お兄ちゃんの○○は、わたしが守る!
それからライニールは、凪との養子縁組の申請をするべく、ここレディントン・コートから一番近い役場に飛んでいった。この部屋の窓から、風避けの魔導具であるマントとゴーグルを装備するなり、文字通り身ひとつで飛んでいったのだ。凪は改めて、ここは不思議な世界なんだなあ、と実感する。
この国では、魔力のある人間はその波長で個人登録をするそうだ。魔力の波長を記録する魔導具だという、キャッシュカードサイズの透明なカードに触れると、淡く光って反応したのが面白かった。ライニールがそのカードを持っていくことで、まず孤児である凪の個人登録をして、その上で彼との養子縁組を申請するらしい。
本来ならば、それらの手続きのためには凪自身も役所へ直接赴く必要があるのだが、未成年の孤児の場合は、社会的に信頼できる者のサインがあれば問題なく通るのだとか。ちなみに、今回そのサインをしてくれたのは、伯爵さまであるアイザックである。
「まあ、ナギ嬢が孤児である以上、聖女であることを公表すれば、どこかの貴族家との養子縁組を望まれるのは、避けられない事態だったからね。ライニールならば、身分は男爵位とはいえ、我が魔導騎士団の副団長。面と向かって彼に文句を言える者など、公爵家の中にもそうそういないから安心したまえ」
(……どうしよう。公爵とか男爵とか、そういうシャクシャクしているのが貴族なんだろうなーっていうのはわかるんだけど、ぶっちゃけそれしかわかりません)
凪は男爵いもで作った肉じゃがが好物なので、なんとなく男爵という響きには親しみがある。だが、話の流れからして、きっと男爵より公爵のほうがエラいのだろう。じゃがいもよりエラいシャクシャクしている野菜となると、何になるのか――
「ナギ嬢? どうかしたかね?」
「じゃがいもは、野菜界の最強王者だと思います」
シークヴァルトが、真顔で凪の額に触れてきた。
「熱は、ないな」
「すみません、間違えました」
ひとつ、深呼吸。
「まさか、いきなりお兄ちゃんができるとは思わなかったもので……」
「……まあ、そうだろうな」
ものすごく複雑な表情を浮かべているのは、アイザックとシークヴァルトだけでなく、きっと凪自身もなのだろう。
再びソファに戻った凪は、少し考えてからふたりに問いかける。
「ライニールさんとわたしが養子縁組をするんだったら、あの人のことはお父さんと呼んだほうがいいんでしょうか?」
素朴な疑問だったのだが、ふたりはますます複雑怪奇な表情になった。アイザックが、ライニールが飛んでいった窓のほうを見る。
「まあ……そうだね。対外的には、お父さん……いや、お父さま、と呼んだほうがいいのだろうが……」
「……それはそれでアリ、なのかもしれんが……。あいつ、ナギからのお兄ちゃん呼びで、完全に新しい扉を開いてたからなあ……」
シークヴァルトが、なんだか怖いことを言い出した。その新しい扉というのは、いったいどこへ繋がっている扉なのか――
(あ。そういえば今のわたし、金髪碧眼の超絶美少女じゃん。こんな天使の羽根がめっちゃ似合うプリティフェイスで『お兄ちゃん』なんて呼ばれたら、そりゃあシスコン街道への扉が地響き立てる勢いで開きますわ。むしろ、扉が吹っ飛ぶやつだわ)
思い切り納得したところで、少し気になっていたことを聞いてみることにする。
「ライニールさんのお父さんって、ハゲているんですか?」
先ほどシャウトした際、ライニールは父親のことをクソハゲオヤジと言っていた。父親がハゲているのなら、ライニールの将来も少々不安になってくる。場合によっては、凪の持つ不思議パワーで、彼の毛根を死守せねばなるまい。
そんな悲壮な決意とともに尋ねたというのに、アイザックもシークヴァルトも、笑いと呆れが混じり合ったような顔で見返してきた。ひとつ咳払いをして、アイザックが口を開く。
「……いや、当代マクファーレン公爵閣下は、四十代となってもいまだに社交界の女性たちから熱狂的な支持を集めている、素晴らしい美貌の持ち主だ。二十年後のライニールはきっとああなるに違いない、という御仁だよ」
「そうなんですか。ライニールさんが将来ハゲそうになったら、わたしの聖女パワーで毛根を守って差し上げようと思っていたのですが……。ハゲオヤジというのは、ただの暴言だったんですね。よかったです」
