第二章 第三十八話 『八雲琴音』
「キミ、もう明日から来なくていいから」
「え?」
唐突に部長からそう言われたのは今でも記憶に新しい。
どうして急にそんなことを言われたのか、働き始めて二ヶ月足らずの八雲琴音にはまるで理解できなかった。
それだけ、自分は仕事に対してミスなど一つもしていなく、むしろ貢献しているという自負さえあったからだ。
「あのね、会社は一人で仕事をするものじゃないんだよ。キミの部署の同僚から話は聞いたよ。なんでも、上司の指示をすっ飛ばして自己判断でセールスしたそうじゃないか」
「でも……売上に貢献は出来ているはずですよね?」
「ただ売り込めば良いってもんじゃない。キミが勝手に動いたことで、他の社員が急に仕事が乗っかって毎日残業して、もうやってられないって連絡が来たのだよ。それに、キミは先に帰ったとも聞くしね」
「それは、事務の仕事だからじゃないですか」
「事務に回しきれない仕事を回したのはどこの誰なんだい? こんなことはあまり言いたくないが、他の社員はもうキミとは働きたくないそうだよ?」
頭を掻きながら、部長は琴音へと片目を瞑りながら、目を合わせようとせずそう説明した。
それがクビの理由ならば、琴音としては就業規則に則って訴えを出しても良かったのだが、そうはしなかった。
なぜか、途端に働く意欲が失せてしまったからだ。
「個人でやれる仕事なら他にもたくさんあるよ。ただ、ウチの会社には必要ないかな」
「そう……ですか」
部長との会話はそこで終わり、琴音はその日中に退職届を提出した。
八雲琴音は、何でも一人で卒なくこなせるタイプの人間であった。
一人で最善の方法を思いつく発想力と行動力は、大学時代でも一目置かれていたほどである。
しかし、他者の意見よりも自分の意見の方が正しいと思えば、それを押し通そうとする性格が彼女にはあった。
客観的な意見は、自らの主観的な意見よりも弱いと感じてしまい、誰彼構わず論破してしまうことも少なくはない。
それが原因で、彼女の周りには友人と呼べるものもいなかったほどである。
「社会人になっても、結局同じか」
独り言のようにそう呟いて、琴音はスーツのまま人気の少ない路地の中にある寂れたバーに入る。
まだ曜日は水曜ということもあり、金曜の晩でもないので、客は琴音一人だけだった。
「すみません、お酒……冷酒一つ下さい」
「あいよ。一合で?」
「お任せします」
量など特に気にしなかった琴音は、店主へと投げやり気味にそう注文した。
普段は金曜の晩に来て、同じように冷酒を頼んだ後、ハイボールを呑んでいるのだが、今日はもう何本でも呑もうという気概だった。
今後のことをどうするか、考えることもしんどくなったからだ。
苦労して就職したにも関わらず、結果は戦力外通告。
親にも、どう説明したものかという焦燥感はあったが、今はもうどうでもよくなっていた。
どうせ話したところで、琴音にとってメリットのある話にはならない。
損得でしか考えられない生き方が、今の結果に繋がったのだ。
「私のやることって、周りに迷惑かけているだけよね」
ふと、そういったネガティブな思いが口に出た。
どれだけ頑張っても、周りから目の敵にされて上手くいかなかった。
その結果、今も琴音の話を聞いてくれるような存在は隣にはいない。
始めはいたのだが、琴音と関わっていく内に皆、離れていってしまっていたのだ。
「彼氏の一人もいないし、まあ、結婚願望があるわけじゃないけど」
そもそも、男友達はおろか、女友達でさえ琴音にはいない。
そんな独走人生を歩む中で、自分を変えようと考えたことは度々あったのだが、結局、三日坊主にも満たなかった。
「ねえ、キミかわいいね。仕事帰り?」
突然、後ろから気安く話しかけてきた男がいた。
身なりは大学生のような、いかにも遊び人のような風体をした青年だ。
ナンパされることは初めてであったが、正直今は一人でいたい気分ではあった。
