呪われた……
これはたしかに、全身が汚染痕だらけになったエイドラムとは、わけが違う。彼のときは、汚染痕を消したらすぐに治癒魔術に移るつもりだったから、最初から直接手で触りにいった。
しかし、こんな不気味な物体、素手で触るのは本当に心の底から遠慮したい。
というわけで、ライニールの提案に、素直にのっかることにする。
「き……っ、キーレーイーにーなーあーれえぇえええええっっ!!」
大きく息を吸った凪は、できるだけ大きな声で長く続くよう、『キレイになーれ』の呪文を唱えた。
その途端、うにょうにょと蠢いていた魔導鉱石らしきものたちが、動きを止める。色も、一気に薄くなったようだ。
(ぃよし! これは勝てる!)
勝利を確信した凪は、沈黙した魔導鉱石らしきものたちにずかずかと近づき、一番近くにあったそれの傍らにしゃがみこんだ。
「キレイになーれーキレイになーれーキレイになーれーキレイになーれー」
かつて『聖歌』についての説明をライニールから受けたとき、短い言葉の連なり――『聖呪』と言われる力の使い方では、あまり広範囲に効果が伝わらないと聞いた。ならば、確実に効果があるとわかっている『キレイになーれ』を、肺活量の限界まで連続で唱えたならどうなるのだろう、と思っていたのである。
凪の力の確認のため、王立魔導研究所から持ちこまれてきた魔導鉱石は、どれも濁ってはいるものの真っ黒ではなく、大きさもせいぜいバスケットボールくらいのものばかりだった。それらすべてが、一度の『キレイになーれ』で完全に正常化していたので、この思いつきを試すことはできなかったのだ。
せっかくの機会なのだから、ここは全力でトライしてみよう、とひたすら『キレイになーれ』と唱え続ける。
やがて――
(……おお! なんということでしょう! あれほど不気味にうにょっていた魔導鉱石らしきものが、すっかり表面だけはキラキラの……つ、潰れた水まんじゅう……に……)
凪は、その場でがっくりと肩を落とした。
たしかに、彼女の『キレイになーれ』には、それなりの効果があったようだ。しかし、その効果範囲は、連続で唱えたとしても、やはり極めて限定的であるらしい。
息切れ寸前までがんばった結果、凪の目の前に広がっているのは、やはり二十センチほどの厚みを保って地面にへばりついている、融解寸前の魔導鉱石。その表面から十五センチほどだけが、キラキラの透明な状態になっているという、ものすごく中途半端な物体Xであった。底のほうに五センチほど残っている部分は、いまだに黒々と不気味な存在感を放っている。
(何この、呪われた水まんじゅう。表面だけがキラキラしていたって、お腹の底がそんなにどす黒かったら意味ないじゃん。……ふふふふふ、やっぱり『聖呪』はいくら連続して唱えても、共鳴して効果が広がっていくってことはないんですね。ハイ、とっても勉強になりました!)
つまり、凪の『聖呪』では、このサイズの融解寸前魔導鉱石を完全に正常化するのは不可能、ということだ。
とはいえ、ざっと見た感じ、この場にあるすべての黒い魔導鉱石の表面だけは、すべてうっすらと正常化できているようだった。少なくとも、最初に見たようなチンアナゴもどきが飛び出てくる気配はない。
凪は、自分の両隣に立っている保護者と護衛騎士を見上げて問うた。
「えっと……これってもう、触っても大丈夫、かな?」
ライニールが、眉間を軽く揉むようにしながら口を開いた。
「表面はすべて正常化できているようだから、今のところは大丈夫だと思う。ただこの状態では、底のほうに残っている部分から、また全体が黒く濁っていくだろうね」
汚染源はすべて駆逐しなければ、またすぐに周囲を侵蝕して復活してしまう、ということか。
そうだな、とシークヴァルトがうなずく。
「とりあえず、大丈夫かどうか確認してみるから、ちょっと待ってろ」
一歩前に出たシークヴァルトが、いつの間にか右手に持っていた剣の先を、キラキラの巨大水まんじゅうに向けた。特に、これといった変化はない。
そして、そのまま進んだ剣先が、水まんじゅうの表面に沈んだ。
(……へ?)
シークヴァルトの剣先は、巨大水まんじゅうの表面に刺さったわけでも、それを砕いたわけでもない。うにょん、と凹んだ水まんじゅうの皮部分に、音もなく埋まっていったのである。
凪は、ぽかんと目を丸くした。
(いやいやいや、いやいやいやいや。そりゃあたしかに、見た目が不気味な水まんじゅうみたいだなーとは思ったけど! 魔導鉱石って、元々はキラキラのキリッとしたカッコいい石だったじゃん!? それがなんで、こんなぷよぷよもちもちした感じになっちゃってんのー!?)
