東方にて、魔獣襲来
その後、茫然自失となったマクファーレン公爵は、鼻血だらけの気絶した夫人とともに、従僕たちの手で馬車に運び込まれるようにして姿を消した。
グレゴリーは寮生なので、元々屋敷に帰る予定はなかったという。ナギともどもシークヴァルトに礼を言った彼に、シークヴァルトは短く問うた。
「おまえ、これから大丈夫なのか?」
「うーん、どうだろう。あれ? 今日の件で父上から勘当されたら、学園は退学になるんだろうか。もしそうなったら……えぇと、平民として個人登録をし直したあと、改めて入学申請をすればいいのかな?」
小首を傾げてそんなことを言うグレゴリーに、ライニールが問いかける。
「きみは、マクファーレン公爵家を継ぎたくはないのかい?」
少し迷うようにしてから、グレゴリーが口を開く。
「正直、よくわかりません。ぼくはずっと、あの家を継ぐ者として育てられてきました。ですが、今あの家の者たちが望んでいるのは、あなたが後継者として戻ってくることのようなので……」
「は? なんだい、それは。おれは五年前、あの家の連中に『不道徳な女の血を引く後継者など、マクファーレン公爵家には必要ない』と言われて追い出されたんだが?」
眉をひそめたライニールの言葉に、グレゴリーはなんとも言い難い顔になる。
「えぇと……あなたが出て行かれてから、ぼくの後継者教育がはじまったのですけれど。どうも彼らの中では、マクファーレン公爵家の後継たるもの、あなたくらいのことはできて当たり前だったようなんです」
その瞬間、居合わせた紳士淑女が揃って苦虫をかみつぶしたような顔になったのを、シークヴァルトはたしかに目撃した。
――騎士養成学校を首席で卒業し、在学中から仕事をしない父親に代わって領地の経営に携わり、王太子からは『兄上』と呼ばれ、慕われる。
そんなライニールを、十歳の子どもが当然クリアすべき基準とするなど、マクファーレン公爵家の者たちは、揃いも揃って頭がおかしいのではないだろうか。
「ぼくは、あなたとは比べようもなく凡庸な子どもでしたし……。今から思えば、それまで散々甘やかしてろくな勉強もさせていなかったぼくに、どんな無茶を言ってくれているんだって感じではあるのですけどね」
「そ……そう、か」
ライニールの顔色が、若干悪くなっている。
(あー……。ライニールもオスワルドも、この坊ちゃんのことを『能なし』だとか言ってたもんな。十歳までは甘やかされ放題だったってんなら、そりゃあ能なし判定にもなるだろうけどよ。ライニールがいなくなった途端、今度はライニールを基準にした連中に、坊ちゃんが散々いやみを言われる羽目になったわけか。……つくづく、救いようのねえ連中だな)
「ぼくがあの家を継がなくても、ほかに継ぎたがる者はいくらでもいそうですし、特に問題はないと思います」
淡々と言うグレゴリーは、本当にマクファーレン公爵家にはなんの未練もないように見えた。ライニールが、軽く眉間を揉みながら口を開く。
「まあ……うん。その辺りについては、落ち着いてゆっくり考えてから決めるといいよ。ただ、今のきみをマクファーレン公爵が勘当しようと思ったとしても、その理由がない。何より、今の彼にそんな気力は残っていないだろうね」
そう言って、ライニールは表情を改めた。
「グレゴリー。きみは、おれとナギのために怒って、泣いてくれた。その気持ちは、本当に嬉しく思う」
それでも、と続けるライニールの声が、一段低くなる。
「おれとナギが、マクファーレン公爵夫妻と馴れ合う日は決してこない。きみがこれからも両親とともにあることを選ぶなら、いずれきみは必ずおれたちの敵になる。……これはおれの勝手な希望なんだが、できることなら、そんな未来は選ばないでもらえるとありがたい」
グレゴリーが、目を見開く。まじまじとライニールを見上げた彼は、少し掠れた声で言う。
「ぼくを……惜しんで、くれるんですか? あなたが?」
「きみが五年前の生意気な子どものままなら、何も惜しくはなかったのだけどね。今は――そうだな。きみがこれからナギと同じ教室で、一緒に楽しく学んでくれたなら、おれはとても嬉しいよ」
