第二章 幕間その一 『もう一つの結末』
「くっ!」
瓦礫を退かしていき、冷たい風が肌を差す感覚を感じる。
それだけで、ここが外だということを理解することができた。
あの時、イヴァンは自身の危険をすぐに察知して、緊急用に残していた脱出用の通路を使い地下実験施設からの脱出を試みていた。
天井が崩落していなかったのは奇跡に近かっただろう。
地響きが収まらない中、必死で足を止めずに走り抜けていくが、電子機器を全て壊されたことが痛かった。
辺りは真っ暗で、どちらが前なのかすら分からなくなってしまっていたのだ。
結果、出口の近くまできたところで天井が崩落し、危うく生き埋めとなってしまっていたのだが、地上からすぐのところまできていたのが幸いだった。
なんとか手探りで瓦礫をかき分けて、今に至るのだ。
「ふ、ふふふ。やはり、素晴らしい。私の実験に間違いはなかった」
これだけ自身に身の危険が起ころうとも、イヴァンは悲観することはなかった。
むしろ、喜ぶべきことだ。
イヴァンが作り上げた最高傑作、『戦龍リンドブルム』は、自身が考えているよりも遥かに想定を上回っていた。
どんな弾丸も跳ね返す圧倒的な甲皮も、弱点である頭部はそれに覆われることによって、どれだけ傷を受けようが再生能力が上回り、無敵とも言うべき最強の生物を誇っていたからだ。
それを含め、想定を上回っていたのはあの電子機器を破壊した現象だ。
目で見た範囲でしか分からないが、あの咆哮を発せられた瞬間、辺りの電子機器は全て破壊されていた。
それは、リンドブルムのあの咆哮に、強力なパルス波が仕込まれていたということだろう。
通称、電磁パルスと呼ばれる現象だが、それを任意に起こせるということは、もはや文明の利器はほとんど封じられることと同義だ。
リンドブルムを倒すには、原始的な武器でしか太刀打ちする術がないということになるのだ。
それはつまり、ことこの人類史の築いてきた兵器は役に立たないものであり、何者もリンドブルムを倒すことは不可能に等しい。
それこそ、核兵器や毒に由来するものを遠隔から狙い撃ちでもしない限りは、リンドブルムを滅ぼすことは無理に等しいだろう。
「さぁ、私の可愛い実験体はどこにいる? せめて、死ぬまでには拝まなくては……」
今更、死など惜しむことはなかった。
ただ、その前に自身の最高傑作が暴れ回る姿をこの目で見て、それから死ぬならばそれも本望だった。
瓦礫を退かしながら前に進むが、リンドブルムの姿は見当たらなかった。
「おかしいな。もうこの辺にはいないのか?」
辺りは静寂で、あるのは電気が消えた街並みしか見えなかった。
崩れた建物や、電気が消失していることからリンドブルムが暴れ回った証ではあったのだが、その姿が見えないことは、もうこの辺にいないということなのか。
少なくとも、覚醒してまだそう時間は経っていない筈である。
そうであるにもかかわらず、もうこの場に残っていないというのであれば、もう一つの可能性も考えられた。
「まさか、飛行能力まで手に入れたのか?」
そうだとすれば、歓喜すべきことだった。
羽がついていたことは知っていたが、質量から考えてそれは不可能だとは考えていたのだ。
モルフというウイルスの無限の可能性を考えれば、ありえない話ではないのかもしれない。と、逸る気持ちを抑えながら、イヴァンは前へと進んでいく。
「早く、早く探さなくては……っ!」
この為に自分は生きてきたのだと、最後の使命を果たすように破顔した表情をしたままにして、崩壊した都市の真ん中を歩く。
そこにモルフがいなかったのは幸いだったのかもしれない。
リンドブルムの暴走に巻き込まれて、死んだ可能性も疑われるが、イヴァンとしては都合が良かった。
イヴァンには戦闘能力がなく、ただ純粋にモルフという細菌ウイルスの研究員でしかなかったからだ。
