汚染痕
彼のシンデレラだって、継母がやってくるまでは、普通に裕福な貴族のひとり娘だったのだ。幼い頃からそれなりの教育はされていただろうし、舞踏会に飛び入り参加して、婚活中の王子さまと踊れるくらいの度胸やスキルは持っていた。
あの物語がめでたしめでたしで終わっているのは、主題となっているのが身分違いの恋などではなく、スカッとざまぁをスパイスとした玉の輿だったからだ。
元の世界でシンデレラストーリーに乗っかった庶民出の女性たちだって、そもそもが王族の男性と出会えるような富裕層や、素晴らしい美貌と教養の持ち主ばかり。そんな彼女たちでさえ、とんでもない苦労と努力をしているのだ。
なのに、混じりっけなし純度百パーセント果汁の庶民である凪が、聖女であるという一事のみをもって王族に嫁いだりしたら、いったいどんな恐ろしいストレス地獄が待ち受けていることか。想像するだけで、胃が『あ、それ無理ッス』と白旗を揚げている。
「おおおおお落ち着いてくれたまえ、ナギ嬢! 慣例は慣例であって、断じて義務ではないのだ! そう、たしか歴代の聖女の中には、王族との婚姻を結ばなかった方もいらしたはずだ!」
「そそそそそうだぞ、ナギ! この大陸に、聖女に無理強いできる人間なんていないんだから、おまえがイヤだと言えばそれまでだ!」
つられたように立ち上がったアイザックとシークヴァルトが、真っ青になって言い募ってきた。彼らの言葉に少し安心したものの、やたらと上背のあるふたりに見下ろされた挙げ句ににじり寄られると、プレッシャーがハンパではない。
むぅ、と顔をしかめた凪は、ひとまず再びソファに腰を下ろした。
「それなら、いいですけど。……って、あれ?」
王族との婚姻、というフレーズで、何かが凪の意識に引っかかる。なんだろうな、としばし考え、ふと小さな可能性を思いついた。その疑問を、大きく息を吐いて席についた男性陣に向ける。
「あの、さっき聞いたユリアーネ・フロックハートさんの捨て台詞の中に、自分を愛さなかった王子さまともどもみんな死んでしまえー、みたいな、お花畑な脳みそが根腐れしてるんじゃないか疑惑が甚だしいフレーズがありましたよね?」
アイザックが顔を引きつらせ、シークヴァルトが半笑いでうなずく。
「ああ、そうだったな。それがどうかしたか?」
「ひょっとしてユリアーネ・フロックハートさんって、聖女なら王子さまのお嫁さんになれるからって、本物の聖女だったわたしを隠して、自分が聖女のフリをしちゃったんですか?」
――沈黙。
ややしばらく重苦しいそれが続いたあと、アイザックが口を開く。
「詳しい事情聴取は、これからだが……。いくらなんでも、そのようなばかばかしい理由で聖女を騙るなど……」
「ユリアーネ・フロックハートさんはおバカさんだから、聖女でもないのに聖女のフリをしていたんですよね。だったら、彼女がそんなことをした理由がどれだけばかばかしくても、不思議はないと思います」
証明終了、Q・E・D。
「なんと……っ」
アイザックが、ものすごく衝撃を受けている。きっと、根がものすごく真面目な人なのだろう。
「まあ、ぶっちゃけ理由とかはどうでもいいんですけどね。少なくとも、わたしはユリアーネ・フロックハートさんに協力してた、白い魔導士に殺されかけてるんです。それから、わたしの記憶にある、泣きぼくろのある金髪美人さんがユリアーネ・フロックハートさんなら、彼女には顔を殴られてるんですよ」
凪は、にこりとアイザックに笑いかけた。
「暴行傷害、殺人未遂。今思い出せるだけでも相当ですけど、まだまだ余罪はありそうですよねえ」
少なくとも、未成年者略取誘拐、脅迫、監禁辺りは普通にされていそうだ。これからその当時のことを思い出したとき、またケロケロ吐くようなことにならなければいいのだが――まあ、それでリオを傷つけた連中の情報がわかるのなら、安いものだ。
今の凪にとって最優先なのは、あくまでもリオを殺した者たちへの報復である。まずは、そのために必要な最強のカードを、確実に自分のものにしなければならない。
「アイザックさん。わたしは、喧嘩を売られて泣き寝入りするなんて、まっぴらごめんなんですよ。わたしは、わたしを殺そうとした連中を許しません。なので、わたしが聖女だって証明できるところに、連れていってもらえませんか?」
「……ナギ嬢?」
今の凪が聖女であるのは、世界の管理者とやらのお墨付きである。これでそうではなかったら、凪が生まれ育った世界のすべてを奪われた意味がなくなってしまう。それこそ、絶対に許せないことだ。世界の管理者とやらに、鼻フックを決めてもいいレベルである。