「何? 今は一人が良い気分なんだけど」
「あらら、ごめんね。ただ、一緒に呑みたいなぁって思ってさ。どう? 奢るから話だけでもしない?」
「――はぁ……良いわ。その代わり、ちゃんと奢りなさいよ?」
「おっ、やったね! じゃあ、失礼しましてと」
軽い調子で、男は隣に座って酒を頼む。
それから、琴音の愚痴を男は親身に聞いてくれた。
何一つ疑念を持たなかった琴音は、警戒することはしなかった。
なにせ、初めて話を聞いてくれる人間と出会ったのだから、それも仕方ないだろう。
そして、どれくらいからだろうか。いつの間にか意識を失っていた琴音は、目を覚ました時にようやくあの男に騙されたことに気づいたのだった。
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「んっ――」
意識が目覚める瞬間は、気分が良いとは思えなかった。
目覚めた場所は、ふかふかのベッドの上などではなく、硬いコンクリートの上であったからだ。
そうして目覚めた琴音の傍で、一人の男が顔を覗かせていることに気づいた。
「おい、大丈夫か? しっかりしろや」
聞いたことのある、関西弁で尋ねてくる男がそこにいた。
「――ここは?」
「すまんな。なんとか渋谷から抜け出せればって思ってたんやけど、あちこちにモルフが湧いとるから、人気が少ない場所で一時停止してたところなんや」
状況説明をする男に、琴音はようやく記憶が戻ってきた実感が湧いた。
この男が清水と呼ばれる出水の同僚であること。
地下に囚われていた琴音と同じように地下へと落ちていた出水達と共に地下から脱出したこと。
地上へと出た琴音達の前に、この世の生物とは思えない規格外の化け物が現れ、その突進の衝撃に吹き飛ばされたこと。
それ以降の記憶がないということは、どこかを打って気絶していたということだろう。
後頭部に少しだけ痛みがあるということは、おそらく頭を打ってしまったのだということは理解できた。
しかし、それとは別に琴音には気がかりなことがあった。
「出水達はどこにいるの?」
「出水と神田か? あいつらはあの化け物のとこにおるわ。さすがに戦わんとは思うんやけどな」
「嘘でしょ!? あいつらを残していったの!?」
ここにいない出水達の所在を聞いて、琴音は目を剥いて清水の両肩を掴む。
「あ、ああ。でも、お前を先に避難させなあかんし、それがあいつの言い残したことやで」
「ふざけんな! だとしても、残る理由にはならないでしょ!」
憤り、琴音は指示に従った清水を怒鳴りつける。
対して清水は、その怒鳴られている理由が分からない様子だった。
「お、落ち着けや。どっちにしてもお前を避難させるのは最優先事項。生き残ることを先に考えなあかんやろ」
「――戻るわ」
「は?」
何を言っているのか分からない、そんな清水の様子を気にすることなく、琴音は立ち上がり、
「今すぐあいつの元に戻る。勝手に死に急いで、それで私を避難させる? ふざけてんじゃないわよ」
「ちょっ、待てや! そんなん許すわけないやろ!? そもそも、あいつらだって様子見してるだけやろうし、わざわざ戻る意味なんて――」
――ない。
その考えを否定するように、琴音は出水から奪ったとも言える拳銃を手に握った。
「あいつは絶対に戦うわ。あなたこそ、私よりもあいつと付き合いが長いはずなのに分からないの? このままじゃ、あの二人は間違いなく死んでしまうわ」
「何の根拠があって……」
「――じゃなかったら、あそこで私を止めるなんてしなかったはずだもの」
「え?」
琴音はあの時、地下で囮になると言った自分を必死に食い止めようとする出水のことを思い出した。
状況は最悪で、あの場所で全員死んでいてもおかしくなかったのにも関わらず、彼は琴音を死なせないように必死になってくれた。
「あれを放置すれば、必ず死人が出る。それを、あいつが無視できるはずがない」
「――――」
