お父さまとは呼びません
魔導学園の中庭は、背の低い生け垣と観葉植物を幾何学模様に配置した、一見の価値がある美しい場所だ。密度の高い芝と石畳を組み合わせた地面に、優美なデザインの丸テーブルがいくつも置かれている。その上には、いかにも美味しそうな軽食やドリンクが並べられていたけれど、シークヴァルトがざっと見た限り、ほとんど手を付けられていなかった。もったいない。
華やかに着飾った紳士淑女が、なんとも言い難い雰囲気の中で佇む中、真っ先にナギたちの到着に気付いたライニールが歩み出てきた。彼はナギに向けて両手を広げ、とろけるような笑みを浮かべる。
「お帰り、ナギ。クラスの感じはどうだった? 楽しく勉強ができそうかい?」
「はい、お父さま。いろいろとお話ししたいことはありますけれど、まずはクラスメイトを紹介させていただきますわね。紹介、というのもおかしなお話しかもしれませんけれど――お父さまの異母弟でいらっしゃる、グレゴリー・マクファーレンさまです」
するりとライニールの傍らに立ったナギが、小さく笑う。
「叔父さま、とお呼びしようとしたら、とてもいやがられてしまいましたの。ねえ、グレゴリー?」
「あ……ああ。あの……お久しぶり、です。ライニールさま。その……五年前にお別れのご挨拶をした際には、大変失礼を申し上げました。今更ではありますが、心からお詫び申し上げます」
ナギの肩に手を回したライニールが、軽く目を瞠る。グレゴリーがいきなり頭を下げてくるとは、さすがに想定外だったのだろう。一度ナギに視線を向け、にこりと笑い返されたライニールは、彼女によく似た朗らかな笑みとともにグレゴリーに話しかけた。
「いや。あのときのきみは、たったの十歳だったからね。そんな子どもに何を言われたところで、わざわざ怒るようなことじゃないさ。それでも、きみがあのときのことを気に掛けていて、こうして詫びてくれたことは嬉しく思うよ。ありがとう、グレゴリー」
「は……はい……っ」
グレゴリーの目が、ぶわっと潤む。教室で盛大に泣いたばかりのせいで、涙腺が緩みがちになっているのだろうか。
しかし、ここで泣いている場合でないというのは、本人が一番よくわかっていたのだろう。ぐいっと袖口で目元を拭ったグレゴリーは、きつい表情を浮かべて中庭を見回した。そして、揃って激しい驚愕に立ち尽くしているマクファーレン公爵夫妻に、低く抑えた声で呼びかけた。
「父上。母上。そんなところで、何をなさっているのです。あなた方は、ライニールさまからすべてを聞かれたのではないのですか?」
少女めいたふっくらとした頬は蒼白になり、その震える唇も声も、彼がすさまじい葛藤の中にあることを伝えてくる。
それでも彼は、ぐっと両手を握りしめ、懸命に言葉を紡いでいった。
「あなた方は、ライニールさまとナギから母君を奪い、みなさまがともに過ごせたはずの幸せな時間をも奪った。今更何をしたところで到底許されることではないとはいえ、せめておふたりに誠心誠意頭を下げて詫びるべきでしょう!」
今にも泣き出しそうな顔をした、少年の弾劾。
――その報道陣の前で、ぼくの両親からきみたちへ謝罪をさせたいと思う。ふたりの過ちを、きみたちが……きみたちの母君が奪われたものの重さを、誰の目にも明らかにしたい。
――もちろん、そんなことで彼らの罪が許されるなんて、思っているわけじゃないんだ。
――ただ、ぼくの両親に、きちんと自分たちの過ちと向き合ってほしいんだよ。そうでなければ、きっと何も変わらないから。
先ほど、教室でそうナギに告げたグレゴリーとて、自分の両親が犯した過去の罪を、簡単に受け入れられたわけがない。おそらく彼は、決して短くないオリエンテーションの間中、ずっと悩み、考え続けていたのだろう。
そうして、グレゴリーが選んだ答えは、どこまでも少年らしいまっすぐな道だった。
「……父上。ライニールさまと並ぶナギの姿を見て、あなたの子ではないと言えますか? 彼女の髪も瞳も、そっくりそのままあなたのものだ。それでもあなたが認めないとおっしゃるのであれば、ぼくはこの場でマクファーレン公爵家の継承権を放棄します!」
唐突な彼の宣言に、その場が大きなざわめきに包まれる。それまでひたすら唖然としていた公爵夫妻が、憤然と口を開いた。
「グレゴリー! 何をバカなことを言い出すのだ! おまえはただ、私の後を継ぐことだけを考えていればいい!」
「そうですよ、グレゴリー! くだらない過去のことなど、どうでもよいでしょう! 今はあなたが、あなたこそがマクファーレン公爵家唯一の後継者なのです! そのような愚かなことを口にするなど、母は断じて許しませんよ!」
こんなときでも、足取りだけは優雅に近づいてきた公爵夫妻に、グレゴリーの顔色がますます悪くなる。おそらく今までの彼にとって、両親は絶対的な支配者だったのだ。そう簡単に、その呪縛から逃れられるものではない。
しかし、公爵夫妻が体を強張らせたグレゴリーの前にたどり着く前に、すいと彼らの間に歩み出た者がいる。
ナギだ。
彼女はライニールが制止するより先に、大きく振りかぶった右手で、マクファーレン公爵の頬を力いっぱい張り飛ばした。その衝撃に公爵の首がのけぞるのと同時に、涼やかな鈴の音にも似た魔力の共鳴音が、中庭いっぱいに幾重にも響き渡る。
