おいしいごはんと、ふたつの世界
すごいなー、キレイだなー、とウットリしながら眺めていると、シークヴァルトがひとつ息を吐いてから口を開いた。
「ナギ。これはむさ苦しい野郎どもが作ったもんだが、味は悪くないはずだ。苦手なものがあったら残していいから、まずは食ってみるといい」
(あ、やっぱりこの芸術品は、むさ苦しい騎士のお兄さま方が作ってくださったものなのですね)
若干、微妙な気分になったものの、せっかく味のあるものを食べられそうなのだ。ありがたく『いただきます』をしようとした凪は、自分の手がごく自然に指を組み合わせる形になったことに驚いた。これは、リオが毎日行っていた食前の習慣である。どうやら、この体に染みついている習慣は、無意識にでてくる仕様らしい。
違和感がないとは言わないけれど、特に困るようなことでもない。まあいいか、と目を閉じ、そのまま胸の内で『いただきます』をする。
しかし、目を開いてみても、シークヴァルトもソレイユも軽食に手を付ける様子がない。アイザックたちは再び忙しそうな様子なのでいいとしても、よそ者の分際で真っ先に食べ物に手を伸ばすのは、さすがに躊躇われる。どうして食べないのだろうとシークヴァルトを見つめると、不思議そうに見つめ返された。
「どうした?」
「……あの、おふたりは食べないんですか?」
シークヴァルトが、当然のことのようにうなずいて言う。
「これは、厨房の連中がおまえのために作ったもんだからな。連中の許可なく勝手に手を出したら、命が危ない」
(ええー)
凪は呆気にとられたが、ひとりがけのソファに腰を下ろしたソレイユも、うんうんとうなずいている。ここの人々は、安易に命を危険に晒しすぎではなかろうか。
大体、そうは言われても、すぐそばに人がいるのにひとりだけ美味しいものを食べるなど、食欲が湧かないにもほどがある。ソレイユに視線を移しても、にっこりと笑ってテーブルの上を示されるだけだ。
困った凪は、へにょりと眉を下げて口を開いた。
「すみません。おふたりとも、今はお腹がいっぱいで何も食べたくない、というのではないのでしたら、一緒に食べていただけませんか? こんなにたくさん美味しそうなものがあるのに、わたしひとりで食べるというのは、ちょっと……落ち着かないです」
落ち着かないというより、むしろいたたまれなくて罰ゲームレベルである。
軽く目を瞠ったシークヴァルトが、小さく笑う。
「そうか、わかった。――ソレイユ、おまえも食っていいぞ」
「え!? いいの!? ホントに!?」
ぱあっと顔を輝かせたソレイユに、シークヴァルトが人の悪い笑みを浮かべて見せる。
「ああ。連帯責任ってやつだ」
「違いますー! わたしはただいま上官の許可をもらったので、無罪です! うわー、嬉しい! 厨房でつまみ食いさせてもらったけど、全部めちゃくちゃ美味しかったんだよねー!」
シークヴァルトが、半目になった。
「この数を全種類食ったのに、まだ食えるのか……」
「いくらでも入りますとも! 若いので!」
そうして、元気と食欲がいっぱいのソレイユにつられるように食べはじめた軽食は、どれも本当に美味しいものばかりだ。
サンドイッチに挟まれているのは、ミルク煮にした白身魚の身をほぐして、みじん切りにしたほうれん草と和えたもの。ふわふわのチーズオムレツ。ちょっぴりスパイシーな牛肉のホロホロ煮を混ぜたポテトサラダ。熱すぎないスープは、優しい野菜の甘みと香りがふんわりと広がる。
あまりの美味しさに、どれも食べるたびにびっくりしてしまう。そして何より感じ入るのが、厨房でこれらの軽食を作ってくれた人々の気遣いだ。
おそらく、凪が普通の食事に慣れていないことを知らされて、いろいろと工夫をしてくれたのだろう。用意されたすべてが柔らかな食感で、消化によさそうなものばかりだ。
食後の紅茶も、豊潤でありながらスッキリした香りが実に素晴らしい。素晴らしすぎて、『これが本当の紅茶だというのなら、今まで紅茶だと思って飲んでいたものは、いったいなんだったのかッ!』と、料理漫画のような台詞がリアルに脳裏に浮かんでしまった。
だが、空腹だったところに美味しい料理を詰めこんだからなのか、それとも単純に体力の限界だったのだろうか。
(ね……眠い……)
一通り軽食を食べたあと、急激に襲ってきた猛烈な眠気に、危うくティーカップを落としてしまいそうになる。それに気づいたらしいシークヴァルトが、ひょいと凪の手からティーカップを取り上げた。
