お兄ちゃんの予想の斜め上をいくのが、妹なのです
周囲の空気が、ざわりと揺らぐ。
今、自分の耳が何を聞いたのかわからない、という顔をする公爵夫妻に、ライニールはどこまでも穏やかな口調で告げる。
手札の出し惜しみなどしない。この場で、すべて一気に片付ける。
「そうそう。私たちの母レイラは、ギャレット子爵家の娘でしたね。社交界にデビューしたばかりの彼女を閣下が見初め、周囲の反対を押し切って妻に迎えた。当時、閣下の婚約者候補として最も有力だったイザベラさまは、失望のあまりしばらく床につくほどのお嘆きようだったとか」
公爵家と子爵家。
元々、家格の釣り合わない縁談だった。レイラの体があまり頑健とは言い難いこともあり、ギャレット子爵家からは何度も辞退の申し出があったという。
それでもなお、オーブリーはレイラを望んだ。公爵家からの断固とした要求に、ろくな権力も持たない子爵家が抗えるはずもない。結果として、レイラは十八歳の若さでマクファーレン公爵家へ嫁ぎ、周囲の期待通りに後継者となる男子を産んだ。
「しかし、そうまでして妻に迎えた彼女を、あなたが愛し続けることはなかった。後継者を産んでしまえば用済みとばかりに、さまざまな女性との逢瀬を楽しんでいたそうですね。そして、そんなあなたの前に現れたのが、イザベラさまだった」
かつては地味でおとなしく、淑女の鑑だと言われていたイザベラは、見違えるほど華やかで大人の色香を纏う女性へと変貌していた。
一方、子を産んでからも変わらぬ繊細な美しさを持ったレイラは、しかしその愛情を浮気性の夫よりも、まだ幼い我が子へと注いでいる。オーブリーが訪ねれば、もちろん笑顔で歓迎はするものの、口数が少なく、また世間を知る前に公爵家に閉じこめられた彼女に、社交界で楽しまれているような刺激的な会話は難しかった。
そんなレイラとの生活に飽きはじめていたところに現れた、かつての婚約者候補。いまだにオーブリーに心惹かれていることを隠しもせず、積極的に魅力的な肢体をすり寄せてくる。そんなイザベラの手をオーブリーが取るのは、時間の問題だったのだろう。
「イザベラさまは、それまであなたが遊んできた未亡人や踊り子たちとは違う。れっきとした、伯爵家のご令嬢だ。しかもその伯爵家は、母の生家である子爵家よりも、遙かに豊かな資産と領地、そして王宮での発言権を持っていた。だから、あなたはイザベラさまを選んで、母を捨てた。そのときすでに、母の体には私の妹が――ナギが宿っていたというのに」
ひとつため息を吐き、ライニールは青ざめた顔のオーブリーを見据える。
「……閣下。母がいったい、あなたに何をしたというのでしょうね? 望んでもいないあなたに見初められ、望まれた通りに男子を産んだ。まったく我が子を顧みないあなたのぶんまで、誰ひとり味方のいない公爵家の中、たったひとりで子どもを愛した。その見返りが、不義の冤罪による修道院への追放ですか。まったく、ひどい話しもあったものです」
と、そこでライニールが装備していたピアス型の思念伝達魔導具に、シークヴァルトからの臨時報告が届いた。この魔導具は、有効半径が非常に狭いのが難点だが、こういった場面ではとても使い勝手がいい。
(……んん? グレゴリーがナギに喧嘩を売って、返り討ちにされた? 教室に入るなり怒鳴りつけてきたクソガキを、ナギはゴミに向けるような目で冷たく見ながら、冷静に言葉で叩き潰した? 何ソレ、お兄ちゃんめちゃくちゃ見たかったんだが!?)
