凶報
聖女夫妻が、揃ってきょとんとした顔になる。
(え、なんだこの聖女ご夫妻。セットでものすごく可愛らしいんだが?)
一瞬、ウィルヘルミナの思考が明後日の方向に飛びかけたが、どうにか真顔を維持したまま続けて言う。
「どうも自分は、歌や絵画といった芸術関係のセンスが皆無なようで……。一応、聖女の認定を受ける際に、『聖歌』の歌唱にも挑戦してみたのですがね。その効果は非常に不安定なうえ、直接接触にも劣るような有様だったのです。それを確認した神殿関係者も、我が国の研究員たちも、揃って頭を抱えておりました」
他人事のように言うウィルヘルミナに、ようやく落ち着きを取り戻したらしいクラウスが、珍しくじっとりとした視線を向けてくる。
「魔導武器をあれほど的確に扱える方が、なぜこと歌に関しては、音程もリズム感も絶望的なまでに壊滅的なのでしょうか……。本当に意味がわかりませんよ、ウィルヘルミナさま」
「そうおっしゃられましても、自分も好きで音痴なわけではございませんので。むしろ、たかが音程とリズムが崩れただけで、『聖歌』の効力が著しく減衰してしまうことのほうが、意味不明です」
ウィルヘルミナとしてはごく当然の主張をしただけだったのだが、クラウスはにっこりと笑って言った。
「ウィルヘルミナさま。音程とリズムが崩壊した歌は、もはや歌ではございません。――ディアナさま。そういうわけですので、あなたさまがウィルヘルミナさまのような『叱咤激励』を覚える必要はないのです。いずれあなたさまの所属国となる国の騎士たちのためにも、ぜひそのままのあなたさまでいてくださいませ」
最後は何やら必死な様子のクラウスだが、ウィルヘルミナの『聖歌』を聞いたことがあるこの国の騎士たちは、彼女の『叱咤激励』が使い物になるとわかった瞬間、揃って凄まじい歓喜の雄叫びを上げたのだ。
もちろん、一般的な聖女による一般的な『聖歌』が最善だというのは、重々承知している。だが、ウィルヘルミナが騎士たちに対し、今後のためにも改めて『聖歌』の訓練をしてみるべきだろうかと問うたとき、彼らは全力かつ真顔でその提案を拒否してきたのだ。……そんなに、彼女の『聖歌』の訓練に付き合うのがイヤだったのだろうか。
(まあ、自分としても今から『聖歌』の訓練をしたところで、大陸中でじわじわと悪化してきている地脈の乱れに、即応できるレベルになれるとは思わんしな……)
いずれにせよ、ウィルヘルミナが『聖歌』ではなく『叱咤激励』を選択したのは、現場で働く騎士たちの同意があってのことなのである。今更、文句を言われる筋合いはない。
よしよし、とひとり納得したウィルヘルミナは、そこでふと思い出したことを口にした。
「そういえば、クラウス殿下。おふたりをお迎えしたいという国々からの申し出が、今朝から殺到しているようですね」
昼の休憩時に小耳に挟んだ話を、クラウスに振る。彼はハッとしたように目を見開き、ひとつ咳払いをしてから、王族らしいゆっくりと穏やかな口調で話し出した。
「はい。私のほうへ報告が上がっている限りでも、南方の国々を中心に、大変熱心な申し出がひっきりなしに来ております。所属国の選定に当たって、おふたりのほうで何か新たなご希望などはございますか?」
(……うむ。クラウス殿下も、いつもこうやって余裕のある態度でいてくださればよろしいのに)
クラウスのプロポーズ攻勢がはじまって以来、彼の仔犬のような騒々しい姿ばかり見てきたウィルヘルミナは、思わず半目になってしまいそうなのをどうにか堪える。
聖女夫妻は顔を見合わせ、少し困った様子のイグナーツが口を開いた。
「正直なところを申し上げますと、私たちは世間が狭いものですから、どういった基準で今後の所属国を選べばよいものやら、まるでわからないのです。ただ、地脈の乱れの発生状況から見て、最後の聖女さまが北方のいずこかにいらっしゃるのがほぼ間違いない以上、やはり南方の国々から選ばせていただくべきかとは思っております」
