可愛くないチンアナゴ
人と、魔獣と。
まるで無差別テロのように、融解寸前の魔導鉱石が送りこまれてきたせいで、本来なら何事もなく生きていけたはずの者たちが、たくさん傷つけられた。
そんなことを平気でしてしまえる人間が、この世界のどこかにいると思うだけでも、本当に怖くてたまらない。
……それでも。
「わ、かった」
細かく震える手から、ハーブティーの入ったカップがそっと取り上げられる。
「行く」
自分の足で、立ち上がることは、まだできない。
そんな自分が、情けなくて仕方がなかった。
けれど、リオが――もうひとりの自分が理不尽に殺されたこの世界で、凪は生きていくと決めたのだ。
たくさんの優しい人たちが、たったひとりで違う世界に放り出された凪に、ここでならば生きていけると思わせてくれた。
だから今は、自分にできることをする。
ぎゅっと指を握りしめることで、凪はどうにか手の震えを止めた。
深呼吸。
「連れてって」
「了解だ、ナギ。……ありがとう」
ふわりと体が浮き、景色が変わる。
(……っ)
視界いっぱいにどこまでも広がる、青い空。
こんなときだというのに、なんてきれいなんだろうと、束の間見とれた。
どうやらシークヴァルトは、ライニールやアイザックたちがいる場所の上空に転移したらしい。美しく澄み切った空の青と、深く鮮やかな森の緑が、恐怖に縮こまっていた心を一息ごとに広げてくれる。
「ナギ。これは、今言うことじゃないのかもしれんが……。おまえが第三騎士団の制服を着ていることを伝えたら、ライニールが拗ねた」
「……へ?」
なんだそりゃ、と目を丸くした凪に、シークヴァルトが少し困った顔で言う。
「おまえが魔導騎士団の制服よりも先に、第三の制服を着たことが、どうやらものすごく気に入らなかったみたいでな。近いうちに、おまえ用の魔導騎士団の制服ができてくるはずだから、そのときは黙って着てやってくれ」
「えー……。いや、ちょっと待って。え? 心の底からまさかと思いたいけど、もしかして兄さんって、妹とペアルックを楽しみたいタイプの人だったの?」
思わずどん引きした凪に、一拍置いてシークヴァルトが答える。
「たぶん、違う」
「たぶん」
凪は、半目になった。シークヴァルトが、少し焦った様子で首を傾げる。
「いや、そうじゃなくてな? なんていうかこう……おまえはうちの子なのに! みたいな感じか? 制服ってのは、そこの団に所属している証だからな」
「そりゃあ、わたしは兄さんの家の子ですけど。この制服は借り物なんだし、そんなに目くじら立てなくてもいいのに」
突然わけのわからないことを言われ、呆れればいいのか笑えばいいのかわからなくなる。そんな凪に、シークヴァルトが柔らかな声で問うてきた。
「少しは、気が紛れたか?」
びび、と。
全身が痺れるような、心地がした。
「~~っそういうとこだよ、シークヴァルトさん!?」
あんなに、怖かったはずなのに。
どこの誰かもわからない『人間』の悪意が、本当に気持ち悪かったはずなのに。
(あぁあああもうー! いろいろ怖かったこととか全部、恋する乙女心に駆逐されましたとも! 単純で悪かったですね!)
恥ずかしくて、照れくさくて、嬉しい。
こんなふうに自分の気持ちを軽くしてくれる彼が、やっぱり大好きだと思う。
(いや、軽くなりすぎてふわふわ天にも昇る心地ですけど! って、まさに現在進行形でお空のランデブー中でしたね、ありがとうございます!)
