二兎追うものは一兎をも得ず
「え……? あの人って、この国に喧嘩を売ってきたどこかの誰かに命令されて、こっちの様子を偵察に来たって感じだったよね? なのに、今度はわたしを守れ? ていうか、ホントに孤児院で一緒だった子なのかな? でも、だったらなんで――」
「ナギ、大丈夫だよ。少し、落ち着こう。ゆっくり、息をしてごらん」
ひどく混乱する凪の背中を、ライニールが優しく叩く。その規則正しいリズムを感じているうちに、早鐘を打っていた心臓が少しずつ落ち着いてくる。
青年が消えた空を睨みつけていたシークヴァルトが、ふと片手を挙げた。彼の通信魔導具に、連絡が入ったらしい。
「――ああ、無事だ。いや、相手の所属を確認できるようなものは、確認できなかった。……了解、オレはナギを連れて砦に戻る。ライニールは――ああ、わかった。いや、オレから伝える」
ライニールが、通信を切ったシークヴァルトに問いかける。
「団長からか?」
「ああ。さっきの連続砲撃を見て、ナギの無事を確認してきた。あっちのほうは、第三騎士団の連中が、めちゃくちゃ気合いが入った状態で完全復活してるから、もうおまえは来なくていいそうだぞ」
そうか、とライニールが肩の力を抜く。
「じゃあ、おまえはナギを連れて先に砦へ戻っていろ。おれは、王宮に報告して今後の対応を検討する。――ナギ、狂化魔獣の討伐が済むまでは、念のために東の砦で待機していてくれるかい? それが済んだら、すぐに屋敷に戻れるからね。さっきの彼のことは、落ち着いてからあとでゆっくり考えよう」
「……うん。わかった」
アイザックが、ライニールの力を不要と判断するほど、魔獣の討伐状況に余裕が出たのであれば、安心して戻ることができる。怪我が治ったばかりだというのに、元気に現場復帰してくださった第三騎士団のみなさまに、感謝感謝だ。
素直にうなずいた凪を、シークヴァルトがものすごく自然に抱き上げた。
(あははー。お姫さま抱っこに、すっかり慣れてしまったわたしがいますねえ)
もちろん、『好きな人にお姫さま抱っこをされる』というシチュエーションに、ときめいてはいる。全力でときめいてはいるのだが――慣れって、怖い。
乙女的に、ものすごくきゅんきゅんしてしまうはずの状況が、ただの運搬スタイルにしか思えなくなってきた自分に、そこはかとない危機感を覚える。
己の乙女心の摩耗具合に、凪がちょっぴり遠いところを見たくなっている間に、シークヴァルトはあっさりと東の砦、その談話室に転移していた。
凪を椅子に下ろしたシークヴァルトが、小さく息を吐く。
「大丈夫か? ナギ。悪かったな。いきなり戦闘行動に入って、怖かっただろう」
「んー……。怖かったっていうより、驚いたような気もするけど。なんだか一気にいろいろありすぎて、よくわかんないや」
人間が、一日で怖がったり驚くことのできる回数というのは、もしかしたら限度が決まっているのではないだろうか。首を傾げた凪は、それより、とシークヴァルトを見上げた。
「さっきの人、なんでいきなり帰っちゃったんだろ。わたしの昔の知り合いなら、そう言ってくれればよかったのに」
「……そうだな」
手近な椅子に腰を下ろしたシークヴァルトが、少し考えるようにしてから言う。
「連中が何を目論んでいたにせよ、撤退を決めた理由なら、まず間違いなくおまえが――聖女が、この国にいることが確認されたからだろう。融解寸前の魔導鉱石を送りこんでも、聖女がいる限りすぐに無害化できるんだ。それじゃあ、意味がないからな」
「あ、そうか」
自分がこの国にいることで、今回のようなひどいことはしても無駄だと思われたわけだ。抑止力として役に立てているのは、とても嬉しい。
しかし、あの青年が今回の件を目論んだ連中に買われた、リオと同郷の少年だったのかもしれないと思うと、心が沈む。同じ孤児院で育った子どもたちは、リオにとって兄弟姉妹も同然なのだ。こんなふうに、『敵』として再会したくなんてなかった。
「……ナギ。ノルダールの孤児院にいた子どもたちについては、王宮で専任の捜査チームが組まれている。正直なところ、今回の件に関してオレたちにできるのは、彼らに詳細な報告をすることくらいだ」
「そっか。……うん、そうだよね」
今、各騎士団が最優先に取り組むべき仕事は、地脈の乱れへの現場レベルでの対処である。そして、凪が聖女としてこの国で生きていくと決めた以上、彼女にとってもそれは同じだ。
(さっきの人、顔も髪の色もわからなかったしなー。……スマン、リオの知り合いっぽいお兄さん。リオじゃないわたしにとって優先すべきは、今のわたしに親切にしてくれる人たちなんです!)
