謎の青年
それから、凪がある程度正常化した魔導鉱石を、ライニールとシークヴァルトが交代でひっくり返し、追加で裏面を正常化する、という作業を、ひたすら繰り返していった。できるだけ効率的に作業をしているつもりなのだが、何しろ数がかなりあるため、なかなか終わりがこない。完全に正常化できたものが十を数えた辺りで、東の砦で全快した騎士たちが、アイザックたちへの援軍に駆けつけたという連絡が入る。
その報告をライニールから聞いた凪は、なんだかものすごく申し訳ない気分になった。
(ほかの騎士さんたちが、危険な大型魔獣の相手をしてるのに、間違いなく魔導騎士団の主戦力っぽい兄さんとシークヴァルトさんが、こんな単純作業をしてるだけとは……)
もちろん、この作業がとても大切で必要なことだというのは、わかっている。
それに凪とて、大切な保護者と護衛騎士であるふたりに、危険な目に遭ってもらいたいわけではない。ただ単に、超絶イケメンなふたりが、楽しそうに巨大な水まんじゅうを蹴っている姿というのが、ヴィジュアル的にちょっぴりいたたまれない気分になってしまうだけだ。
とはいえ、今の凪が最優先でしなければならないのは、とにかく一刻も早く融解寸前の魔導鉱石を無害化することである。こればかりは、誰にも代わってもらうことができないのだから、ひたすらそのふにふにもちもちとした感触を楽しむ――ではなく、直接接触で聖女の力を伝えていく。
そうして最後の魔導鉱石をすっかり綺麗にし終えると、まったく疲れてはいないものの、それなりに達成感はあった。
「シークヴァルトさん、兄さん、お疲れさまでしたー。見つかった融解寸前の魔導鉱石って、ここにあるやつだけだったのかな?」
ああ、とライニールがうなずく。
「ナギこそ、よくがんばったね。ありがとう、本当に助かったよ。――シークヴァルト、ナギを連れて先に砦へ戻っていろ。おれは、このまま第一部隊に合流する」
「わかった」
シークヴァルトが当然のようにうなずくが、凪は思わず片手を挙げた。
「兄さん、兄さん。わたしがちょっと離れたところからでも『キレイになーれ』をしたら、暴れる魔獣が少しはおとなしくなったりしないかな?」
融解寸前の魔導鉱石を正常化できるのが聖女だけなら、凶暴化した魔獣を元に戻せる可能性があるのも聖女だけ。そして、可能性がゼロではない以上、試してみる価値はあるはずだ。
しかし、ライニールは困ったように笑って言った。
「ナギ。おれは今、きみが何度も『聖呪』を使ってくれるのを見ていたよ。本当に、きみの力は素晴らしいものだと思う。おれは、魔導研究所の連中ほどの知識はないけれどね。それでもたった一節の『聖呪』で、融解寸前の魔導鉱石を、あれほどのスピードで正常化できるとは思わなかった」
ライニールに褒められるのは、素直に嬉しい。
にへら、と笑み崩れた凪の頭に、兄の優しい手がのる。
「ただね、ナギ。きみの『聖呪』は、たしかに強い。けれど、その効果は距離が離れると明らかに減衰していた。少なくともきみの『聖呪』では、きみの安全を確保できる距離から、大型の魔獣の動きを止められる可能性は低いと思う」
「……やっぱり、危なすぎる?」
凪の問いかけに、ライニールがうなずく。
「ああ。大型魔獣は、一体でも生きた災厄と呼ばれるような存在なんだよ。そんな危険なものの前に、きみを連れていくことはできない」
でも、と言いかけた口を、凪はぐっと閉じた。
悔しい。
聖女のくせに――本当ならこんなときこそ、命がけで戦う人々のために使われるべき力であるはずなのに。
俯いた凪に、シークヴァルトが柔らかな声で言う。
「ナギ。おれも今は、おまえを前線には連れていけない。騎士団の連中だって、おまえのことをはじめて知ったやつらがほとんどなんだ。聖女と連携して動く訓練もしていないのに、突然おまえを連れていっても、浮き足だって自滅するだけだろうからな」
「訓練? あ、そっか。やっぱり、そういう訓練って必要なんだ……」
たしかに、言われてみればその通りだ。どれほど高性能な武器であっても、いきなりそれを前線に投入したところで、周囲との連携が取れるはずもない。
(いや、その超高性能な武器のはずなのに、いまだにまともに稼働できないへっぽこが、このわたしなんですけども!)