「よし、大丈夫そうだな。――行くぞ」
また、景色が変わる。
目の前に、ライニールがいた。
「兄さん!」
ぱっと喜色を浮かべた凪を、シークヴァルトが地面に下ろすか下ろさないかのタイミングで抱きしめた兄が、深々と息を吐く。
「……随分、頑張ったそうだね。何も、怖い思いはしなかったかい?」
「大丈夫だよ。兄さんも、無事でよかった」
凪を抱きしめるライニールは、魔力の状態からして少し緊張状態にあるようだけれど、どこにも怪我はしていない。それを確認し、安心した凪はライニールを見上げて口を開く。
「えっと、なんかこっちに融解寸前の魔導鉱石があるって聞いたんだけど……」
「ああ。……すまない、ナギ。きみにばかり、苦労を掛けてしまうね」
いやいや、と凪は思わず真顔になった。
「苦労してるのは、魔獣と戦ってた兄さんたちでしょう? わたしはずっと、安全な場所でシークヴァルトさんに守ってもらっていたから、全然平気。って、話はあとだね! ヤバいものは、さっさと片付けちゃわないと!」
一度恐怖を乗り越えてしまえば、あとは大変図太くなれるのが年頃の乙女というものだ。ぺしぺしとライニールの腕を叩くと、ようやくそれが緩む。
そして、周囲の様子を確認した凪は、少し不思議に思って首を傾げた。
「アイザックさんたちは、ここにいないの? みんな、無事なんだよね?」
森の中にぽっかりと開けた草地にいるのは、ライニールひとりだけ。なんだかものすごく不自然だぞ、と思っていると、彼は小さく笑ってうなずいた。
「ああ。団長たちは今、この辺りで暴れていた大型魔獣たちを、極小化して耐久度を上げた防御フィールドに閉じこめているんだ。それと平行して、この辺りにほかの魔獣が侵入してこないようにしているから、安心していい」
そう言って、ライニールは申し訳なさげに眉を下げる。
「中型種は、すべて討伐したんだけれどね。大型はただでさえ厄介だというのに、先にここの魔導鉱石をどうにかしなければ、ますます凶暴化が進んでしまうだろう? 最悪、この辺りの魔獣がすべて凶暴化して、スタンピードなんてこともあり得る。だから、きみの助力を頼んだ上で、改めて対処しようということになったんだよ」
「そうなんだ」
対処に時間が掛かりそうな大物はひとまず保留しておいて、まずはその原因を排除しようということか。そういうことであれば、ますます急がなければなるまい。
(血のにおいが、する)
一度上空でリセットされた嗅覚が、辺りに漂う濃密な血のにおいに反応する。
この血を流した人々は、ちゃんと手当ができてるのだろうか。
逸る気持ちでライニールに目的の場所への案内を頼もうとしたとき、少し離れたところで風もないのに草が揺れた。
違和感。
気付けば、シークヴァルトが油断なくそちらを見つめている。
ひどく真剣な顔をしたライニールが、口を開いた。
「ナギ。今の状態の魔導鉱石に、直接接触するのは危険すぎる。魔導研究所の検証実験で、きみの『聖呪』にもかなりの効果があることは確認されているからね。まずは、それから試してみようか」
凪は、目を丸くした。そして、ぱっとシークヴァルトが注視しているほうに顔を向ける。
そして、背の高い草の中に紛れていたものを認識した瞬間、凪は硬直した。
(……えっと。融解寸前の魔導鉱石って――ぷ、ぷよぷよしてる? えー? 融解寸前って、そういうこと? ヒェッ! なんかうにょった!?)
ほぼ真っ黒に近い、しかしよく見れば粘つくような濃淡があるそれは、端的に言うならば『表面がうにょうにょと不気味に波打つ、巨大な潰れ大福』であった。
厚みが大体二十センチほど。直径は、一メートルくらいだろうか。そんな真っ黒な不思議物体が、草地のあちこちに散らばっているのだ。
こんな硬質さのカケラもないモノが、元々は虹色に輝く美しい魔導鉱石だったとは、にわかには信じがたいところである。
まじまじと見つめていると、内包する膨大な魔力が不規則に脈動するたび、その表面がうにょん、うにょん、と勢いよく飛び出してきた。焼き大福か。どう見ても、焦げすぎだ。
(うひー、なんだこれ。……あれ? この感じ、どこかで見たぞ。なんだっけ、なんだっけ。……ああ! アレだ! 昔、水族館で見たチンアナゴ! よし、この不気味なうにょうにょも、つぶらなお目々のでっかいチンアナゴだと思えば、少しは可愛いと――は、やっぱり思えなかったね! 残念!)




