帝国の元皇弟殿下は、自分の命に無頓着です
凪たち十五歳組が、屋内訓練場でわちゃわちゃと交流していた頃。
アイザックの執務室では、この国に生まれた聖女の育て方について、真剣な議論が交わされていた。
「――ひとまず、王宮側の動きはすべて凍結させた。幸い、神殿側にはまだ連絡をしてなかったからね。しばらくは、あちらからの横やりが入ることはないよ」
オスワルドがゆったりとした口調でいい、腰掛けたソファで足組をする。
「それにしても、当代の我が国の聖女さまが、まさか治癒魔術の適性まで持っているとはね。聖女として生まれた者は、幼い頃は一般魔術を使えても徐々にそれが難しくなって、十五歳になる頃にはまるで使えなくなる、というのが通説なんだけど……」
幼い頃には高かった魔力適性が、成長するに連れて低下する、というケース自体は、さほど珍しいものではない。特に、聖女が生まれる世代の者には、その傾向が高かった。ユリアーネ・フロックハートも、そのひとりである。
逆に、ナギのように聖女の力を持ちながら、一般魔術の中でも特殊な治癒魔術の適性を維持しているというのは、これまでの記録上もなかったことだ。
アイザックが、ちらりとオスワルドを見た。
「ナギ嬢が聖女であることを、まだお疑いなのですか?」
「いや? きみたちを疑うくらいなら、僕は王太子の位を返上するよ」
さらりとそんなことを言い、オスワルドはうっすらとほほえんだ。
「ただ、実にありがたいと思ってる。治癒魔術を使えるのなら、彼女が聖女であることを伏せておくのが、とても楽になるからね」
通常、聖女が使えるのは、聖女固有の魔術のみ。
その認識が世間に浸透している以上、治癒魔術に高い適性を持つ彼女を見て、聖女だと想像する者はいないだろう。
「ナギ嬢を確実に守れる環境を整えられるまでは、この国で最も安全な魔導学園にいてもらうとして――兄上。一応、聞いておくけれど、マクファーレン公爵家を継ぐ気はないんだよね?」
「殿下。私が騎士養成学校を首席で卒業したのも、領地のインフラ整備に尽力して領民の生活水準を向上させたのも、当代の公爵を早期に引退させ、自分がその座に就くための陰謀の一環なのだそうですよ。どうやらあの家が求めているのは、親の言うことには何ひとつ逆らわない、木偶人形の如き後継者であるようですね。よって私は、謹んで遠慮させていただきます」
さらりと応じたライニールが、口元だけで小さく笑う。
「私の家族は、可愛い可愛い妹のナギだけです」
「うん。知ってた。知ってたけど、一応ね。ホラ、何事も確認って大事だからさ?」
はあ、と大きく息を吐き、オスワルドは面倒くさそうな表情を取り繕いもしていないシークヴァルトに視線を向けた。
「シークヴァルト。ナギ嬢がいなくなったからって、あからさまにやる気がなくなるのはどうかと思うよ?」
「はあ。……いや、今ここにオレがいる必要、ありますか?」
シークヴァルトは過酷な任務が多い魔導騎士団の中でも、群を抜いて多くの実戦経験を積んでいる。だがその反面、このルジェンダ王国の貴族社会で繰り広げられている政争には、ほとんど関わる機会がなかった。
「オレはこの国の貴族でもなければ、なんの後ろ盾もないただの騎士です。ナギのことは、これから何があろうと必ず守りますが、お膳立てをするのはその権限を持つあなた方でしょう」
「おまえねえ。いくら皇位継承権を放棄してうちに亡命してきたからって、おまえがレングラー帝国皇帝の実弟だという事実はなくならないんだよ」
呆れ返った口調で言うオスワルドに、シークヴァルトは心底いやな顔をしてみせる。
「オレはもう、あの国には――」
「今のレングラー皇帝は、とても傲慢で臆病な人間だ。おまえが生きている限り、彼が心から安心することはないだろうね」
当たり前のことを告げる口調でさらりと言われ、シークヴァルトは眉根を寄せた。
今更教えられるまでもない。そんなことは、この世界の誰よりも自分がよく知っている。たったひとりの同腹の兄を、その行動を、幼い頃からずっとそばで見てきたのだ。
