天災では、なかったようです
それからお肌のツヤもピチピチつやつやになったヒューゴと手分けをして、一階ホールに収容されていた軽傷者たちも、片っ端から治していった。軽傷者、といっても、凪の目から見れば充分過ぎるほど重傷だったのだが――まあ、二階の病室で、さまざまな医療系魔導具に繋がれていた人々と比べれば、たしかに軽傷だったかもしれない。
シークヴァルトはそんな凪を護衛しながら、たびたび誰かと連絡を取り合っているようだ。時折、通信魔導具に向けてなだめるような声をかけている。
「……あー、こっちは問題ない。――東の砦全体に箝口令? ああ、マクファーレンの件が完全にケリがつくまでな。……その通りだが、少し落ち着け。その件については、あとでオレからも団長に言ってやるから」
ふう、と息を吐いたシークヴァルトが、通信魔導具を切った。ちょうど最後の怪我人を治し終えた凪は、立ち上がって彼を見上げる。
「どうかした? そういえば、兄さんってまだ来てないのかな?」
「いや。おまえが着替えているときに、一度砦に来たんだがな。第一部隊に呼ばれて、暴れている魔獣の対処に向かったよ」
たしかに、凪の護衛にシークヴァルトがついてくれている以上、ライニールまでこちらに来るのは、戦力としてもったいなさすぎる。
ひとまず、新たな負傷者が運ばれてくるまではすることがなくなったので、前もってヒューゴに指示されていた二階の談話室に移動することにした。
ゆったりとした広さのそこは、どことなく家庭的な雰囲気がある一室だ。入り口近くに、自動で数種類の飲み物が出てくる魔導具が設置されていたため、凪はありがたく温かいハーブティーをいただくことにした。木製の椅子に腰掛け、ふわりと立ち上る爽やかな香りにほっとしていると、同じようにしてブラックコーヒーを一口飲んだシークヴァルトが口を開く。
「エイドラム団長が戻って、混乱しかけていた第三騎士団もすぐに体勢を立て直したらしい。うちと連携して、だいぶ魔獣の討伐も進んだみたいだが……。エイドラム団長の腕を飛ばした狂化魔獣だけは、まだ攻めあぐねている感じだな」
「あ、それ。その狂化魔獣って何? エイドラム団長さんが、あんなふうになっちゃった原因ってのはわかってるけど、なんか特別な魔獣なの?」
ああ、とうなずいたシークヴァルトが、狂化魔獣について一通り説明してくれた。聞けば聞くほど厄介極まりないその性質に、凪は心の底からげんなりする。
「攻撃を食らうだけで汚染痕に急速侵蝕されるとか、怖すぎなんだけど」
「オレも、驚いた。普通、狂化魔獣が出てくるってのは、地脈の乱れが相当悪化したときなんだ。たしかにこの辺りは、よその土地に比べれば地脈の乱れの被害が大きいほうだが、大型魔獣の凶暴化は一桁レベルだ。魔導鉱脈にも、ごく軽度の濁り程度の異常しか確認されていない。そんな状況で狂化魔獣が出現するなんてことは、今までの記録上もなかったはずだ」
地脈の乱れの影響は、まず小型魔獣の凶暴化という形で現れる。それが、中型、大型の魔獣と事態が深刻化していくにつれ、少しずつ魔導鉱石に濁りやひび割れなどの異常が目視できるようになるのだ。
魔獣たちの知性の高さや、地脈の乱れに対する耐性の強さは、基本的に体の大きさに比例する。そのため、大型魔獣は、その影響を受けてもすぐに理性を失うことはない。長く生きた個体の中には、周囲からの影響を遮断する頑強な繭の中に自らを封印し、地脈の乱れを乗り越える者さえいるという。