『聖歌』を歌えない凪にできるのは、あくまでも安全が確保された場所での力の行使。
それが無駄であるとは思わない。この力を使えたからこそ、東の砦でのエイドラムを救うことができた。
今だって、融解寸前の魔導鉱石をきちんと無害化することができたのだ。
それでも、とどうしても思ってしまう。
(……一番大変なところで、役立たずだ)
ライニールやアイザック、魔導騎士団のみなが強いことは、知っている。
それでも――怖い。
「じゃあ、聖女としてじゃなくて、治癒係として行くのもダメ?」
自分の知らないところで、大切な誰かが傷ついて、死んでしまうかもしれない、なんて。
そんな恐怖に、いったいどうやって耐えればいいのか。
せめてそばにいられれば、どんなにひどい怪我をしてしまっても、必ず治せる。これは、凪の傲慢でも思い上がりでもなく、ただの事実だ。
「だって、狂化魔獣とかいう、ものすごく危険なやつもいるんでしょう? わたしがいれば、もしその攻撃でエイドラム団長みたいになっちゃう人がいても――」
「ナギ。きみは聖女として、充分すぎるくらいに力を尽くしてくれたよ」
ライニールの指が、頬を優しく撫でていく。
「少し、落ち着きなさい。いつものきみなら、恐ろしい魔獣が暴れている現場に行きたいだなんて、決して思わないはずだ。きみは今日、はじめて大勢の重傷者を見た。それだけでも、きみの心はとても傷ついているんだよ」
「……兄さん」
大丈夫、とライニールが笑う。
「きみが、第三騎士団の精鋭たちを、全員現場に戻してくれたからね。彼らも、とても張り切っている。ここから先は、おれたちの仕事だ。きみは、安全な場所で――」
「うーわー。やっぱり、ここのゲート見つかっちゃってんじゃーん。てゆーか、これってどういう状況? そこのオニーサンたち、ちょっとお話し聞いていいー?」
突然、頭上から聞こえてきたのは、やけに楽しそうに明るく弾んだ若い男の声。反射的に見上げるより先に、ライニールに両手で耳を塞がれた。
(え? へ、何――っ)
驚く間もなく、すさまじい衝撃波が周囲の木々を揺らし、千切れた草が乱れ飛ぶ。それが、シークヴァルトの放った攻撃の余波だとわかったのは、上空で心底楽しげな笑い声が響いてからだ。
「あはははは! 凄い、凄い! まさかいきなり、こんなイイ攻撃が来るとは思わなかったなー!」
「……チッ」
舌打ちをしたシークヴァルトを見た凪は、唖然とした。彼が上空に向けている右腕が、いつの間にか全長一メートル以上はありそうな、細長い盾状の魔導武器に覆われていたからだ。
大型の魔導武器は、使用するとき以外はごく小さな徽章や腕輪などの形にして携帯するものだと教えられてはいたけれど、実際に起動する瞬間を目にするのははじめてである。
(質量保存の法則とは……。いやいや、今は魔導武器の不思議に驚いている場合でも、シークヴァルトさんのカッコよさにときめいている場合でもなくてね?)
