聖女さまのお気に入り
国主一家に係る年間予算、というと――それはもしや、凪の感覚で言うなら、ニッポンの皇族の年間予算に等しいのではなかろうか。以前、何かのテレビ番組で見たうろ覚えの知識を思い出し、凪は顔を強張らせた。
(え……ちょっと待って? それってもしかして、数百億単位ってことなんじゃ……)
青ざめ、硬直した凪に、ミルドレッドは続けて言う。
「その報酬のほかに、聖女とその護衛たちの滞在費、接待費、その他諸々の現地で必要になる経費は、すべて先方の負担となります」
凪は、震え上がった。
「ぼ……ぼったくり……」
「では、ありません。地脈の乱れが解消されなければ、比喩ではなく国が沈むのです。それを考えれば、むしろ大変良心的でリーズナブルな価格設定と言えるでしょう」
そんなことを言われても、である。
「もちろん、受け取った報酬で賄うとはいえ、我が国が負担する経費も相当なものになりますがね。――非常にざっくりとではありますが、聖女の派遣ひとつとっても、それだけ経済が動くのです。そのほかにも、各国の生産性や安全性に与える影響を考えれば、聖女の存在による経済効果は、我が国の国家予算を軽く凌駕します」
(ひー!)
聖女と地脈の乱れの関係を教わったときにも、聖女が各国の国防や経済に与える影響は凄そうだな、と考えたことはあった。けれど、あのときはものすごく他人事だった上に、夢の中のぼんやりした出来事――自分の脳が作り出した、愉快な妄想だと思っていたのだ。こうして改めて具体的に説明されると、その規模の大きさに圧倒されてしまう。
ガクブル状態の凪に、ミルドレッドは少し困った表情を浮かべて告げた。
「申し訳ありません、ナギさま。少々、性急でしたね。ですが、『聖女に気に入られる』という事実は、おそらくあなたが想像していらっしゃるよりも、遙かに大きな意味を持っているのです。そして、あなたは昨日のガーデンパーティーで、グレゴリー・マクファーレンと仲睦まじくしていらっしゃる姿を、多くの報道陣の前で披露されている。今後、あなたが彼について何も発言しなかったとしても、人々は彼を『聖女さまのお気に入り』と判断するでしょう」
「まさかの手遅れ!」
そんなつもりはなかった、などというのは、言い訳にはならない。自分の軽率な行動のせいで、グレゴリーはすでに『聖女さまのお気に入り』などという、かなりこっぱずかしいレッテルを貼られることが決まっているという。
(えー……。そりゃあ、別に間違ってはないんだけどもさ。グレゴリーは、可愛いし。腹違いとはいえ、兄妹だし。でも、なんちゅうかこう……『お気に入り』という言葉の響きに、美少年を侍らせて喜ぶマダムみを感じるのは、わたしだけなんだろうか)
そこはかとない切なさに、凪がどこか遠くを見つめたくなっていても、仕事のできる女性であるミルドレッドはさくさくと続ける。
「聖女が動けば、経済が動く。そのおこぼれにありつこうという者が、常に護衛たちに守られている聖女本人ではなく、その『お気に入り』に取り入ろうと考えるのは、ごく自然な流れです。そして現状、その筆頭にして、若年ゆえ非常に御しやすいと判断されるのが、グレゴリー・マクファーレンということになりましょう」
「うーわー……」
現在、凪が最も気を許しているのは、兄のライニール。護衛騎士であるシークヴァルト。そして、アイザックを筆頭とする護衛騎士団の面々だ。
ソレイユとセイアッドは同い年ということもあり、友人としての関係を築いてはいるけれど、彼らもまた基本的に『凪を守る側』の人間である。当然ながら、みな自衛の術を充分に身につけている者ばかりだ。
しかし、グレゴリーはそうではない。彼は今でこそ、マクファーレン公爵家の後継者としてかなり高めの社会的地位を持っている。だが、昨日の一件で、その地位はすでに砂上の楼閣となっているに等しいのだ。もしこのまま彼がマクファーレン公爵家との縁を切る決断をすれば、彼を守る力は完全に失われてしまうのだろう。
もちろん、そうなったときにはライニールが助けてくれると信じている。けれど、彼がグレゴリーに対し、凪に対するのと同じ熱量で兄バカを発揮してくれるかどうかは、いささか不明だ。
凪は、おそるおそるミルドレッドに問いかけた。
「あの……ミルドレッド先生。ちょっと考えただけでも、わたしが聖女であることで、ものすごくグレゴリーに迷惑が掛かりそうな感じなのですけれど。その、『聖女さまのお気に入り』であることで、何か彼にメリットはあるんでしょうか?」
