マッスル信者は、意外と多いみたいです
たしかエレオノーラというのは、オスワルドの婚約者であるご令嬢の名だ。仲がよろしいのは大変結構なことだが、オスワルドが老衰で亡くなるときには、ご令嬢だって立派なご老体になっているはずである。お年寄りの膝に、あまり無理を強いるのはいかがなものか。
凪がそう言うより先に、ミルドレッドが口を開いた。
「オスワルド殿下。僭越ながら申し上げますが、エレオノーラさまの膝によぶんな脂肪は一切ついておりません。枕代わりとするのであれば、弾力が強めの低反発枕を想定しておくべきかと存じます」
(へ?)
想定外過ぎる言葉に凪は目を丸くしたが、オスワルドは思いきり険しい目でミルドレッドを睨みつける。
「なんできみが、エレオノーラの膝の感触を知っているのかな? ミルドレッド」
「エレオノーラさまが我が家へ武者修行へいらした際に、何度か体術のお相手をさせていただきましたので。彼女の蹴り技は、大変素晴らしいですね。あの切れ味は、鍛え抜かれた体幹と足腰があってこそのものでございましょう」
凪は、固まった。オスワルドの婚約者であるエレオノーラ嬢について、無意識に『ふわふわキラキラの優しくて綺麗なお姫さま』という思いこみがあったのだ。
(だってだって……っ、オスワルド殿下が前に婚約者さんのことを、『世界一可愛くて魅力的で素晴らしい婚約者』って言ってたからー! え、鍛え抜かれた体幹と足腰って、可愛いの? カッコいいじゃなくて!?)
オスワルドが、くっと呻く。
「エレオノーラの、蹴り技……。なぜ彼女の婚約者たる僕が、そんな魅惑的なものをナマで見たことがないんだ……ッ!」
「そうですね。エレオノーラさまが踵落としの一撃で、中型魔獣を模した戦闘訓練用自律式魔導具を破壊してくださったときには、ギャラリーから盛大な歓声が上がったものでございます」
ミルドレッドが、どこか誇らしげに言う。むしろ、ドヤ顔である。
……どうしよう。
今日一日だけで、クラスメイトの素敵な三人のご令嬢といい、オスワルドの婚約者といい、『貴族のお嬢さま』という概念が根底からひっくり返ってしまいそうだ。
「ミルドレッドは、僕に喧嘩を売っているのかな!? 僕だって、エレオノーラの勇姿を間近で見たいのに! あわよくば、誰よりも彼女の近くでその美しさに酔いしれたいと願っているのにッ! この世に、婚約者特権というものは存在しないのか!?」
「残念ですが、これは指導者特権というものでございますね。家族の反対を押し切り、魔導理論及び魔導実技の教員免許を取得した過去の自分を、しみじみと全力で褒め称えたいところです」
本気で悔しがっているオスワルドの様子に、凪はコソッとシークヴァルトに問いかけた。
「シークヴァルトさん。オスワルド殿下って、ひょっとして婚約者さんと一緒にいられる時間が、あんまり多くないのかな?」
「どうだろうな。ただまあ、地脈の乱れがはじまってからは、王族がのんびり過ごせる時間はほとんど取れていないと思うぞ」
それは、お気の毒なことだ。恋する相手と同じクラスで過ごせている上、少しでもピンチになればすぐに助けてもらえる聖女特権を満喫している身としては、なんとなく申し訳ない気分になってしまう。
オスワルドが、どこか虚ろな目で遠くを見る。
「ふ……ふふ……。いいんだ……レングラー帝国の皇帝と聖女の婚約披露宴には、彼女と一緒に参加できることが決まっているんだから……」
「そうですね。エレオノーラさまも、彼の国で何が起ころうと、必ず殿下をお守りしてみせるとおっしゃっておりましたよ。あの方のように強く美しく、そして聡明な婚約者を得られた殿下は、本当に果報者でございますね」
にこりとほほえむミルドレッドの言葉に、オスワルドが両手で顔を覆って喚く。
「その通りなんだけど! エレオノーラの気持ちだって、ものすごく! 世界中に自慢したいくらいに嬉しいんだけど! 僕だって、彼女を守りたい!」
そんなオスワルドの魂の叫びに、ミルドレッドが束の間の沈黙のあと、聖母の如き慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「……左様でございますか」
「その心底憐れむしかない感じ、ホントにやめてくれる!? 本気で傷つくやつだから! それくらいなら、『おまえに彼女を守れるわけがないだろう、身のほど知らずも甚だしい』ってストレートに言われたほうが、まだマシだからね!?」
オスワルドが、涙目になっている。首を傾げた凪は、シークヴァルトに再びこっそり問いかける。
「シークヴァルトさん。殿下の婚約者さまって、そんなに強いの?」
「オレも会ったことがないから、詳しいことは知らねえけどな。たしか、元々は王妃さまの護衛騎士を目指していたって聞いたことがあるぞ。子どもの頃から王妃さまに憧れて、騎士養成学校で女性初の主席卒業をした才媛だとか」
