もしかしたら、あり得た未来
いくら法的に絶縁しているとはいえ、オーブリーは紛れもなくライニールの実父なのだ。それがここまで恥ずかしいイキモノであるという事実を目の当たりにしてしまうと、ものすごく気分がどんよりしてくる。
ライニールは、密かに深呼吸を繰り返した。
(よし。落ち着け、おれ。このオッサンが、素手で首をねじ切ってやりたいほど恥ずかしいイキモノだってことは、元々わかっていたことじゃないか。今日の島流しが終われば、もう二度と顔を合わせることもなくなるんだし、がんばれおれ。負けるなおれ。おまえは優しくて強くて可愛いナギと、健気で立派で可愛いグレゴリーの兄貴だろう、心を強く持つんだおれ!)
ぐっと拳を握りしめ、ライニールが懸命に自分を鼓舞しているうちに、アイザックはさくさくと話を進めていたようだ。受け取ったゲートの鍵を部下のひとりに渡して起動させ、まず手はず通りに部下たちを先行させる。そして、彼らから問題ないとの報告を受けてから、マクファーレン公爵家の人々をフォルス島へ導いていく。
ゲートをくぐる前に個人登録カードの提示を求め、名簿に載せた全員が間違いなくフォルス島へ渡ったことを確認するまで、小一時間ほどかかっただろうか。最後にすっかり静まり返った屋敷を一瞥したライニールは、ひとつ深呼吸をしてからゲートをくぐった。
――少しひんやりとした海風と、水平線を照らす暁光。
その眩い光に照らし出されているのは、先にフォルス島へ渡っていた仲間たちに魔導武器を向けられ、青ざめた顔で地面に跪いているマクファーレン公爵家の人々の姿だ。
アイザックに視線を向ければ、魔導武器を構えたまま頷きを返してくる。その唇が、わずかに動いた。
好きにやれ、と。
(ありがとうございます、団長)
ライニールが胸の内で礼を述べていると、掠れて上擦った声が彼を呼んだ。
「ラ……ライニール……っ」
「馴れ馴れしく名を呼ぶのはご遠慮くださいと、すでに申し上げたはずですが? オーブリーどの」
華やかな盛装もそのままに、整然と並べられた人々の最前線中央で妻とともに震えていたオーブリーが、血走った目をして喚き立てる。
「これはいったい、なんの真似だ!? 私は、誉れ高きマクファーレン公爵家の当主だぞ! その私に対し、このようなふざけたことを――」
「いいえ、オーブリーどの。本日零時付けで、あなたは国王陛下よりマクファーレン公爵の地位を剥奪されています」
穏やかに教えてやれば、オーブリーだけでなく、その場にいた公爵家に関わるすべての者たちが、ぽかんと目を丸くした。ライニールは、わけがわからない、という顔をしている彼らに重ねて告げる。
「マクファーレン公爵家は、たしかにこのルジェンダ王国のはじまりから王家を支え続けた名家です。だからこそあなた方は、今回のような醜聞が多少世間を騒がせたとしても、さほど問題はないと考えたのでしょう? 王家が――オーブリーどのの実の姉君であらせられる王妃さまが、マクファーレン公爵家を切り捨てるはずがない、と。今は少しばかり面倒なことになってしまっているけれど、いずれまた何事もなかったかのように過ごせる日が来るのだから、と」
でも残念、とライニールは楽しげに笑ってみせた。
「オーブリー・マクファーレン並びにイザベラ・マクファーレン。そして、あなた方おふたりに仕える者たちすべて、このフォルス島にて永蟄居するように。それが、ルジェンダ王国国王陛下からのご命令です」
「な……にを、バカなことを……っ」
ひび割れた声で言うオーブリーが、忙しなく周囲に視線を巡らせる。今更ながらに、ゲートを使ってフォルス島へ移動するのならば、護衛など必要ないということに気付いたのか。
そんなオーブリーにしっかり見えるよう、仲間からゲートの鍵を受け取ったライニールは、ため息を吐いてそれを軽く持ち上げた。
複雑で優美な意匠をあしらった、手のひらサイズのメダルには、美しい紺碧の魔導結晶がはめ込まれている。この厳しくも豊かな北の海を思わせる、深い青。
「フォルス島のゲートの鍵は、この世にひとつ。これさえ破壊してしまえば、転移魔術を使えないあなた方は、もう二度とこの島から出ることは叶わない」
転移魔術を使えるのは、魔導士の中でも相当ハイレベルの魔力量を持ち、かつその膨大な魔力のコントロールに長けた者だけだ。マクファーレン公爵家に仕える私兵は、戦闘スキルこそかなり高い者たちが揃っているが、それでも転移魔術を習得している者はいない。
