喪失と決意
泣きながら、目を覚ます。
ぎこちなく腕を持ち上げれば、透けるような白い肌。桜貝のような爪と、細い手指。
(夢じゃ……なかったんだ)
ひどい喪失感に、呼吸をするたびギシギシと胸が軋んだ。
眠りに落ちる前のように、これは夢だと現実逃避をしてもいいはずなのに、引き攣れるような胸の痛みがそれを許さない。
(お父さん……お母さん、お兄ちゃん……)
もう、会えない。
凪の大切な家族に、この手は二度と届かないのだと、なぜだか理解してしまう。
あの兄の姿をした人でなしが語っていた言葉は、すべて疑いようのない真実なのだと、凪はすでに受け入れてしまっていた。
悲しい。苦しい。辛くて、寂しい。……怖い。
凪が本来いるべき場所から、突然こんな世界へ連れてこられたのは、聖女であるリオが殺されたからなのだという。人々から愛されるために生まれてきたようなリオならば、たしかに聖女の名に相応しい振る舞いができたに違いない。
なのに、彼女は殺された。
(……ふざけんな)
そのリオを利用した挙げ句、殺した者。
聖女を騙った女、ユリアーネ・フロックハート。
なぜ彼女は、本物の聖女であるリオをただ捨てるのではなく、殺したのだろう。リオを無傷で差し出せば、死罪だけは免れたかもしれないというのに。
じくじくと、空っぽになった胸が疼痛を訴える。
ユリアーネ・フロックハートがリオを殺さなければ、リオはきっと正しく聖女として保護され、人々から歓喜とともに迎えられていた。凪だって、家族との平和な日常を失わずに済んだ。
(許さない)
兄の姿をした人でなし――世界の管理者とやらは、これから凪が聖女として生きようが生きまいが、どちらでも構わないと言っていた。凪としても、正直そんな面倒くさいことはしたくない。
今の凪が心から望んでいるのは、リオを殺した者たちすべてに、その罪を償わせることだ。
(絶対に、後悔させてやる)
凪とリオが、それまで大切にしていたすべてを奪われたように、連中からすべてを奪ってみせる。
この世界に、神は存在していないと聞いた。ならば、神の赦しなど必要ない。誰に認めてもらう理由もない。ただ、凪自身が許せない。絶対に、絶対に、許さない。
どろどろとした怒りの熱に炙られ、冷え切っていた心臓から全身に灼熱が広がる。
「う……」
体を起した瞬間、ズキリと頭が痛んだ。その途端、脳裏に浮かんだ映像に、凪は鋭く息を呑む。
――森の緑。涙で滲んだ視界に映る、鮮やかな血に染まった自分の手。太陽の光を弾く刃も、血の汚れをまとっている。
衝撃。
視界が揺れる。
自分の胸を貫く刃を握っているのは、陰鬱な雰囲気を持つ、白い長髪の若い男だ。日に焼けたことがないような白い肌と、赤い瞳。作りもののように整った、酷薄そうな顔。
その顔になんの表情も浮かべないまま、白い男が静かに口を開く。
『下賤の者どもに、その身を暴かれるよりはマシだろう。愚かな聖女。無垢な体のまま殺してやったことを、感謝するがいい』
その言葉を最後に、唐突に映像が途切れる。
これは、記憶か。
リオが森で殺されたときの――
(……っ誰が感謝なんてするか、すっとこどっこいのクソ野郎ーっっ!! いや、リオが性暴力の被害を受けていなかったことは、めちゃくちゃよかったんだけど! だからって、殺しておいて感謝しろとか、ふざけてんのバカなの脳みそ腐ってウジでも湧いてんの!? 自分の罪悪感から全力で逃避するための言い訳を、偉そうな顔でこっちに押しつけてんじゃねーぞ、アホンダラーっっ!!)
