離縁の理由
ハゲは病気ではないとはいえ、毛髪というのは頭部を守るためにとても必要なものだ。その毛髪が老化以外の原因で失われるというのは、生き物として非常に喜ばしくないことである。大切な頭部をきちんと保護するというのは、人間が生きていく上でぜひとも維持しなければならないことだ。その喜ばしくない状態を是正する、ということであれば、ハゲは治癒や回復の対象になると凪は思う。
逆に言えば、凪の力でも生命としての当たり前の変化である、老化によるハゲには対処できないのだ。さすがにその辺りは、仕方がないことだと諦めてもらうしかあるまい。
そう言うと、六十代まではハゲの恐怖とは無縁になることが決まったふたりは、揃って小さく苦笑する。
「なるほど、承知した」
「了解だ、ナギ」
このときの凪は、知るべくもなかった。
のちに、彼女が三人と交わした約束を知った魔導騎士団の面々が、心の底から羨ましがりつつも、「ナギちゃんに、そろそろハゲそうで怖いから、ちょっと自分の毛根を助けてくださいとか……。団長たちが、そんなことを言えると思うか?」「シークヴァルトとライニールは、ナギちゃんの前で格好付けられなくなるくらいなら、死んだほうがマシってヤツらだろ。団長だって、聖女の慈悲を、そんな個人的な問題で受けられるものか、ってタイプだし。俺、全員無理なほうに全財産賭けられるわ」「それな」と、真顔でうなずき合うことを。
その後、凪が彼らに「え? 魔導騎士団のみなさんでしたら、毛根の救済くらい、いつでもタダで受け付けますよ」と宣言し、即座に手を挙げた団員の頭髪が見事に復活したことで、騎士団の士気が天元突破の勢いで上昇することを。
――ハゲの恐怖からの解放。
それは、ルジェンダ王国魔導騎士団が聖女ナギに捧げる忠誠の、最大の柱のひとつとなったのだが――その事実が外部の者たちに知られることは、終ぞなかったのである。
「ところで、結局わたしはライニールさんのことを、お兄ちゃんとお父さんとお父さまの、どれで呼べばいいんでしょう?」
「む……。やはり、公の場ではお父さま、だろうね。実際の血縁関係はどうあれ、ライニールはきみの養父となるのだから」
「普段は、ライニールが呼ばれたいように呼んでやったらどうだ?」
なるほど、と凪はうなずいた。
「そうですね。ライニールさんが戻ったら、聞いてみることに――」
「ただいま戻りました。団長、こちらがナギと自分の養子縁組証明書類の控えです。ただいま、ナギ。今日からおれは法律上きみの養父になったけれど、普段は『兄さん』、公の場では『お父さま』、ふたりきりのときは『お兄ちゃん』と呼んでくれると嬉しいな」
開け放っていた窓からふわりと室内に舞い降りたライニールは、アイザックに書類を差し出すなり凪を抱き上げ、ものすごくゴージャスなキラキラしい笑みを浮かべてそう言った。一時間どころか三十分もせず帰ってきた彼は、どうやら兄としての呼称について、ひとつに絞ることができなかったらしい。
役場でどれだけ無茶ぶりをしてきたんだろう、と若干引きつつ、凪は新たに家族となった『兄』に答えた。
「お……お帰りなさい。えっと……兄さん?」
一瞬の沈黙。
「……っおれの! 妹が! こんなに可愛いぃいいいっっ!!」
「落ち着け、バカ野郎。ナギがどん引きしているだろう」
ものすごく既視感を感じるツッコミとともに、シークヴァルトがライニールの頭を再び殴る。しかし、ライニールは凪を離すことなく、シークヴァルトを睨みつけた。
「シークヴァルト。おまえがナギの護衛を務めることについては、仕方がないから一応、非常に不本意だが認めてやる。だが、今後ナギに不要な接触をしたとおれが判断した場合、おまえの恥ずかしい秘密をナギに事細かに教えてやるから、そのつもりでいろ」
「団長! ライニールが本当にバカになったぞ!?」
残念ながら、ここはシークヴァルトの言う通りだと思う。アイザックが書類を確認しつつ、小さな苦笑を浮かべる。
