絶望
グレゴリーは、ナギが聖女であることを告げるとすぐに、オーブリーからマクファーレン公爵の地位を奪うことに賛同したという。それは、ナギに害意を持つ相手が、王家に次ぐ権力と財力を有していることの危険性を、すぐに認識できたということだ。
だからといって、王妃の実弟であり、また聖女の実父であるオーブリーを処刑してしまっては、王妃とナギの名に疵がつきかねない。高貴なる者の地位に血の匂いはつきものだが、無辜の民にそれを感じさせないのもまた、上に立つ者の義務なのだ。
――グレゴリーの頭の回転は、決して遅くない。それどころか、現状を正しく認識した上で私情を排し、即座に最善の選択をできる胆力と政治感覚の鋭さは、感嘆に値する。
もちろん、彼が両親の助命を願った理由の中には、親子としての情愛もあっただろう。けれど、本人がどう意識しているにせよ、グレゴリーはすでに両親との断絶を受け入れた。
聖女であるナギを、守るために。
(おれは、きみを誇りに思うよ。グレゴリー)
この国の王太子であるオスワルドが、たった十五歳の少年に求めたものの重さは、かつてライニールが背負うよう求められていた責任の重さ、そのものだ。いくつもの広大な領地と、そこに暮らす人々の生活を守ること。国を代表する貴族の一として、人々の規範となるべく常に己を律すること。
そういった責任をまったく意に介することなく、地位に付随する特権のみを享受して遊び呆け続けていたオーブリーたちには、想像することもできないのだろう。
幼いグレゴリーがマクファーレン公爵家を率いていくために、これからどれほど血の滲むような努力をして、歯を食いしばって生きていかねばならないのか。そして、自ら両親を切り捨てる選択をした彼の心が、どれほど深く傷ついてしまったか――
「ライニール! わ……私はおまえたちの、聖女の父なのだぞ!? その私をこのような場所で朽ちさせるなど、許されるわけがないであろうが!」
この期に及んで、こんな戯言を口にできるオーブリーには、きっと一生理解できない。
「国王陛下がお許しですよ。そして、ナギとあなたの間には、法律上なんの関係もありません。そんな大切なことも忘れてしまうなんて、年は取りたくないものですね」
「……っ!」
まったく、同じことを何度も言わさせないでいただきたいものだ。
「さて。私はこれ以上、無駄な時間を費やすつもりはありません。……ああ、最後にひとつだけ伺います。オーブリーどの。イザベラどの。グレゴリーに、何か伝えることはありますか?」
もしここで、ふたりが我が子への愛情か、あるいは心からの謝罪を口にしたなら、ライニールは一言一句違わずそれをグレゴリーに伝えるつもりだった。たとえそれが、少年の柔らかな心を揺らしてしまうことになったとしても、これが彼ら親子にとって、今生の別れになるのかもしれないのだから。
――しかし、マクファーレン公爵夫妻だった者たちは、最後までライニールの予想を裏切らなかった。
「グレゴリーがマクファーレン公爵家を継ぐというなら、陛下へのお目通りも叶おう。一刻も早く私たちの蟄居を解いてくださるよう、陛下に進言しろと伝えろ!」
「そっ、そうですわ! あの子は、親の言うことに逆らうような子ではありませんもの! 万難を排してわたくしたちを迎えにくるよう、すぐにでもお伝えしてくださいませ!」
ため息を吐き、ライニールは冷ややかにふたりを見据える。
「残念ながら、あなた方の永蟄居は国王陛下のご裁可によるもの。公爵家を継いだばかりの十五歳の少年に、いったい何をさせようというのですか。まったく、バカも休み休み言っていただきたいものです」
いい加減、取り繕うのも面倒になってきた。
「そもそも、あの子の兄である私がそんな愚行を許すはずもないことくらい、その足りない頭でも理解できそうなものですがね。――それでは、ごきげんよう。元、マクファーレン公爵家に連なるみなさま。あなた方にこうして最後のご挨拶ができることを、私は心より嬉しく思っております」
笑みすら浮かべず言い捨て、ライニールはアイザックを振り返る。頷きを返したアイザックが、通信魔導具へ向けて低く感情の透けない声で口を開く。
「これより、アンチマジックフィールドの展開確認をもって、今回の任務の完了とする。魔導具制御班の方々は……は?」
ずっと無表情を貫いていたアイザックが、驚きに目を瞠った。その直後、彼の隣に現れたのは、ひとりの女性だ。
