せいじょなぎは、やめてください
その日の放課後、凪は一時間目の授業で指示された通りに、魔導理論教員室へ向かおうと教室を出た。校舎の各階中央に設置されている案内板で目的地を確認し、歩き出す。
(固有魔術と治癒魔術の持ち主だけ、別途面談とかね……。この辺については、普通の授業じゃ対応できないからしょうがないんだろうけど、先生方も大変だなあ)
固有魔術も治癒魔術も、世間一般的に非常にレアで貴重な能力であることは知っている。しかし、レアであるということは同時に、その能力の把握と向上のためには、通常の授業とは別の特別なカリキュラムが必要になる、ということだ。
ありがたいことではあるが、なんだかよけいな手間を掛けさせているようで申し訳ない。
(わたしの治癒魔術って、ホントに気合いと根性でゴリ押ししてるだけって感じだからなー。もうちょっとこう、基礎的な理論の部分をというか……うん。いくらわたしの魔力保有量がアホみたいな数値だからって、それに甘えたままはよくないよね。時代は省エネだし)
昨日のような修羅場は、できればもう二度と経験したくはないけれど、凪が聖女である以上、これからも凄惨な現場に赴くことはあるのだろう。そうなったときに、『目の前に治癒魔術を必要としている人がいるのに、魔力切れを起こしてしまいました』という事態だけは避けたかった。
治癒魔術も、魔術の一種であることは間違いないのだ。ならば、今後の鍛錬で少しずつでも効率的に使えるようになれれば、ありがたいと思う。
そんなことを考えながら到着した、中央棟二階の魔導理論教員室。扉のノッカーを鳴らすと、どこからともなく作りものめいた女性の声がした。
『こんにちは、生徒さん。所属クラスと名前、担当教員の名をどうぞ』
「あ、えっと、一年一組のナギ・シェリンガムです。ミルドレッド・フォスター先生はいらっしゃいますか?」
『――はい、予約を確認しました。入室を許可します。左奥の第二面談ルームへどうぞ』
その音声と同時に、扉が消える。目の前に伸びる幅広の廊下の両サイドに、教員たちの個室が並んでおり、さらにその奥に個別面談用の小さな部屋があるようだ。間接照明の柔らかな光と、壁に埋めこまれたおしゃれなタイル、さりげなく飾られた花瓶などが、まるで高級マンションのエントランスのようだと思う。
ふかふかの絨毯を進み、第二面談ルームのプレートが掛かった扉のノッカーを叩く。声を掛ける間もなく、扉が消えた。そして――
「やあ、ナギ嬢! 久しぶりだね、元気そうで何よりだよ!」
(……へ?)
シンプルで落ち着いた内装の室内で、両手を広げて凪を出迎えたのは、大変キラキラと眩しい笑顔を浮かべたこの国の王太子殿下であった。彼はぽかんと目を丸くする凪を見て、ひどく楽しげに肩を揺らす。
「わあ、びっくりしてるねえ! うんうん、こんなに驚いてくれると、がんばってお忍びで学園に潜りこんできた甲斐があるってものだよ!」
「オスワルド殿下……」
凪は、呆然と口を開いた。
「暇なんですか?」
「いきなり、酷いな!? 今回のサプライズのために、夜しか眠らないで三日先のぶんまで仕事を片付けてきたのにー!」
めそめそと泣き真似をするオスワルドの背後から、落ち着いたアルトの声がする。ミルドレッドだ。
「すまないな、ナギ・シェリンガム。ひとまず、中に入ってくれるか? 今日の殿下の訪問は、学長にしか伝えていないんだ」
「はあ……失礼します」
何がなんだか、と困惑しながらも入室すると、すぐに背後で扉が閉じる。オスワルドが、少し申し訳なさそうな顔で言った。
「念のため、この部屋に防音と人払いの魔導具を展開させてもらうね」
「あ、はい」
オスワルドの訪問はお忍びだというのだから、ここは忍んでおいたほうがいいのだろう。
うなずいた直後、凪は知らない誰かの腕に抱きこまれていた。けれど、この体温と匂いは知っている。額のそばで、低く淡々とした声が聞こえた。
「……驚かせるな、オスワルド」
「ごめん、ごめん。謝るから、ふたりともその物騒なものを早くしまってくれるかな?」
(えぇと……?)