剣を引いたシークヴァルトが、ものすごく複雑な表情でライニールを見る。
「固まってなかった」
「そうだな。見ればわかる」
ふたりの若干間の抜けたやり取りからして、経験豊かな彼らにとっても、これが非常に想定外の事態であったというのがよくわかる。
とはいえ、シークヴァルトの剣でつついても、黒いチンアナゴが飛び出てくることはなかったのだ。凪は、恐る恐る目の前の水まんじゅう――もとい、中途半端に正常化された魔導鉱石に指を伸ばした。
――ふにっ。
(えっ……ヤダ、何この素敵なもちもち感)
まるで赤子の肌のような感触に、凪は思いきりときめいた。つい無心になって、ふにふにとつつきまくってしまう。
(お……おぉ? なんか、不気味なあんこ……じゃない、底の黒い部分が減ってきた? あ、こうやってふにふにしてたら、わたしの指が黒い部分に近づくから、聖女パワーが伝わりやすくなるってことかな?)
このままつつき続けていれば、そのうち完璧に正常化できるかもしれない。
しかし、凪がざっと見た限りでも、こうして表面だけキラキラになった魔導鉱石の数は、軽く二十個を超えている。少し時間が掛かりそうだな、と思っていると、ライニールが彼女の肩を軽く叩いた。
「ナギ。少し、下がっていてくれるかい?」
「え? あ、うん」
素直に立ち上がって、凪はライニールの後ろに下がる。二、三歩下がればいいかな、と思ったのだが、シークヴァルトに腕を引かれ、更に十歩ほど距離を取った。
それを確認したライニールが、ひとりでぷにぷに水まんじゅう状態の魔導鉱石に向き直り、おもむろに片足を引く。そして、サッカー選手のような素晴らしいシュートスタイルで、目の前のそれを蹴り飛ばした。
(のぇえええええーっっ!? いくらぷよぷよもちもちしてても、元は石だよ!? いったい、何㎏あると――あ、身体強化魔術か。そりゃそうだよね、ビックリした)
ライニールに蹴り飛ばされた半固体状の魔導鉱石が、空中で見事にひっくり返ると、そのままべちゃりと地面に落ちる。凪はそのとき、プロの料理人の手で、美しく宙を舞うパンケーキやお好み焼きを思い出した。
魔導鉱石の天地がひっくり返ったお陰で、凪の声では正常化できていなかった黒い部分が、すっかりあらわになっている。大部分を正常化されてしまったからなのか、表面が若干蠢いてはいるものの、不気味なチンアナゴは出てこない。
ライニールが振り返り、にこりと笑う。
「ナギ。頼んでいいかな?」
「いえっさー!」
再び『キレイになーれ』の呪文を唱えれば、波打つ黒い部分の表面はすぐに透明になった。そうなれば、もうこちらのものだ。息切れ寸前までがんばるのは、やはり大変苦しかったので、あとは直接対象に手で触れて正常化することにする。
しかし――
「……完全にキレイになっても、ぷにぷにのままですか」
濁りやひび割れなどひとつもなく、キラキラと眩いほどの輝きを放つようになってもなお、その魔導鉱石はでろんと地面に広がったままだった。つつけば柔らかな弾力が心地いいのも、相変わらずだ。
シークヴァルトが、苦笑する。
「その辺の検証は、魔導研究所の連中に任せることにしておいて、ほかのもさっさと片付けちまおう。団長たちが、待ってるからな」
「あ、うん。えっと……じゃあ、片っ端から触っていくから、いい感じになったらひっくり返してもらっていい?」
凪の提案にふたりからゴーサインが出たので、手近なものから順に手で触れていく。触れながら『キレイになーれ』を唱えてみても、黒い部分が減っていくスピードに変化はなかった。
(うーん……。『聖呪』と直接接触は、合わせ技一本で速度が倍、とかではないんだな。……やっぱり、聖女の最強武器は『聖歌』ってことかあ)
『聖呪』にせよ、直接接触にせよ、有効範囲があまりに狭い。そして、その効果にさほど差が感じられないとなれば、触っているだけでいい直接接触のほうが、遙かに楽だ。延々と『キレイになーれ』と言い続けるのは、結構疲れてしまうのである。