だが、それはほんの一部のことだ。大抵の大型魔獣は、地脈の乱れに影響されると、完全に理性を失うまでの長い時間を、ひどく苦しむことになるという。
また恐ろしいことに、完全に濁ってしまった魔導鉱石は、内部に秘めた歪んだ魔力を激しく放出するようになるらしい。それに近づくと、どれほど大きく強靱な魔獣でも、即座に凶暴化してしまう。魔獣の群れ暴走と呼ばれる現象が発生するのは、この頃だ。
そして、なんの手も打たないまま状況が進んでいくと、凶暴化した大型魔獣の中に、狂化魔獣が現れはじめる。その頃になると、地脈の乱れは魔導鉱脈の融解がいつはじまってもおかしくないレベルに悪化しているのだ。
よって、狂化魔獣の出現は、魔導鉱脈融解の予兆を示すシグナルでもあると言われている。
――なんだか、とてもイヤな感じだ。
普通ならばありえないことが起きているということは、前例を参考にした対処が難しくなるということである。
「油断、とかじゃなくてもさ。魔導鉱脈にあんまり異常が発見されていないなら、その怖すぎる狂化魔獣が出てくるなんて、第三騎士団の人たちも想像してなかったってことだよね」
「そうだな。実際、エイドラム団長は自分が狂化魔獣にやられたことを認識するなり、すぐに必要な対抗手段を構築してきた。この辺りの魔導鉱脈に、重度の異常が見られるという情報が先に入っていれば、ここの連中がこれほど崩れることはなかったはずだ」
凪は、思い切り眉根を寄せた。
「……それって、まだ確認されてないけど、この近くにある魔導鉱脈が、すごくおかしくなっちゃってるってこと?」
「いや、それはない。各地の魔導鉱脈の状態確認は、それぞれの地区を担当している騎士団の管轄だ。自分たちの命が掛かってる。騎士団の連中も、いい加減な仕事はしていないだろう」
そっかあ、と凪は天井を仰ぐ。
「エイドラム団長さんなら、そういうことは絶対ちゃんとしてそうだもんね。……じゃあ、ここって東の国境近くなんだし、お隣の国で魔導鉱脈がだいぶおかしくなっちゃってる感じなのかな?」
「オレも、それは考えたんだが……。東の国境線と接しているドラート王国とは、地脈の乱れに関して情報を共有する協定を結んでる。もしあちらで魔導鉱脈の融解寸前レベルの異常がはじまっていたなら、その情報がこちらに入っていないのはおかしいんだ」
シークヴァルトも、今の不自然な状況を訝しんでいるらしい。
何はともあれ、恐ろしい狂化魔獣なるものは、できるだけ早めに討伐していただきたいものだ。
凪は、ヤモリ程度の爬虫類ならば、あまり恐ろしいとは思わない。しかし、大型の鰐やコモドドラゴンサイズとなると、柵のない状態では決してご対面したくなかった。
いったい、どんな巨体の持ち主であれば、人の腕を切断できるほどの巨大な鱗を生やせるというのだろう。……正直、あまり想像したくない。
「……? 悪い、ナギ。あっちの状況が――」
シークヴァルトの通信魔導具に、また連絡が入ったようだ。何かあったのかな、と思いながらハーブティーを飲む。
「は? いや、ちょっと待て。そんな状態の魔導鉱石をゲートで転移させるなんて、いったいどこのどいつがそんなバカをやらかしてくれてんだ!?」
(……へ?)
