男のロマン、女のロマン
凪たちのいる場所から少し離れた、緩やかな坂の上に見えるのは、イメージ的にヨーロッパの貴族が住まう館のような、豪奢極まりない建造物だ。窓の数を数える気にもなれないくらいに巨大で、目を奪われるほど美しい。けれど荘厳な神殿の建物とは違い、華やかでありながらどこか質実剛健な雰囲気が漂っている。
その館から赤いレンガの道で繋がっているのが、今凪たちがいる広場だ。凪の通っている中学の、グラウンドくらいの広さはあるだろうか。ただし、ここの地面には正方形の石畳が延々と敷き詰められており、土埃とは無縁でありそうだ。
広場の先には、森とは違う観賞用の木々が並ぶ庭園や、石積みの小さな平屋の建物がいくつか見える。そして――
「お疲れさまでした! 随分お早いご帰還でしたね!」
「お疲れさまでした。第二部隊、第三部隊からは、今のところ特に連絡はありません」
どこからやってきたのか、最後に光の輪から現れたアイザックの前で元気に敬礼していたのは、凪と同じ年頃に見える少年少女だった。明るくテンションの高い小柄な少女と、対照的に物静かな口調の少年だ。
ふたりとも揃いの詰め襟を着ているが、上着はほかの面々と違い、白地に爽やかな青色のラインが入っている。ズボンが濃紺なのは、さすがに白では汚れが目立ちすぎるからだろうか。
アイザックは彼らに向かってひとつうなずくと、シークヴァルトに抱かれたままの凪を片手で示して口を開いた。
「我々の捜索担当地域で、対象の身代わりとされていた少女を保護した。少女の状態から判断して、対象の逃亡を手引きする者たちがいる可能性が高い。セイアッドはその旨を各部隊の隊長に伝え、それぞれの状況を確認しろ。ソレイユは、彼女――ナギ嬢を湯殿にご案内を」
その指示に、ぱっとこちらを振り返った少年少女は、これまたやはりと言うべきなのか、ふたりともとても可愛らしい顔立ちをしている。体を自由に動かせることといい、今回の夢は本当にサービスがいいようだ。実に、目に楽しい。
細身ながら長身の少年は、サラサラの短髪も切れ長の瞳も、黒に近い茶褐色だ。その色彩だけなら見ていてほっとするのだが、美少年すぎて近寄りがたい上に、彼は凪を見てあからさまに顔をしかめた。
……別に、傷ついたりしていない。ちょっぴり、その場で土下座したくなっただけである。何しろ今の凪は、決して衛生的とは言い難い。むしろ、不潔さの塊のような状態なのだ。美少年を不快にさせて、申し訳ない。
一方、少女のほうは、少年の胸の辺りまでしか身長がなかった。小柄で華奢な体つきながら、いかにも元気いっぱいという雰囲気である。
ふわふわの明るいオレンジ色の髪を顎のラインで切りそろえ、少し吊り気味の大きな水色の瞳が好奇心旺盛な子猫のようだ。実に華やかで愛らしい姿だが、カッチリとした詰め襟の衣服が不思議に似合っている。
少女は凪の姿を認識した瞬間、そのふっくらした頬を両手で挟んで絶叫した。
「いぃいやあぁああーっ!! 血だらけ! ボロボロ! 女の子に、なんてことしてくれてんのー!?」
キーン、と耳鳴りがするほどの、素晴らしい声量である。そうしてすっ飛んできた少女は、両手をわたわたと落ち着きなく動かしながら、青ざめた顔で言う。
「けっ、怪我! すぐ医務室に……っ」
そんな彼女の頭を、凪を器用に片手で抱え直したシークヴァルトが、無言でどついた。……結構、いい音がした。大丈夫だろうか。
「……っいったー! 何すんの、シークヴァルトさん!」
頭を抱えた少女が、くわっと喚く。シークヴァルトは、淡々と応じた。
「よく見ろ、ソレイユ。コイツは、怪我はしていない」
「え? あ、そうなの? ……いやでも、これだけ血だらけだったら、怪我をしてるのかどうかなんてわからないじゃん」
むー、と頬を膨らませる少女は、とてもとても可愛らしい。その頬をつついてみたくて、凪は指先がうずうずした。
どうやら頭蓋骨がかなり頑丈らしい少女が、明るく弾むような声で言う。
「まあ、怪我がないならよかった! でも、血だらけボロボロなのは、絶対よくない! ので、お風呂に行こう!」