あやうく「そこ、ちょっと詳しく!」と叫びそうになった自分を、どうにか抑える。ひとつ咳払いをしてから、ゆったりと周囲を見回す。
「紳士淑女のみなさま、お騒がせして申し訳ない。ですが、せっかくですからこの場にお集まりのみなさまにお伝えしておきましょう。私の所属する魔導騎士団第一部隊が、オルニスの森で妹のナギを保護したのは、先頃捕縛されたユリアーネ・フロックハートの捜索任務中のことでした」
ただでさえこちらに注目していた人々が、ざわりとどよめく。聖女を騙った侯爵令嬢の名を知らぬ者は、この場にいない。マスコミ関係者と思しき者たちが、ライニールの言葉を一言も逃すまいと、それまで隠し持っていた録音魔導具を堂々と向けてくる。
舞台は、整った。
「我々がナギを発見したとき、彼女はユリアーネ・フロックハートが逃亡時に身につけていた王宮の侍女服を着せられ、身体麻痺の魔術で自由を奪われた上、剣でひどく斬りつけられた全身を、彼女自身の血で真っ赤に染めていました」
なんてこと、という悲痛な叫びが、そこかしこから上がる。
「ええ。ナギが高度な治癒魔術の適性を持っていなければ、彼女は森の奥でひとり死んでいたでしょう。あまりのショックのせいか、彼女はここ半年ほどの記憶がひどく曖昧になってしまっています」
沈痛な表情を浮かべ、ライニールは己の胸に右手を当てた。
「そうして保護したナギに、はじめてこの手で触れたとき、我々の魔力が共鳴したのです。そのときの衝撃は、とても言葉にはできません。なぜなら私は、両親が離縁したときからずっと、その理由は母の不義にあると教えられてきたのですから」
ライニールが十八歳のときから探し続けていた妹については、本当になんの手がかりもなかった。生まれたばかりの赤子は淡い髪色をしていたというが、髪の色など成長するにつれていくらでも変わってくる。
だから、心のどこかでは諦めていた。幼かった頃の自分を、誰よりも深く愛してくれた母。その母が最後に遺した妹だけは、どうにかして見つけてやりたいと思っていたけれど、それが叶う日はきっと来ないのだと。
なのに、ナギは突然彼の前に現れた。
母の不義の証などではなく、間違いなく同じ両親の血を分けた妹として。
(……おれにとって、ナギはこの大陸を救う聖女なんかじゃない。たったひとりの、大事な家族だ)
だから、守る。
そのために必要なのであれば、かつて父と呼んだ相手であろうと、全力で叩き潰す。
「私はナギにとって実の兄ではありますが、彼女を守る立場を手に入れるため、彼女の養父となりました。すでに王太子殿下にはご挨拶しておりますが、殿下は随分ナギをお気に入りくださいましてね。近いうちに、殿下の婚約者さまにご紹介いただけることになっています」
ナギの存在はすでに王家に知らせてあること、王太子が彼女を好意的に受け入れていることを示せば、視界の端にいたマクファーレン公爵夫妻が揃って蒼白になった。
この国の王太子が、幼馴染みのライニールを兄と慕っていることは、貴族階級の人間ならば誰でも知っている。ただ、ライニールがマクファーレン公爵家を追放されてからは、彼らの交流は絶たれたものと囁かれていたのだ。
しかし今、ライニールは王太子との交流を堂々と宣言した。大貴族であるマクファーレン公爵家への忖度を考えていた者たちも、一気に情勢の流れが変わったことを悟るだろう。
(これだけ大勢の人間に、おまえたちの恥を晒してやったんだ。今更、ナギを消したところで無駄だってことくらいはわかるよなぁ? 親愛なるオトウサマ?)