この国に、融解寸前の魔導鉱石を送りこんできた者がいて。それは、この国にとって紛れもなく『敵』と呼ばれる存在で。
――そんな『敵』の一員と思しき者が、今そこにいる。
無意識にライニールの服を掴み、上空を見上げた凪は、風よけのマントとゴーグルを身につけ、だらしなくしゃがむような格好でこちらを見ている人影を見つけた。右腕に装備した大型の魔導武器らしきものを、これ見よがしにぶらつかせている。
ゴーグルと逆光のせいで、顔はよくわからない。細身の体躯と声の感じからして、かなり年若い青年だ。多く見積もっても、二十歳をいくつも過ぎてはいないだろう。
……怖い。
自分たちに明確な悪意を持つ人間というのは、こんなにも恐ろしいものなのか。青ざめ震える凪を、ライニールの腕がぐっと抱えこむ。
しかし、次に聞こえてきたのは、先ほどまでのこちらをからかうような口調ではなく、ひどく上擦って掠れた声だった。
「……え? なん、で……?」
魔導鉱石が、すべて無害化されていることに気付いて、驚いたのだろうか。そんな敵を見据え、濡れたような漆黒に輝く魔導武器を油断なく構えたまま、シークヴァルトが口を開く。
「この土地に、融解寸前の魔導鉱石を送りこんできたのはおまえの飼い主か? それらはすべて、我が国の聖女が無害化したぞ。残念だったな」
「聖、女……?」
シークヴァルトが、淡々と告げる。
「投降しろ。さもなくば、大陸国際条約第三十二号二項に基づき、聖女に害為す者とみなしてこの場で殺す」
「ち、が……っなんで、なんでこんな、なんで……!」
現れたときには余裕綽々だった敵の青年が、見るからに激しく動揺している。
(条約って……。聖女って、国際条約で保護される稀少動物だったんだ。まあ、パンダよりも生息数がずっと少ないんだし、そういう扱いにもなるかあ)
そばにいる人間があまりにも動揺すると、逆に冷静になれるの法則というのは、こんなときでも適用されるらしい。ライニールの腕の中という、絶対安全領域にいるせいもあるかもしれないけれど、先ほどまでの闇雲な恐怖はどこかへ消えた。
むしろ、敵の青年のほうが、まるでとてつもない恐怖にさらされているかのような、ひどい挙動不審状態である。そんな彼に、シークヴァルトが容赦なく告げた。
「これが、最後の警告だ。投降しろ。捕虜の扱いについては――」
「そこの金髪野郎! おまえは、なんだ! なんで、リ……そこの聖女、と! 同じような魔力をしてやがる!?」
シークヴァルトの警告を無視した青年が、大声で喚く。凪は、鋭く息を呑んだ。
(今……リオって、言いかけた?)
青年の問いかけに、ライニールが眉をひそめて口を開く。
「襲撃者に答える義務はない。きさまこそ何者だ? きさまの飼い主についてすべて語るというなら、正式な捕虜として扱ってやってもいい。話しは、それからだ」
どくん、と心臓がいやな音を立てる。
ノルダールの孤児院で育てられた子どもの中で、体格と運動神経のいい者たちは、主に非合法に運用される魔導兵士として売買されていたと聞いた。
ならば、今ここにいる彼は――
「……っ兄さん! シークヴァルトさんも、撃っちゃダメ! その人、ノルダールの孤児院で一緒だった男の子かもしれない!」
シークヴァルトとライニールの腕が、強張った。
同時に、空中でこちらを見ていた青年が、弾かれたように高度を上げる。そして、装備していた魔導武器を上空に向けて連射した。すさまじい爆音を伴う光が、青空を白く染め上げる。
(な……っ)
驚く凪たちに向けて、青年が言う。
「……作戦中止の合図だ。これ以上、この国に今回のような被害が出ることはない」
ひどく、静かな声だった。
「おまえたちは、せいぜい全力でその子を――聖女を、守っていろ。……さよなら、ルジェンダ王国の聖女。きみが生きていてくれて、嬉しかったよ」
「待っ……」
青年の姿が、消える。
あとに残されたのは、なんの色も持たない風だけだった。