とはいえ、この国の聖女判定システムは、一度ユリアーネ・フロックハートというニセモノを本物と認定しているため、信用性がいまひとつだ。これは万が一ということもあるかもしれないな、と思いつつ凪は続ける。
「もしわたしが本当に聖女だったら、王族に準拠する扱いになるんですよね。だったら、捕まったユリアーネ・フロックハートさんたちにも、面会できるんじゃないでしょうか。彼女に殴られたぶん、きっちり殴り返した上で、慰謝料を請求したいです」
「それはやめておきたまえ。きみの手が傷んでしまう」
アイザックに、真顔で返された。一瞬、そんなきれいごとは結構です! と言い返しかけたけれど、彼が真面目に真剣に、凪を気遣って言っているのがわかってしまうのだ。未熟な若者には、どうにも反抗しにくい御仁である。
そこで、片手を挙げたシークヴァルトが口を開いた。
「あのな、ナギ。おまえは、本当に聖女だよ」
「……どうして、そう言い切れるんですか?」
思わず、胡散臭いものを見る目をしてしまう。シークヴァルトは小さく苦笑し、おもむろに袖をまくりあげた腕を差し出してきた。
「オレもたった今確認して、わかったんだけどな。――見ろ」
そう言って彼が示したのは、しなやかに引き締まった彼の腕だ。大変眼福ではあるけれど、それだけである。
「……素敵に鍛えられた腕ですね」
「そりゃどうも。ただこの腕は、ついさっきまでは団長みたいな感じだったんだ」
団長みたいな、というところで視線で促され、アイザックのほうを見た凪は息を呑んで硬直した。
シークヴァルトと同じく制服の袖をまくりあげ、剥き出しになった彼の腕。そのびっくりするほど太く立派な腕には、大小の鱗のようにも、ひび割れのようにも見える黒いシミが、禍々しく巻き付くように広がっていた。
アイザックが、生真面目な顔をして軽く頭を下げる。
「見苦しいものを申し訳ない、ナギ嬢。この黒いまだらは汚染痕といって、凶暴化した魔獣との接触が多い魔導士の皮膚に浮かび上がるものなのだ。我々魔導騎士団は設立以来、常に魔獣の討伐に従事しているものでね。こうして、その影響を強く受けてしまう」
「い……痛く、ないんですか?」
あまりの痛ましさに、声が震えた。
「痛みは、特にないのだがね。あまりにこの汚染痕が広がると、魔力のコントロールがひどく難しくなってしまう。そのため、魔獣の討伐に従事する魔導士たちは、聖女に汚染痕を消してもらう機会がなければ、最終的に魔力が暴走して自壊するか、その前に処分されることになるのだよ」
「自壊……? 処分……って……」
青ざめた凪の手を、シークヴァルトが軽く掴んだ。驚く間もなく、その手をひょい、とアイザックの手にのせられる。相手の体温が伝わるのと同時に、彼の腕に広がっていた黒いシミが、まるで幻だったかのように消え失せた。
「なん、と……」
(……えぇー)
たった今まで感じていた、足下から崩れていくような恐怖は、いったいなんだったのだろうか。なんだか、ものすごく盛大な肩すかしを食らった気分だ。
アイザックの腕を見たまま固まった凪を、シークヴァルトが抱きしめる。
「すっっげえな、ナギ! こんなにすぐ消えるモンなのかよ! 団長! 体の具合はどうだ!? 魔力の調子は!?」
「……どちらも、すこぶる快調だ」
自分の腕から指先までをまじまじと眺めていたアイザックが、突然ぶん! とその腕を振り上げた。シークヴァルトの顎を下から狙った拳が、空を切る。
瞬時に凪から離れ、のけぞることでその凶器レベルの拳を躱したシークヴァルトが、青ざめた顔でくわっと喚く。
「いきなり何すんだ、団長!?」
「年頃の女性に気安く抱きつくな、大バカ者! ――大変申し訳ない、ナギ嬢。のちほど厳しく言い含めておくので、部下の非礼を許していただけるだろうか?」
「……ハイ。大丈夫デス」
前触れなく超絶イケメンに抱きしめられ、それまでとは違う意味で固まっていた凪は、どうにかカクカクとうなずいた。黙っていると寡黙そうに見えるシークヴァルトは、意外とテンションが上がりやすいタイプなのかもしれない。
「あー……。悪かったな、ナギ。すまん。まさか、こんなに一瞬で汚染痕が消えるとは思っていなかったもんだから、つい嬉しくてな」
「……今後ハ、ゼヒ気ヲツケテクダサイ」
イケメンという人種は、まったく悪気なく、かつ大変軽やかに乙女の心臓を止めにくるので、あまり護衛には向いていないと思う。