そうですか、と頷いたクラウスが柔らかく微笑む。
「では、我々のほうで南方の国々を優先的に、おふたりにとってよりよい条件を出してきている国を、ある程度ピックアップしてもよろしいでしょうか?」
「はい。そうしていただけると、大変助かります。ありがとうございます、クラウス殿下」
安堵の表情を浮かべたイグナーツが、そこで少し楽しげに目を細めた。
「それにしても、昨日のスパーダ王国の聖女さまのお言葉には、本当に驚かされました。あれから妻と話し合ったのですが、クラウス殿下。私たちが暮らしていた街の名を、スパーダ王国の聖女さまにお伝えいただくことはできますか?」
夫に続いて、ディアナも言う。
「お恥ずかしい話ですけれど、スパーダ王国の聖女さまのお言葉を聞くまで、わたくしは祖国と完全に縁を切ることばかり考えていたのです。ただ――この一年暮らしてきた下町には、わたくしたちに親切にしてくださった方々もたくさんいました。もし失礼に当たらないのであれば、スパーダ王国の聖女さまのお言葉に、ひとまず甘えさせていただきたいと思います」
聖女夫妻の言葉に、クラウスが笑って頷く。
「了解いたしました。ではその旨、正式に我が国の外交ルートから、スパーダ王国の聖女さまにお伝えさせていただきますね」
ディアナが、ぱっと笑顔になる。実に可愛らしい。
「ありがとうございます、クラウス殿下。スパーダ王国の聖女さまには、心からの感謝とともに、いつかお会いできる日が来るのを楽しみにしております、とお伝えくださいませ。その際に、改めてお礼をさせていただければ幸いに存じます、と」
「はい、ではそのように。――そういえば、おふたりは現在スパーダ王国の聖女さまの護衛を担っている、アシェラ傭兵団団長どのに関するルジェンダ王国の公式発表は、もうご覧になりましたか?」
その問いかけに、聖女夫妻は揃って困った表情を浮かべた。イグナーツが、少し気まずそうに口を開く。
「いいえ。私たちは昨日からずっと、スパーダ王国の聖女さまにお願いする件について、いろいろと話し合っていたものですから……」
「そうでしたか。いえ、アシェラ傭兵団といえば、創設からたった十年ほどながら、すでに大陸全土に拠点を置き、また団員教育にも優れた立派な組織だという話は、私も存じていたのですが。その団長どのが、ルジェンダ王国の貴族出身の方であったとは、さすがに少々想定外でした」
貴族、と異口同音に呟いた聖女夫妻に頷くと、クラウスは両手の指を組んで表情を改める。
「ルジェンダ王国において、聖女を騙った女性が現れたという前代未聞の事件については、おふたりもご存じかと思いますが……。その欺瞞が明らかになったとき、彼女は逃亡に際し、とある孤児の少女を自身の身代わりとするべく、刃物で殺害したそうです。そして、王宮からの追っ手に対する目くらましとして、少女の遺体を森に捨て置いた、と」
一時期、大陸北方の国々でかなり話題になったこの事件については初耳だったのか、ディアナがさっと青ざめた。
「なんて、ひどいことを……」
「はい。本当に、許しがたいことだと思います。ですが幸いなことに、その少女には非常に高い治癒魔術の適性があったため、森の奥で息を吹き返したところを、彼の国の魔導騎士団に保護されました」
そうなのですか、と安堵の息を吐いたディアナが、すぐにきつく眉根を寄せる。
「結果的にご無事だったのだとしても、その少女が味わった苦痛と恐怖は、尋常なものではなかったはずです。聖女を騙った女性には、ぜひ心から彼女に詫びていただきたいものですわ」
「ええ。私も、そう思います。ただ――この孤児であった少女の素性というのがまた、非常に複雑と申しますか、想定外にもほどがあると申しますか」
一度言葉を切ったクラウスが、考えをまとめるような間のあと口を開く。
「少女を保護したルジェンダ王国魔導騎士団に、シェリンガム男爵という方がいらっしゃるのですが。そのシェリンガム男爵が、少女の実の兄君だったのです」
