触るな危険
そこで、おそるおそる右手を挙げたのは、レナードだ。
「あのー。俺、ホントにマジで不器用なんすけど。それでも、これからがんばって勉強したら、センセーみたいに器用なことができるようになるんすか?」
「無論だとも。今のような幻影魔術であれば、パターン化した簡易な術式がいくつも公開されている。そもそも、きみは自分のことを不器用だと言うが……。私の指示通りに魔力を放出できている時点で、決して不器用などではないぞ」
ミルドレッドの言葉に、レナードの目が丸くなる。
「え? でも、俺――」
「レナード・ブレイズ。きみが今まで、周囲からどのような評価を受けてきたかは知らんがな。この授業において、きみを評価するのは担当教師である私だ。どこの誰がなんと言おうが、この場においてきみが私以外の評価を気にする必要はない」
ズバンと言い切った彼女は、それきり黙ったレナードからほかの生徒たちへ視線を移した。
「さて。正しい知識というのは、あらゆる実践の土台になるものだ。この土台をキッチリ固めていくことで、きみたちの実践は必ず揺るぎないものになる。コツコツとした地道な努力は、ときにつまらなく感じるかもしれん。だが、私の授業で常に及第点を取り続けることができれば、きみたちは必ず立派な魔導士の卵になれる」
卵未満の凪たちに、ミルドレッドは淡々と続ける。
「魔力を持って生まれたきみたちは、持たずに生まれた者たちよりも、遙かに多くのことができるようになるだろう。だからこそ、これから何が起ころうとも、まずは自分自身を守ることを優先しろ。きみたちが失われれば、将来きみたちが救えたであろう多くの人々が死ぬことになる。救いたい相手を救うことも、大切な誰かを守ることも、まずは自分自身が生きていてこそだ」
生きろ、と。
「ああもちろん、きみたちが命のやり取りをすることがあるとしたなら、それは必ず戦える大人が全滅したあとのことになる。きみたちが、我々よりも先に死ぬことだけはないから、安心したまえ」
(……うーわー。ミルドレッド先生ってば、言ってることは間違ってないんだろうけど、言い方がストレート過ぎぃ……)
彼女の言葉に顔を引きつらせた生徒たちは、みなまだ十五歳の子どもである。凪とて、つい昨日血みどろスプラッタなアレコレを経験していなければ、唐突過ぎるハードモードな話題にどん引きしていたに違いない。
そんな生徒たちを見て、ミルドレッドが苦笑する。
「みな、なぜいきなりこんなことを語るのか、という顔をしているな。だが、地脈の乱れが発生したということは、これから加速度的に減少していく魔導鉱石を、各国で奪い合うことになるに等しい。いつどこで戦がはじまっても、不思議はないんだ」
そして、とミルドレッドは続けた。
「自衛の術を持たない魔力持ちの子どもほど、戦時下において他国から狙われ易いものはない。ひとり殺せば、それだけその国の力を明確に削ぐことができるのだからな。また過去には、聖女が出現しなかった南方のある国が、他国から攫ってきた魔力持ちの子どもを洗脳し、自国の魔導兵士として実戦投入していたという記録もある」
(ひー!)
なんということだろう。
凶暴化した魔獣の相手だけでもいっぱいいっぱいだというのに、これから人間同士の戦争が起こる可能性があるだなんて、聞いていない。
しかし、考えてみればミルドレッドの言う通りだ。人々の生活基盤を支えているエネルギー資源である魔導鉱石が、これからどんどん真っ黒ぶよぶよな不思議物体になってしまったなら――
(……できれば、あの不気味なチンアナゴが飛び出てくる前の状態のときに、対処させてもらいたいでござる。いや、ふにふにもちもち触感は、大変捨てがたいのですけども。そこにあるだけで、周囲にいる魔獣を問答無用で凶暴化させるとか、さすがに怖すぎなのでござるよ……)
凪がどんよりと肩を落としていると、地面に転がっていた大量のゴムボールがふわりと宙に浮き、そのまま元の籠に戻っていった。ミルドレッドが、風の魔術を操ったようだ。
「だから、きみたちにはくれぐれも自覚しておいてもらいたい。自分たちが、非常に貴重な人的資源であること。それゆえに、今後国家間の緊張が高まれば、自ら身の安全を確保する心構えが必要であることを。きみたちがこの学園の生徒である以上、我々教師は何があってもきみたちを守る。だが、守られねばならない自覚のない者を守るというのは、非常に困難なことなのだよ」
何かいやなことを思い出したらしいミルドレッドが、深々とため息を吐く。そして彼女は、改めて生徒たちを見つめて言った。