すらりと引き締まった体躯を緋色の騎士服に包み、艶やかな金髪を飾り気のない櫛でまとめ上げた彼女の、凛とした美貌を知らぬ者はこの場にいない。その姿を認識した瞬間、魔導騎士団の面々は一斉に最敬礼を取る。
――デルフィーヌ・リディ・アストリッド・ルジェンダ。
この国の王妃であり、オーブリーの双子の姉であり、そしてライニールの伯母である彼女は、無言で愛用の魔導剣を地面に突き立てた。その柄に白い手袋に包まれた繊手を乗せ、落ち着いたアルトの声で口を開く。
「さて。オーブリー・ロッド・マクファーレン。本来ならば、私がこうしてわざわざこの場に出向く予定などなかったのだがな。おまえがあまりにも往生際が悪く、見苦しいにもほどがある醜態を晒すものだから、恥ずかしさのあまり、つい飛び出してきてしまったではないか」
デルフィーヌが言葉を発するたび、彼女が放つ魔力の圧に耐えきれなかった者たちが、次々と地面に崩れ落ちる。そんな人々の様子をまったく意に介することなく、彼女は淡々と言葉を紡いでいく。
「オーブリー。私はこれまで何度も、何度も、おまえに言ったな。乱れた生活を正し、亡き父上と母上の名、そしてマクファーレン公爵家の誇りに恥じぬ振る舞いをせよ、と。先ほどおまえは、私への取り次ぎをライニールに頼んでいたが……。私の言葉を、一度も聞こうともしなかったおまえの願いを、なぜ私が聞いてやらねばならぬのだ?」
心底不思議そうに言い、デルフィーヌはすでに地面に額をこすりつけている弟の後頭部に、ブーツの踵をのせた。ガツ、という鈍い音とともに、オーブリーの顔が地面にめり込む。
(あー……。あれは、痛い)
あの勢いだと、もしかしたら鼻骨が折れているかもしれない。まったく同情はしないけれど、今この場にいる者たちの中に治癒魔導士はいないため、どんな傷でも完治するまでかなりの時間を必要とするだろう。
「昔から、本当に不思議だったよ。世の中には、国王陛下を筆頭に立派な男性が山ほどいるというのに、なぜ私のたったひとりの弟は、顔と体しか取り柄のない女たらしの腐れ外道なのだろうか、と。おまえが女性を泣かせるたびに、顔の形が変わるほど殴ってやっても、すぐに治癒魔導士を頼ってまったく堪えた様子もない。喉が枯れるほどに説教をしてやっても、次の日にはサロンで華やかな女性たちを侍らせて笑っている。おまえの世界は、常におまえと、おまえを讃える者たちだけでできていた」
軽く眉根を寄せ、デルフィーヌが続ける。
「だが今、ようやくわかった気がする。……オーブリー。おまえはきっと、おまえ自身しか愛することができないのだな」
その言葉に、ライニールは短く息を吐く。あまりにもストンと胸に落ちた言葉に、不意打ちで肺の空気を押し出されたような感覚だった。
「だからといって、おまえを憐れむつもりはないよ。生まれ持った性分がどうであろうと、人の生き方は自分自身で選ぶもの。おまえがこうしてすべてを失ったのは、おまえ自身の選択の結果だ。ライニールも、グレゴリーも、聖女ナギも――おまえが、先に捨てたんだ。だから、彼らもおまえを捨てた。わかりやすい話だろう?」
デルフィーヌが、オーブリーの頭から足を下ろす。
「おまえはここで、レイラさまを死に追いやったことを悔やみながら、絶望でもしているといい。……あの方をお救いできなかったことを、私は生涯悔やむだろう。あの方が最期に遺してくださった聖女ナギは、私がこの命に代えてもお守り申し上げる。そのために、彼女にとって害悪でしかないおまえを排除する」
そう言った彼女は、地面に突き立てていた魔導剣を引き抜くなり、無造作にそれを振り下ろした。
「……っああぁああああああ!!」
利き手である右腕を切り落とされたオーブリーが、絶叫してのたうちまわる。血は流れない。灼熱をまとったデルフィーヌの剣が、傷口を一瞬で焼いたのだ。
人間の肉と脂の焼けるにおいにも、眉ひとつ動かさずに彼女は言った。
「やかましい。レイラさまが味わった絶望と苦しみは、こんなものではなかったはずだぞ」
「ぐ……あ、ぁあ……っ」
剣を鞘に戻したデルフィーヌが、冷ややかに告げる。
「おまえが生きている限り、この場にいる者たちの命は保証してやる。ほんのわずかでも、おまえとともに朽ちることになった者たちに詫びる気持ちがあるのなら、せいぜい長生きをすることだ」
――安易に、自ら死を選んで楽になることは許さない。苦しみの中、絶望にまみれて生きていろ。
それが、この国の王妃がかつて弟と呼んだ罪人に対し、最後に告げた言葉だった。