「まあ!?」
「それは、また……」
驚く聖女夫妻に、クラウスはゆっくりと続けた。
「シェリンガム男爵は元々、ルジェンダ王国筆頭公爵家である、マクファーレン公爵家の後継者でいらした方。彼が幼い頃にご両親が離縁したため、今は公爵家を出られたうえで、シェリンガム男爵を名乗っていらっしゃるそうです」
そして、と表情を改めたクラウスが言う。
「そのシェリンガム男爵の父君は、ルジェンダ王国王妃殿下の弟君。つまり、保護された孤児の少女は、彼の国の王妃殿下の姪に当たる方だったのですよ」
聖女夫妻が息を呑み、一層激しい驚愕の表情を浮かべる。
そこでクラウスは、軽く目を伏せた。
「シェリンガム男爵と妹君のご生母は、十六年前に夫であったマクファーレン公爵から、不義の疑いを掛けられました。それを理由に、ご懐妊中にもかかわらず離縁され、修道院へ送られてしまわれたのだとか。ただそれは、マクファーレン公爵が当時の愛人であった女性を後妻としてお迎えするための、卑劣な欺瞞であったと。そしておふたりのご生母は、修道院で妹君をご出産後、すぐに儚くなられてしまったそうです」
「そんな……」
「……それはまた、ひどいお話ですね」
聖女を騙った女性の身代わりとして殺されかけた少女にまつわる、複雑過ぎる人間関係。
ウィルヘルミナも、この件に関するルジェンダ王国からの公式発表を最初に確認したときは、混乱したり憤ったりと、頭と感情がぐちゃぐちゃになりそうだった。
そこで、痛ましげな表情を浮かべていたイグナーツが、困惑した様子でクラウスに問う。
「クラウス殿下。ルジェンダ王国で、そのような事件が起きていたことはわかりましたが……。そのシェリンガム男爵ご兄妹のお話と、アシェラ傭兵団団長さまのお話は、何か関係があるのでしょうか?」
「はい、イグナーツどの。十六年前に儚くなられた、シェリンガム男爵ご兄妹のご生母こそ、アシェラ傭兵団団長どのの妹君なのです」
揃って目を丸くした聖女夫妻に、クラウスは苦笑を浮かべた。
「本当に、なんというご縁なのでしょうね。シェリンガム男爵ご兄妹の奇跡のような再会から、彼の国で何やら大きなうねりのようなものが起きているように感じられます」
その言葉に、一度目を閉じて深呼吸をしたディアナが、ぎゅっと指先に力を込める。
「ええ。そのようにご立派なご家族がいらっしゃるのですもの。ずっと辛い思いをされてきたシェリンガム男爵の妹君も、これからは安全な場所で、心穏やかに過ごしてくださればよろしいですわね……」
心優しい彼女は、今までの複雑な話の中でも、やはりなんの罪もない少女が、人知れず無惨に殺されかけていたことに、最も衝撃を受けていたらしい。
そうですね、とクラウスが頷く。
「その妹君は、現在ルジェンダ王国魔導学園に在籍中だそうです。魔導学園は、スパーダ王国の聖女さまが当面の拠点とされる場所ですし、そちらでも新たなご縁が結ばれるやもしれませんね」
「まあ……。それは、羨ましいですわ。スパーダ王国の聖女さまには、本当にありがたいお気遣いをいただきましたもの。わたくしも、早く直接お礼を申し上げたいものです」
そんなディアナの言葉に、ウィルヘルミナはちょっぴりいたたまれない気分になった。
「申し訳ありません、ディアナさま。自分も昨日は少々、冷静さを欠いておりました。聖女としての務めを考えるなら、自分もスパーダ王国の聖女さまのように、ミロスラヴァ王国の罪なき人々のことも配慮すべきでしたね」
「まあ! ウィルヘルミナさま。そのようなことをおっしゃらないでくださいな。その……わたくし、気持ちの冷静な部分では、スパーダ王国の聖女さまのお気遣いに、心から感謝しているのですけれど」
ディアナはそこで、少し困った表情を浮かべて言う。
「自分を捨てた家族に対する憎しみを、おそらくわたくしは一生忘れることはできないでしょう。子どもじみている、と言われてしまうかもしれません。ですが、彼らを絶対に許すことができない、彼らに連なるすべてを自分の人生から排除してしまいたい。そう叫ぶ気持ちもまた、紛れもなくわたくしの本当の気持ちなのですわ」
