王家への忠誠、とは
ぐぎゅるるるるるぅ。
(……お腹、減った)
目を覚ますなり、かなり激しめの自己主張をはじめた胃袋をなだめつつ、凪はよいせと伸びをした。
窓の外は、まだ明るい。よほど深く眠っていたのか、ありがたいことに疲れはほとんど残っていなかった。
しかし、考えてみれば今日は少し早めの朝食以来、東の砦でハーブティーしか口にしていないのだ。十五歳の育ち盛りではなくとも、空腹を覚えるのは当然である。
顔を洗って普段着のワンピースに着替えた凪は、食堂で何か食べさせてもらおうと部屋を出た。そこで、耳馴染みのいい柔らかな声を掛けられる。
「あ、目が覚めたんだね。今日は、本当にお疲れさま。お腹減ってるでしょう、食堂に軽くつまめるものを用意してあるよ」
にこにこと笑いながらそんなことを言うのは、第二部隊最年少のルカ・ダンフォードだ。短く整えた明るい栗毛に緑の目をした、とても穏やかな物腰の青年である。
「ありがとうございます! 兄さんは、もう帰ってきてますか?」
「ああ、ついさっき帰ってきていたみたいだよ。まだ玄関ホールにいるみたいだから、行っておいで。何か、温かいものを用意しておくよ。えぇと……かぼちゃとチーズのリゾットでいいかな?」
凪は、ぱっと笑顔になった。ルカの料理は、本当に美味しいのだ。
「はい! じゃあ、兄さんを誘ってから食堂へ行きますね!」
「うん、待ってるよ」
足取りも軽く歩き出した凪は、早速玄関ホールへ向かってさくさくと迷いなく進んでいく。
(ここのお屋敷は、大きいだけで別に迷路じゃないもんねー。ひとりでも、ちゃんと目的地まで行けるんですよー……って、あれ? なんか、大勢いる感じ?)
玄関ホールへ続く螺旋階段の上までたどり着いた凪は、ひょいと階下を見下ろした。そこで、真っ先にシークヴァルトの姿が目に入ったのは、恋する乙女ゆえ当然として――何やら、ライニールだけでなく、エルウィンとソレイユ、セイアッドまでがひどく真剣な面持ちである。
不思議に思った凪は、彼らに向かって声を掛けた。
「おーい。何かあったのー?」
「……っ!!」
その途端、ものすごい勢いで全員に振り返られ、思わず半歩下がってしまう。一体何事、と目を丸くした彼女に、真っ先に笑いかけたのはライニールだ。
「おはよう、ナギ。びっくりさせて、悪かったね。たった今、レングラー帝国の聖女が婚約したという情報が入ったものだから、おれたちも少し驚いていたんだよ」
レングラー帝国の聖女、というと、現在公表されているふたりの聖女のうちのひとりか。聖女は、その所属国を統べる一族と婚姻するのが普通だというし――と考えたところで、はっとする。
「そう、それ! なんか忘れてると思ってたけど! わたし、シークヴァルトさんがレングラー帝国皇帝の弟さんだなんて、聞いてないよ!?」
「そういえば、そこからだったな!?」
珍しく声をひっくり返したシークヴァルトが、なぜか頭を抱えている。まさか、と凪は青ざめた。
「え……? レングラー帝国の聖女さまが婚約したのって、シークヴァルトさんなの……?」
「そんなわけがあるか、オレはロリコンじゃない」
ものすごく食い気味に反論されて、ほっとした凪だったが、ロリコンとはいったいどういうことなのか。ため息をついたライニールに手招かれ、螺旋階段を降りていく。
困惑しながら兄を見上げると、ひょいと肩を竦めた彼が言う。
「レングラー帝国の聖女は、御年十二歳なんだ。それから、聖女と婚約したのはレングラー帝国皇帝ご本人――シークヴァルトの血縁上の兄上だよ」
十二、と凪は目を丸くする。なんとなく、聖女というのは自分と同い年だとばかり思っていたのだ。
(いや、考えてみればニセモノ聖女のユリアーネ・フロックハートは、十八歳とか言ってたし。大体ざっくり、十代の女の子って感じなのかな?)
よくわからないが、いずれにせよ十二歳で婚約というのは、いくらなんでも早すぎるのではないだろうか。いろいろと、ものすごく気になる話題ではあるのだが――
「……この話、長くなるなら食堂に移動してからでもいいかな? 今、ルカさんがかぼちゃとチーズのリゾットを作ってくれてるんだよね」
正直、空腹のほうが勝ってしまう。そんな凪の提案に、一同はぞろぞろと食堂へ移動した。それに気付いたルカが、ひょいと厨房から顔を出してくる。
「あれ? 随分増えたねえ。あ、副団長もシークヴァルトさんも、お疲れさま。ふたりも、ナギちゃんと同じリゾットでいいかな? 隊長たちも、何か食べる?」
にこにこと笑う彼の提案に、シークヴァルトとライニールは即座にうなずき、そのほかの面々は疲労回復によさそうなレモン水をリクエストした。さほど待つこともなくそれらを用意して、これまた爽やかな笑顔とともに去って行ったルカは、きっとものすごく仕事ができる青年なのだろう。見た目はふんわりおっとりとした癒し系、中身は物腰穏やかな料理上手とは、実に好感度の高い御仁である。
(……あれ。ルカさんって、珍しくギャップ萌えじゃないな?)