そして、だからこそシークヴァルトは祖国を捨てた。
自国の栄光と、それを統べる己こそを、唯一至高のものと考える兄。
その兄が、皇族としても異常なほど高い魔力適性を持って生まれた弟を、危険因子と見なして排除することを決めたから。
それが、八年前のこと。シークヴァルトは、まだ十二歳だった。
なんの野心も持たない子どもを、過剰に恐れる兄に感じたのは、失望だったか。それとも、呆れか。少なくとも、肉親に疎まれることに対する悲しみや嘆きではなかったのはたしかだ。そんな情を感じるほど、シークヴァルトは兄と親しく触れ合ったことがない。
「……オスワルド。兄上の放った刺客に襲われ、死にかけていたオレを、ただガキの頃一緒に遊んだって理由だけで拾ってくれたおまえには、感謝している。だが、オレがあの国に関してできることは、何もない。オレの命が欲しいならいつでもくれてやるが、それ以上は求めるな」
「え? いらないよ、おまえの命なんて。友達ってのは、生きていなきゃ面白くないんだ」
口調を崩したことを咎めもせず、オスワルドが真顔で言う。
「それに、おまえが死んだらナギ嬢が泣くだろう。いい年をした男が、年下の女の子を泣かせるものじゃないよ」
「泣く……?」
ナギ。
この国に生まれた、当代の聖女。
無意識に、己の右腕を持ち上げる。つい先ほどまで、ぐるりとそこに根を張っていた汚染痕は、微熱が続いているような気怠さとともに、きれいに消えてしまった。
――なぜだろう。
彼女が泣く姿を想像しただけで、胸が痛む。
「それは、困るな」
「だろう? だからおまえは、この国でもっとしっかり自分の身を守るためにも、名前だけでもいいからさっさと貴族籍に入ろうね」
にこにこと笑って言うオスワルドを、シークヴァルトはじろりと睨んだ。
「オレは、これ以上この国に迷惑を掛けるつもりはない」
「それは間違っているよ、シークヴァルト。どちらかと言えば、これほど魔獣の討伐やら何やらで功績を挙げまくっているおまえに、なんの爵位も与えないままでいるほうが困るんだ。おまえほどではなくても、爵位を与えるに相応しい働きをした者に、正しく報いることができなくなってしまうだろう?」
いかにももっともらしいことを言いつつ、オスワルドがわざとらしくため息を吐く。そして、にやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「正直に言うとね。この国に来てから、ずっと死に急いでいるようだったおまえの生き方が、とても不快だったよ。でも今のおまえは、悪くない。せいぜい、無様に足掻いて生きるといいよ」
「なんだそれは?」
顔を顰めたシークヴァルトの胸元に、オスワルドが軽く指先を突きつける。
「死ぬ理由ばかりを探していたおまえが、生きる理由を見つけたって顔をしてる。それが僕との友情じゃないのは、少し残念だけれどね。まさかおまえが、出会ったばかりのナギ嬢を守るために、あっさりこの国から出て行こうとするとは思わなかったなあ」
からかうように言われ、シークヴァルトは目を瞠った。
「なんだ、自覚していなかったのかい? おまえが女の子に甘い顔をしているところなんて、僕ははじめて見たよ。まさか天変地異の前触れじゃないかと、少し怖くなったくらいさ」
「オレは、ただ――」
あの少女を、守る。
彼女が聖女か否かなど、関係ない。
「あいつが、うちの連中が作ったメシに見とれたときに、これからはオレが守ってやろうと決めただけだ」
アイザックに命令されたから、だけではなく。
自分自身で、守ると決めた。
そう言うと、オスワルドがものすごく複雑な表情になる。
「ええ? えっと……それってもしかして、ナギ嬢が無意識に魔術を使って、おまえを魅了したってこと?」
精神系魔術の中には、対象の己への好意を増幅させる『魅了』というものがある。あの少女が聖女の固有魔術以外も使えるのなら、それを発動させた可能性はゼロではない。
