第二章 第三十五話 『俺が守ってやる』
――どうしてこうなった?
目の前の状況に理解が追いつかず、スローモーションのように時が流れる中で、視界には椎名の姿があった。
ゆっくりとその身が地面へと倒れゆくのを見ていた修二は、それが椎名だと理解するのに刹那の遅れがあった。
――どうして、こうなるんだ?
現実から目を背けたくなるようなその状況に、体の痛みがそれを否定していることに心が痛む。
椎名が修二を庇った。
その事実に頭が理解をしたのは、椎名が背中から地面に倒れた瞬間だった。
「椎名!」
よろめきながらも、目の前に倒れている椎名へと修二は近づいていく。
脇腹に刺さった針の痛みも、全身へと電流を浴びたことによる倦怠感も構わずに、修二は椎名の元へと辿りつく。
「椎名! おい、椎名! 何で……」
椎名の肩を持って、揺さぶるように安否を確かめる。
肩を持つ修二の手には、今も椎名の体から血が流れ続けていた。
致命傷に近いそれを放っておけず、修二は応急処置用で持ち合わせていた包帯を取り出して、傷口から抑えていく。
アベル達は修二に追撃することなく、何かを話し合っている様子だった。
『レベル5モルフ』である椎名に傷をつけたことに焦りを感じているのだろう。
そんなことは修二の目に入らずに、ただ椎名の安全を確保することに必死であった。
「大丈夫だ……絶対に大丈夫。大丈夫だからっ!」
椎名にそう伝えながら、それが自分に言い聞かせていることに修二は気づいていなかった。
巻きつけた包帯は血で滲み、まるで止まる様子がない。
それほどまでに当たり所が悪かったようで、このままでは出血多量で死ぬ事だってありえた。
「死なない……大丈夫だ。お前は死なない」
僅かな可能性はある。
椎名は『レベル5モルフ』であり、その特性は驚異的な再生能力だ。
かくいう修二も、御影島で世良と対峙した時にその再生能力はこの目で見ていた。
あの再生速度を持ってすれば、椎名も同様に助かるはずだと。
しかし――、
「だから……止まってくれよ! 血ぃ!!」
それでも、椎名の人体はその傾向を見せずに、傷口からは血が溢れ出てくるばかりであった。
普通の人間ならば当たり前の現象だっただろう。
だが、モルフならばその当たり前を覆す特異性を持っているはずであった。
その原因が分からずに、修二は歯を食いしばって絶望に顔を歪ませる。
修二が憎む、あのモルフのウイルスに頼ろうとしているのは滑稽であったのかもしれない。
かつては、クラスメイト達を殺したとされる殺人ウイルスに希望を持っているのだ。
ダブルスタンダードだと、そう言われようとも構わない。
ただ、修二は椎名に助かってほしいと、それだけを願っていたのだから。
「しゅ、うじ……」
掠れゆく声を聞いて、修二は椎名の顔を見た。
椎名の意識が戻ってきていたのだ。
「椎名! 大丈夫か!?」
「ごめんね、修二……」
「おい、嘘だろ。椎名……?」
目を薄く開けながらも、椎名は何かを言いたそうにして唇を動かそうとしていた。
それはまるで、これから死にゆく者を見ているようなそんな状態で。
「――っ!」
首を振って、最悪の結末を思い浮かべたことに戒めを抱く。
まだ、再開してほんの少しなのだ。
それも、こんな形でようやく出会って最後などと、認められるはずがなかった。
「――――」
約束したのだ。
もう二度と、椎名を守れない自分にはならないと。
ここにいないもう一人の親友と約束して、修二はもう一度立ち上がり、ここまで来たのだ。
「修二……ごめんね。いつも、私のせいで迷惑をかけて……」
秘めていた思いを吐露するように、椎名は修二へと自分の至らなさを伝えようとする。
震える手は冷たく、修二はその力無い手を強く握った。
椎名の傷口からは、もう血が出てきていなかった。
その現象は意識を取り戻したから故のものなのかは分からないが、修二はそれを確認しただけで何が起きたのかを理解する。
「……安心しろ」
椎名の肩と脚に手をかけて、体を持ち上げた修二は立ち上がる。
お姫様抱っこのようなその体勢で、修二は椎名の顔を見ずに目の前の罪人達を見据えていた。
修二は、伝えたい想いがあってここまできたのだ。
だから、その一言を今、ここで彼は伝える為に言葉を紡ぐ。
揺らぐことなく、彼は威風堂々とした立ち姿をして、顔を上げたまま、前を見て、そして――、
「お前は死なない。俺が、ずっとそばで守り続けてやるから――」
想いを伝えた修二は、覚悟を決めた。
△▼△▼△▼△▼
椎名は、修二の言葉を聞いてからか、意識を失うように気絶した。
電流を浴びせられた修二の体は、もう動けるようになっていた。