ふとそんなことを考えてしまった凪だったが、今はその件について議論を戦わせる場面ではない。何しろ、それはそれは美麗な笑みを浮かべたライニールから、「シークヴァルトの出自については、食事がまずくなるからあとにしようね」と言われてしまったのだ。
隣国の皇子さまが、魔導騎士団という大変危険な任務を常とする戦闘集団に所属しているからには、きっとかなり重めの事情があるのだろう。今更ながら、自分が聞いてもいいものなのかと悩むけれど、シークヴァルトの素性については純正お坊ちゃまであるグレゴリーも知っていた。ならばこの件は、かなり一般的に周知されている事実なのだろう。
舌を火傷しない程度の温度で出されたリゾットは、空腹と相俟ってすぐになくなった。
そして、シークヴァルト本人から、ごく淡々とした口調で語られた過去に、凪はなんと返せばいいのかわからなくなる。
ほんの幼い頃から、周囲にいる誰からも――家族からも恐れられ、疎まれ、最後には命を狙われ、殺されかけた。
そんな重すぎる過去の傷を、シークヴァルトは今まで一切感じさせたことがない。自分がずっと『知っている』と思っていた彼が、まるで夢か幻であったかのようで、不安になる。
「だからまあ、あっちの皇位継承権もとっくに放棄してるし、今のオレはこの国でおまえの護衛をしているだけの、ただの騎士だよ。……つまり、レングラー帝国皇帝があの国の聖女と婚約しようが、オレとは一切なんの関係も微塵たりともないことを全力で主張しておくので、その点については心の底からくれぐれもよろしく頼む」
「う……うん?」
なんだか最後に、言葉遣いの怪しくなったシークヴァルトが、死んだ魚のような目になってしまった。
たしかに、彼の兄というからには、レングラー帝国皇帝は少なくとも二十一歳以上であるわけだ。立派な成人男性が、たった十二歳の少女と婚約するというのは、どんな事情があるにせよいかがなものか、と凪も思う。
「えっと……でもこの大陸に、聖女に無理強いできる人なんて、いないんだよね? だったら、レングラー帝国の皇帝と聖女の婚約って、聖女のほうから言い出したことなのかな?」
何しろ、聖女というのはこの大陸に五体しか存在しない最終兵器。しかも、今のところ存在を公表されているのはふたりだけという、超レア生物だ。その心身を損なうようなことは、大陸に生きるすべての者たちにとって、断じて許されないことのはずである。
しかし、ライニールが少し困ったような顔で口を開いた。
「ナギ。きみの言う通り、聖女に無理強いをする者などいてはならないし、もちろんきみにそんなことをしようなんていう輩は、おれがキッチリ埋めてやるけれどね。貴族の家に生まれた聖女が、その国の主に婚姻を望まれた場合、断ることは難しいと思う」
そうだなあ、とこの場で最年長のエルウィンがうなずく。
「もし、だぞ? もし嬢ちゃんが、普通にマクファーレン公爵家の娘として育てられていたとする。そうしたら、ほんのガキの頃から徹底して教えこまれるわけだ。――王家への忠誠、ってやつをな」
「……王家への、忠誠?」
凪は、きょとんと首を傾げた。
彼女にとって王家とは、『なんかよくわからないけどエラい人たち』の集団である。すでに顔見知りとなっているオスワルドについては、ライニールと同じ顔をしていることもあって、それなりに親しみは抱いているし、さまざまな気遣いには感謝もしていた。
けれど、それだけだ。
王家のみなさまには、いずれ聖女としてご挨拶することもあるのだろう。けれど、ものすごく緊張しそうなミッションでもあるし、叶うことならサボらせてもらえないかな、と密かに願っていたりする。
要するに、そこそこ親近感はあるし、感謝の気持ちもあるけれど、あまりお近づきにはなりたくない。大変なお仕事をしているのはなんとなくわかるから、ぜひ遠いところで幸せになってください、という雲上人。凪にとって、王家とはそんな存在だ。忠誠、と言われても、まったくもってピンと来ない。
困惑する凪に、エルウィンが小さく笑う。
「嬢ちゃんには、理解が難しいだろうけどな。どこの国でも、貴族ってのはそういうもんなんだ。君主を頂点とした序列が機能しなくなれば、国の秩序が崩壊する。王家が貴族をキッチリ統率しているからこそ、こんなふうに地脈の乱れが発生したときでも、俺たちはその対処のために問題なく動けるんだ。そのために――自分の国を守るために、貴族の家に生まれた子どもたちは、例外なく主への忠誠を骨の髄まで叩きこまれる。十二かそこらのガキでも、それは変わらない」
なるほど、と凪はうなずいた。
正直に言うなら、この世界の社会構造は、ゴリゴリの資本主義社会であるニッポンで生まれ育った凪にとって、いまいち馴染みにくいものだ。平民階級の者たちが理不尽に虐げられていることこそないようだけれど、身分の差というのは厳然として存在している。
しかし、郷に入れば郷に従え。この世界の人々が、今の世の中のありようを是としているのであれば、凪もその水に馴染んでいかねばなるまい。凪の魂は、長いものに巻かれて生きることに平穏を覚える、純正ニッポンジンのものなのだ。革命などという物騒なイベントとは、極力ご縁がない方向で生きていきたいのである。
「だから、三十二歳の皇帝と十二歳の聖女が婚約するってのも、まあそうなるか、ってところだな。あの皇帝は、聖女を他人に委ねて落ち着いていられるほど、肝っ玉の据わった御仁じゃあなさそうだ」
「………………さんじゅうにさい?」
間の抜けた声でリピートした凪は、思わずシークヴァルトを見た。ものすごく苦悩した表情を浮かべているものの、否定はない。
凪は、思わず呟いた。
「三十二歳と十二歳なら、婚約じゃなくて養子縁組をすればよかったのに」
「~~っホンット、それな!!」