母の教えは大切に
ただ、この人生設計は、これから凪が聖女としてガンガン働き、がっぽがっぽ稼ぐことが大前提だ。それと平行して、犬の育て方や躾け方だってきちんと学ばなければならないし、信頼できる獣医だって見つけておかなければならない。
大型犬はたくさん運動が必要と聞いているから、家は小さいほうが掃除が楽でいいけれど、庭は広ければ広いほどいいだろう。ひとり暮らしで犬を家族としてお迎えするからには、最期まで看取って号泣する覚悟はもちろんとして、自分に何かあったときに、愛情をもって引き取ってくれる場所を確保しておく必要もある。
(これは聖女業で稼ぎまくって、老犬ホーム的なものを設立するしかないか……。わたし自身も、この世界に老人介護施設がなかったら、完全に孤独死コースまっしぐらだな。これも全部、リオを殺したあほたんちんのせいだよね。よーし、慰謝料ガッツリふんだくるぞーう)
お金さえあれば、個人的に老後の世話をしてくれるプロを頼むことも可能だろう。凪は中学生になったときに、母から『お父さんもお母さんも、老後のケアは絶対にプロに頼む予定なの。その資金も地道にコツコツ貯めているから、あんたもお兄ちゃんも、何も心配することはないんだからね』と言い含められている。
そんな母は、父方の祖母に『介護は嫁の仕事でしょう!』と言われたとき、即座に『嫁に介護の義務はありません!』と言い返したこともある、とてもしっかりした人だ。
――そりゃあ、お父さんだけで手が回らないことがあれば、できる限り手伝うわよ。お父さんが困っていたら、助けてあげたいもの。
だけど、『長男の嫁だから』って、介護を丸投げされるなんて絶対無理。いまだにいるのよねえ、妻を夫側の人間にとって都合のいい、無料の労働力だと思っている旧時代の干物が。
今時の子たちは、その辺もちゃんと教育されているんだろうけど、古くさい価値観に縛られている人たちっていうのは、どうしてもいるからね。
凪も、恋人なら一緒にいて楽しい、好きだなって気持ちだけで選んでもいいと思うけど、結婚相手となると話しは別よ? 妻より親を優先するような男だけは、絶対にダメ。親離れのできないボクちゃんに、自分の子どもを作る資格はないの。
うちのお父さんみたいに、『俺の選んだ妻に理不尽な文句を言うのなら、二度と親とは思わない』くらいのことは、当たり前に言える男性にしておきなさいね。
今から思えば、あれは娘への教育的指導に見せかけたノロケだったのだろうか。凪の両親は、いい年をしていまだに休みの日にはいそいそとデートに出かけていく、バカップルがそのまま完熟したような夫婦なのだ。
そんな母から、しばしば老後の備えの大切さについて聞かされていた凪は、いずれ余裕ができたなら、この国の介護福祉状況について調べておこう、と決意する。基本的な行政サービスの状況次第で、老後に必要な資金は格段に差が出てくるはずだ。
リオがたった十五歳で殺されたこの世界で、絶対に平穏で幸せな老後を過ごしてやる。笑って大往生をして――死んだあとに本当に魂が流転するというのなら、またあの両親の娘として、あの兄の妹として生まれられたらいいと思う。
そこまで考えたとき、軽いノックの音がした。次いで、扉の向こうからソレイユの声が聞こえてくる。
「ナギちゃん、起きてる?」
「あ、はい! 起きてます!」
あれからどれだけ時間が経ったのかはわからないけれど、窓の外はまだまだ明るい。慌てて扉を開くと、どこか緊張した面持ちのソレイユが立っていた。彼女は、凪がすでに着替えているのを見て、ほっとしたようだ。
「よかった。ちょっとナギちゃんに聞きたいことがあるみたいで、団長が呼んでるんだ。いいかな?」
「はい、もちろんです」
ちょうど凪も、ここの責任者であるアイザックに聞きたいことがあった。いくら今後『職業・聖女』でガッツリ稼ぐつもりであっても、そもそもこの国の人々に聖女として認めてもらわなければ、ただの宝の持ち腐れである。だからといって、ただの孤児がいきなり「我、聖女ぞ?」と言ったところで、誰からも信じてもらえるわけがない。
