vs マクファーレン公爵家
ライニールの背中を見送った凪は、改めて気合いを入れ直す。凪とて、これからが本番なのだ。何しろこれから向かう教室には、彼女の護衛チームだけではなく、マクファーレン公爵家の後継者どのがいらっしゃるのである。
(クラス分けの資料を見たときには、ちょっと笑っちゃったよねー。腹違いのお兄サマとやらの顔は、遠くから見られれば充分だったんだけどな)
シークヴァルトたち護衛チームが凪と同じクラスなのは、王宮からそうするようにとの通達があったからだ。その時点で、この四名の少年少女は王宮絡みで訳ありなのだと、これ以上ないほど明確に示している。
それなのに、その『訳あり』の理由として、真っ先に想像がつくだろうマクファーレン公爵家の後継者と、わざわざ同じクラスにするとは。これはいったい、どういう意図なのだろう。
(まあ、ただ単に面倒ごとの種は一カ所にまとめておいたほうが、管理しやすいってことかもしれないけど。……とりあえず、教室行こっと。あー、緊張するー)
新しい学び舎というのは、どうしても緊張するものだ。先ほどまでは『うちの兄さん、カッコよかろ? ホラホラ、カッコよかろ?』と密かにドヤっていたため、はじめての場所にいても平気だった。だが、ひとりになるとやっぱり心細さがやってくる。
そして――
「おい、きさま! ライニール・シェリンガムとはどういう関係だ! 今すぐ答えろ!」
(………………は?)
指定された教室にたどり着くなり、とんでもない大声を浴びせられた凪は、つい絶対零度の眼差しで相手を見つめてしまった。
ふわふわの明るい栗毛に、淡いグレーの大きな瞳。いかにも傲慢で、我の強そうな雰囲気を持った少年だ。男子の制服を着ていなければ女生徒と間違えたかもしれないくらいに、華奢で愛らしい顔立ちをしている。だが、そこに浮かぶ表情が可愛げもへったくれもないせいで、ものすごく憎たらしく見えた。
まるで初対面の相手に牙を剥いて威嚇してくる、茶色い毛並みの愛玩犬のようだ。まったく怖くはないが、煩わしい。躾がなっていないにもほどがある。
立ち上がってびしりと凪に人差し指を突きつけている彼の身長は、さほど凪と変わらないだろう。同い年の少年たちの中で、とびきり小柄というわけではないけれど、たくましさとは無縁の体つきだ。
凪は、あやうく舌打ちしかけた。
(いきなり何を言ってやがんだ、このクソチビ野郎。他人を指さすなって、親から教わらなかったのか、あぁん?)
猛烈にイラッとした凪は、ひとまずほかの生徒たちの邪魔にならないよう、入り口から一歩脇にどけた。そして、表情を消したまま黙って少年を見据える。
今の彼女は、文句の付けようがない超絶美少女だ。そんな美少女に、まるで汚物を見るような目を向けられた少年が、気圧されたような顔になる。勝った。
相手が勢いを失ったのを見て取った凪は、口元だけでにこりと笑う。
「わたしは、ナギ・シェリンガム。ライニール・シェリンガムは、わたしの養父です」
「養父、だと……?」
少年が、思い切り顔を顰める。
「ええ。ところで、名乗りもせず、わたしの敬愛する父を呼び捨てにした上、初対面の相手をいきなり怒鳴りつけるあなたは、いったいどこのどちらさまでしょう?」
相手の無礼さをあげつらってやると、少年の頬が一瞬で赤く染まった。
「……っぼくは、グレゴリー・メルネ・マクファーレン! マクファーレン公爵家の後継者だぞ! 男爵家の養女ごときが、生意気な口を……!」
「あら、あなたがお父さまの腹違いの弟君ですか。大変身分を笠に着たご挨拶を、どうもありがとうございます」
少年――グレゴリーの顔が、ますます赤くなる。
「き、さまぁ……っ! きさまのような見た目だけの女など、ぼくは断じて認めないからな! きさまらごときが、マクファーレン公爵家の恩恵を受けられると思うなよ!」
「お父さまが、元々マクファーレン公爵家の方だったということは、知っています。五年前に、公爵家から絶縁されたことも。今のお父さまの家族は、養女となったわたしだけです。なのになぜ、公爵家の恩恵などというお話しになるのでしょう? まったく意味がわかりません」
何言ってんだコイツ、と眉をひそめながら言い返す。グレゴリーが、鼻で笑う。
「はっ! その髪も目も、よくもまあ似たようなものを見つけてきたとは思うがな! まったく、父上に似た娘を養女にしてまでこちらの気を引こうとは、魔導騎士団の副団長が聞いて呆れる!」
「呆れるのは、こちらのほうです。見当外れの言い掛かりはやめてください」
はあ、とため息を吐いた凪は、ちらりと教室を見回した。そして――
(~~っはぁあああんっっ! 十五歳バージョンのシークヴァルトさん、やっぱり超絶カッコいいぃいいーっっ!!)