「そうですね。グレゴリー・マクファーレンが、どのようなことにメリットを感じる人物であるかはわかりませんので、あくまでも一般論にはなりますが……。十五歳の少年が『聖女さまのお気に入り』となった場合、おそらく大変テンションが上がります」
ミルドレッドは、あくまでも真顔である。よって、凪も真顔で応じた。
「テンションが、上がる」
「はい。それはもう、ギュンギュンに上がりまくるかと。人生に張りが出ること、間違いなしです」
しばしの間、ミルドレッドと真顔で見つめ合った凪は、そのままくりっとシークヴァルトを見上げて問う。
「シークヴァルトさんが十五歳の頃に、聖女と出会って仲よくなれていたら、ギュンギュンにテンションが上がりまくっていたと思いますか?」
「……どうだろうな。五年前となると、おまえはまだ十歳だろう。聖女としての力もまだ発現していなかっただろうし、その状態だとおまえが聖女かどうかは、さすがにわからねえぞ」
首を傾げて言うシークヴァルトに、オスワルドが苦笑して口を挟む。
「シークヴァルト。何も、ナギ嬢に限定する必要はないんだよ。おまえが十五歳のときに、聖女という存在に出会って仲よくなっていたなら、どんな感じだったと思う?」
「そう言われてもなあ。オレにとっての聖女はナギだし、ほかの聖女には興味がない。だから、特に何も感じなかったと思うし、そもそも仲よくなるということもなかったんじゃねえか」
――なんだろう。ものすごく参考にならない回答だというのに、なんだかものすごく恥ずかしいことを言われている気分になってしまうのは。
生暖かい目でシークヴァルトを見ていたオスワルドが、わざとらしくため息を吐く。
「うん。とりあえず、おまえには適当な爵位を用意しておくから、今度こそきちんと受け取るように。これは、真面目な王太子命令。断じて異論は認めないから、そのつもりでいるように」
「あ? なんでそうなる?」
思いきり顔を顰めたシークヴァルトを無視して、オスワルドはにこりと凪にほほえんだ。
「ナギ嬢。残念ながら、シークヴァルトの想像力は大変貧相で、まったくきみの参考にならないものだったけれどね。我が国の普通の少年たちが聖女と仲よくなれたなら、それはそれは大喜びすると思うよ」
「……そうなんですか? セイアッド――ああ、エイドラム団長の弟さんには、数十年に一度現れる珍獣扱いをされたのですけど」
オスワルドが、半目になった。
「どうしてきみの周りには、おかしな感性を持った連中ばかりが集まるんだろうねえ。きみ、何かおかしな磁場でも発生させていたりするの?」
「なんということでしょう! ものすごい冤罪の気配が!」
がーん! と蹌踉めいた凪に、仕事のできるミルドレッドが通信魔導具を手にして言う。
「ナギさま。ほかの少年たちがどうであろうと、問題はグレゴリー・マクファーレンがどのように感じるか、であるわけです。せっかくオスワルド殿下という、証人とするのにもってこいの方がいらっしゃるのですから、今ここで殿下の口から彼に説明していただきましょう」
「うん。きみは、当たり前のように僕を顎で使うよねえ」
一瞬、「え、今?」と思ったものの、考えてみればたしかにこれはいい機会である。もしこのチャンスを逃してしまえば、次にいつオスワルドがこの学園を訪れるかわからないのだ。
(……うん。オスワルド殿下がいないときに、グレゴリーに『我、聖女ぞ?』なカミングアウトをしても、めっちゃ滑りそうな予感がするよね! 真顔で『何言ってんだコイツ』な目で見られるやつだよね! ああぁああ、想像しただけで恥ずかしいー!)
凪は、ミルドレッドとオスワルドに向けてキリッと言った。
「はい! 善は急げということで、おふたりともよろしくお願いいたします!」
そうして、ミルドレッドの呼び出しを受けてやってきたグレゴリーは、にこやかに彼を迎えたオスワルドの姿を見るなり、その場に跪いて頭を下げた。そんな彼に、オスワルドが柔らかな口調で声を掛ける。
「やあ、グレゴリー。久しぶりだね、顔を上げてくれるかい? ああ、今の僕はご覧の通りお忍びの最中だからね。気楽に話してくれて構わないよ」
「直答のお許し、恐悦至極に存じます。このたびは、我が両親の不始末により、この学園のみなさまに多大なるご迷惑をおかけいたしましたこと、心よりお詫び申し上げます」
揺るぎなく跪いた姿勢のまま、淡々と詫びの言葉を述べるグレゴリーの様子に、凪は目を丸くした。
(えっと……誰? コレ)