先ほど聞いた話からして、どうやらこの国には聖女認定の儀なるものがあるようだ。ならば、まずはそこを目指すべきだろう。貴族であり、騎士団長という役職を得ているアイザックなら、その辺りのことにもきっと詳しいはずだ。
しかし、アイザックが凪に尋ねたいことというのはなんだろう。残念ながら、今のところ凪が持っているリオの記憶は、幼い頃から見続けてきた夢のぶんと、ついさっき甦った殺されたときの記憶だけだ。何か聞かれたところで、答えられる自信などないのだが――と首を傾げつつ、先ほどの部屋に案内される。
「失礼します。ナギちゃんを連れてきました」
「ああ、入れ」
ソレイユに促されて中に入ると、室内にいたのはアイザックとシークヴァルトだけだった。テーブルの上に広げられていた光る地図も、どこかに片付けられている。ソレイユはほかにやることがあるのか、一緒に入室してはこなかった。
ぺこりとふたりに会釈すると、ふと眉をひそめたシークヴァルトが近づいてきた。
「まだ、顔色が悪いな。ちゃんと眠れなかったのか?」
「いえ。ふかふかのベッドは、とっても寝心地がよかったです。ありがとうございました」
いい匂いのするイケメンに、「ちょっとトイレでケロケロしてました」と言えるほど、凪の羞恥心は死んでいない。ここは、笑ってごまかしておこう。とりあえず、男らしくも美麗すぎる顔面の圧がひどいので、イケメンは少し離れていていただきたい。
ケロケロのニオイが残っていたらどうしよう、と思っていると、再びソファに座るよう勧められた。正面がアイザックなのは先ほどと同じだが、シークヴァルトは凪の隣ではなく、ソファの背後に立っている。距離感は変わらなくても、姿が見えないだけで緊張感はだいぶ減った。
「お休みのところを呼び立ててしまい、申し訳ない。ナギ嬢。実は先ほど、ユリアーネ・フロックハートの捜索に参加していた王立魔導研究所の担当者から、彼女の居場所を発見したと報告があってね。こちらの第二部隊が現場に向かい、無事に彼女の身柄を確保した」
突然、これ以上ない朗報を聞かされた凪は、一瞬自分が耳にした言葉を信じられず、ぽかんとした。
「それ……本当ですか?」
「ああ。詳しいことは、今後の調査で明らかになるだろうが、本人確認は済んでいる。彼女に助力していた魔導士一名とともに拘束したのち、王宮に連行したのだがね。そのときの彼らの発言の中に――」
魔導士。
それは、あの白い姿をした男のことか。
何か言いかけたアイザックを遮り、問いかける。
「その魔導士って、白い髪に赤い目をした、お人形みたいな顔の男の人ですか?」
アイザックの目が、驚いたように見開かれる。
「その通りだ。きみはあの魔導士のことを、知っているのかね?」
知っているも何も、だ。
は、と吐息とも笑い声ともつかないものが、喉を震わせる。
「……わかり、ません。まだ、全部を思い出したわけじゃないので。ただ――」
頭が痛い。
目眩がする。
「い……っ」
ずきん、と鋭く凪を襲った頭痛に、悲鳴を上げて頭を抱える。
「ナギ!?」
シークヴァルトの声。彼のにおい。
瞬くと、目の前に黒い服に包まれた腕があった。くずおれかけた体を、強い力で引き寄せられる。頭痛に苛まれる凪の耳元に、吐息が触れた。
「……ゆっくり、息をしろ。そう……ゆっくりでいい。そう、上手だ」
そのとき、意識の揺らぎかけた凪の脳裏には、こちらを蔑むように見下ろしてくる金髪碧眼の女の姿や、その女に平手打ちをされる記憶。そして、とろけそうな顔でその女に寄り添う、あの白い魔導士の姿などが、断続的に浮かび上がってきていたのだが――
(ひえ、ひょ、いぃいゃあぁああーっ! リオの記憶が甦るなら、もうちょっと空気を読んで、時と場合と状況を考えてください! 超絶イケメンにぎゅーされて、優しく背中ぽんぽんの頭なでなでは、オーバーキルが過ぎますぅううううーっっ!!)
決して愉快ではない記憶が甦る衝撃と、まったく逆方向からの強烈過ぎる衝撃に、遠のきかけていた凪の意識が戻ってくる。いっそ気絶してしまいたいと思うのに、耳元で優しく囁く声に全身がぞわぞわしてそれどころではない。
「ふ……ぅ……っ」
「……うん。いい子だ」
(うっっひぃいいいいいっっ!!)
少し掠れたシークヴァルトの声は、大変セクシーダイナマイツであった。耳から妊娠するかと思った。