「ああ、魔力持ちの方々は、これからがんばって転移魔術を習得してくださっても結構ですよ? ただし、我々がここを離れた瞬間から、この島の周囲にはアンチマジックフィールドが展開されます。そのための魔導具を海底に打ち込むのは、なかなか大変な作業でしたよ」
アンチマジックフィールドは、その有効半径内の魔導の発動を無効化するものだ。つまり、これからこの島で暮らす者たちが、今後魔導を使って脱出を試みようとしたところで、すべて無駄ということである。
「もちろん、国王陛下は慈悲深いお方です。今後、あなた方が心から反省することができたなら、蟄居の命を解かれる可能性もあるでしょう。アンチマジックフィールド内の映像は、常時王宮へ転送されることになっておりますので、あまり恥知らずな振る舞いはなさらないことです」
恩赦の可能性を示唆するのは、今後この島の内部が無法状態になるのを避けるためだ。公爵夫妻の道連れとされた者たちが暴動を起こせば、最悪半日と経たずにこの島は多くの人々の血で染まるだろう。それは、両親の助命を望んだグレゴリーの心を傷つける。
そんな我が子の願いも知らぬオーブリーが、ライニールを睨みつけながら叫んだ。
「……永蟄居? アンチマジックフィールドによる、監視……? 先ほどから、何を言っているのだ、ライニール! 我らをそのような、まるで犯罪者扱いをするなど……!」
「まるで、ではありません。あなたは、紛れもない重罪人。そして、あなたに従う者たちもまた、その共犯者なのですよ」
ゆっくりと、一言一言区切るようにしてライニールは告げる。
「オーブリー・マクファーレン。あなたの罪は、聖女の実父でありながら、彼女からあらゆる庇護を奪い、その身命を危険に晒したことだ」
その瞬間、世界から音が消えた。
「ナギ・シェリンガム。十六年前にあなた方マクファーレン公爵家が捨てた娘にして、我が最愛の妹こそ、我が国の尊き聖女。……本当に、残念でしたね。オーブリーどの。あの日、我が母ともどもナギを捨てたりしなければ、今頃あなたは聖女の父として、至上の栄光を手にしていたことでしょうに」
にこやかに笑って言ってやれば、オーブリーの喉がひくりと震える。
「そうそう、あなた方にとっては瑣末な問題でしょうが、十六年前に我が母レイラにかけられた不義の疑いは、正式に存在しなかったものと認定されました。母の名誉が回復されたことを、私もナギも心から喜んでおります。いずれナギが聖女として立った暁には、天上の母も同時に聖母の称号をいただけることになりましょう」
聖女の生みの親となった者たちには、多くの栄誉と特権が与えられるもの。それはときに、国王の権威をも上回る。
もしオーブリーがレイラとナギを捨てることなく、ナギがマクファーレン公爵家で正しく養育されていたなら――
「私……が……聖女の、父……?」
「ええ。それが、あなたの捨てた未来です。愚かなオーブリー・マクファーレン」
ひゅっと鋭く息を呑み、蒼白になって震えだしたオーブリーの脳裏には、いったい何が浮かんでいるのだろう。十六年前に捨てた、最初の妻か。それとも、半月前にたった一度だけ邂逅した娘の姿か。
ライニールはそんなオーブリーから視線を外し、彼の周囲で同じように青ざめている人々を見回した。
「あなた方も、残念なことですね。オーブリー・マクファーレンの愚行を諫めもせず、盲目的に従うばかりだったあなた方もまた、『聖女の生家に仕える者』の栄誉を手に入れ損ねてしまった。もしナギがマクファーレン公爵家で正しく養育されていたなら、あなた方が『聖女のお気に入り』となる機会など、いくらでもあったでしょうに」
人々が、わかりやすく体を震わせる。もっとも、とライニールは独りごちた。
(ここにいる連中は、子爵家から嫁いできた母も、その子であるおれも、栄えあるマクファーレン公爵家には相応しくない、って見下してきた連中ばっかりだからなあ。もしナギがこいつらに育てられていたとしても、誰も『聖女のお気に入り』にはなってなかっただろうな)
とはいえ、今は彼らに『あり得たかもしれない栄光の未来』を語って、心の底から悔しがって悶絶していただく場面である。よけいなことは、黙して語らず、だ。
そして、この中で唯一、元々そんな未来を描く余地もなかったイザベラに、ライニールはどこまでも朗らかに笑って見せた。
「ああ、そうだ。ナギが聖女であることを公表されたなら、オーブリーどのを母から奪い、母とナギが捨てられる原因となったイザベラさまは、きっと大陸中の人々から稀代の悪女と呼ばれることでしょう。それを思えば、あなたがこのフォルス島で人知れず余生を過ごされるのは、むしろ幸運なことだったかもしれませんね」