「しばらくの間は許してやれ、シークヴァルト。ライニールは成人してからというもの、ナギ嬢を――彼の母君がお産みになった『胤違いの妹』を、ずっと探していたのだからな」
「……団長」
ライニールが、思い切り顔をしかめてアイザックを見た。そんな部下の様子をまったく意に介した様子もなく、魔導騎士団の団長は続けて言う。
「だが、こうして見つかってみれば、ナギ嬢は紛れもなく、まったく同じ血を分けた妹だったのだ。ライニールの情緒が多少不安定になっても、仕方があるまい」
「団長っ」
情緒不安定呼ばわりされたライニールの頬が、赤くなる。彼はどうやら、十六年前に離縁された母親が産んだのは、彼女の不貞相手との子だと思っていたようだ。その当時幼い子どもだった彼が、周囲の大人たちからそう教えられていたのでは、仕方があるまい。むしろ、よく彼自身が母親に捨てられたと誤解し、恨まなかったものである。
「たとえ父親が違っても、母君が産んだ娘であるなら間違いなく自分の妹なのだから、どうにかして見つけて助けてやりたい、と言ってね。……妹君が見つかって、本当によかった。おめでとう、ライニール」
「……ありがとう、ございます」
ライニールの声と腕が、震えている。
(あ……そっか。きっとライニールさんは、お母さんのことが大好きだったんだ)
母親が不貞を犯し、その結果離縁され、自分のそばからいなくなったと教えられてもなお、遺された『妹』を助けたいと望むほどに。
(お父さんのことは、クソハゲオヤジ呼ばわりだもんねえ。なんか、めちゃくちゃ仲が悪そう。ていうか、わたしが、なんだっけ……マクファーレン公爵? の娘だったってことは、お母さんの不貞疑惑は本当に冤罪だった、って証明されたわけだよね。……うわあ、そりゃライニールさんも荒れるはずだよ)
この件については、凪とて他人事ではないのだ。素朴な疑問を、同じく当事者であるライニールに向ける。
「あの、兄さん。マクファーレン公爵は、なんでそんなひどい嘘を吐いてまで、お母さんと離縁したがったんですか?」
ライニールの顔から、すっと表情が落ちた。怖い。
「マクファーレン公爵は、母と離縁したあと、すぐに今の公爵夫人と結婚している」
「……ほほう」
それは、あれか。愛人を正妻の座につけるために、邪魔になった妻に冤罪を着せて追い出した、ということか。
「その公爵夫人は、嫁いでから三ヶ月後に男児を産んだ」
「……は?」
目を見開いた凪に、ライニールはため息交じりに低く告げた。
「きみが生まれる、二ヶ月前のことだ。きみにとっては、腹違いの兄になるな。そいつが、今のマクファーレン公爵家の後継だ」
「……なるほど。マクファーレン公爵の愛人さんに子どもができちゃったから、その子どもが生まれる前に急いでお母さんと離縁したけど、そのときお母さんのお腹の中にはわたしがいた、と。なるほど、なるほど」
うんうんとうなずき、凪はにこりとほほえんだ。
「兄さん。わたしは、マクファーレン公爵が大嫌いになりました」
「そうか、奇遇だな。おれも、あの節操なしで浅はかでいい加減で、顔以外に取り柄のないゲス野郎が、世界で一番大嫌いだ。あいつがあの女の産んだ能なしを自分の後継にすると言うから、喜んであの家から除籍されたんだが、本当によかったよ。そのお陰で、おれの家族は可愛い可愛い妹のきみだけだ」
「わあ、嬉しい。わたしの家族も、こんなに格好よくて優しい兄さんだけってことですね!」
アハハウフフと笑い合う兄妹に、シークヴァルトが胡乱な目を向ける。
「おい、ライニール。妹との親睦を深めるのは結構だが、まさかナギがこの国の聖女だってことを、忘れているわけじゃないよな?」
「……あ」
ライニールが、固まった。
「忘れてたのかよ!」
「いや、忘れていたわけじゃない。ただちょっと、おれの天使が聖女だったという事実が尊すぎて、うっかり気絶しないように意識の外へ追いやっていただけだ」
(……うわぁ)