組織の中でも有数の役目を言い渡されていることから、日本支部においては全権を委ねられていたのだが、今となってはどうでもよかった。
ただ、私欲の為だけに動くその姿は、研究者としての本懐そのものだからだ。
「はぁっはぁっ!」
五分近く歩き続けて、崩壊した建物の跡を通っていく。
その崩壊の跡が、リンドブルムが通った形跡であった。
未だその姿が見えないことと、痛々しく残る崩壊した建物の跡は、何者かと争った形跡でもあるのだろう。
自衛隊員か、それとも地下にいたあの特殊部隊か。
いずれにしても、リンドブルムの敵ではないだろうと、イヴァンはほくそ笑むように口元を歪めながら歩いていたが、その表情はあるものを目にしたことで一瞬で崩れることとなった。
「あれは……」
崩壊した建物の跡の先、その最後となる場所に、何かがいたのだ。
目を凝らし、近づきながらそれを確認しようとして、イヴァンは目を疑った。
「……バカな」
そこにいたのは、生気を完全に失っていたリンドブルムだった。
動く気配をまるで感じないそれは、死んでいた証でもある。
「ありえない……っ! 一体誰が!?」
信じられない様子で、イヴァンはリンドブルムの死骸へと近づいていく。
傷ついた甲皮には再生する様子もなく、ウイルス自身の効力が発揮されていないことが見て取れた。
「まさか、早すぎたのか?」
最悪の想像をしたイヴァンだったが、頭部の部分へと回り込んで確認した時に、その考えは否定されることとなった。
リンドブルムの頭部はどういったわけか、鋭利な刃で切り刻まれ、弱点となる脳を破壊されていたのだ。
それも、一度やちょっとではなく、何度も何度も再生が間に合わない程の攻撃を与えたかのような傷跡となっていた。
「こんなことができる人間がいるのか? いや、いたとしても、それは人間じゃない……っ!」
これ程の巨体を相手に、ナイフなどの刃を用いて頭を抉るなど、普通はありえないことだ。
機動力がある人間だとしても、それをやり遂げることなど不可能に近い。
仮にこんなことができるとするならば、それはイヴァンの知る限り、二人しかいなかった。
「まさか……謀られたのか?」
「それは違う」
「っ!?」
無機質な声を後ろから聞いて、イヴァンは勢いよく振り向くと、それはいた。
リンドブルムの死骸の上に立つ女。
白い装束を見に纏い、腰まで伸びた黒髪を束ねることもせず、レイピアと両刃刀を一本ずつ腰に帯びた状態で平然とそこに立っていた。
「……リーフェン。これはどういうことだ?」
「何のことか、分からない。私は、伝言を頼まれた、だけ」
「伝言?」
片言のように話すリーフェンに対し、イヴァンは伝言と聞いて、訝しむ。
そもそも、なぜここにいるのかが分からないのだが、イヴァンは疑っていた。
先ほど、リンドブルムを倒せる可能性がある二人の内の一人。それがリーフェンのことであったからだ。
リーフェンはリンドブルムの死骸から飛び降りて、イヴァンの目の前へと着地した。
「父さんからの、連絡。あなた、実験施設壊した、そう」
「……それについては想定外の事態が起きてな。これを見て分かる通り、リンドブルムが目覚めた影響で破壊されたのだよ。どの道、地下実験施設は放棄せざるを得なかったのは違いない」
「父さん、それは気にしていない。問題は、組織の面子」
「面子?」
イマイチ理解に及ばなかったイヴァンは、その意味を問いただすよつに尋ねる。
そして――、
イヴァンが認識するより速く、リーフェンの腰に帯びた両刃刀が抜かれて、イヴァンの右腕が切断されていた。
「がっ! あああああああっ!!」
認識した直後に襲いくる激痛に、切断された右腕の傷口を抑えようと左腕を動かそうとしたその直後、リーフェンのレイピアがイヴァンの左腕の手のひらを突き刺し、そのまま瓦礫と一緒に串刺しにされる。
「なっ!? 何をぉ!?」
「あなた、用済み。殺さないと、いけない」