今回の第一の目的は、ナギの存在とその素性をできるだけ多くの人々に周知すること。そうすることで、まずはマクファーレン公爵家がナギの暗殺などという愚行に走る芽を摘む。
ライニールにとって――そしてこの国にとって、ナギの安全は何よりも最優先に確保されるべき命題である。それ以外のすべては、些事に過ぎない。
「ただ、私の妹は孤児院育ちゆえ、貴族社会にはまったく馴染みがありません。ずっと苦労ばかりしてきたあの子には、誰よりも幸せになってもらいたいのです。みなさまには、どうぞ『遠くから静かに』、彼女のこれからを見守っていただければありがたく思います」
――ウチの可愛い妹に、おれの許可なく近寄って騒ぐんじゃねえ。
かなり直接的なライニールの牽制に、録音魔導具を構えた者たちが揃って青ざめる。おそらく彼らは、ナギが教室でのオリエンテーションを終えて出てきたところを、質問攻めにでもするつもりだったのだろう。そんな彼らの顔をゆっくりと順に見つめていくと、みな残像が見えそうな勢いで首を横に振る。理解が早くて、結構なことだ。
満足げにうなずいたライニールは、改めてマクファーレン公爵夫妻を見た。
「さて、公爵ご夫妻。先ほども申し上げましたが、私はとうにマクファーレン公爵家から絶縁された身。そして、ナギは法律上、両親もわからぬただの孤児として、私の養女となった娘です。わざわざ確認する必要もないかと思いますが、あなたがたには一切、私とナギに対して何かを主張する権利はありません」
よろしいですね? とほほえみ、ライニールは告げる。
「ちなみに、ナギの個人証明の際に後見人としてサインしてくださったのは、我が魔導騎士団の団長であるアイザック・リヴィングストン伯爵です。彼は公私混同は決してなさらない方ですが、ナギのことを大変気に掛けてくださっていましてね。何か困ったことがあれば、すぐに相談するように、とのお言葉をいただいているのですよ。本当に、ありがたいことです」
ギャラリーの中から、今までで最も大きなざわめきが起きる。
地脈の乱れが広がりつつある中、その対処に当たる最大戦力として結成された魔導騎士団。その団長であるアイザックの影響力は、現在王族に次いで非常に大きなものとなっている。
それでも、今までは本人の誠実で実直な人柄、そしてあくまでも自身は現場での働きをもって王家に仕えるという姿勢から、貴族社会で彼が声高に何かを主張することはなかった。
しかしそのアイザックが、こと今回の件に関しては、完全にライニールの側に立つことを明言したという。
「ラ……ライニール……」
あえぐような声で名を呼ぶオーブリーに、眉をひそめたライニールは冷ややかに言葉を返す。
「マクファーレン公爵閣下。馴れ馴れしく私の名を呼ぶのは、今後一切ご遠慮いただきます。我々があなたに望むことは、何もない。母に対する謝罪も不要です。これでも私は、魔導騎士団副団長の地位をいただいておりますのでね。公爵家の威光になど頼らずとも、ナギとともに充分満足な暮らしができるのですよ」
口先だけの謝罪など必要ない。
金銭での懐柔も、権威による圧力も、自分たちには意味がないと知るがいい。
この数分で、一気に老けこんだように見える相手を傲然と眺めながら、ライニールは思う。
(これでも、最後の温情だけはかけて差し上げているのですよ、閣下。……ナギが人前で歌えないのは、母上とあの子を捨てたアンタのせいなのだから)
ナギの聖女としての能力そのものは、歴代の聖女の平均値を遙かに凌駕している。彼女は、指先で触れるだけ、あるいはほんの数秒声を発するだけで、濁って使いものにならなくなっていた魔導鉱石を、すべて完璧に正常化してしまった。
その検体として使用された魔導鉱石は、すべて王立魔導研究所が研究材料として所有していたものだ。さまざまな測定機材を取り付けられ、検体がどのような状態であるかを確認しながらの検証実験。
ユリアーネ・フロックハートの件がなければ実施されなかったであろう、国王命令で秘密裏に行われたその実験を、ナギは単純に楽しんでいるようだった。
それまでどんよりとどす黒く濁っていた魔導鉱石が、彼女が触れるだけであっという間に透き通り、虹色の輝きを放ち出すのだ。それが、周囲の者たちにとって、どれほどの驚きであるかを知らないからこその、無邪気な反応。
