素敵なお風呂に入れてもらいました
そんな彼らのやり取りに、凪はおや、と瞬いた。
「ここの食事には、味があるんですね」
ぴたり、とふたりの動きが止まる。ものすごくぎこちない動きでソレイユが振り返り、シークヴァルトが感情の透けない声で問うてくる。
「……おまえは今まで、何を食っていたんだ?」
「孤児院で出されていたのは、人間の生命維持に必要な栄養がすべて入っているという、粉っぽくて味のない焼き菓子みたいなものと、水です」
市場で美味しそうな屋台などを見かけたことはあるけれど、凪はこの世界の夢を見ているときに、孤児院の食堂以外でものを食べた経験がほとんどなかった。ほんの幼い頃には、どこかで甘いお菓子を口にしたこともあった気がする。しかし、その記憶はすでに遠く、曖昧だ。今となっては、毎回の食事で出されていた、栄養補助食品めいた物体しか覚えていない。
非常に残念ながら、それらは決して美味しいと言えるものではなかった。栄養は満点なのかもしれないけれど、ものすごくパサパサしていて、すぐに喉が詰まりそうになるのだ。食事の時間になるたび、心底うんざりしたものである。
今回の夢はかなりサービス精神に溢れているようだし、もし味のある食事ができたら嬉しいことだと考えていると、ソレイユが顔を真っ赤にして叫んだ。
「はぁあああーっ!? 何それ、あり得ない!」
「ソレイユ。――コイツがいたのは、ノルダールの孤児院だ」
激昂していた少女が、再び動きを止めた。少しの間のあと、掠れた声で口を開く。
「それって……例の、魔力持ちの子どもたちを集めていたっていう?」
(へ?)
凪は、困惑して首を傾げる。
「わたし、魔力なんて持ってないですよ」
もしリオが魔力を持っていたなら、幼い頃の検査でそう言われていたはずだ。
孤児院の子どもたちも、幼い頃にみな魔力適性検査を受けていたけれど、今まで誰ひとり検査で引っかかった者はいない。魔力を持って生まれるのは貴族階級に多いというから、当然といえば当然か。
しかし、シークヴァルトはソレイユの言葉を否定しなかった。その意味が、凪にはわからない。
本当に今回の夢は、話しがいろいろとおかしいな、と思っていると、ふたりは何やら視線で会話をしたようだった。ひとつ息を吐いて、ソレイユがにこりと笑う。
「そっかー。ここのご飯はすっごく美味しいから、期待しててね!」
「おまえが風呂に入っている間に何か用意しておくよう、厨房に伝えておく」
どうやら今回は、このまま食事のターンまで目が覚めなければ、味のあるものを食べられそうだ。凪は、なんだか不安になった。
(これはもしや、美味しいものが出てきた瞬間に目が覚めるパターン? ……あんまり、期待しないでおくことにしよう)
それから、『どちらのセレブ向けリゾートスパですか!?』という風情の大浴場に到着し、その豪華さに圧倒されてしまったものの、ひとまず体を清められることにほっとする。一刻も早く、この血塗れ状態から解放されたい。
しかし、入り口待機となったシークヴァルトが、凪のお姫さま抱っこをソレイユに継続させるとは思わなかった。
「ああああの、ソレイユさん!? わたし、ゆっくりなら歩けますよ!? たぶん!」
「大丈夫、大丈夫ー。あたし、魔導騎士団の見習いだよ? 身体強化魔術くらい、基本のキだよ? ナギちゃん軽すぎだし、十人くらい余裕で持てるよ!」
忘れかけていたファンタジー要素を唐突に突っこんでこられると、咄嗟に抵抗は難しい。高さはだいぶ変わったけれど、揺るぎなさはまったく変わらない腕に軽々と運ばれてしまう。
それから、汚してしまうのが申し訳なくなるほど美麗な浴場で、テキパキと手際のいいソレイユに介助されながら、凪はようやく全身の汚れを洗い流すことができた。床のタイルが乾きかけの血で汚れていくのを見るたび、どれだけ自分が汚れていたのかがわかって、我ながらどん引きしてしまう。
風呂を誰かに手伝ってもらうなど、ほんの幼い頃以来だ。最初は恥ずかしさでいっぱいだったけれど、体を上手く動かせないのだから仕方があるまい。
実際、上着を脱いでシャツの袖とズボンの裾をまくり上げたソレイユは、おそらく負傷者の介護訓練も受けているのだろう。非常に手慣れた様子で、凪は次第に恥ずかしさを忘れてリラックスすることができた。
一通り汚れをこすり落としてもらったあと、美しい幾何学模様を描くタイル張りの湯船に肩まで浸かると、凪は深々とため息をついた。ほのかに甘い花の香りのあるお湯が、体の芯までじんわりと温めてくれる。
