狂化魔獣
チッと舌打ちし、シークヴァルトはその背中を軽く叩く。
「行くぞ」
「は……い」
青ざめ、ぎこちなくうなずくセイアッドのそばに、ソレイユが駆け寄ってきた。やはり血の気の引いた顔をした彼女は、一度きつく唇を噛んだあと、セイアッドの手を強引に掴んだ。
「大丈夫。アイザック兄さまが、きっとなんとかしてくれる」
「……おう」
なんの根拠もない励ましの言葉でも、どうしようもなく必要なときがある。ソレイユはおそらく、本能的にそれを理解しているタイプだ。セイアッドのことは、彼女に任せれば問題あるまい。
(さて、と。最低でも追加で大型が三体、中型が十八体となると、さすがに今の第一部隊だけじゃあキツそうだな。第三部隊が現着しても、東の連中の状態次第ではかなりヤバいか)
何しろ第一部隊からは、主戦力に数えられるシークヴァルトとライニールが、揃って抜けている状態なのだ。ほかのメンバーたちも腕利き揃いとはいえ、攻撃と防御のそれぞれで最強を誇る駒が欠けては、アイザックもかなり心許ないだろう。
その上、現場の指揮権を持つ第三騎士団団長が、重傷により戦線離脱。指揮系統が混乱する中、土地勘のない魔導騎士団にとってはかなり不利な状況である。
嘆息したシークヴァルトは、無言になったセイアッドとソレイユに短く命じた。
「おまえたちは、屋敷へ向かえ。オレは、一度戻る」
十五歳の体のままでは、やはり少々動きにくい。しっかりとうなずいたふたりを一瞥し、シークヴァルトはひとり暮らしの部屋へ足早に戻った。魔導学園の制服をベッドに放り、元の姿に戻って魔導騎士団の制服を身につける。サイドボードにしまっておいた愛用の魔導具を手早く装備し、転移魔術を発動させた。
転移先は、王都での活動拠点である屋敷の玄関ホール。そこにいたのは、第二部隊副隊長のセレス・タイラーだ。この屋敷にいる間は、シンプルな従僕服が基本であるはずの彼もまた、すでに魔導騎士団の制服をまとっている。
セレスは、ホールに浮かべた球型の映像通信魔導具で、東の状況を確認しようとしていたようだ。しかし、まだあちらの送信準備が整っていないらしく、イライラと靴のつま先を上下に動かしている。
シークヴァルトに気付いたセレスは、ぼんやりと白く光るばかりの球体を睨みつけていた目を見開き、小さく苦笑を浮かべて言った。
「よう、シークヴァルト。おまえさんが出張る必要はないだろう。出るとしても、オレたち第二部隊だけで充分だ」
今のシークヴァルトの――魔導騎士団の最優先事項は、ナギの安全。そして、アイザックが第二部隊を呼び寄せれば、今回の事態には問題なく対処できる。普通に考えるならば、どれほど東の戦況が逼迫していようと、彼の出撃はあり得ない。
しかし、シークヴァルトはため息をついて口を開いた。
「それが、なーんかヤな予感がするんだよな。ああ、ライニールとナギは馬車で、セイアッドとソレイユは徒歩でこっちに向かってる。セイアッドはかなりメンタルをやられてるが、ソレイユに任せておけば大丈夫だろ」
セレスが、ぽりぽりと頬を掻く。
「あー……。さすがに、兄貴の腕が切断したって言われちゃあな。ただ、東の団長の腕は、魔獣に食いちぎられたわけじゃないらしいぞ。馬鹿でかい鱗を超高速で飛ばしてくる魔獣の攻撃から部下を庇って、キレイにスッパリいったんだと。すぐに切断された腕ごと治癒魔導士のところへ運ばれたそうだし、たぶん元通りにくっつけられるだろ」
「へえ。そりゃあよかった」
そんなことを言い合っている間に、ライニールとナギ、それからすぐにセイアッドとソレイユが到着した。
ナギも、馬車の中でライニールから大まかな事情を聞いていたのだろう。シークヴァルトとセレスが魔導騎士団の制服姿でも、特に驚いた様子はない。
と、ホールに浮いていた映像通信魔導具が、何度か点滅した。どうやら、送信側のセッティングが済んだらしい。
今回は、上空に映像送信魔導具を飛ばしたようだ。現場のメンバーたちが状況を共有するための映像が、こちらにも同時に転送されている。
それを確認したシークヴァルトは、思わず顔をしかめた。
(第一部隊、完全に囲まれてんじゃねえか。あー……東の連中が、かなりやられてんな。怪我人を全員砦に転移させ終わるまでは、あそこから動けないわけか)
すでに現着していた魔導騎士団の第三部隊が、第一部隊に群がっている魔獣の群れを外側から挑発し、その場から引き離そうとしている。だが、血の匂いに狂った魔獣は、一度狙いを定めた獲物にひどく執着するものだ。第一部隊が展開している半球型防御フィールドに、しつこく攻撃を繰り返している。
その映像に、アイザックの声が加わった。
『まもなく、負傷者の退避が完了する。魔導騎士団第三部隊、こちらを中心に魔獣の群れを包囲しながら、フィールドポインターを設置せよ。防御フィールドを放射状に展開し、魔獣の群れを分断。その後、外縁に沿ってフィールドを閉じ、魔獣を各個撃破する』
直後、ふたり一組となった第三部隊が、勢いよく散開していく。しかし、魔獣の群れはかなり広範囲に散らばっている上に、魔獣たちに部隊の動きを気取られては、先にそちらと接触してしまいかねない。互いの位置を確認しながら、かなり慎重に動かざるを得ないのだ。
それでも、このままアイザックの指示通りにことが進めば、第二部隊まで出撃する必要はなさそうである。
だがそこに、ひどく焦った大声が響いた。
『全体通信、失礼します! こちら、第三騎士団所属の治癒魔導士、ヒューゴ・エルマン! 現在、第三騎士団団長の傷口から汚染痕が侵蝕、急速に広がっているため、治癒魔術が効かない状態です! よって、これを狂化魔獣の攻撃と断定! 団長の腕を飛ばした魔獣の攻撃は、必ず回避してください! 繰り返します、第三騎士団団長の腕を飛ばした魔獣の攻撃は、直接遠隔を問わず、必ず回避してください!』
(……っ狂化魔獣かよ!)