その穏やかな笑顔と言葉に、グレゴリーの涙腺が再び緩んだようだ。じわりと浮かんだ涙を袖口で乱暴に拭い、何度もうなずく。
「あ……ありがとう、ございます……っ」
「うん。これから何か困ったことがあったら、おれに相談するといい。できる限り、力になる」
そんなふたりの様子に、周囲にほっとした空気が流れる。彼らが和解したなら、これからマクファーレン公爵家がどうなろうとも、グレゴリーだけは必ず救われるだろう。
(マクファーレン公爵家を残すか潰すかは、これからのお坊ちゃまの選択次第、か。……まあ、どっちに転んでも、ナギにとって悪い結果にはならなさそうだ)
この国の現正妃の生家である、マクファーレン公爵家。広大な領地と莫大な資産、そして王妃の外戚としての王宮における絶大な発言権を持つこの家を、手に入れたいと望む者はたしかにいくらでもいるに違いない。
だが実際のところ、マクファーレン公爵家の当代当主は、その地位から得られる特権を享受するばかりで、それに伴う義務をまったく果たしていなかった。何より、後継者の教育を蔑ろにし、くだらない恋愛遊戯にばかりうつつを抜かしている。
ライニールがいた頃は、彼が当主代行を務めることで問題なく回っていたようだが、幼いグレゴリーに同じことができたとは思えない。マクファーレン公爵家の内情は、かなり厳しいことになっているのではないだろうか。
(まあ、ライニールとナギが、ここまでしっかりお膳立てをしてやったんだ。今まで母親の実家の横暴を放置してきた責任は、オスワルドが負うべきだよな。……昼飯、何にするかな)
完全に他人事モードのシークヴァルトが、今日の後始末をすべて友人の王太子に丸投げし、昼食に思いを馳せたときだった。通信魔導具にアイザックからの緊急伝達が入ったのを受け、即座に思念伝達魔導具へリンクさせる。
『――団員各位に告ぐ。現在、東の国境近くで凶暴化した大型魔獣が二体出現。東の第三騎士団が対応中だが、負傷者多数とのこと。死者はなし。これより、第一部隊が第三騎士団援護のため現場に向かう。第二部隊は現在の任務を続行。第三部隊は本部にて不測の事態に備えよ。以上だ』
(東の第三……セイアッドの兄貴が団長のところか。第二部隊は、そのままナギの護衛を継続、と。了解、了解)
状況はなかなかハードモードのようだが、アイザックが率いる第一部隊が向かうのなら、問題あるまい。大型の魔獣二体程度であれば、彼らが後れを取ることはないだろう。
ルジェンダ王国は、半月から少し欠けた上弦の月のような形をした大陸の、ちょうどへこみ部分の北海岸沿いに広がる国だ。天然の良港をいくつも抱え、古くから流通の要として発展してきた。領土が東西に長く広がる形をしているため、国の西端から東端へ移動するよりも、海からほど近い王都から南の隣国であるレングラー帝国へ移動するほうが、よっぽど早い。
(ナギが育ったノルダールは、西の国境ギリギリに位置する街だ。……東のほうで魔獣の被害が多いのは、そのことも関係してるんだろうな)
地脈の乱れが確認されてから、ルジェンダ王国で凶暴化を確認された大型魔獣は、これで通算五体目だ。それらすべてが、東方の地で出現している。
大型魔獣の強さは、小型、中型のそれとは次元が違う。第一部隊が向かうならば、討伐そのものに問題はないだろうが、二体同時となると少し手間取ることはあるかもしれない。
今後、ナギが国土中央の王都で過ごすようになれば、東方の負担も少しは楽になるだろうか、と考えていると、ライニールがこの場からの撤収を決めたらしい。彼はグレゴリーの肩を軽く叩き、柔らかな声で言う。
「きみと話せてよかった、グレゴリー。ただ残念ながら、今日は午後から予定が入っていてね。これがおれの通信魔導具のコードだ。何かあったら、いつでも連絡してくれ」
「はい……っ」
差し出されたカードを宝物のように受け取ったグレゴリーが、マクファーレン公爵家の側につく可能性は、まだ残っているだろうか。その可能性が限りなく低くなっていることを、シークヴァルトは願わずにはいられなかった。
