母の実家
マクファーレン公爵家の本邸から、主が消えた朝。
出立するライニールを見送った凪は、留守を任された魔導騎士団第二部隊のメンバーふたりの指導の下、柔軟体操と筋肉トレーニングに勤しんでいた。担当してくれているのは、副隊長のセレス・タイラーと、お料理上手で気遣い上手なルカ・ダンフォード。
魔導騎士団の面々は、通常任務中は基本的にふたり一組で行動している。長身長髪で大人っぽい雰囲気のセレスと、小柄で最年少のルカの組み合わせは、一見ちぐはぐなようでいて、実に息の合った相棒っぷりだ。
(セレスさんの性格が男前なのになんとなく子どもっぽくて、ルカさんが若いのに妙に落ち着いてるっていうのが、いい感じに気が合う秘訣なのかなー。でも、セレスさんが『そういえばアレ、どうなった?』って聞くだけで、ルカさんがそのときセレスさんが聞きたいことを絶対間違えずに答えるのって……。なんか相棒というより、長年連れ添った老夫婦みを感じるでござる)
まあ、ルカは見習いの時分にセレスの下について学んでいたというから、彼らの気の合いようはきっとその頃の経験によるものなのだろう。
今日は、魔導学園で定められている週に一度の休日だ。とはいえ、ライニールやシークヴァルトたち第一部隊の面々が、朝早くから大変な仕事に出ているというのに、ひとりのんべんだらりとしているのも気が引けた。
もちろん、休めるときに体を休めるのも、大切なことだというのはわかっている。それでも、じっとしているといたたまれないというか、なんだか落ち着かない気分になってしまうのだ。
何しろ今日は、マクファーレン公爵家の人々が、リアル島流しになる日なのである。我が身の安全を確保するためとはいえ、これから大勢の人々が、世間から完全に隔離されたまま生きていくことを強いられるのだ。
それを是としたことを後悔はしないし、彼らに同情するつもりもない。ただ、決して気分のいい話でもなかった。
凪は、トレーニングルームの床で、自分と同じように開脚して上体を倒しているルカに問いかける。
「ねえねえ、ルカさん。これからマクファーレン公爵家の人たちが暮らすことになるフォルス島って、どんなとこなんだろう。何か、知ってる?」
「んー……。僕も、副団長から少し話を聞いただけなんだけれどね。たしか、マクファーレン公爵家のプライベートな避暑地として使われている島で、小さいけれどとても豪華で頑丈な屋敷が建っているそうだよ」
避暑地、と凪は小さく呟く。
島を丸ごとひとつ、個人的な避暑地とするとは――王家や貴族家の金銭感覚には、おそらく一生慣れることができないだろう。おまけにやはり、彼らには豪華な屋敷が住まいとして用意されているらしい。
大勢の使用人も一緒に行くという話だし、島流しとはいえさほど不自由もしない感じなのだろうか。
ただ、とルカが続けて言う。
「貴族家が私的に所有しているゲートがある場所っていうのは、有事の際に領民たちを一時的に保護できるだけの避難施設があるものなんだよね。ライフラインの整備はもちろん、生活必需品や魔導結晶も相当の備蓄があるはずだし、ちょっとした要塞レベルの地下施設があってもおかしくないよ」
「え、そうなの? だったら、これからフォルス島に行く人たちが、そこを拠点にして反撃してきたりするってことはないのかな?」
今回、島流しとなる人々の中には、マクファーレン公爵家の私兵もかなりいると聞いている。驚いて聞き返した凪の疑問に、ルカは笑って答えてくれた。
「そんなふうに、力のある貴族が王家に反乱を起こしたら困るだろう? だから、ゲートを設置した場所に配備する魔導具は、王宮に申請したものしか認められないことになっているんだ。つまり、防御系の魔導具はかなりハイレベルなものでも配備可能だけど、攻撃に使える魔導武器は一切配備できない。あくまでも、専守防衛ってこと」
そうそう、と、空中に浮かび上がらせた情報シートで凪のバイタルチェックをしていた、セレスが頷く。
「おまけに今回は、島全体にアンチマジックフィールドを展開させるからなあ。生活基盤に関わる魔導具以外が使用不可になるなら、そうおかしなこともできねえだろ。あとは元公爵閣下が、おとなしくゲートの鍵さえ渡してくれりゃあ、あちらさんの私兵に無駄な負傷者を出さずにすむかもしれんが……」
そのときすでに、オーブリーがアイザックにゲートの鍵を手渡したことで、ライニールが内心絶叫していたのだが――そんなことを知る由もないセレスの言葉に、ルカが軽く苦笑する。
「副隊長。ゲートの鍵は、転移魔術を習得していない人間にとって、フォルス島から出るための命綱みたいなものでしょう。そんな大切なものを、いくらなんでもホイホイ他人に渡したりはしないんじゃない?」
「普通に考えれば、そりゃそうだろうがな。あの元公爵閣下のアホっぷりを聞いた限りでは、ワンチャンあり得るんじゃねえかと思ってる」
あくまでも真顔で応じるセレスに、ルカが同じく真顔になって言う。
「どうしよう。全然、その可能性を否定できない」
彼らに完全同意だった凪も、黙ってこくこくと頷いた。
そんなふたりの様子に、セレスが苦笑を浮かべる。
「希望的観測ってやつだけどな。まあ、多少元公爵閣下がごねたとしても、ウチの第一部隊に囲まれて、いつまでも意地を張るのも難しいだろ。――おい、ナギ。前屈は、背中を丸めてやっても意味がねえぞ。無理に手を伸ばそうとしなくていいから、背筋を伸ばしたまま骨盤を前に倒す感じでゆっくりだ」