テーザー銃の威力は、数分間は無力化できる特性を持っていたが、修二の体はその回復が早かった。
それが偶々なのか、必然であったのかは今となってはどうでもいい。
ただ、修二は一点のみどうすべきかを決めていたのだから。
「――どうやら、椎名真希は生きていたようだ。良かったな、クラウス。死んでいればお前がどうなっていたか分からなかったぞ」
「……申し訳ございません」
アベルとクラウスのやり取りに、エルーは安心したようにホッと息をついていた。
椎名が死ぬ事は、『フォルス』としては一番面白くない結末だ。
それこそ本当に、笠井修二を取引条件として出さなければならないほどに切羽詰まる状況になってしまうのだ。
「ん? おっと、ついに来たようだな」
アベルが、修二ではなく別の方向へと顔を向けてそう言っていた。
その方向を部下であるクラウスとエルーも見て、修二も見ていた。
一機のヘリが、このビルの屋上へと向かって飛んできていたのだ。
それは、アベルが最初に話していた『フォルス』を雇った組織、その者達が来たということになる。
「さて、ではさっさと椎名真希を取り返して、目的を達成することにしよう」
取引相手が来たことに対して、その取引条件が手元にない以上はアベル達も全力で取り返しにくるしかない。
その推測通りに、クラウスもエルーもジリジリと修二へと詰め寄ってきていた。
しかし、そんな状況の中で修二は目の前を見ていなかった。
ヘリの側面に佇む、一人の人間を見ていたのだ。
ビルの屋上へと向かってきているヘリの側面の扉を開けて、こちらを見下ろす存在がいた。
見た目は女だ。
白い装束を身に纏い、腰まで伸びた黒髪と感情を失ったような瞳が印象的だった。
歳は十代後半か二十代前半のような若さで、彼女は屋上の状況を確認するように見渡していた。
「――誰だ?」
初対面であることは間違いなかった。
しかし、なぜかは分からないが、どこか懐かしい雰囲気をその姿からは感じられた。
――それは、誰かと似ているようなそんな雰囲気であったのだ。
その女は右手に銃のような何かを持って、修二とは違う別の方向へと向けていた。
その方向は、目の前にいるアベルの方へと向けられて、そして――、
「がっ!?」
アベルの首へと、何かが刺さっていた。
ヘリに乗っていた女が、持っていた銃のような物で撃ったのだ。
よろめき、銃弾であれば致命傷であるにも関わらず、アベルは倒れない。
代わりに苦しむようにして、目は血走り、そうさせた本人へとその顔を向ける。
「どういう……ことだ……リーフェン!!」
大声を上げて、アベルは苦痛に顔を歪ませながらヘリを見る。
裏切られた。そのような様子であることは、修二からみても明らかであった。
それをしたヘリの女は気にも留めない様子で、その無機質な瞳でこちらを見続けていた。
そして、椎名のことなどまるで気にもかけずに、ヘリはビルから離れていった。
「ボス!」
「一体何が!?」
クラウスとエルーは、修二から椎名を取り返そうとせずにアベルの下へと駆け寄っていく。
二人とも、何が起きたのか分からないのだろう。
それは、ただ見ていただけの修二ですら分かっていない。
「修二君! 大丈夫!?」
後ろから声を掛けられ、振り向くとそこにはアリスがいた。
「アリスさん!」
「良かった。先に着いていたのね。それも椎名ちゃんを助けているし、お手柄すぎるわ」
「ええ。ですが、今はここから脱出することを優先しましょう。今なら逃げ出せます」
「あれは……何があったの?」
「があぁぁぁぁっっ!!」
アリスが見る先は、今も断末魔を上げ続けているアベルだ。
彼は、瞳孔を開いた状態で錯乱したように頭を掻き毟っていたのだ。
「……何か、薬のようなものを投与されたのだと思います。さっき、ヘリに乗っていた敵らしき人物があの男へと撃つところを見ていましたから」
「薬? でも、あんな即効性のある薬、なんでわざわざあの男だけに――」
アリスがその先の言葉を発しようとしたその時だった。
「え?」
アベルを介抱しようとしていたエルーが、自らの身に起きた違和感に瞠目していた。
声が出せないようなその様子に、周りにいた人間だけが何が起きたのかを理解していた。
アベルの左腕が、エルーの胸の辺りを貫いて、その心臓を掴んでいたのだ。
「かふっ」
口から吐血し、エルーは力なくアベルへと身を寄せるようにして倒れる。
即死だったのだ。
「は?」
クラウスは、何が起こったのか理解できない様子で唖然としていた。
それが、自身の身に危機感を抱けなかった致命的な遅れとなってしまう。
「がっ、あああぁああぁぁ!!」