シークヴァルトのいやな予感が当たったらしい。
地脈の乱れに強く影響された大型魔獣の中には、体内の乱れた魔力を攻撃に乗せて放出し、それを食らった者の魔力を一気に乱れさせる個体が稀にいる。
それを特に狂化魔獣と呼ぶが、その攻撃はまさに一撃必殺。それを受けた人間は、傷口からあっという間に汚染痕に侵蝕され、それから数時間以内に必ず全身の魔力が暴走し、死に至るのだ。
「兄貴……?」
狂化魔獣の存在を知るセイアッドが、がくんと床に膝を落とす。ソレイユがその肩を抱きしめ、声を殺して泣き出した。
このままでは、第三騎士団団長は――セイアッドの兄は、必ず死ぬ。
けれど。
「わたしが行く」
まるで当たり前のことのように、ナギが言う。
「わたしなら、セイアッドのお兄さんを助けられるんでしょう? 兄さん……は、着替えてからだね。シークヴァルトさん、わたしをあそこに連れてって」
「了解だ、ナギ。――全体通信。こちら、魔導騎士団所属のシークヴァルト・ハウエル。ヒューゴ・エルマン、聞こえるか。これより、そちらの救援に向かう。あんたらの団長を楽にしてやるのは、少しだけ待ってくれ」
一拍置いて、先ほどの声が答えた。
『……貴殿の助力は、感謝する。だが、団長の容態はすでに手の施しようがないのだ。せめて、これ以上は苦しませずに逝かせて差し上げたい』
それを聞いたセイアッドの顔が、絶望に染まる。
時間がない。
シークヴァルトは、再び通信魔導具に向けて口を開いた。
「団長。ナギを連れて行く。許可を」
『……許可する。必ず、守れ』
短い答えは、あちらも相当に切羽詰まった状況にあることの証だ。
迷っている暇はない。
ナギが、自ら行くと言ったのだ。ならば、今のシークヴァルトがすべきなのは、この先何が起ころうとも、絶対に彼女を守ること。
「聞こえるか? ヒューゴ・エルマン。うちの団長の許可が出たんでね。これから、聖女を連れてそっちに行く。あんたらの団長は、必ず助かる。うちの聖女が、助けると言ってる。だから、殺さずに待っていろ」
相手の答えを待たず、通信魔導具をしまったシークヴァルトはナギを振り返る。ライニールに両肩を掴まれていた彼女が、至極真面目な顔で片手を挙げて、心配性の兄に宣誓する。
「はい、約束します! 絶対にシークヴァルトさんから離れない、無茶をしない、無理だと思ったらすぐに言う!」
「よし、いい子だ。おれも装備を整え次第、すぐに追いかける。――シークヴァルト、任せたぞ」
了解、とうなずき差し出したシークヴァルトの手に、ナギの手がのる。
その瞬間、胸が震えた。
こんなにも小さくて華奢な手が、これから数え切れないほど多くの人々を救うのか。
「行くぞ」
「うん。あ、ちょっと待って! ――ソレイユ、セイアッド! 今までわたしが聖女だってこと、黙っててごめーん! セイアッドのお兄さんは絶対助けるから、それで勘弁しといてー!」
……何やら気の抜ける謝罪を口にするナギを、シークヴァルトは無言で抱き上げる。
転移魔術を発動する寸前、そんな彼女を見つめる少年少女の目が、揃って今にも転げ落ちそうな有様になっていたことには、とりあえず気が付かなかったことにした。
誤字修正いたしました。
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