推測でしか言えないが、琴音にはその確信があった。
犠牲が出ることを許さないその考え方は、自分を犠牲に出来る覚悟あってのものだが、彼にはそれがあったと琴音は考えていた。
あの若さでそれほどの覚悟はそうそうできるものではないが、過去に何かあったのかもしれない。
それを今、考える必要はないが、彼を放っておけない理由には足り得ていた。
「だから、戻るの。あなたも死なせたくないんでしょう?」
「詐欺師みたいな誘い方してくんなぁ。まあ、分からんことはないんやけど……そうやな」
琴音の誘い文句に一考する清水であったが、琴音からすれば時間が惜しい。
かといって、この清水という男も特殊部隊の一員である為、勝手な行動を取ればそれこそ無理矢理に避難させられかねない。
普通に考えれば一蹴される琴音の提案だが、仲間の安否を口に出すことにして、なんとか交渉に持ちかけることはできていた。
「私は、この地獄から助かるなら皆で助かりたい。だから、お願い。私をあいつの元に戻させて」
琴音の訴えを聞いた清水は、「ふぅ」とため息をついて、
「たくっ。だからモテる奴は嫌いやねん」
「え?」
「行くで。その代わり、あいつを連れ戻したらそれで終いや。絶対に勝手な行動だけはしたらあかんぞ」
「――! ありがとう!」
清水の手を握り、琴音は嬉しさに感謝の意を伝えた。
対して、出水は照れ臭そうにしていたが、琴音は気にせずに建物の出口を進み、
「行きましょう。足引っ張ったら許さないからね」
「あれ? 立場逆ちゃう?」
納得いかなさそうな清水を他所に、二人は再び地獄へと舞い戻っていく。
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あまりにも無謀で、馬鹿な判断であることは分かっていた。
それは、戦闘経験の高い軍人でも、毎日を平凡に暮らす一般人でさえも同じ答えが返ってくるだろう。
だが、それでも立ち向かうという選択を選んだのは、他ならぬ彼だけの強い意志故のものだった。
出水は神田と共に、戦龍リンドブルムを撃退すべく、お互いに別行動を取って様子を見計らっていた。
「こうして上から見ても、すげえでかいな」
出水が見下ろしている立ち位置は、付近にあったモールの屋上だった。
階層で表すならば十階ほどだろうか。それほど高い場所から見下ろしているにも関わらず、戦龍リンドブルムは高さとしては同じ高さほどはある。
それほどの巨体が動き回ることもかなりの脅威だが、それよりも厄介な能力が奴には備わっていた。
ミサイルを受けて倒れない頑丈な表皮に加え、どれだけの傷を受けようが再生する能力。
更には、咆哮を発することによって、電子機器が全て停止する奇怪な現象だ。
神田が言うには電磁パルスと呼ばれる現象らしいが、聞くにしても異常染みていた。
兵器を使ったわけでもない。ただ叫んだだけでそれを引き起こしていたのだ。
それがモルフによる力の副次的作用なのかは分からないが、厄介なものには違いない。
戦闘機すら墜落させて、今こうして神田と別行動を取りつつも、通信機での相互連絡すらままならないのだから。
「合図は拳銃の発砲で、か。古典的だけど、利には適ってるな」
神田と作戦と練り合わせた時に、動き始めは拳銃の発砲が合図だった。
発砲音がリンドブルムを引き付ける要因ともなりうるかもしれないが、出水としては好都合であった。
なぜなら、出水達が立てた作戦とは――、
「さあ、やるか」
拳銃の銃口を空へと向けて、引き金を引いたのが合図だった。
発砲音が鳴り響いて、リンドブルムは出水のいる屋上を見る。
視界に入る生物、人間を見つけたリンドブルムは、獲物を補足したかのように障害物など気にもせずに突っ込んできた。
「――っ! やっぱそうだよな! お前も生きた人間を狙う習性があるんだな!」
リンドブルムは、イヴァンの話したことに間違いがなければ、普通のモルフと同じだ。
その習性は、音に敏感なことと生きた人間に襲い掛かること。