窓際の席で立ったまま、どこか驚いた顔をしているシークヴァルトの姿を目にした途端、凪は瞬時に恋する乙女モードになった。
魔導学園の男子の制服は、白地に黒と金のラインが入ったハイカラーのジャケットに、黒のパンツというスタイルだ。黒髪に金の瞳を持つシークヴァルトに、とてもとてもとてもよく似合っている。もちろん、魔導騎士団の制服姿だって大変眼福だが、この十五歳バージョンのシークヴァルトは、期間限定の超レアものだ。
(この目に! この目に録画機能が欲しい……っ!)
状況も忘れ、ウットリとシークヴァルトに見とれそうになった凪だったが、さすがに今それをしたらただのバカだ。どうにか己を立て直し、ソレイユとセイアッドがそれぞれこちらを見ていることを確認する。
すでにこの三人が教室内にいるのなら、たとえグレゴリーがキレて殴りかかってきたとしても、きっと誰かが止めてくれるだろう。
よし、と凪はうなずき、こちらをきつく睨みつけている、腹違いの兄に向けてほほえんだ。
「そのようなことをおっしゃるのでしたら、改めてご挨拶いたします。わたしは十六年前、マクファーレン公爵に不義の汚名を着せられ、離縁された元妻、レイラの娘です。ライニール・シェリンガムは、法律上はわたしの養父となっておりますけれど、血縁上は実の兄。血が繋がっているのですもの、お父さま――兄とわたしの髪と瞳が同じでも、何もおかしなことはないでしょう?」
「……な、に?」
少しフライング気味かもしれないけれど、そろそろライニールにもマクファーレン公爵家から接触がある頃だろう。グレゴリーがこの事実を知るのが、今か数時間後かの違いだけだ。
苛立ちと憤りに赤くなっていた少年の顔が、徐々に困惑に染まっていく。
くすくすと笑いながら、凪は言う。
「孤児院で育ったわたしと、兄の魔力が共鳴したときには、本当に驚きました。兄も、よほど驚いたらしくて……。わたしの手を握ったまま、全力でマクファーレン公爵を罵倒していました。当然ですよね? だって――」
指先で軽く頬に触れ、小首を傾げる。
「兄弟姉妹の魔力は、両親が同じでなければ共鳴しない。兄とわたしの魔力が共鳴したということは、わたしの父がマクファーレン公爵だということなのですもの」
「……っ!」
グレゴリーの顔が、青ざめる。凪は、ゆるりと笑みを深めた。
「ご理解いただけましたか? グレゴリー・メルネ・マクファーレン。わたしの――わたしたちの母は、不義の罪など犯してはいなかった。なのに無理矢理離縁され、実家の子爵家からも絶縁され、挙げ句身重の体で修道院へ捨てられたのです。そして、わたしを産んですぐに、母はこの世を去りました」
声もないグレゴリーを見つめながら、凪はすっと笑みを消す。
「ご安心くださいな。兄もわたしも、浅ましく卑劣な嘘つきのマクファーレン公爵を、自分の父などとは思っておりません。マクファーレン公爵家の恩恵ですって? あまり、笑わせないでいただけますか。わたしたちがマクファーレン公爵家に抱いているのは、嫌悪と侮蔑の気持ちだけ。あなたの父親は、なんの罪もないわたしたちの母を、女性として耐えがたい恥辱にまみれさせ、すべてを奪って放り捨て、見殺しにした。いつかその報いがあることを、わたしは心から願っています」
***
「ライニール。なぜ、おまえがこのような場所にいる。なんだ、あの娘は。いったいどこで拾ってきた?」
五年ぶりに聞く、父の声。
そのことになんの感慨も抱かない自分に、ライニールは少なからず驚いた。ほんの少し前までは、父の姿や声を思い出すだけで、虫唾の走る思いをしていたというのに――