二兎追うものは一兎をも得ず、と元の世界で昔のエライ人も言っていた。あれもこれもと手を出しては、さほど器用なタチではない凪はすべてを失ってしまうことになりかねない。それは、イヤだ。
凪はひとつうなずき、顔を上げた。
「気にならないって言ったら、嘘になるけど。あのお兄さんのことは……えっと、何か進展があったら、すぐに教えてもらうようにお願いするくらいはいいのかな?」
「ああ。伝えておく」
シークヴァルトが、どこかほっとした様子でうなずく。もしここで凪が、あの青年の件についてわがままを言い出せば、きっとかなり面倒なことになっていたのだろう。
(聖女のワガママって、大抵のことは通っちゃいそうな雰囲気だもんなあ……。うう、気をつけよう。あんまり甘やかされると、ダメ人間まっしぐらになりそうで怖いでござる、怖いでござるー)
周囲の人々が自分に甘すぎるとわかっている以上、自律自省は必須である。
ひとつため息を吐き、凪は改めてシークヴァルトを見た。
「今までにも、こんなふうに融解寸前の魔導鉱石を一方的に送ってこられたことって、あったのかな? なんか、めちゃくちゃイヤな感じの喧嘩の売られ方だよね」
「いや。オレの知る限り、こんな事例はないな」
シークヴァルトが、眉根を寄せる。
「あいつは最後に、この国にこれ以上、今回のような被害が出ることはない、と言い切っていただろう。……その理由が単純に、この国が連中の策に対応できるから、ってだけならいいんだけどな」
「へ? どういうこと?」
目を丸くした凪に、彼はゆるりと首を振る。
「いや。オレの、考えすぎかもしれん。何より、情報が少なすぎる。――ああ、魔獣の討伐が、無事済んだようだぞ。狂化魔獣も、エイドラム団長がきっちり始末をつけたそうだ」
「え、本当? いくらなんでも、早すぎない?」
魔導騎士団の援護に加え、怪我を治して現場復帰した第三騎士団の面々ががんばってくれたにしても、随分と仕事が早い。シークヴァルトが、苦笑する。
「まあ、多少の無茶はしたかもな。ニセモノ聖女の騒ぎで国中が意気消沈していたところに、いきなり本物の聖女が現れたんだ。連中のテンションがおかしなことになっても、無理はないさ」
う、と凪は身を縮めた。
「本物っていっても、聖歌を歌えないへっぽこ聖女だけどねー」
「……ナギ。気持ちはわからないでもないが、卑屈になる必要なんてまったくないぞ。聖歌なんて歌えなくても、おまえは融解寸前の魔導鉱石を完璧に正常化したんだ。それに、聖歌を歌えないなら、ほかの方法を考えればいいだろう?」
あっさりと告げられた言葉に、凪は目を丸くする。
「ほかの方法って……。がんばって、聖歌を歌えるようにするんじゃなくて?」
「おまえが聖歌の訓練をしたいっていうなら、止めないけどな。何も、聖歌にこだわる必要なんてない。オスワルドが魔導研究所の連中と協力して、いろいろ試行錯誤しているらしいぞ」
――オスワルド。
あのライニールと同じ顔をした王子さまが、聖歌を歌えない凪のために、そんなことをしてくれていたなんて知らなかった。
シークヴァルトが、柔らかな声で言う。
「ナギ。おまえが聖女である以上、今日みたいにおまえに助けてもらわなきゃならないことは、これからもまたあると思う。でもな、おまえが一番大切にするのは、別に『聖女であること』じゃなくてもいいんだ」
「え……?」
目を瞠った凪を、まっすぐに見つめてシークヴァルトは続けた。
「おまえはたしかに聖女だが、聖女であることがおまえのすべてじゃない。聖女であることからは逃げられなくても、それに縛られずに生きることはできる。あまり、ひとりで抱えこむなよ」
心臓、が。
「おまえがひとりじゃ持てないものを、一緒に持つためにオレがいるんだ。不安になってもいい。逃げたくなってもいい。ただ、そういうときは、絶対にひとりになるな。オレでも、ほかの誰かでもいいから、必ず頼れ。いいな」
この人が好きだと、叫んだ。