やればできる! やればできる! やればできる!
目の前の景色が変わった、と思った瞬間、真っ先に鼻をついたのはむせかえるような血のにおいだった。思わず片手で口元を覆った凪は、周囲を見回し、その惨状に絶句する。
(ひどい……)
石造りの、いかにも質実剛健といった雰囲気を持つ大ホール。その床のあちこちに、紺色の騎士服を着た負傷者が転がっている。
凪は彼らに駆け寄って、片っ端から「治れー、治れ~」と治癒魔術を発動したくなった。だが、シークヴァルトに抱えられたままでは、うごうごともがくのが精一杯だ。
シークヴァルトが、なだめるような声で言う。
「落ち着け、ナギ。ここにいるのは、治療を後回しにしても問題ないと判断された連中だけだ」
短く告げ、彼は周囲に向けて問いかけた。
「突然すまない! オレは、魔導騎士団所属のシークヴァルト・ハウエル。重傷者が収容されているのは、どの辺り――」
「シークヴァルトどの! その方が、本当に……っ」
大ホールの上のほうから響いた声に見上げると、血塗れの白衣を着た細身の男性が、二階の手すりから身を乗り出さんばかりにしてこちらを見ている。
シークヴァルトが、涙ぐむ彼に声を掛けた。
「あなたが、ヒューゴ・エルマンどのか?」
「はい! どうぞ、こちらです!」
その招きに応じ、シークヴァルトが軽く床を蹴る。
(ひょわぁ!)
体が、浮いた。
ライニールが養子縁組手続きのため、空を飛んでいったときにも「ファンタジー、しゅげぇ!」と感動したものだが、実際に自分の体が宙に浮くというのは、また格別の感慨がある。
あっという間に二階へ移動すると、白衣の男性――ヒューゴ・エルマンが即座に踵を返し、そのまま駆け出す。
「申し訳ありません! ご挨拶は、のちほど改めてさせていただきます!」
「構わない。第三の団長は、まだ生きてるな?」
「はい、たぶん!」
力強い「たぶん!」に、凪はものすごく微妙な気分になる。
(よくわかんないけど……。これ以上苦しませないために、殺して楽にしてあげたいって言うくらいだから、セイアッドのお兄さんはよっぽど重症なんだよね。うぅ、怖いよう)
屋敷に戻るまでの馬車の中で、ライニールから事情は少し聞いていた。セイアッドの兄である第三騎士団団長は、魔獣討伐の中で左腕を切断する大怪我をしてしまったという。そして、先ほどの通信の内容からして、その大怪我の原因となった魔獣は、きっととてもヤバいモノだったのだろう。
汚染痕の急速な侵蝕と、それによる治癒魔術の拒絶。
結果として訪れる、明確な死。
――怖い。
凪はすでに、死というものを知っている。
自らの心臓を冷たい刃が貫き、突然未来を奪われる痛みと絶望。理不尽に対する凄絶な怒り。それらを内包した、冥い諦念。
きっと今、この砦には死の恐怖が渦巻いている。
そんな中に、好んで飛びこみたいわけがない。できることなら、ほかの誰かに代わってもらいたいと思う。
けれど、と凪は唇を噛みしめた。
(セイアッドと、ソレイユが、泣くやつじゃん)
今、この場で最も死に近い場所にいるのが、セイアッドの兄で。その死の影を、凪ならば――聖女ならば、確実に追い払えることを知っている。
だったら、がんばるしかないではないか。
「こちらです!」
そうしてシークヴァルトに運ばれてたどり着いたのは、なめらかな白い壁に白い床の、いかにも病室という雰囲気の場所だった。八畳ほどの広さだろうか。その真ん中に設えられたベッドに横たわっている人物を見て、凪は喉奥で悲鳴を上げる。
(汚染痕に侵蝕された……って、ひどくなると、こんなふうになるもんなの!? 気持ち悪さがバージョンアップしているにもほどがあるよ!?)