しかし、そのオスワルドの疑問に答えたのは、シークヴァルトではなかった。
「それはありえません、殿下。我が屋敷の内部では、いかなる精神系魔術もすべて無効化されますから」
アイザックの断言に、ライニールが冷え切った声で続ける。
「殿下。うちの可愛い妹に、何をおかしな疑いを掛けてくださっているんです。そもそも、シークヴァルトが『魅了』などというチンケな精神系魔術に影響されるわけがないでしょう。コイツはたったの十二歳で、レングラー皇帝が放ったありとあらゆる暗殺者を蹴散らしながら、単独で国境越えをしてきた化け物ですよ。そんな可愛げがあったなら、とうの昔に殺されているに決まっているではありませんか」
レングラー帝国とルジェンダ王国との国境は、急峻な峰が連なる山脈の稜線と、対岸が見えないほどの大河で構成されている。いずれにせよ、越えるには相当の装備と準備が必要な難所だ。
当時のシークヴァルトは、ただ死にたくないという一念で、無我夢中で真冬の山脈を越えてきた。けれど、今もう一度同じことをしろと言われたなら、黙ってその相手に対して転移魔術を発動させるだろう。危険な野生の獣がうろつく山脈のど真ん中は、さぞスリリングで楽しめるに違いない。一度行ったことがある場所ならば、どこへでも対象を転移させられる魔術は、大変便利なものだと思う。
しかし、化け物呼ばわりはさすがに傷つくぞ、と思っていると、オスワルドがへにょりと眉を下げた。
「ええー? じゃあ本当に、ナギ嬢が食事に見とれてたからってだけで? それでなんで、守ってあげたいって話しになるかなあ?」
「あいつはノルダールの孤児院にいた頃、食事には戦場用の固形携帯食か、それに類したものしか出されたことがないと言っていた」
その話は初耳の三人が、揃って固まる。
「あのときうちの連中が作ったメシは、あいつの体調を考慮してそれなりに手の込んだものだったが、決して豪華すぎる内容じゃなかった。それを、生まれてはじめて虹を見た子どもみたいな顔をして、食いもせずにずっと見とれていたんだぞ」
はあ、とシークヴァルトはため息を吐いた。
「こんなにきれいな食べ物を見たのははじめてだから、つい見とれたそうだ。さすがになんというかこう、不憫になってな。あのときはライニールの妹だなんて知らなかったし、オレくらいは無条件にコイツを守ってやりたいと思った」
「そ……そうか……。ナギ嬢、苦労したんだねえ……っ」
オスワルドが涙目になり、そのときのことを思い出したらしいライニールは完全に表情をなくしている。あのときは、まだナギが彼の妹だとわかっていなかったから、自分とは無関係な孤児の言葉として聞き流していたのかもしれない。眉間の皺が、ひどいことになっている。
「……シークヴァルト」
「なんだ?」
低く押し殺した声で、ライニールが問う。
「おまえは、これからもずっと、ナギを自分の意思で守れるか?」
「ああ」
どれほど状況が変わろうと、一度己に誓ったことを違えるつもりはない。
「オスワルドはいらないらしいから、オレの命はナギにやるよ。あいつが聖女だというなら、オレの命と人生くらい掛けて守って、ちょうどだろう」
「その気持ちには礼を言うが、命はいらん。殿下もさっき言っていただろうが。おまえが死んだら、ナギが泣く。おれの妹を守るというなら、断じてあの子を泣かせるな」
そういうものか。
わかった、とシークヴァルトがうなずくと、オスワルドとアイザックのため息が聞こえた。
「シークヴァルトって、他人の前では普通の人間みたいに振る舞えているし、実際そう見えるから気付かれにくいけどさ。ぶっちゃけ、かなりタチの悪い感じに壊れてるよねえ」
「はい……。まったく、困ったものです」
なんだか、失礼なことを言われている。別に、シークヴァルトは壊れてなどいない。
ただ、家族の誰からも必要とされず、生きる価値などないはずの自分が、いまだにこうして息をしていることが不思議なだけだ。