借りる前提で、ここまで来たということか。その上で、凪に自分の命を差し出すなどと言って、その借りを踏み倒すつもりだった、と。凪は、思わず半目になった。
(まあ、この国一番の戦闘集団である魔導騎士団の派遣を要請するとなれば、どれだけ莫大な経費が掛かるかわからないですけどね? だからといって、安易に命を代金代わりにしようとするのは、本当に心得違いも甚だしいと思います! 命大事に!)
その辺りについては、あとでじっくり話し合うとして――今はまず、大量の魔獣が暴走しているというスタンピードとやらをどうやって攻略して、ステラの入った魔導具を回収するか、である。
凪は、シークヴァルトを見上げて問うた。
「シークヴァルトさん。シークヴァルトさんなら、どうやってスタンピードの中にいるステラを助ける?」
「対象の入った魔導具があると思しき場所を中心に、上空から絨毯爆撃。周囲から魔獣を一掃したのち、対象を回収する」
なんだか、ものすごく大雑把な力技である。しかもそれだと、大量の魔獣が殺されてしまうのではなかろうか。暴走した彼らが、人間にとって脅威でしかないことはわかっている。しかし、彼らとて決して暴走したくてしているわけではないのだ。
(シークヴァルトさんに、あんまりひどいことはしてもらいたくないんだけど……)
凪が鬱々とした気分になっている間に、真っ先に反応したのはエリアスだ。
「不可能だ。今回のスタンピードには、大型魔獣も混ざってる。個人の魔導攻撃で、どうにかなるような規模じゃない」
「そりゃあ、普通ならそうかもしれねえが――」
シークヴァルトが、跪いたままのエリアスの前に無造作にしゃがみ、にやりと笑う。そのガラの悪いヤンキーくささに、凪は密かにときめいた。
「オレは、できるぞ。何しろオレは、レングラーの呪われ子だからな」
「レングラーの……?」
エリアスが瞠目し、凪は額に青筋を立てる。
(え。何そのいろんな意味で痛々しい二つ名。シークヴァルトさんがそんな恥ずかしくも腹立たしい呼び方をされてたなんて、全然聞いてないんですけどー!?)
ギリギリ空気を読んだ凪が内心絶叫している間に、シークヴァルトは淡々とエリアスに告げた。
「一応言っておくが、正式な手続きなしにうちの連中が国外で活動すれば、武力による内政干渉だ。国際問題を通り越して、下手すりゃ侵略だと言われかねねえ。……ハッキリ言うぞ? いくらおまえたちがノルダールの孤児院の被害者でも、今の状況でルジェンダ王国魔導騎士団は動けない」
エリアスの顔が絶望に染まるより先に、シークヴァルトは続けて言う。
「だから、オレが個人的に手を貸してやる。その代わり、この場で誓え。おまえの仲間を無事に回収できたら、おまえたちの飼い主について知っていることをすべて話すと」
「……え?」
一瞬、目を瞠ったエリアスの顔が、強張った。その様子を見たシークヴァルトが、目を細めて問いかける。
「なんだ? こんな形で捨てられたってのに、まだ飼い犬根性が抜けねえか?」
「……違、う。俺たちは、何も知らない」
ぎこちなく首を振るエリアスに、シークヴァルトが不快げに舌打ちをした。
「仲間の命より、飼い主の安全を優先するか。随分とよく躾けられた飼い犬だ」
「違う……! 本当に、知らないんだ!!」
絶叫したエリアスの赤い瞳が、苦しげに歪む。
「俺、たちは、普段は普通の人間として暮らしてた! 配属先が変わるたび、新しい父親役と、母親役! 『仕事』を伝達してくるのは、父親役の人間! 逆らったら、同じ孤児院出身の仲間が殺される! 二十五歳まで生きていられたら、連中のような『親』になって、子どもも持てると言われてた! それまでに死ぬような弱いガキは、何も知る権利なんてないって……っ」
その刹那、沈黙が落ちた。心臓の音が、ひどくうるさく感じられる。
「死ぬ、前に、壊れるヤツも、沢山いた……俺は、ステラがいたから……っ、あいつが死ぬまでは、死ねない、から……!」
――飼い犬、なんて可愛げのある扱いじゃない。
エリアスたちは、彼らをいいように扱ってきた者たちにとって、使い捨ての道具だ。どんな扱いをしようと、そのせいですぐに壊れたとしても、気に掛けることはない。運良く長持ちすれば、それと似た性能を持つ道具を――次世代の子どもを作らせる。よけいな情報を外部に漏らさないため、それまでは最低限の情報すら与えない。
(……なんて、ひどいことを)
人としての尊厳をすべて踏みにじられて、ただひたすらに危険と隣り合わせの日々を送らされるだけの、強く哀れな子どもたち。
だから、なのだろうか。ノルダールの子どもたちは、そういうものだと――所有者の好きに扱っていい道具だと思われていたから、リオもまた聖女でありながら、あんなふうに扱われ、殺されたのか。
(痛い。怖い。誰か――)
フラッシュバックで鮮やかに甦る、苦痛と恐怖。
――誰も、『わたし』を助けてくれなかった。
息が、苦しい。
目眩がする。
視界が赤く染まって、胃の底からこみ上げた気持ちの悪い熱が、全身を燃やすようだ。
(誰も、助けてくれない……から)
煮えたぎった意識のまま、ふらりとエリアスに近づいた凪は、彼を拘束している魔力封じの枷に指先で触れた。そのまま枷を握り潰せば、驚いた顔をして振り返ったエリアスと視線が絡む。
熱は、力だ。
自分にできないことなど、何ひとつないかのような全能感に、凪はゆるりとほほえんだ。
「……エリアス」
世界の管理者が、言っていた。
凪の魂は、現在この世界の誰よりも力に満ちている、と。
ならば、自分は――
「わたしを、ステラの所まで連れていきなさい」
魔獣以上の、化け物だ。