研究員の指示で、彼女が「キレイになーれ」と声をかけた途端、同じ結果になったときには、手を合わせて喜んでいた。
そうして、すべての検証実験を終えたあとのこと。
データを確認しながら、検証チームのリーダーである研究員が、ぽつりと言った。
――ナギさまの力は、歴代の聖女さま方のそれとは、比べものになりません。圧倒的……異常、と申し上げてもよろしいほどの、すさまじい強さです。
――過去の聖女さま方であれば、全力での『聖歌』を二十分以上。もしくは、一時間以上の直接接触で得られる結果を、ナギさまはほんの数秒の直接接触で得てしまうのですから。
――本当に……心から、惜しく思います。
――ナギさまが、『聖歌』をお歌いになることができたなら。
――もしかしたら、地脈の乱れの根源といわれる存在すら、鎮めることができたかもしれない。
ナギは、『聖歌』を歌えない。
否、正確には、歌うだけならば可能なのだと思う。魔導騎士団第二部隊からの報告によれば、彼女がひとりで厨房を使っているときなどに、賛美歌や、まるで聞き覚えのない歌を口ずさんでいることがあるらしい。本人は無意識の行動らしいが、特に音程も問題なく、むしろ不思議なほどいつまでも聞いていたくなる歌声だったという。
それでも、ナギは孤児院で育った子どもだ。普段の様子を観察していても、彼女の持つ価値観や感覚は、ごく普通の平民のものである。
彼女は、貴族階級の子どものように、自分が誰かから守られることを、当然と受け入れられない。使用人や護衛の存在を、景色の一部のように意識から排除するなど、きっと想像することもないのだろう。
もしナギがマクファーレン公爵家で養育されていれば、他人の目を必要以上に気にせず振る舞うことは、呼吸するのと同じくらいに簡単だったはずだ。『聖歌』を歌うことだって、問題なくできただろう。
だが、魔力を持って生まれた貴族の女子であれば、必ず物心つく前から教えられている、大勢の前での歌唱技術。その訓練をまったく受けていない彼女は、兄としてだいぶ親しんでくれているライニールでさえ、そばにいると体を固くし、歌えなくなってしまう。
ごく普通の日常の中ですら、そうなのだ。そんな彼女が、『聖歌』を必要とされる現場――地脈の乱れによる影響で、いつ危険な魔獣が出現するかわからず、安全を確保するために数え切れないほどの人間が必要とされる場で、まともに歌えるわけがない。
実際のところ、ナギの肉声もまた、歴代の聖女たちのそれより遙かに効果精度が高いという検証結果が出ている。
だが、たとえ局所的な効果がどれほど絶大であろうとも、聖女が求められているのは、主に地下深くに広がる魔導鉱脈の正常化だ。より広範囲に効果を及ぼせてこそ、聖女の力は価値がある。
――ナギは、歴代の聖女たちとは比べものにならないほど高い能力を持ちながら、それを最も効果的に発動できる手段である『聖歌』を使えない。
つまり、彼女が聖女としての働きをするためには、常に対象との直接接触か、それに近い状態でいなければならない、ということだ。それがどれほどの危険と隣り合わせになるものなのか、想像するだけでひどい憂鬱に襲われる。
そして、彼女から『聖歌』を歌う訓練の機会を奪ったのは、紛れもなくオーブリー。いずれ、ナギが聖女であると公表したとき、同時にこの事実も明らかになれば、すさまじい非難がマクファーレン公爵家に集中するだろう。
(だから、今のうちにおとなしく滅んでおけよ。オトウサマ)
これが、ライニールがオーブリーにかける、最後の情けだ。
「さようなら、マクファーレン公爵閣下。あなたは、あなたの選んだ家族とともに、思う通りに生きればいい。私はナギとともに、彼女を守って生きていく。あなたが我々の人生に、二度と関わらぬことを願っています」
柔らかなほほえみとともにそう告げ、踵を返したライニールに、再びシークヴァルトからの臨時報告が入る。それを確認した途端、彼は思わず足を止めた。
(……は? ぎゃん泣きしたグレゴリーに、ナギがおれそっくりの言葉責めをしまくっていたら、いつの間にかグレゴリーがナギに懐いた? あのガキは、もしかしたら被虐趣味があるのかもしれない? ……うん、ちょっと待ってナギ。お兄ちゃん、ちょっと意味がわからない)
そんなライニールの心のぼやきを、彼の愛しい妹が聞いていたなら、彼女はきっと真顔でこう言っただろう。
――反省は少ししている。だが、まったく後悔はしていない、と。