「……だから、最初からそう指示されていただろう」
シークヴァルトのぼやきが聞こえているのかいないのか、少女は凪に向けてにぱっと笑う。
「こんにちは。あたし、騎士見習いのソレイユ・バレル。ソレイユって呼んでね!」
「あ、はい。凪です。よろしくお願いします――って、そろそろ下ろしてもらえませんか、シークヴァルトさん!?」
ソレイユが、あまりにも普通に挨拶してくれたからだろうか。唐突に我に返った凪は、猛烈な恥ずかしさに襲われた。同年代の可愛い女の子との初対面のご挨拶を、初対面の超絶美形に抱っこされながらするとは、恥ずかしすぎて目眩がしそうだ。
しかし、シークヴァルトの腕は小揺るぎもしなかった。
「おまえはあの森に捨てていかれるときに、魔術で自由を奪われていたんだ。直接触れてみてわかったが、身体麻痺の術式の痕跡が残っている。しばらくは身体を動かすのにも支障が出るだろうから、諦めておとなしく運ばれていろ」
「……ええぇー」
言われてみれば、森で目覚めたときから、不自然なほど体が動かしにくかったのだった。普段の凪なら、今頃全力でじたばたと暴れて――シークヴァルトの腕から転げ落ちた挙げ句、余計な怪我をしていたかもしれない。残念ながら彼女には、そつなく地面に降り立つ運動神経はないのである。
凪が遠いところを見たくなっているうちに、ソレイユの案内で巨大な館の奥にある浴場へ連れていかれることになった。
(うーん。ここは、建物全体が迷路になっているのかな?)
そんなばかなことを考えてしまうくらい、入り組んだ複雑な造りになっているこの館は、アイザックの個人的な所有物であり、同時に彼ら魔導騎士団の本拠地であるらしい。
「ちなみに、全然覚えなくてもいいんだけど、団長の正式な名前はザ・ライト・オノラブル・アイザック・ケイン・ロード・リヴィングストン・オブ・エルフィンストーンっていうんだよ」
ソレイユが口にした、あまりにも長いアイザックの正式名に、凪は目を丸くした。そんな彼女に、シークヴァルトが淡々と言う。
「すまない、言い忘れていた。ここは、おまえのいたヘイズ領の北に隣接する、エルフィンストーン領の中心にあるリルバーンという街だ。この館は、レディントン・コート。団長――エルフィンストーン領の領主、リヴィングストン伯爵の別邸だ」
凪は、思わず真顔になった。
(情報が多すぎる! いきなりそんな大量に詰めこまれても、ちょっと処理しきれません!)
我が脳ながら、よくこんな細かい設定まで練り込んでくるものだと感心する。いったい、どこから捻り出してきたのだろうか。自分の妄想力が、ちょっと怖い。
それにしても、と凪は少し不思議に思う。
「団長さんは、あんなに立派な筋肉なのに、貴族なんですね」
なんとなくだが、凪のものすごく勝手なイメージとして、高貴さと優美さの塊であるお貴族サマと、ムキムキのマッチョは共存しないような気がしていたのだ。
少しの間のあと、シークヴァルトがぼそりと口を開く。
「武門の貴族であれば、鍛えた体をしていることは珍しくないと思う。ただ、団長ほどの見事な筋肉の持ち主は、オレも今まで見たことがない」
ソレイユが、その大きな瞳をキラめかせながら、ぐっと両手を握りしめる。
「ホント、あの筋肉はすごいよね! めちゃくちゃ鍛え上げられてて重量感もバッチリでありながら、しなやかさと柔軟性をも兼ね備えた、完璧な筋肉! 美しさと実用性を見事に融合させた、もはや芸術品とも言えるあれこそ、まさに雄っぱいの鑑ッ!!」
「おまえは、何を言っているんだ」
(あ。シークヴァルトさんが、ツッコんだ)
どうやら、ソレイユはマッチョ好き、シークヴァルトは寡黙なふうで意外とツッコミタイプであるようだ。
「筋肉は、男のロマンですー!」
「ほう。では、女のロマンはなんなんだ?」
ソレイユが無言になった。どうやら彼女は、女性のロマンにはあまり理解が深くないらしい。なんだか、彼女とは気が合いそうだ。
やがて騎士見習いの少女はひとつうなずき、やけにキリッとした顔になった。
「いくら美味しいご飯を食べても、太らない体です!」
「それは、ロマンではなく願望だ」