ほっと胸をなで下ろしていると、何やら室内の空気に緊張が走った。いったい何事、と姿勢を正すと、シークヴァルトがひどく真剣な面持ちで見つめてくる。
「ナギ。その……聖女ってのは、ハゲた男の頭皮まで救済できるものなのか?」
「え? だってわたしって、致命傷を負っても復活できるくらいの、不思議パワーが……あれ、それって聖女かどうかとは関係ないんでしたっけ?」
我が事ながら、ちょっと頭が混乱してきた。アイザックが、ぼそぼそと言う。
「……きみが、自身が負った致命傷から回復できたのは、きみが聖女でありながら高度な治癒魔術も使えるという、非常に希有な存在だからだ。先ほども言ったが、聖女というのは通常、その固有魔術しか使うことはできないのだよ」
「あ、そうか。そうでしたね。でも、心臓をざっくり刺された状態から完全回復できるくらいの治癒魔術? を使えるんだったら、しょんぼりした毛根くらいは元気に復活させられるんじゃないですかね」
心臓に比べたら、毛根など小さなものだ。多少数があっても、元気がなくなってきた毛根を元気にするくらいのことは可能だと思う。言葉では説明しにくいのだが、感覚的に『それはできることだ』という確信が凪にはあった。
野を駆ける獣たちが誰に教わらずとも走り出すように、あるいは空を飛ぶ鳥たちが自ら翼を広げるように。
凪の中にある膨大な力は、彼女が求めるときをただ静かに待っている。
もちろん、その力を上手く使いこなすためには、それなりの訓練は必要だろう。だが、今の自分にできること、できないことというのは、生き物としての本能的な部分で、凪はすでに理解していた。
そして、『なんらかの要因で損なわれた人体を、本来あるべき状態に戻すこと』は、彼女にとってすでに経験した『できること』に分類されている。
「わたし、自分のお兄ちゃんがハゲているのは、ちょっとイヤですし。いえ、ライニールさんはきっとハゲても格好いいと思いますし、ご本人がそれをよしとするなら、もちろん余計な手出しをするつもりはないんです。でも将来的に、もしライニールさんがお望みになるのであれば、わたしは全力であの人の毛根を守ります!」
なんといっても、ライニールは凪にとって、この世界で唯一の身内なのだ。身勝手な話しかもしれないけれど、元の世界の家族に何も恩返しできなかったぶん、彼には家族としてできる限りのことをしてあげたい。
ふん! と両手の拳に気合いを入れた凪は、そこで目の前にいる自分の恩人たちのことを思い出した。
「アイザックさんと、シークヴァルトさんは、どうですか? もし将来ハゲになるのがいやでしたら、いつでも言ってくださいね。わたし、受けたご恩は倍返しする派なので、いつでも対処させてもらいます」
「……そ、そうか。感謝する、ナギ嬢」
「……ああ。万が一のときは、よろしく頼む」
その微妙な反応に、凪は不安になって首を傾げる。
「あの、ひょっとしてこの国にはもう、ハゲの特効薬ってあったりします? わたし、余計なお世話な感じでしたか?」
元の世界では、ハゲに確実に効く特効薬なるものは、まだ開発されていなかったと思う。いや、もしかしたら凪が知らないだけで存在していたのかもしれないけれど、少なくともカツラや植毛の宣伝があれだけされていたということは、まだまだ一般的なものではなかったのだろう。
しかし、ここは魔力がものを言う不思議な世界だ。もしかしたら、すでにこの世界の人類は、ハゲの恐怖から解放されていたのかもしれない。だとしたら、凪の決意はまったくもって無駄だったということになる。
しかし、アイザックとシークヴァルトは、ひどく慌てた様子で凪の懸念を否定した。
「いや! そんなものは、存在しない。ナギ嬢の心遣いには、本当に感謝しているとも!」
「そうだぞ、ナギ! ただちょっと、治癒魔術でそんなことができるとは思っていなくて、驚いただけだ!」
「そうなんですね。よかったです」
自分が見当違いのことを言っていなかったとわかって、凪はほっと息を吐く。そして、慌てて付け加えた。
「ああでも、すみません。加齢による抜け毛には、さすがに対処ができませんので……。えっと、年齢制限は七十歳まででお願いします」
凪の治癒魔術は、毛根を救済できるレベルです。