自衛隊員や生存者を殺しにかかったことからも、これは概ね予想できていた。
大方、予想通りだった出水は事前に準備しておいたロープを掴む。
「さあ、生き死にを賭けた追いかけっこだ。こいよ、化け物!」
その瞬間、勢いよく屋上から飛び降りた出水は、即席で作った鉤付きロープの縄を離さないよう、振り子のように別の建物の屋上へと飛んだ。
「~~~~っ!」
命綱無しのそれは、危険そのものの行為だった。
別の建物へと鉤で固定させてあるが、万が一外れることがあれば、そのまま地上へと真っ逆さまに落ちていくだろう。
そうなれば死は免れないだろうし、仮に生きていたとしても後方から迫るリンドブルムに食われて終わりだ。
「まずは……こいつを引き付けねえと!」
――リンドブルムを今の場所から移動させること。
それが第一段階の作戦内容だった。
神田は先に目的の場所へと向かわせてあるが、それもかなりの賭けを要している。
神田側の準備が整うかどうかは、お互いに確認を取る手段がないからだ。
出水サイドの準備が整った時点で出水は行動を開始したが、なんとかしてくれていることを祈るしかない。
「おおらぁ!」
予備のロープを使い、再び出水は建物と建物を移動していく。
どうして、地上を走って行動しないのか。それには理由があった。
「――――!!」
後方を見ると、リンドブルムは出水へと真っ直ぐ向かってきて、その間にある建物へと大きくぶつかっていた。
「やっぱりな。お前はそこまでの知性は備わっていない」
一番初めに、リンドブルムが建物へと突進したこともそうだった。
人間が隠れていることをわかっていてのことだろうが、わざわざ突進して炙り出すにはいささか大雑把にすぎていた。
その予測から、リンドブルムは獲物補足時、ただ真っ直ぐ突っ込んでくるという見立てを出水は考えていたのだ。
しかし、建物にぶつかっただけでは、リンドブルムにダメージはない。
少々の傷を受けても、たちまちに再生する以上は、なにかしらの大きな衝撃を与えないといけないことは明白である。
「もうっ少し!」
ある程度の距離を離し、手持ちのロープを全て使った出水は地上へと降りる。
そのまま全速力で走り抜けて、目的の場所が見えてきた。
「この匂い……神田、さすがだぜ!」
見えてくるは、建物が並ぶ中の一角にある、土地面積の広いガソリンスタンドだ。
既に神田が準備を完了させてくれたことは、立ちこめている硫黄系臭気――言わばガソリンの匂いが証明していた。
なりふり構わず、出水はガソリンスタンドへと駆け抜けていく。
それを追いすがるリンドブルムも、障害となっていた建物を崩壊させて迫ってきていた。
「っ! 間に、合えっ!!」
ガソリンスタンドを抜けて、そのすぐ先の遮蔽物へと出水は身を隠す。
それは、リンドブルムから隠れる為ではない。
出水が身を隠した理由、それは――、
「今だ! 神田、やれぇ!!」
リンドブルムがガソリンスタンドへと到達したその時、一発の銃声音が聞こえた。
神田が撃った弾丸は、停車していたガソリンの入った大型のトレーラーのタンクへと当たり――、
凄まじい衝撃波と共に、大爆発がおこった。
「――おわぁぁぁぁ!」
鼓膜が破壊されるかのような爆発音と衝撃波が出水へと襲い掛かり、遮蔽物に隠れていたにもかかわらず、その場から吹き飛ばされそうになる。
外気に触れていたガソリンの液体は炎上し、辺りはオレンジ一色の様相を保っていた。
「どうだ……やったか?」
これで倒せなければ、本当に打つ手は無くなる。
祈りながら、意識を保とうと体を動かす。
聴覚に何かしらの影響が出たのか、耳鳴りのような感覚が押し寄せてきていた。
唯一、頼りになる視覚だけで出水は周りの状況を確認しようと、リンドブルムがいた方向を見ようとしたが、
「――――ッッッ」
苦鳴を上げているのか、リンドブルムは顔部分の甲皮が剥がれ落ちた状態で未だそこに存在していた。