アベルの右手がクラウスの頭を掴み、その握力で握り潰されようとしているのか、絶叫を上げていた。
そして、その後に起きたことは、修二もアリスも予想できなかったことであった。
アベルの掌から細長い鋭利なものが飛び出し、クラウスの両目を突き刺して後頭部からそれが飛び出したのだ。
「うっ、どうなって……?」
「今すぐ逃げるわよ。早く!!」
怯む修二に対し、アリスが声を上げて屋上から下の階へと続く扉を開けて進む。
その後に続こうと修二は椎名を抱えながら進み、一瞬だけアベルの方を見た。
それは、もう人の形を保っていなかった。
どうなっているのか、その体は膨張していき、人の原型を保っていなくなっていた。
「――――っ」
もはや見届ける意味もなく、修二は屋上を後にした。
その判断は正解か失敗か、その数分後に彼らは知る事になる。
△▼△▼△▼△▼
屋上から最短距離で一階を目指していた修二達は、その途中でビルに変化が起きていたことに気づく。
地震のような揺れが起きていたのだ。
その揺れは収まるどころか、どんどんと酷くなっていき、階段を下りるのも一苦労であった。
救助することができた椎名は、今は修二の背中にもたれかかっている。
ヘリが現れた時点で意識を失ってしまったのだが、死んでいないことだけは確かだった。
クラウスに撃たれた右肩ももう再生しきったようで、今意識がないのは血を出しすぎたことによる貧血のような症状だとアリスは答えてくれた。
「アリスさん。この地震、何かおかしくないですか?」
「そうね。とにかく急ぎましょう。嫌な予感がするわ」
いつにもなく、アリスの真剣な表情を見て修二もただ事ではなさそうだと気を引き締めた。
ビルの窓は全壊し、床には破片が散らばっている状態だ。
そのような状態で転べばかなり危ないので、修二も慎重に走っているのだが、周囲の警戒を怠ってしまうのは中々の死活問題ではあった。
ここは、あくまで敵の本拠地でもあり、たった二人での突入で仕掛けてきたのだ。
どこかにまだ潜む敵がいるかもしれないことであり、修二としても生きた心地がしない。
「大丈夫よ、修二君。ここに来るまでの敵は全て片付けたわ。仮に出てきても一瞬でケリをつけるから安心しなさい」
「なんたる安心感……てか、さっきから倒れていた連中、全部アリスさんがやったんですか?」
「そうよ。そもそも、私にゲリラ戦をやらせた時点でこいつらに勝ち目はないわ。恐怖に縋る様子を見るだけでも楽しめたし」
「この人が味方でほんとに良かった……」
桐生も大概だが、アリスと行動を共にして、この人がどれだけすごいのかを改めて再認識した。
別行動をしてはいたが、修二よりも危険な戦いをしていたにも関わらず、彼女は傷一つついていなかったのだ。
「ところで修二君。あなたがこのビルに侵入した時に使った裏口の場所はどこかしら? 正面玄関からは今出られないからさ」
「この階段を下りた裏手にありますよ。正面から出られないのは何故なんですか?」
「……敵がモルフのウイルスを使って、それを味方に感染させたのよ。そのせいで、一階の人間はほとんどが感染させられたわ」
「――そう……ですか」
本来ならば、怒りに震えるところではあった。
人道や倫理観を大きく外れたその行為を許してはいけない。
それは、アリス自身が一番良く分かっているようで、彼女は悔しげな表情を見せていた。
「今は、椎名のことを最優先にしましょう。彼らについては上に報告して掃討させるしかないです」
「分かっているわ。それに、椎名ちゃんを保護する為に移動役も用意してるから」
「移動役?」
疑問を投げかけた修二だったが、ビルの出口に続く裏口へと辿り着いたことで会話は終わり、外へと出た。
そこから細い路地へと出て、修二達はビルの入り口へと辿り着いた。
来た時と変わらない静かな雰囲気は変わらなかったが、そこには一人だけ修二の知らない人間がいた。
天然パーマの髪型をしたその男は、驚くように修二達を見て言った。
「本当に奴らを倒したのか。なんて奴らだよ……」
「言ったでしょ? 私達なら余裕ですって。ねっ、修二君」
「あの、どなたですか? この人は?」
見るからにアリスの関係者とは思えない風貌をした青年だった。
天然パーマの髪型をしたその青年は、頭を搔く姿勢をとっていた。
いかにも、気怠そうな雰囲気を醸し出している。
「紹介するわ。さっき、ビルの中で仲良くなった高尾君よ。彼には運転役を頼んだの」
「ビルの中って……てことは『フォルス』の一味じゃないんですか!?」
「一緒にすんじゃねえよ。俺はあいつらの傘下に無理矢理加えられただけの被害者みたいなもんだ」
修二の言葉に反論して、高尾と呼ばれる青年は苦々しい顔つきをしていた。