「気持ちいいです……」
「そりゃーよかった。はーい、ここに頭のせて、楽にしててねー。トリートメントとマッサージするからねー」
ソレイユの指先が、爽やかな柑橘系の香りのするトリートメントで、長い金髪を丁寧に手入れしていく。ほどよい力加減で頭皮から肩までマッサージされて、その心地よさにうっかり眠りそうになってしまう。ソレイユは騎士見習いだというが、美容師のほうがよほど向いているのではなかろうか。
(夢の中で寝ちゃいそうとか……。でも、気持ちいい……。今回は、本当にいい夢だなぁ……)
そうしてふわふわした気分のまま風呂から上がると、真新しいワンピースを着せられた。さらりとした柔らかな肌触りが、とても上質な布地であることを伝えてくる。淡いブルーを基調とした、大きめに開いた襟がスクエアカットになったデザインで、胸元は薄いレースに覆われている。ハイウエストに巻かれた大きなリボンと、裾のたっぷりとした白いフリルが可愛らしい。
(うん。こういう素敵なワンピースが普通に似合うのが、さすが金髪碧眼の超絶美少女だよね。意外性がなさすぎて、別に驚きはしないです)
いかにも高価そうな籐家具が、ゆったりと配置された脱衣スペースの鏡には、まさに天使のように愛らしい少女が映っている。先ほどまでは、髪や肌の色すらよくわからないレベルに汚れていたため、まさに劇的な変化と言えよう。温風が出てくるドライヤーのような魔導具で、腰まで長さのあるサラサラの金髪が乾かされれば、とても質素倹約を旨とする孤児とは思えない仕上がりである。
最後に、ソレイユが凪の首に巻いたのは、丸く小さな銀色の徽章がぶら下がった、黒のリボンチョーカーだ。表面には、剣と翼をモチーフにした図案が描かれていて、裏側の中央には金色に輝く透明な石が嵌まっている。
ソレイユが、少しすまなそうな顔で言う。
「この徽章が、ここでの身分証になってるのね。ただ、ナギちゃんは要保護対象だから、これには位置が捕捉できる魔導術式が組みこまれてるんだ。ナギちゃんが行方不明にならない限り、発動させることはないから、気分が悪いかもだけど勘弁してね」
(へー。GPS機能付きなんだ、これ)
ほとんど重さを感じないのに、すごいものだと感心する。
「いえ。わたしは、部外者ですから。安全管理上も必要な措置だというのはわかりますので、大丈夫です」
彼らに保護してもらったとはいえ、今の凪は不審人物以外の何者でもない。完全に無害な存在だと認められたわけではないのだろう。
「こんなによくしてもらって、申し訳ないくらいですし……。どこかに閉じこめておいたほうが安心だというなら、そうしてください」
立派なお風呂だけでなく、清潔で着心地のいい衣服までいただけたのだ。これ以上贅沢を言っては、バチが当たる。
だがそう言うと、ソレイユの眉間に深々と皺が刻まれた。
「あのね、ナギちゃん。あとで団長から、詳しい話しがあると思うけど……。ナギちゃんは誘拐事件の被害者で、同時に重要参考人で、全力で保護されなくちゃならない女の子なの。うちで一、二を争う腕利きのシークヴァルトさんを護衛につけたってことは、団長がナギちゃんを絶対に守るって決めたってこと。それだけは、覚えておいてね」
(……誘拐。そっか、そうなるのか)
凪としては、この夢の世界で『目覚める』たび、周囲の情景が異なっているのは当たり前のことだった。だから、あの森にひとりでいたときも特に慌てることはなかったけれど、よく考えてみれば、これ以上ないほど立派な犯罪被害者という立場である。
たしか、騎士団というのは地域の治安維持も担っていたはずだし、犯罪被害者の子どもを無下に扱うというのはあり得ないのだろう。
しかし、だからといってわざわざ護衛をつけてまで庇護するというのは、ちょっとやり過ぎではなかろうか。凪は、なんだか不安になった。
「何か、面倒くさいことに巻きこまれているんだろうな、とは思っていたんですけど……。その、ここのみなさんが探していたという女の人は、いったい何をして追われているんですか?」
その問いかけは、ソレイユが想定していたものだったのだろう。彼女は少しも考える素振りを見せることなく、口を開く。
「聖女を騙ったんだって」
「……せいじょ?」
なんだかまた、日常生活ではまず聞くことのない単語が出てきた。