(……ああ、そうか。おれはもう本当に、この人のことがどうでもよくなっているんだな)
嫌悪も憎悪も、失望も。
ライニールが、この男――オーブリー・ロッド・マクファーレン公爵に何かを期待することをやめたときに、すべてが色あせてしまったのだろう。
かつて父と呼んだ相手は、五年前にライニールのすべてを否定した。そのときは、たしかにオーブリーを憎んでいた。殺意さえ、抱いていたかもしれない。
かつてのライニールにとって、父親とは常に敬愛すべき相手であり、何があろうと必ず従うべき存在だった。生みの親に対する盲目的な愛情は、たとえ相手から愛された記憶がなくても、幼かったライニールを呪縛していたのだ。
だからこそ――オーブリーを愛していたからこそ、ライニールは彼を憎んだ。自分を捨てた父のことなど、忘れてやりたいのに忘れられない。虚しい過去に囚われることなく、前を向いて歩きたいのに、ふとした瞬間に自分の足が鉛のように重く感じる。
そんな父に対する憎しみと、一生付き合っていくものだと思っていた。
なのに今、ライニールを捨てたことなど忘れたような顔をして名を呼び、話しかけてくるオーブリーに対して、本当に何も感じない。……否、感じてはいる。ただそれは、かつて感じていたような愛憎ではない。
公爵家の当主に相応しく華やかに装ったオーブリーと、彼に寄り添いどこか勝ち誇った表情を浮かべる公爵夫人。
彼らに対し、今のライニールが感じているのは、ようやく獲物を前にした獣の歓喜だった。
入学式のあとに開かれるこのガーデンパーティーは、毎年新入生の保護者だけではなく、在学生の保護者も参加するちょっとした社交の場だ。想定通り、かなりの数の貴族たちが、豪奢に設えられた中庭へ集まってきている。
そして、彼らが最も注目しているのは、間違いなく自分たち。
香りを楽しむためだけに持っていたワインのグラスをテーブルに置き、ライニールはゆるりとほほえんだ。
「お久しぶりですね、マクファーレン公爵閣下。公爵夫人。なぜここに、と尋ねられましても……ご覧になっていたのでしたら、おわかりでしょう? 私の可愛い娘が、この魔導学園に入学したのですよ」
オーブリーが、苛立たしげに眉根を寄せる。
「娘だと? ふざけたことを言うな、ライニール」
「ふざけてなどおりませんよ、閣下。正式に養子縁組をしたのですから、あの子は間違いなくわたしの娘ですとも。魔導騎士団の任務中に、保護しましてね。聞けば、親の顔も知らない孤児だというので、引き取って私の娘にいたしました」
なんだと、とオーブリーが声を低めた。
「私の許可なく、何を勝手なことをしている」
「そちらこそ、何をおかしなことをおっしゃるのですか? 私は、とうの昔にマクファーレン公爵家から絶縁された身。私の行動に、あなたの許可など必要ありません」
楽しげに言うライニールに、オーブリーが心底不快げな顔になる。はじめて見る彼のそんな顔に、ライニールはあやうく笑み崩れそうになった。
そうそう、とライニールは公爵とその夫人を見比べる。
「私の娘と、あなた方のご子息は、どうやら同じクラスのようですよ。今頃、初対面の挨拶でもしているかもしれませんね」
「なんですって?」
思わず、というふうに口を開いたのは、公爵夫人のイザベラだ。
肩を大胆に出す真っ赤なドレスをまとった彼女は、しばらく見ない間に随分ふくよかになっていた。公爵家での贅沢の結果だろうか。痩身の夫と並ぶと、丸々とした迫力が一層際立つ。
