絶対に怒らせてはいけない相手
なんだか微妙な空気になったところで、オスワルドがわざとらしく咳払いをする。
「それじゃあ、今後の方針が定まったことだし、僕は一度王宮へ戻るよ。陛下のご許可と、兄上の同意をもらってから、改めて詳しいことを相談しよう」
「了解いたしました。このたびは格別のご配慮をいただき、ありがとうございます。いずれマクファーレン公爵家を継いだ暁には、我が身命を賭して王家のみなさま、そして聖女さまのために働かせていただきます」
深々と臣下の礼を取ったグレゴリーの肩を、オスワルドがぽんと叩いた。
「グレゴリー。きみとはまだいろいろと話したいことがあるけれど、まずはこれだけ。――今のきみのお仕事は、ナギ嬢と一緒にこの学園で楽しく勉強をすることだよ」
「え……? あ――はい」
グレゴリーが、若干戸惑った様子で頷く。
「ナギ嬢を守る大人の手は、もう充分に揃っているからね。きみが無理をして、早く大人になる必要はないんだよ。焦らずゆっくり、少しずつ大人になりなさい。大切な相手と、子どもの時間をともに過ごせるというのは、とても幸せなことなんだよ」
「……はい。ありがとう、ございます」
目元を赤くしたグレゴリーに、オスワルドがにこりと笑う。
「うん、いい子だね。――それじゃあ、ナギ嬢。近いうちに、また会おう」
そう言ってひらりと手を振るなり、オスワルドは姿を消した。空間転移魔術か。凪は、シークヴァルトを見上げて問う。
「この学園って、魔術を使った外部からの侵入は全部弾く仕様になっているって、前に兄さんから聞いたことがあるんだけど……。オスワルド殿下のは、王族特権?」
シークヴァルトが、あっさりとうなずく。
「そんなようなものだな。この学園を覆っている防御結界には、王族の魔力の波長を登録してあるんだ。万が一、学園内で非常事態が起きたときには、王族自らすっ飛んできて生徒を守るためらしいぞ」
「マジですか」
本来、守られる側の筆頭であるはずの王族が、この学園の最終防衛ラインであったとは、さすがに驚きである。それだけ、この学園に通う生徒たち――魔力適性のある子どもたちが、国にとって貴重な人的資源であるということか。
そんなふたりの会話を聞いていたグレゴリーが、ひどく複雑そうな顔で口を開く。
「ナギ。その……オスワルド殿下には、確認させていただいたけれど。本当に、聖女であるきみに対して、敬語を使わなくていいんだろうか?」
「グレゴリー。ここであなたに敬語を使われたりしたら、わたし泣くよ?」
真顔で宣言した凪に、グレゴリーも真顔になる。
「それは、怖いな」
「え、なんで?」
困る、なら想定内の答えだったけれど、怖い、というのは予想外の反応である。しかし、グレゴリーはどこまでも真面目に答えた。
「きみを泣かせる、というのは、ライニールさまに殺される、と同義だと、僕は確信している」
「うん。どうしよう、全然否定できない」
凪とグレゴリーの兄は、かなり重度のシスコンを患っているのである。凪は、乾いた笑いを浮かべて言った。
「まあ、さすがに物理的に殺しにいくことはないと思うけどねー。兄さんなら怒濤の言葉責めで、完膚なきまでに精神的にツブしにいきそう」
「どちらにしても、悲惨な最期になるのは間違いなさそうだね」
とりあえず、今後何があろうとも、あまり人前では泣かないほうが無難なのだろう。そうやって、ふたりがわりとしょーもないことでうなずき合っていると、ミルドレッドがコホンと咳払いをした。
「ナギさま。少々、よろしいでしょうか?」
「あ、はい。あー……すみません、ミルドレッド先生。大変今更なのですけれど、人目を気にする必要がないときは、わたしにも普通の生徒に対するように話していただけませんか?」
ささやかな凪の願いに、ミルドレッドが首を傾げる。
「ご要望とあれば、そうさせていただきますが……。もしよろしければ、理由を聞かせていただいても構わないでしょうか?」
「特に深い理由は、ないのですけれど。そのほうが落ち着くもので……」
――言えない。
ミルドレッドの凜々しい教師口調が、凪の萌えツボにどストライクに嵌まっているだなんて。
(いや別に、ミルドレッド先生の萌えポイントは口調だけじゃないし! ただちょびっとだけ、これから周囲にほかの生徒さんたちがいるときと、そうじゃないときの落差に、脳が混乱しちゃいそうだなー、と思ってるだけだしー!)