「疲れているんだろう。少し、寝てくるといい。ソレイユ、ナギを客室につれていってやれ」
「え、あ……いや、すみません。大丈夫です、起きてます……」
アイザックの用事が済んだら、改めて彼の話を聞かなければならないのだ。それを待たずに、ぐーすか仮眠を取らせてもらうなど、失礼にもほどがある。
今にも上下の瞼がくっつきそうな目をこすりながらそう言うと、シークヴァルトが小さく笑う。
「何があったのか覚えていなくても、おまえがかなり大変な目に遭ったのは間違いないんだ。団長の話を聞いたところで、そんな寝ぼけた頭じゃきちんと考えられないだろ。無理をしたって、いいことなんて何もない。いいから、少し休んでこい」
「……はい。ありがとう、ございます」
なんだか眠すぎて、考えるのも面倒になってきた。どうせ、ここは夢の中。次に目が覚めたときには、きっと自分の小さな部屋だ。
そうして、半分以上寝ぼけながらソレイユに案内された豪華な客室の、これまた豪華な天蓋付きベッド。どうにかワンピースを脱いで椅子の背もたれに掛け、ぽふんとベッドに倒れこむ。おやすみ一秒で、凪の意識は闇に溶けた。
***
「いやあぁああああっっ!!」
ひび割れたガラス細工が砕け散るような、少女の絶叫。
真夜中の空気を引き裂いたそれは、聞く者の胸まで引き裂くようだ。
「いや! いや、いやああああっ!!」
「どうした、凪!?」
末娘の高校合格祝いで、しばらくぶりに家族全員が揃っていた緒方家が、突如として騒然とした雰囲気に包まれる。
シンプルながらも可愛らしい雰囲気で統一された少女の自室に、真っ先に飛びこんだのは彼女の兄だ。
壁のスイッチで灯りをつけると、ベッドの隅で縮こまり、泣きじゃくりながら頭を抱える少女の姿が浮かび上がる。カタカタと全身を震わせ、大きく見開いたままの目から止めどなく涙を流し続ける様子は、尋常ではない。
彼女の兄――緒方家の長男、健吾は、ぐっと拳を握りしめた。できるだけゆっくりと妹のベッドに近づき、その傍らに膝を落とす。
「どうした。怖い夢でも見たのか?」
夢。
凪は幼い頃、よくおかしな夢の話しをする子どもだった。『リオ』という名の少女になって、不思議な世界で暮らす夢。それが、ただの夢物語ではないと最初に気がついたのは、凪と一緒に眠る機会の多かった母親だ。
――自分のことを、『リオ』だって言うのよ。
昼寝をしていた幼い凪が、目を覚ますと不思議そうな顔をして辺りを見回し、母に向かって『あ。ナギのお母さまだ』と、心底嬉しそうに笑ったのだという。
最初は、幼児特有の変わった遊びかと思った。
だが、笑い方が違う。仕草が違う。甘え方が違う。
どこか遠慮がちに、けれどキラキラと輝く目で、恥ずかしそうに頬を染めながら『リオも、お母さんって呼んでも、いいですか?』と問われたとき、母は全力で抱きしめながら『もちろん、いいよおぉおおおーっっ!!』と絶叫したという。
二重人格、というのだろうか。
『リオ』は、滅多に出てくることはない。父は昔何度か見たことがあるというが、健吾はその状態の凪を見たことがなかった。
凪自身は、時折『リオ』が出てきていることに気づいていないようだ。
本来ならば、病院で診てもらうべきだったのかもしれない。けれど、凪が『リオ』の存在を認識していない以上、無理に受診させるのも気が引けた。何より、日常生活にはまったく差し障りがないこともあって、このままでも特に問題はないと思っていたのだ。
だが――
「あ……あ、ぁあ……っ」
引きつった嗚咽を漏らす凪が、震える指先で喉を掻きむしろうとする。咄嗟にその手を掴んだ健吾に、大きく体を跳ねさせた凪が、怯えきった瞳を向ける。
途方もない違和感。
その瞳に映っているのは、『誰?』という単純な疑問だった。未知の相手に対する恐怖と、それ以上に大きな恐怖と混乱に、少女の喉が引き攣れた呼吸を繰り返す。
これは――健吾の知っている妹ではない。
ごくりと息を呑んだ彼は、まさかと思いながら、掠れた声で問いかけた。
「……リオ、か?」
健吾が誰よりもよく知っているはずの、なのにまるで知らない瞳が、くしゃりと歪んだ。
「は、い……っ」
どうして、と上擦った声で少女が言う。細い指先が、ひどく冷たい。
「わた、し……」
ボロボロと、新たな雫が幼さの残る頬を滑り落ちていく。
「ころされた、はずなのに」