「はいぃー……」
当然といえば当然なのだろうが、彼らの指導は元の世界で経験した体育の授業とは、まるで違った。柔軟体操ひとつとっても、どこの筋肉をどんなふうに伸ばしていくのかを、事細かくチェックされる。
(それにしてもこの体、随分動かしやすくなったなあ。最初の頃は、運動音痴っぷりは以前と変わらずな感じだったのに。……これが、魂と体が完全に馴染んだってことなのかな)
元の世界との別離を経験した日、兄の姿をした世界の管理者から、自分とリオの不器用さは魂の状態が不安定だったからだと聞いた。
元々ひとつだった魂が、ふたつに別れたゆえの弊害。だが、リオの死を契機にふたりの魂は入れ替わり、その状態でそれぞれの体に定着してしまった。
あの日以来、どれほど望んでも、元の世界の夢は見られていない。あの穏やかで幸せだった日々には、もう二度と手が届かないのだ。……とうに受け入れたはずの別離の痛みが、いまだに時折胸を刺すのは、なぜなのだろう。
「ナギ? どうかした?」
ルカの問いかけに、凪は少し考えてから口を開いた。
「うん、ちょっと。――わたしのお母さんって、なんとかいう子爵家の生まれだったんだよね? マクファーレン公爵家から追放されたとき、修道院に行くんじゃなくて、実家に帰るわけにはいかなかったのかなあ?」
「ギャレット子爵家だね。それが当時、子爵家を継いだばかりだったレイラさまの兄君が、レイラさまの無実を何度も王宮に訴えたそうなんだけど……。マクファーレン公爵家からの圧力で、あっという間に子爵家ごと潰されそうになったんだって」
打てば響くように返ってきた答えに、凪は目を丸くする。
「何それ?」
「ひどい話だよね。だからレイラさまの兄君は、子爵家と領民の生活を守るために、当主の座を遠縁の方に譲った上で、自らこの国を出ていかれたんだ。そして、新たな当主となった方が、レイラさまとの絶縁を宣言することで、どうにか子爵家を潰されることだけは避けたそうだよ」
凪はしばしの間絶句したあと、ぎゃあと喚いた。
「ほんっっっとーに! ろくなことしないな、マクファーレン公爵家!?」
実のところ、レイラがマクファーレン公爵家から追放されたとき、実家の子爵家はいったい何をしていたんだろう、と思っていたのだ。たとえ彼女が不義の疑いをかけられていようと、家族ならばその無実を信じ、受け入れてくれてもよかったのではないか、と。
なのにまさか、マクファーレン公爵家の横暴のせいで、レイラの兄まですべてを失う羽目になっていたとは――まったくもって、嬉しくなさすぎる驚きである。
「そうだね。レイラさまの兄君が、二十代の若さで子爵家を継いだのも、筆頭公爵家と縁戚になった心労で、先代ご夫妻が体を壊されたからじゃないかって話だし。ギャレット子爵家の方々にとって、マクファーレン公爵家は本当に疫病神みたいなものだと思うよ」
「どうしよう。島流しくらいじゃ、生ぬるいような気がしてきた」
――妹の無実を信じながら、子爵家に連なる多くの人々を守るために、その妹を切り捨てざるを得なかった、母の兄。
どれほど、辛かっただろう。苦しかっただろう。己の無力さを恨んだだろう。顔も知らない相手だけれど、自分の伯父だという彼の気持ちを思うだけで、ひどく胸が痛む。
「……ものすごく今更なんだけど、その当時って、王宮から何かストップが掛かったりとかは、なかったのかな?」
いくらマクファーレン公爵家が筆頭公爵という地位にあったとはいえ、そこまでの横暴をどうして王宮は許してしまっていたのだろう。そんな凪の疑問に、ルカは少し困った顔で答えた。
「そうだね。平時なら、王宮側から調査命令が入って当然の案件だったと思うよ。ただ、その頃はちょうどあちこちの国境線が騒がしい時期で、特に南西の砦には王妃自ら出陣なさるほどだったんだ。もしかしたら、マクファーレン公爵家もそんな王家の隙を突いたのかもしれないね」
南西の砦、というと――たしか、ソレイユの父親が騎士団長を務めている、第八騎士団が守っている場所だ。
(そういえば、ソレイユが生まれた頃はお父さんが忙しすぎて、魔力適性の高すぎる子どもを育てる余裕もなかった、とかなんとか……。って、そんな国の一大事ってときに、あのクソオヤジどのはいったい何をしでかしてくれてたんでしょうね!)
凪がぷるぷると憤りに震えていると、セレスがため息まじりに言う。
「マクファーレン公爵家としちゃあ、どうあってもレイラさまを悪女に仕立てて、イザベラの後妻入りを正当化したかったんだろうが……あ」
突然、セレスが奇妙な声を上げる。凪とルカが不思議に思って見つめると、彼は若干引きつった頬を指先で掻いて言う。
「いや……その、な? もしかしたらレイラさまの兄君は、副団長がナギを溺愛するのと同じレベルで、レイラさまを可愛がっていた可能性もあるわけか――なんて、ちょっと怖いことを思いついちまってな……」
珍しく歯切れの悪いセレスの言葉に、凪とルカは揃って盛大に顔を強張らせた。
伯父と甥の関係だからといって、レイラの兄とライニールの性格が似通っている理由にはならないが、否定する理由にもならない。
凪は、急にバクバクと早鐘を打ちはじめた心臓を押さえた。
もしレイラの兄が、ライニールに通じる苛烈さと鋭い頭脳に加え、重度のシスコン属性を併せ持つ人物だったなら――
「……壊れていないといいね。レイラさまの兄君」
「ルカさん。怖すぎるフラグを立てるのは、やめてください」