瞬きをした凪の視界で銀色にキラめいているのは、オスワルドの銀髪ではなく、いつの間にか彼を背後に庇うように立ったミルドレッドが構える細身の剣だ。その切っ先を向けられているのは、凪を抱えて立つ少年――十五歳バージョンのシークヴァルトである。どうやら、凪が防音と人払いの魔導具の影響下に入ったことを察知して、即座に空間転移してきてくれたらしい。
淡く輝く透明な刃を右手で持った彼は、苛立たしげに舌打ちをした。
(……っにゃあああああぁあああっっ!? 近い、近い、近いいいいぃいいいー!!)
極至近距離で、なんの心構えもなく恋する相手の顔を直視する羽目になった凪は、瞬時に茹で上がって固まった。そんな彼女を抱えていた左腕を緩めたシークヴァルトは、右手の剣を軽く振って待機形態の指輪に戻す。それを制服のポケットに無造作につっこんだところで、ミルドレッドもまた構えていた剣を引く。
彼女は、飾り気のないデザインのペンダントになった剣を胸ポケットにしまうと、そのまま流れるような仕草で一礼した。
「申し訳ありません、聖女ナギ。あなたさまの護衛に剣を向けたこと、心よりお詫び申し上げます」
「せいじょなぎは、やめてください」
頭で考えるより先に、ほぼノータイムで懇願を返した凪は、一拍置いて首を傾げる。そして、彼女が感じた疑問を口にする前に、シークヴァルトが目の前のふたりに問いかけた。
「なるほど、そういうことか。――この学園で、ナギのことを知っている教師はほかにいるのか?」
オスワルドが、あっさりと答える。
「いや、学園長とミルドレッドだけだよ。改めて紹介するね。こちらは、ミルドレッド・フォスター辺境伯令嬢。僕の父方の従姉妹だよ。辺境伯に嫁いだ先代国王陛下の第一王女が、国王陛下の姉君なんだ」
辺境伯令嬢。加えて、母親がこの国の第一王女だった女性となると、彼女はものすごく由緒正しい貴族のお嬢さまだということではなかろうか。
すごいなあ、と感心してまじまじとミルドレッドを見つめていると、シークヴァルトが不思議そうな声で彼女に問いかけた。
「王家とも繋がりのある貴族の令嬢が、なんで学園の教師なんてやっているんだ? その身のこなしからして、かなり実戦経験もあるんだろう?」
はい、とミルドレッドが口を開く。
「私は、フォスター辺境伯家の三女なのです。ちなみに、姉たちのほかにも兄がふたりに弟がひとり、そして妹もふたりおります」
(…………えぇと?)
凪は、指折り数えて確認する。三足す二足す一足す二は、八。――八人きょうだいとは、また剛毅なことだ。
「辺境伯家を率いる両親は、常に忙しく立ち働いておりました。そのため、幼い頃から上の子どもたちが両親に代わって、下の弟や妹たちにものを教えていたのです」
「辺境伯家の領地は、広大なぶんだけ危険な山岳地帯や荒れ地も多いしねえ。ミルドレッドの母君がそちらへ嫁ぐきっかけになったのも、彼女が先代辺境伯の請願に応じて、魔導武器で武装した山賊討伐のために騎士団を率いていったことだったし」
オスワルドの言葉に、ミルドレッドがうなずく。
「はい、殿下。そこで父に一目惚れをした母が、先代陛下と真剣勝負の一騎打ちの末、降嫁の許可をもぎ取ったのだと、何度も誇らしげに聞かされたものでございます」
(……んん?)
王女さまが、山賊退治のために騎士団を率いて遠征にいく、までは、普通に『わあ、強くてカッコいい王女さまだったんだなあ』で聞いていられた。しかし、そこで一目惚れをした相手のお嫁さんになるため、父親である先代国王と一騎打ちをしたとは、これいかに。
困惑する凪だったが、ミルドレッドは淡々と先を続ける。
「両親に連れられて、他国から流れてきた不埒者たちの討伐に出向くうちに、私たちきょうだいも自然と魔導武器の扱いは身につけていたのですが……。やはり、学園できちんと魔導の基礎を修めてからは、その鍛錬の効率性が格段に跳ね上がりました。そのため私は、子どもたちにはできるだけ正しく、そして新しい知識を伝えていきたいと思うようになったのです」
「そういうもんか……?」
よくわからん、と言いたげに首を傾げたシークヴァルトに、オスワルドが苦笑を浮かべた。
「おまえは感覚だけで、ほとんど完璧に自分の魔力をコントロールできてしまっているからねえ。――まあ、そういうわけで、ミルドレッドの身元と人間性は僕が保証する。今後、もし学園内で大人の力が必要になったときには、彼女のことを頼るといいよ」