それでも納得がいかない修二だったが、アリスは丁寧に説明しようとする。
「彼の言っていることは本当よ。まあ、社会不適合者であることは間違いないのだけれど、いくら無理矢理奴らの仲間にされていたとしても上は許しはしないわ。そこで、私達の運送をしてくれたら身柄を保護するって約束をしたのよ」
「その話、本当なんだろうな? 嘘だと分かったら荷台から吹っ飛ばしてやるからな」
「本当よ。私は一応、アメリカのエージェントに携わる仕事をしているからね。そういう事には手慣れているわ」
「ヤクザを守るなんて聞いたことねえよ……」
呆れ顔になっていた高尾であったが、修二は高尾の言った最後の言葉に気になることがあった。
ヤクザと言っていたが、なんとなく身近にその経験がある者がいたので、既視感を感じたのだ。
「まあ、神田と一緒にしたらダメか」
「――は?」
独り言のように呟いた修二に対して、それを聞いていた高尾は驚くように修二を見ていた。
そして、勢いよく修二の肩を掴んだ高尾は、
「今、何て言った? 神田? 慶次のことか?」
「え?」
「お前が言った奴のことだよ! 慶次のことを知っているのか!? 教えてくれ! あいつはどこにいるんだ!?」
突然の豹変ぶりに、修二も戸惑っていた。
椎名を背負っているので、あまり揺さぶらないで欲しかったのだが、彼は周りが見えていない様子だった。
「落ち着けよ。急にどうした? 神田のことを知ってるのか?」
「知ってるも何も、あいつは昔からの友達だ。生きて……いたのか……」
「ちょっと、さっきから何を話して――」
修二達の会話は、そこから続くことはなかった。
会話を遮るように、ビルの屋上から何かが落ちてきたのだ。
「――なんだ!?」
大きな落下音が鳴り響き、修二達は思わず後ずさっていた。
何が落ちてきたのか、それを視界に入れた時、修二だけではない。アリスも高尾も絶句していた。
奇妙な物体をしたそれは、アメーバのように丸く膨張をしていた。
赤黒い色をしたそれを直視するのも目に毒だったが、問題はそこではない。
その奇妙な物体の一部分。ちょうど地面に隣接する辺りに見覚えのあるものがあった。
――それは、クラウスの持つ袖箭と呼ばれる暗器武器が、腕と一緒にそこにあったのだ。
「まさか、アベルなのか?」
最後に屋上で見たあの時とは、もう元の姿の原型を失っていた。
生きているかのように変異し、膨張して動くそれは、生物と呼んでいいのかすら怪しい。
いや、もはや生物としての定義を覆してさえいる。
「あれは……」
高尾が見た方向、アベルだったものの物体の後ろに、歩く人影がいた。
それは、アリスの言っていた一階でモルフになった者達だった。
「――マズイぞ。早く逃げよう」
「そうね。車を早く出して。修二君、あなたは荷台に乗りなさい」
「分かりました」
修二達がそれぞれ移動の準備を進める中、アベルだったモノに動きがあった。
すぐ近くまで迫っていたモルフへと向けて、無数の触手のようなものが飛び出し、それを自らへと引き寄せたのだ。
「何をしているんだ? あれは……」
「まさか……吸収しているの?」
驚愕に満ちた表情で、アリスはその光景を見て言った。
その言葉通りのように、ビルから出てきたモルフ達はどんどんと触手に絡め取られて、今も膨張し続けるあの物体の中へと引きずり込まれていく。
一体あの中で何が起きているのか、想像もしたくないが、ここが危険であることは間違いがなかった。
「高尾! 早く出しなさい!」
「分かってるよ! 注文の多い女だな!」
荷台に乗った修二は、椎名を寝かせてあの奇妙な物体を注視していた。
こちらへとあの触手を飛ばしてきた時は、銃を持つ修二でしか対処できなかったからだ。
「出すぞ! 掴まれ!」
その警戒は高尾が車を出したことで解消されることとなった。
大型車であるその車両のアクセルを踏んで、修二達はそのままビルを後にしていく。
個人的に書きたかった一話でした。一番書きたいと思っている内容はもっと先の内容でもありますが、それは追々で。
椎名の再生能力は記述通り、世良よりも早い再生速度となっています。
『レベル5モルフ』の謎は今後、どんどんと明かされていきますが、一人一人の能力はチート紛いのものばかりです。
世良に関しても、今回の作戦にもしも生きて参加こそしていれば、出水達はリンドブルムが渋谷に現れた時点で死んでいました。あくまでIFストーリーなので、現状でも生存率はゼロに等しいようなものですが。
そして、早くなってしまいましたが、笠井修二パートはクライマックスに入ります。
次話は30日19時に投稿予定です。