「な、んでぇ……」
「あなた、顔が割れた。このままだと、組織、バレる。だから、用済み」
無感情な黒瞳でそう言われて、イヴァンは額から流れる汗が止まらなくなってしまっていた。
だが、イヴァンには心当たりがなかった。
顔が割れたというのは一体どういうことなのか、その理由が分からなかったからだ。
リーフェンは涼しい表情をしたまま、座り込むイヴァンを見下ろしながらその答えを話そうとする。
「あなた、実験体を一人、逃がした。それも、擬似モルフ実験体。あなたの顔を知った彼女、逃がした時点で、組織、危ない。だから、揉み消す」
「ま、待て! まさか、そんな! あの実験体は生き埋めになっているはずだ! 逃げられる筈など!」
リンドブルムの暴走の果てに、生き埋めになった。
イヴァンがいた地下の階層よりも、更に下に隔離していたのだ。
まず間違いなく死んでいる筈であり、逃がすことなどありえないことなのだ。
「残念だけど、逃げた。彼女、侵入した特殊部隊、一緒に脱出。だから、生きてる」
「なっ!?」
とんでもないことを聞いて、イヴァンは驚愕した。
その話の信憑性について、根拠となりうる理由が分かったのだ。
リーフェンの言う特殊部隊。それは最後、『レベル4モルフ』と共に、地下施設の床が陥没して落ちていった彼らのことだろう。
まさか、生きているとは思わなかったが、連れ出したとするならば彼らしかいない。
「情報、拡散。まだ困る。だから、隠蔽、するしかない」
「まさか、生きていたのか……ぐっ!」
左手に刺さるレイピアに力を込められ、イヴァンは呻いた。
――殺される。それは、リーフェンの性格上、覆せない事実であった。
彼女は何があっても指示されたことは折り曲げない。
それこそ、指示を出したあの男と直接話をしない限りは変わらないことであった。
「ま、待て……いいのか? 私が死ねば、擬似モルフは作れなくなってしまう。そうなって困るのは、キミたちなんだぞ……っ!」
「それも、聞いてる。父さんは、紛い物は必要ない、と。実験試薬『M5.16』薬は回収済み。もう、それ以上は、望んでいない」
「馬鹿な……それでは私は何の為に……」
組織に切り捨てられた。
その事実は、イヴァンにとって絶望的な知らせであった。
何の為に、組織の為にモルフというウイルスの研究を重ねてきたと思っているのか。
このような切り捨てられ方に、イヴァンは未だ納得することが出来ないでいた。
リーフェンは単独行動をしない。
彼女が動く時は必ず、リーフェンの言う『父さん』と呼ばれるあの男が指示したものであることを裏付ける証明ともなりえていたのだ。
「あ、のお方は……」
右腕の切断面から、とめどなく流れ続ける血液の影響で、イヴァンは意識が保てなくなりつつあった。
それでも、最後の抵抗として、イヴァンはその名を口に出そうとする。
「あの、お方――ぁ」
イヴァンは、それ以上言葉を発することはなかった。
リーフェンが左腕に持つ両刃刀が、イヴァンの首を跳ね飛ばしていたからだ。
△▼△▼△▼△▼
二本のそれぞれ種類の違う剣を鞘に納めたリーフェンは、何事もなかったかのようにその無感情な瞳でイヴァンの死体を見ていた。
首から上を失くし、頭はどこかへと飛んでいってしまったようだ。
今、目の前にあるのは、命を失ったただの肉塊。
それ以外何ものにも見えなかったのだ。
「あの男……」
ふと、リーフェンはヘリに乗っていた時、『フォルス』のアジトの屋上で、一人の男と目があったことを思い出した。
どこか懐かしい。そして、それがどういう意味なのかはリーフェンが一番よく分かっていた。
その感覚は、リーフェンが慕う『父さん』と同じようなものだったのだ。
「父さんに、伝えないと」
その言葉を最後に、リーフェンはその場を後にする。
ただ静かに、全ての元凶となる組織の一人は、表舞台から消えていく。