「きみたちの魔導理論の授業は、基礎固めと平行して、護身関連の魔導を最優先で身につけられるようカリキュラムを組んでいる。少々戸惑うこともあるかもしれないが、何よりきみたち自身を守るためだ。――全力で、ついてこい」
「はい!」
キレイなお姉さまにここまで言われて、『イエス』以外を返せる十五歳は、凪のクラスにはいなかったようだ。
まだまだ世間知らずな子どもなりに、生徒たちが表情を改めたのを見て、ミルドレッドがうなずく。
「よし。では、ここまでで何か質問がある者はいるか?」
彼女の問いかけに対し、すぐに右手を挙げた者がいる。ミルドレッドが発言を促すと、その生徒はすっと背筋を伸ばして口を開いた。
「わたくし、マリアンジェラ・ヘイズと申します。質問の機会をいただき、ありがとうございます」
柔らかな微笑を浮かべ、穏やかな口調で語るマリアンジェラは、緩く波打つ胡桃色の髪に水色の瞳の、とても大人びた印象の少女だった。たしか、昨日グレゴリーの可愛らしさについて、全力で語っていた少女たちのひとりだ。凪は、なんだか感動した。
(あのときは、めっちゃテンション高めのはっちゃけお嬢さんに見えたのに……。なるほど、これが貴族のお嬢さまの、目上の人に対する正しい猫被りというものか。よし、ここはありがたく勉強させていただこう)
美しく特大の猫を被ったマリアンジェラが、真っ直ぐにミルドレッドを見上げて問いかける。
「先ほど先生は、わたくしたちに守られねばならない者としての自覚を持て、とおっしゃいました。ですが、この学園の中ではそのような不安を感じる必要はない、とも教わっております。よって、先生がおっしゃったのは、学園の外においての危機管理と理解いたしました。そこでお尋ねしたいのですが、わたくしたちは具体的に、学外でどのように振る舞えばよろしいのでしょうか?」
「ふむ、いい質問だ。――そうだな、いくらきみたちが非力な子どもだとしても、街中でいきなり力尽くで拉致していくというのは考えにくい。すぐに騒ぎになって、あっという間に捜索隊が編制されるだろうからな。おそらく、一見して無害そうな外見の言葉巧みな者を使って、穏便にきみたちの身柄を確保しようとするはずだ」
つまり、とミルドレッドが真顔で言う。
「今後、きみたちに見知らぬ者が接触してきたとき、相手が少しでも怪しげな素振りをしたなら、もれなく痴漢だと判断して、全力でその場から離脱したまえ」
「……痴漢?」
マリアンジェラが、穏やかな微笑を浮かべたまま、ぼそりと復唱する。うむ、とミルドレッドがうなずく。
「実際、きみたちのような愛らしい容姿の子どもたちが、そういった性犯罪者に狙われることは珍しくないからな。犯罪者と変質者には、『触るな危険』が一番だ」
(へー。どこの世界にも、変態さんはいるんだなあ)
凪が元いた世界でも、春になるとおかしな変質者が現れるというのは、もはや風物詩レベルで語られていたものだ。
「いいか、諸君。これは、男子も女子も関係ない。犯罪者及び変質者に遭遇した場合は、とにかく逃げろ。断じて、相手を捕縛しようなどと考えてはならん。相手との接触時間が増えるほど危険が増すのは、どちらも同じだ。ああ、逃げる際には『火事だ!』と叫ぶといい。野次馬が寄ってきて、目撃者が増える」
なんだか、ミルドレッドの教育的指導が、完全に痴漢対策のノリになってきた。
「万が一、相手に接触を許してしまった場合には、問答無用かつ全力で股間を蹴り上げろ。断じて迷うな。相手が空間転移を使える魔導士だった場合、一瞬の迷いが命取りになるぞ」
「股間を蹴り上げれば、空間転移の魔術は使えなくなるものなんですの?」
小首を傾げたマリアンジェラの問いかけに、ミルドレッドがはじめて少し迷う素振りを見せる。
「さて。私が今までこのやり方で対処してきた相手は、幸いなことにすべて沈んでくれたのだがな。考えてみれば、世の中に個体差という言葉がある限り、断言は出来んか……」
そう言いながら、ミルドレッドが生徒たちを眺めていく。そして、なるほど、とうなずいた。
「男子生徒諸君の顔色から察するに、相手が男性であった場合には、股間を全力で蹴り上げるというのは、やはりかなり有効な手段のようだ。荒事に手を染めるタイプの犯罪者は、概ね男性だからな。身の危険を感じた場合には、遠慮なく蹴り潰す勢いでいくように」
「了解いたしましたわ、先生」
凪はそのとき、シークヴァルトとセイアッドの顔色をたしかめてみたくなったが、我慢した。何事においても、迂闊に触れてはいけない領域というのがあると思うのである。