一瞬で、頭に血が上る。
リオがこの体で見た最後の記憶が、ひどく辛いものであろうということは想像していた。だがまさか、これほど胸くそ悪いものであったとは。
ぐちゃぐちゃになった羽布団をきつく握りしめながら、ぜいぜいと肩で息をする。そして、急速にこみ上げた吐き気に、両手で口元を押さえた。ベッドから飛び降り、一番最初に目に入った扉を開いた先がトイレであったことを、この世界にはいないという神に感謝する。ギリギリセーフで、間に合った。
(うぅー……最初に見えたリオの記憶がコレとか……。せっかく美味しいご飯だったのに、全部ケロケロしちゃうなんて、もったいないぃい……)
元の世界のものとは形式が少し違うものの、消臭機能もバッチリの高級感溢れる水洗トイレに、胃の中のものをすべて戻してしまった。心優しい騎士さまたちが、わざわざ凪の体調に配慮して作ってくれたものなのに、申し訳ない。
(夢だと……思ってた)
いつもと同じ、けれど今までとはどこか違う、ずっと素敵で都合のいい夢。
涙が滲むのは、いまだ収まらない吐き気のせいか。それとも、この世界で凪が目覚めてからずっと親切にしてくれた人々への、申し訳なさのせいだろうか。
シークヴァルトも、ソレイユも、アイザックも。そして、お腹を空かせた子どものために、美味しい料理を作ってくれた、騎士たちも。
みな凪の妄想が作り出した、都合のいい登場人物などではなかった。彼らは、彼ら自身の意思で、凪に優しくしてくれたのに。
(……うん。これに関しては、完全なる不可抗力ということで、黙っておくことにしよう。お礼とお詫びとご恩返しについては、これからがんばれば問題ない。たぶんきっと)
ようやく、吐き気が落ち着いてきた。吐瀉物を流して始末し、洗面所でうがいついでに顔も洗う。用意されていたふかふかのタオルは、ほんのりハーブのいい香りがした。
ゆっくりと深呼吸をして、改めて大きな鏡に映る『自分』の姿と向き直る。そして、心の底からげんなりした。
(相変わらずの、超絶プリティフェイス……。おまけに手足が細くて長くて、華奢なくせに巨乳だし。でもなんちゅーかこう、やっぱり美醜以前に人種の問題で、自分の顔とは思えんでござるー。違和感が仕事をしすぎな件ってやつだね)
違和感といえば、シークヴァルトをはじめ、今まで会ったここの人々は、みな大変な美形である。その造形美には心の底からきゅんきゅんときめくけれど、それはたとえばハリウッド映画俳優を眺めているときのような、まったく現実感のないときめきであった。端的に言えば、ナマの至近距離で見るもんじゃない、というやつだ。圧がひどい。
これからは、ああいった美形たちの圧を、現実のものとして受け止めなければならないわけか。ツラい。ツラすぎる。
束の間、ずどんと落ちこんだ凪だったが、いつまでもくよくよしていても時間の無駄だ。
(よし。ここは、現状確認できるいいところを、前向きに見ていこう! 天使のような美少女を着飾らせるのって、きっと楽しいよね! あーでも、さっきまでは夢だと思ってたから普通に借りたけど、今唯一着られるあのワンピースって、絶対にお高いやつぅううううーっ! クリーニング代とか、めっちゃ高そう……)
とはいえ、いつまでも下着姿でいるわけにもいくまい。この屋敷で借りたものはそのうちお返しするまで、極力汚さないようにしなければ、と青ざめつつ、ワンピースを身につけ、靴を履く。
人前に出られる姿になって、ようやく人心地ついた。ベッドに腰掛け、凪は改めてこれからのことを考える。
(あのお兄ちゃんの顔をした世界の管理者? って、別にわたしが聖女さまスキルを活用しなくてもいい、みたいなこと言ってたけどさ。ちょっと冷静になって考えてみたら、人がこれからいっぱい死ぬかもしれませんー、この世界でアナタを含めた五人だけがそれに対処できますー、なんて言われて、知らんふりなんてできると思ってんのかゴルァアアー! ……って、思ってるから提案してきたんだよね。人でなしだから)
凪は、決して聖人君子などではない。世のため人のため、なんて、そういった崇高な志をナチュラルに抱ける人々がすればいいと思う。矮小なる一般市民は、普通は自分の人生を守るだけで精一杯なのだ。
そもそも、なぜ『聖女』。こっぱずかしい呼称にもほどがある。少しは、そうやって呼ばれる側の気持ちも考えろ。責任者出てこい。
思考が流れそうになり、何度か深呼吸をする。
――あくまでも凪にとっての最優先は、リオを殺した者たちに、その報いを受けさせること。その目的を果たすためなら、なんだろうと利用する。
そこまで考え、凪は思わず苦笑を浮かべた。
(『聖女であること』って、今のこの世界で最強のカードだよねえ。聖女さまのレンタル料、めっちゃお高いって言ってたし。……聖女として働いたら、そのぶんの一割くらいは、報酬としてもらってもバチは当たらないと思いたい。うん、そういうことにしておこう! この世界には、神さまはいないそうだから大丈夫! 知らんけど!)
何しろ、今の凪はお金がない、身よりもない、手に職もない、頼れる相手もない、帰る場所もないの、ないないないないない尽くしである。……ちょっと悲しくなってきた。
この状況では、いやでも『職業・聖女』として生活費を稼ぐしかないではないか。
しばしの間じっくりと考え、よし、と凪は両手の拳を握りしめる。
第一に、リオを殺した連中を見つける。見つけたあとのことは、またそのとき考える。
第二に、可能な範囲で聖女として働く。絶対に無理はしない。タダ働きもしない。
最後に、全部が終わったら、聖女業の報酬で小さな一軒家を購入して、シベリアンハスキーと一緒に暮らす。この世界にシベリアンハスキーがいなければ、そのときご縁のあった犬をお迎えする。できれば、大型犬。
そうやって今後の人生の大まかな道筋を決定すると、少し気持ちがスッキリした。
作者は基本的に犬派ですが、肉球に関しては猫派です。