ですから、と柔らかな笑みを湛えた彼女は、ウィルヘルミナにまっすぐに告げた。
「ウィルヘルミナさまが、わたくしのそんな気持ちに寄り添ってくださったこと、心から嬉しく思っております。今のわたくしにはなんの力もございませんが、もしいつか、ウィルヘルミナさまが何かお困りになることがあったなら、そのときはぜひわたくしを呼んでくださいませ。万難を排して、必ずお味方することをお約束いたします」
「ディアナさま……」
どうやら、この聖女の理想像を具現化したような女性は、なかなかに頑固で激しい一面を持ち合わせているようだ。
ウィルヘルミナは、小さく笑って頷いた。
「了解いたしました。ディアナさまのお気持ち、ありがたく頂戴いたします」
たしかに寛容さというのは、素晴らしい美徳のひとつなのだろう。
だが、どんな人間だろうと、常に正しくあれるはずもない。人間とは、そんなに強い生き物ではないのだ。
ディアナは、どこまでも寛容であれない自分の弱さを知ったうえでそれを受け入れ、誤魔化さずに認めている。その潔さを、清々しいと感じた。
近いうちにこの国を去って行く彼女と、こんなふうに話す機会はそう多くはないだろう。けれど叶うことなら、その機会ができるだけ多くあればいい。
ウィルヘルミナが、そんなことを思ったときだった。
クラウスの持つ通信魔導具に、緊急連絡が入る。一同に断ってその通信を受けた彼の顔に、驚愕とも激しい恐怖ともつかない表情が浮かぶ。
「ミロスラヴァ王国各地で、同時多発的に、大型魔獣を含むスタンピードが発生した……?」
空気が、凍りついた。
大型魔獣を含むスタンピードは、必ずその地に壊滅的な被害をもたらす。ありとあらゆるものが踏み潰され、汚染された大地の中に飲みこまれ、聖女がその地を訪れるまではどのような命も芽吹かない。
そんなものが、ひとつの国の中で、同時に複数発生したのなら――。
(滅びる……のでは、ないか?)
地脈の乱れは、新たな地脈の乱れを呼ぶ。
もし彼の国で、大型魔獣を含むスタンピードが発生するほどの地脈の乱れが、各地で同時に起きたというのなら、それは互いに影響し合って更なる乱れを呼ぶだろう。終わることのない負の連鎖に巻きこまれ、人々も魔獣たちも、等しく滅びの道を進んでいく。
「いや……」
蒼白になったディアナの口から、恐怖に染まった声がこぼれる。
「わたくし……わたくしは、こんな……っ」
「ディアナ! ディアナ、違う! おまえのせいじゃない!」
錯乱するディアナをイグナーツが抱きしめ、何度も彼女のせいではないと繰り返す。
――そうだ、彼女のせいではない。
たとえミロスラヴァ王国から聖女であるディアナが離れたところで、これほど急激に地脈の乱れが悪化するなど、通常ならば考えられない。
元々、つい先日まで彼女が暮らしていたゆえだろう、ミロスラヴァ王国では地脈の乱れの発生が、他国に比べて非常に少ないレベルで済んでいた。だからこそこの国の上層部も、ウィルヘルミナが彼の国への派遣を拒否する声明を出すことを許したのだ。遠い他国のこととはいえ、そこに住まう大勢の人々が不必要に苦しむ未来を望むほど、自分たちの性根は腐っていない。
何よりディアナもウィルヘルミナも、今後ミロスラヴァ国王がディアナに対して誠意ある謝罪をしてきたなら、それを受け入れる用意はあった。
なのになぜ、とウィルヘルミナが歯がみしたとき、再びクラウスの通信魔導具が反応する。反射的にそれを受けたクラウスが、先ほどとは違う驚愕に目を見開く。
「……ルジェンダ王国の、オスワルド殿下から?」
お知らせ
本日より、TOブックスさまのコミカライズ作品連載サイトにて、本作『聖女さまは取り替え子』の連載がスタートするそうです。
大変可愛らしい作品にしていただけましたので、ご覧になっていただけると嬉しいです!