突然声を荒らげたシークヴァルトの言葉に、凪は目を丸くした。
――魔導士が自分自身、または自分が直接触れたものを、自らが行ったことのある場所、もしくは魔力持ちの知人がいる場所に転移させる魔術を、転移魔術という。この魔術で転移させられる対象は、魔導士自身と同程度の質量までに限られる。
そして、一度に複数の大質量を転移させる場合には、通称『ゲート』と呼ばれる魔術を使用することになるのだが、これはかなり大がかりな魔術だった。
まず、転移先に目標となる魔導陣を描かなければならない。いくつもの魔導結晶を地面に埋めこみ、そのための訓練を積んだ魔導士が、数日、ときには数ヶ月かけて固定するのだ。一般的に、移動距離と許容質量が大きくなるほど、複雑な術式が必要となるらしい。
そして、その魔導陣と対になる、任意の場所からゲートを開く魔導具もまた、相当に高価な代物だった。何しろ、作製するためには相当に純度が高く、かつ大きな魔導結晶が必要となるのだ。
実際、魔導騎士団の敷地内にも帰還ゲートが設置されているけれど、そのゲートを開く魔導具を所持しているのは、各部隊の部隊長たちだけである。
(えーと……それだけの莫大なお金と労力と技術の結晶が、ゲートなわけなんですけども。それがなんで、魔導鉱石の転移? 普通は、人間の定期的な長距離移動に使われる魔術のはずだけど……)
困惑する凪に気付いたのか、シークヴァルトが声を低く抑えた。
「――それで、魔獣は? ……ああ、わかった。ナギに状況を説明したら、すぐに行く」
そう言って通信を切ったシークヴァルトが、ひとつ息を吐いてから凪を見る。
「ナギ。東の国境ギリギリに、この国で管理されていないゲートの魔導陣が設置されているのが見つかった。今回出現した魔獣の群れは、そこに転移されてきた融解寸前の魔導鉱石のせいで、一気に凶暴化が進んだ結果らしい」
未認可の、ゲート。
それを使って、融解寸前の魔導鉱石が――どんな大きさの魔獣でも、即座に凶暴化させてしまう危険なものが、突然どこからか送りこまれてきた。
凪は青ざめ、口を開く。
「それって……この辺りの魔獣を凶暴化させて、第三騎士団の人たちを、酷い目に遭わせようとした誰かがいるってこと?」
「おそらくな。ナギ、このままその魔導鉱石を放っておいたら、どんどん魔獣の凶暴化が広がっていく。――おまえの力が、必要だ」
なぜ、だろう。
ほとんど勢いだけでここに来て、はじめて汚染痕だらけになったエイドラムを見たとき、怖くてたまらなかった。不気味なまだら模様の痣が蠢く肌が、まるで別の生き物となって襲いかかってくるかのようで――それを見ているだけで鳥肌が立ったことを、今でもはっきりと思い出せる。
たくさんの怪我人に治癒魔術をかけるときだって、本当はものすごく怖かった。ただ、自分以外の誰かのために、一生懸命戦っている人たちが苦しんでいるのをこれ以上見たくなかったから、どうにかがんばれたのだと思う。
怖くて、怖くて。
それでもその原因は、人間にはどうしようもない、自然災害のようなものだ。どれほど理不尽に感じても、ただ受け止めて耐え忍び、歯を食いしばって立ち上がるしかない。
けれど今、それまで感じた恐怖とはまったく別の、もっとずっと、吐き気を催すような気持ちの悪い恐怖を感じる。
(ああ……そうか)
こんなにも足が震えるほどに怖いのは、これから立ち向かわなければならない困難の向こうに、人間の悪意が透けて見えるから。
勝手に設置されたゲートの存在も、それを使って送りこまれた融解寸前の魔導鉱石も、このルジェンダ王国に対する明確すぎる害意の証だ。
どうして。
なぜ。
地脈の乱れが悪化すれば、この大陸から人間が生きられる場所は、どんどん失われていく。なのになぜ、その災厄をわざわざ人の手で広げるような真似をするのか。
「……ナギ。すまない。本当に、代われるものなら代わってやりたい」
シークヴァルトが、凪の前に膝をつく。
視線が近い。きれいな金色の瞳が、切なげに揺らぐ。
冷え切った頬に触れる指先が、熱くて硬い。
「でも……これだけは、おまえにしかできないんだ。約束する。おまえは、オレが必ず守る。オレが生きている限り、おまえが傷つくことは絶対にない」
だから、とシークヴァルトが掠れた声で言う。
「頼む、ナギ。この国の人間と、哀れな魔獣たちを……どうか、助けてやってくれ」
誤字修正いたしました。
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