若干の後ろめたさを隠しつつミルドレッドの答えを待っていると、彼女は少しの間のあと小さく笑った。
「なるほど、了解した。では、今後はそのようにさせてもらおう」
「ありがとうございます! ――あ、グレゴリー。ミルドレッド先生って、フォスター辺境伯家のご令嬢なんだって。オスワルド殿下の従姉妹って意味では、わたしたちと同じだね!」
お互いの共通点がわかれば親しみも湧くだろう、と振り返った凪は、そこに固まったグレゴリーを発見して首を傾げる。
「グレゴリー? どうかした?」
「……うん。なんでもないよ、ナギ。世の中には本当に、知らないほうが幸せなことがあるんだなって、しみじみと感じ入っているだけだから」
なぜか遠い目をしているグレゴリーの様子に困惑していると、シークヴァルトが苦笑交じりに口を開く。
「ナギ。フォスター辺境伯家は、当代国王陛下の姉君が降嫁されているだけじゃない。建国以来、南の国境を一度もレングラー帝国に譲ったことがないという、この国随一の武門貴族なんだ。言ってみれば、王家に次いで絶対に怒らせちゃならない相手、ってやつだな」
「へえ……」
そんなに立派で恐ろしげな家のご令嬢すら、躊躇なく敬語を使ってくる『聖女』という肩書きの重さに、今更ながら全力でビビりたくなってくる。
だがそこで、ミルドレッドが若干不本意そうに口を開く。
「悪いが訂正させてもらうぞ、ヴァル・シアーズ。現時点の我が国において、王家に次いで絶対に怒らせてはいけない相手というのは、ライニール・シェリンガムどのだろう」
「……なるほど。人間ってのは、一番ヤバい可能性から、うっかり目を背けがちになるものなんだな」
腕組みをして頷いたシークヴァルトに、凪はぼやいた。
「一周回って、また兄さんが怖いって話になってるよ……」
「安心しろ、ナギ。おまえの前にいるときのあいつほど、人畜無害なイキモノは存在しないぞ」
ものすごく真面目な顔で断言されたが、それはもしかしなくても、凪のそばにいないときのライニールは大変危険なイキモノである、ということではなかろうか。うふふー、と意味もなく笑いたくなった凪は、少々強引に話を戻すことにした。
「すみません、ミルドレッド先生。先ほど、何か言いかけましたよね?」
「ああ、そうだな。――いや、私の気のせいなら申し訳ないのだが。グレゴリー・マクファーレンが、どうにも本当に言いたいことを言えていないように見えたのでな。いろいろと混乱しているのはわかるが、こうして周囲の目を気にせず話せる機会というのも、今後はそう多く取れるものではない。もし言いたいことがあるのなら、後回しにはしないほうがいいと思うぞ」
教師として、子どもの様子を見ることに長けているミルドレッドの言葉に、凪はグレゴリーを振り返る。彼は一瞬戸惑うようにしたあと、きゅっと唇を噛んでから口を開いた。
「……ありがとうございます、ミルドレッド先生。そうですね。ぼくはナギに、一番先に伝えなければならないことを言っていない」
そう言って、泣き笑いのような表情を浮かべたグレゴリーが、まっすぐに凪を見る。
「ありがとう、ナギ。きみは、ぼくの世界のすべてを変えてくれた。これからぼくが手に入れるすべては、きみがくれたものだ。約束するよ。ぼくは、マクファーレン公爵家の後継者として、そのすべてを懸けてきみを守る。それが、ぼくがきみやライニールさま、オスワルド殿下にできる恩返しだと思うから」
「……うん。ありがとう、グレゴリー」
きっとグレゴリーは、凪よりもずっと多くのことを考えているのだろう。考えて、悩んで――そして、凪の手を取ることを選んでくれた。
でも、と彼女が言いかけるより先に、グレゴリーが続けて言う。
「それからきみは、自分のせいでぼくが両親を切り捨てたと思っているのかもしれないけれど、それは違う。きみのお陰で、ぼくは彼らの呪縛から逃れることができたんだ。これからのぼくの人生に、あの人たちは必要ない」
グレゴリーが笑って言う。
「もちろん、先のことはわからないから、いつか彼らを切り捨てたことを、後悔することもあるかもしれない。でも、いいんだ。ぼくは今、とても息がしやすい。もう二度と、あの人たちの顔色を窺わなくていいというだけで、とても気分がいいんだよ」