それは、凄い。王太子妃ともなると、やはりそれくらいの才覚は持ち合わせていなければならないのか。ニセモノ聖女のユリアーネ・フロックハートのような、無抵抗の年下の少女を平気で殴れる人でなしが、正々堂々のガチンコ勝負で勝てるはずもない相手だったわけだ。
近いうちに、オスワルドが婚約者を紹介してくれるということだが、なんだかとても楽しみになってきた。
そんなふたりの会話が聞こえたのか、振り返ったミルドレッドがにこりとほほえむ。
「ナギさま。エレオノーラさまほどの素晴らしい筋肉をお持ちの女性は、そういらっしゃるものではございません。真に上質な筋肉とは、非常に柔らかいものなのです。ギリギリまで引き絞られていながら、決してしなやかさを失わず、素晴らしい俊敏性を秘めている。単純なパワーでこそ屈強な男性に劣る面はありますけれど、彼女の持ち味は何よりもそのスピードでございます。幼い頃からのたゆまぬ努力により、どこに出しても恥ずかしくない見事な筋肉を身につけられたエレオノーラさまのことを、私は心から尊敬いたしております」
「……ソウデスカ」
凪は、密かに冷や汗を掻いた。このノリは、あれだ。ソレイユが、敬愛する魔導騎士団団長アイザックの筋肉について語ったときと、同じ熱量である。方向性こそ若干違うものの、ミルドレッドもまた、なかなかのマッスル信者であったらしい。
もしや、これからミルドレッドの授業を真面目に受けているうちに、気がついたら全身がマッチョになっていました、なんてこともあるのだろうか。
一瞬、ボディビルダーのマッスルポーズを決めている、首から下だけムキムキのマッチョになった自分の姿を想像した凪は、即座に「ないな」とうなずいた。この天使のようなラブリーフェイスと、バキバキに腹筋の割れたマッスルボディは、同じ肉体に同居させてはいけない。違和感が仕事をしすぎて、過労死してしまう。
そこで、どうにか気を取り直したらしいオスワルドが顔を上げた。
「ああ、そうだ。ナギ嬢、きみにはもうひとつ、伝えておかなくてはならないことがあったんだよ」
「思いきり話を逸らされている感が満載ですが、なんでしょうか? オスワルド殿下」
うん、とうなずいたオスワルドが、何やら表情を改めて口を開く。
「ユリアーネ・フロックハートの、裁判の件なんだ。本人も彼女に従った魔導士も、死罪にできるだけの証拠は充分に揃っているんだけれど……。彼らを公開裁判の場で尋問したなら、きみが聖女だということが、すぐに広まってしまうだろう」
凪は、首を傾げた。
「ユリアーネ・フロックハートと、わたしの心臓を刺してくれた魔導士って、わたしが自力の治癒魔術で復活したことは、もう知っているんですか?」
「いや。こちらから、彼らによけいな情報を与えるような真似はしないよ。ただ、彼らを証言台に立たせて当時の状況を確認していけば、『ユリアーネ・フロックハートに身代わりとされ、殺された聖女』が、『ライニール・シェリンガムがニセモノ聖女の捕縛任務中に保護した妹』であることは、すぐにわかってしまうからね」
裁判というものにとんと縁がない凪は、そういうものなのか、と困惑しながらうなずく。
「だからといって、彼女たちの裁判をあまり延期するのも、国民感情を考えると現実的じゃない。聖女を騙ったユリアーネ・フロックハートの行いは、この国のすべての民の心を傷つけた。ただでさえ、今は地脈の乱れのせいで人々の心が揺れている。そんな人々の気持ちに区切りを付けさせるためにも、彼女たちをしっかりと法で裁くことが必要なんだ」
ひとつ息を吐いて、オスワルドが言う。
「申し訳ない、ナギ嬢。ユリアーネ・フロックハートの裁判は、今年の秋を予定している。きみが聖女であることを公表するのは、その直前になるだろう。きみが、ごく普通の少女としてこの学園で過ごせるのは、あと半年だと思って欲しい」
「あ、はい。わかりました」
半年というのが、長いか短いかはわからない。けれど、この国を統べる立場の人々がそう判断したのであれば、凪に文句を言う理由はなかった。
オスワルドが、そんな凪を複雑な表情で見つめてくる。
「えぇと……。すぐに納得してくれるのはありがたいのだけれど、本当にいいのかい?」
凪は、首を傾げた。
「そうですね。ここでダダをこねることでタイムリミットが伸びるのでしたら、少しがんばってみようかなーとも思うのですけど、そういうわけでもないのでしょう? それに正直なところ、あまり長い間本当のことを黙っているのも、精神衛生上よろしくないと言いますか……」
少し考え、凪はオスワルドを見上げて言う。
「あの、オスワルド殿下。わたしが聖女であることを、グレゴリー・メルネ・マクファーレンだけには、先に伝えておくのはダメですか?」