はじめて会った頃の彼女は、やたらと強調していた胸元以外は、むしろ引き締まった体つきをしていた。人間というのは、変われば変わるものらしい。今は、こってりとした厚化粧といい、子どもの入学式に相応しいとは言えない豪華過ぎるアクセサリーといい、以前の洗練された姿がちょっと想像できないくらいだ。
ライニールが、真っ赤な酒樽みたいだな、と思っていると、イザベラが険しい声で言う。
「そのような、どこの馬の骨とも知れない娘が、わたくしの大切な息子と同じ教室にいるというのですか? なんということかしら。まさか暴力を振るったり、ひどい言葉を使ったりするような娘ではないのでしょうね?」
ライニールと彼の『娘』を貶めると同時に、平民への偏見を隠すことなく主張するイザベラに、周囲から咎める視線が向けられる。ここは、平民階級の子どもも通う魔導学園なのだ。そして、学園側は学内における子どもたちの平等を強くうたっている。
もちろん、その『平等』とは、あくまでもこの身分社会の秩序を乱さないことを前提にしたものだ。学園を卒業した瞬間に消え失せる、ひとときの夢幻。だからこそ、この学園の内部でだけは必ず守られなければならない、絶対のルール。
なんの後ろ盾も持たない平民階級の子どもたちが、貴族階級の子どもたちに怯えることなく、安心して学ぶことができるようにするために。
そんなことを、公爵夫人たるイザベラが理解していないはずもない。それでもなお、愚かなことを口にした彼女は、自分が何をしても許されると思っているのだろうか。
ここは魔導学園の中庭だ。そして、有力貴族が大勢集まっているこのガーデンパーティーには、さまざまな報道媒体の記者たちが取材に入っているというのに。
ライニールは、ゆるりとほほえんだ。
「馬の骨とは、また失礼なことをおっしゃいますね。公爵夫人。私の娘は、公爵閣下と同じ髪と瞳をした、とても美しい少女だというのに」
そう言った途端、厚化粧越しにもわかるほど、イザベラの顔が紅潮した。明るい栗毛と淡いグレーの瞳をした彼女が、夫の美しい容姿に尋常ではないほど執着していることは知っている。それなのに、彼女が生んだひとり息子は、間違いなく愛しい夫の子でありながら、その華やかな美しさを何ひとつ受け継いでいない。
どうやらそれが不満だったらしいイザベラは、幼い頃のライニールを、いつも呪い殺しそうな目で睨みつけていた。自分以外の女が産んだ子が、夫の血を色濃く受け継いでいることを、どうしても許せなかったのかもしれない。
そんな彼女の目の前に、若かりし頃の公爵に瓜二つのライニールが、彼と同じ色彩を持つ美しい少女とともに現れたのだ。冷静さを欠いた甲高い声で、イザベラが口を開く。
「不愉快ですわ! わたくしへの当てつけのために、わざわざあのような娘を養女にするなど……!」
「おや。私は、そのようなくだらないことのために、ナギを養女にしたわけではありませんよ。私はただ、あの子を堂々と守れる権利が欲しかった。そのためには、あの子を養女とするのが最も確実な手段だった。だから、そうしたまでのことです」
淡々と告げたライニールに、オーブリーが訝しげな顔になる。
「なんだ、あの娘がそれほど気に入ったのか? だとしても、おまえの養女にする必要などあるまい。適当な口約束で婚約の真似事でもしておいて、あの娘が成人したなら愛人として囲えばよかっただろう」
ライニールは、絶対零度の眼差しでオーブリーを見た。
「気持ちの悪いことをおっしゃらないでいただけますか、公爵閣下。私は、畜生ではございません。実の妹と通じるなど、死んでも御免被ります」