リィン、リン、リィン……と、まるでその場を祝福するような美しい音の中、グレゴリーを背後に庇ったナギがにこりと笑う。共鳴した魔力の波動に浮かぶ彼女の金髪が、柔らかな光そのもののように美しく舞い踊る。
「ごきげんよう、マクファーレン公爵。そして、はじめまして。――お父さま、とはお呼びいたしませんわ。わたしがそう呼ぶのは、これから何があってもわたしを守るとおっしゃってくださった、とっても優しくて素敵なお兄さまだけですもの」
そのとき、片手で額を抑えたライニールが天を仰いだのは、「あーあ、やっちまった……」だったのか、「おれの妹、超尊い……」だったのかは、本人のみが知るところだろう。
シークヴァルトは、ナギの思い切りのよさにあやうく噴き出すところだったが、どうにか平静を保って様子を窺う。
張り飛ばされた頬に触れたまま硬直したマクファーレン公爵を、氷のような目で冷たく一瞥したナギは、グレゴリーを振り返ってほほえんだ。
「ありがとうございます、グレゴリー。わたしは……わたしたちは、あなたのお気持ちだけで充分です。公爵ご夫妻は、あなたからのこれほど必死のお願いでさえ、歯牙にも掛けてくださらなかった。彼らは、ご自分たちのされたことを、きっと何ひとつ後悔も反省もしていらっしゃらない。そんな方々に、口先だけの謝罪をされたところで虚しいだけですもの」
「ナ、ギ……っ、ぼく、は……」
グレゴリーの両目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。ナギはそんな彼の震える手を取り、そっと両手でそれを包み込む。
「大丈夫です。あなたは、何も間違ったことはしていません。……それでも、ご両親の過ちを認めるだけでも、あなたはとても苦しかったでしょう。怖かったでしょう。ごめんなさい。あなたの気持ちに甘えて、辛いことをさせてしまいました」
「ご……め……っ、ぼく……もっと、ちゃんと……っ」
何度もしゃくり上げるグレゴリーの姿に、周囲にいる女性陣――学生の母親たちがみな涙ぐみ、痛ましげな視線を向ける。男性陣も、涙ぐんでこそいないものの、我が子と同世代の子どもの泣く姿に胸を痛めているようだ。教室でグレゴリーを励ましていたクラスメイトの女生徒たちなど、すでにボロ泣き状態である。
シークヴァルトは、公爵夫妻の様子を慎重に窺う。
(さて、これからどう出る? ナギと公爵の魔力は共鳴した。ライニールの言葉が真実だったことは、この場の全員が見届けた。おまけに、報道陣連中が今までのすべてを記録している。普通なら、ここで完全に終わりだろうが……)
「……っアアァアアアアッッ!! おまえェ! わたくしのグレゴリーから離れなさい! わたくしからオーブリーさまを奪っておきながら、今度は息子まで奪おうというの!?」
突然、ガラスを金属で引っ掻くような声で、公爵夫人――イザベラが絶叫した。そして彼女は、一般的な女性の倍はありそうな大きな体を揺らしながら、すさまじい勢いでナギとグレゴリーに向かって突進していく。
(おいおい……っ)
貴族の女性が、護身用に小さな刃物や魔導具を所持しているのは、さほど珍しいことではない。シークヴァルトも、そういったものを相手取る事態は想定していた。たとえマクファーレン公爵家の護衛たちが、全員束になって襲いかかってきたとしても、問題なく対処できる自信はあったのだ。
しかし、半ば正気を失ったような肥満体の女性が、血走った目をして自ら爆走してくるとなると――
「フブォッ!」
(……あ、スマン)
淑女らしからぬ濁音、そして地響きとともに、イザベラが地面に沈む。真っ赤なドレスがめくれ上がった格好のまま、ぴくぴくと痙攣する彼女の姿に、シークヴァルトはさすがに申し訳ない気分になった。
だが、これは不可抗力だ。何しろ、今のシークヴァルトは防御魔術も魔導具も、よほどの非常事態でなければ使うことができないのである。
よって、至極シンプルな対処方法――即ち、興奮した牛のような勢いで突っこんでくる相手の足を引っかけ、その場にすっ転がすしかなかったのだ。
結果、見事に空中を反転したイザベラは、その勢いと体重をすべて顔面で受け止める形で、景気よく地面に激突した。下が柔らかい芝生であったことが、辛うじて救いになっただろうか。もし彼女が着地したのが石畳の上だったなら、首の骨を折って即死していたかもしれない。
とはいえ、イザベラが止まったのは、ナギとグレゴリーからほんの数歩手前だ。もしあの勢いのまま突っこんでいれば、ふたりとも無事ではいられなかっただろう。
立ち上がって振り返れば、互いの手を握ったまま青ざめている弟妹を背に、ライニールが深く息を吐いていた。
「助かったよ、少年。きみがあと一秒遅ければ、おれは公爵夫人を殺していた。ありがとう」
「……いえ。咄嗟に、ヤバいと思っただけなんで」
心から安堵したようなライニールの言葉は、ただの事実だ。
ナギの前で、彼に人殺しをさせるようなことにならなくて、本当によかった。
パーとグーのどちらで行こうか、寸前まで悩んだやつです。