ナギをエスコートしたライニールがその場を後にするのに合わせ、シークヴァルトたちナギの護衛チームも撤収する。東方がどうにも騒がしいようだし、一度屋敷で仲間たちと合流するかと考えていると、隣に並んできたセイアッドが珍しく硬い声で言う。
「第三騎士団は、このところ頻発している魔獣の討伐で、かなり疲弊しているようです。つい先日も、兄が治癒魔導士の追加申請がなかなか通らないことを悩んでいました」
「まあ……戦闘訓練を受けている治癒魔導士ってのが、そもそも数が少ないからな」
治癒魔術に適性があり、それに特化した訓練を積んだ魔導士を、治癒魔導士という。
高度な専門職といえる彼らは、安全な都市部で医療に携わっていることが多い。治癒魔導士はその希少性と有用性から、いくらでも働く場所を選ぶことができるのだ。
その中で、わざわざ辛い戦闘訓練を受けて過酷な騎士団勤務を選ぶというのは、よほどの事情の持ち主か、あるいは相当の変わり者である。引く手あまたの治癒魔導士が、各地の十二砦と主要な港にそれぞれ複数常駐しているだけでも、立派なものだろう。
ちなみに、魔導騎士団に在籍している治癒魔導士は、以前アイザックが所属していた近衛騎士団から、魔導騎士団の設立に伴い、同時に転属してきた女性である。大変頼りがいのある姐御肌の女性なのだが、めでたいことに転属直後に妊娠が発覚し、今は産休に入っていた。
本人は、「世界中に自慢したいレベルでものすごく嬉しいんだけど、よりにもよって、こんなときにアタシのお腹に来るなんて! 絶対に空気を読めない子どもが産まれる、ものすごく残念な予感がする!」と嘆いていたが、ぜひとも無事に元気な子を産んでもらいたいものだ。
……彼女が産休に入るとき、見送りに立った魔導騎士団の若手たちに「どんな避妊も、百パーセント安全じゃないってことは、このアタシが身をもって証明したからね。アンタたちも、くれぐれも気をつけな」と据わった目つきで忠告したことは、きっとあの場にいた誰もが一生忘れられないに違いない。
何はともあれ、現在の魔導騎士団に実働可能な治癒魔導士がいない以上、ナギに治癒魔術の適性があったのは、非常にありがたいことだった。
もっとも、彼女はあくまでも魔導騎士団の護衛対象であって、一員というわけではない。今は、ナギの治癒魔術の訓練という形でその力を借りているが、ライニールが手を回して、ナギが治癒魔導士として働いたぶんの給料は、王宮にしっかり請求すると言っていた。高度な治癒魔術の恩恵は、決して無償で提供されていいものではないのだ。
利用価値のあり過ぎる妹を持ったライニールの苦労は、なかなか尽きない感じである。もっとも、重度のシスコンを患っている本人が、そういったすべてに心から喜んで取り組んでいるので、外野が余計な心配する必要はないだろう。
「たしか、東の状況がヤバすぎるってんで、先月治癒魔導士がひとり追加されていたはずだが……。それでも、手が回りきれていないのか?」
わかりません、とセイアッドが呟く。
「ただ、東の砦は常に魔獣の脅威に晒されています。治癒魔導士が魔力切れになりかけることも、あまり珍しくはないそうです」
「それは、怖いな」
治癒魔術の発動中に、施術者である魔導士の魔力が切れた場合、その被術者は大抵出血多量で死ぬことになる。そのため、治癒魔術を行使する際には、魔導士の魔力残量確認が非常に重視されるのだ。安全ラインはかなり広く取るのが普通だが、切羽詰まった現場ではそういうわけにもいかないのだろう。東の砦を預かる第三騎士団の団長を兄に持つセイアッドが、不安になるのも無理はあるまい。
そこに再び、アイザックからの緊急伝達が入る。
『全体通信。第三騎士団団長が、左腕切断の重傷により戦線離脱。新たに出現した魔獣は、現在確認できるだけでも大型が三体、中型が十八体。魔導騎士団第三部隊は、直ちに現場へ急行せよ。繰り返す。第三部隊は、直ちに現場へ急行せよ』
セイアッドの歩みが、止まった。