上半身が裸の状態で、左半身を包帯でぐるぐる巻きにされている人物は、露出している肌のほとんどが、さまざまな濃淡の黒い斑点に埋めつくされていた。その不気味な斑点が、肌の上をうねるように変化して、次第にその濃さを増していく。
以前に見た汚染痕の初期症状とはまるで違う、ひたすら生理的嫌悪感をもよおす見た目に、凪は本能的な恐怖を覚えた。
青ざめ、無意識にシークヴァルトの制服を握りしめた彼女の耳に、低く落ち着いた声が届く。
「ナギ」
名前を、呼ばれる。
たったそれだけ。
なのに、なぜだろう。
この人がいれば、何も怖いことはないのだと――そう、信じられる。
呼吸が、楽になる。
(……って、さっきから当たり前のようにお姫さま抱っこされてましたよ、わたし! いくらテンパっていたとはいえ、恋する乙女が好きな人にお姫さま抱っこをされてんだから、全力で喜んで――いる場合じゃないですよね、スイマセン!)
闇雲な恐怖がシークヴァルトのお陰で薄らいだと思ったら、今度は時と場合を考えない乙女心に翻弄されてしまいそうだ。どっちもどっちの厄介さだが、今は人の命がかかった非常事態。
凪は、深呼吸ひとつでどうにか自分を落ち着かせ、全力で気合いを入れ直す。
「だ、いじょうぶ。やる。がんばる」
シークヴァルトに縋ったまま強張っていた指を、どうにか緩める。
「下ろして」
膝が、震えそうだ。
やっぱり、怖い。
もし自分が本当は、聖女でもなんでもないただの小娘で、誰ひとり助けることができなかったなら――
(……っだーっっ!! いぃいいい今更っ、そんなしょーもないことでうだうだ迷ってる場合かーいっ! 女は度胸! 聖女は気合いと根性じゃあぁあああーっっ!!)
肌の表面を、真っ黒なシミが集合体となってうぞうぞと蠢いているような人体は、正直に言ってものすごく気味が悪い。まるで、イニシャルGを見たときのような鳥肌感だ。素手で触るのがものすごく躊躇われたけれど、すべての感情を開き直りスイッチにのせ、全力でオンにする。
(やればできる! やればできる! やればできる! ふぁいとぉおおおお、いっぱあぁあああーつっっ!!)
くわっと目を見開き、脳内に某熱血イケメンテニスプレイヤーを召喚した凪は、そのノリと勢いのまま、フルスロットルで勇気を振り絞った。
――ぺち。
間の抜けた音とともに、凪の小さな手のひらが、ほとんど全身真っ黒に染まった人物の額を叩く。
直後、包帯の白と肌を染める漆黒のみで構成されていた人物の姿が、ごく普通の色彩を取り戻した。
血の気の引いた、しかしごく普通の肌色と、白い包帯。そして、そこにじんわりとにじみ出てくる鮮血の赤。よく見れば、本来は真っ白なはずのシーツが、どす黒く変色した赤褐色に染まっている。
(ヒェッ! モノクロからフルカラーハイビジョンになったと思ったら、今度は血みどろスプラッタ!? ええぇえとえっと、血みどろにはー、テレレレッテレー! 治癒魔術ぅー! じゃなくて! なななな治れー、治れ~……いーやー! そう言えば、この人の左腕千切れてたんじゃんー! 痛い痛いヤダもう何コレ、くっつけ、くっつけ、くっつけ、くっつけ)
ほっとする暇もなく、半ば以上泣きそうになりながら、治癒魔術を発動させる。手のひらがほわんと温かくなって、相手の魔力が滞りなく流れはじめるのを感じたときには、不快な傷の感覚も消え失せていた。
「ナギ。ナギ、もういい。もう、充分だ」
「ほぃい……」
背後からやんわりと腕をつかまれ、そのまま両手で触れていた相手から引き離される。
(……おぉ。さすがは、セイアッドのお兄さん。めっちゃクール系のイケメンじゃーん。うんうん、イケメンは人類の宝です。こんなイケメンを真っ黒にベタ塗りするなんて、それは世界の損失です。世界の損失を防いだわたしは、とってもエライと思います)
改めてじっくりと見てみると、ベッドに横たわって穏やかな呼吸を繰り返しているのは、くすんだ砂色の髪を短く整えた、端正な顔立ちの青年だった。
その瞼が、持ち上がる。
現れたのは、セイアッドとよく似た褐色の瞳。
(ぃいいよっしゃー! 素晴らしき日本人カラー! 落ち着くぜひゃっふぅー!)
凪は、内心ぐっと両手の拳を突き上げた。
……さすがに、ちょっと疲れたのだ。多少テンションがおかしくなったとしても、今日ばかりは広い心で許していただきたい。