第二章 第三十四話 『アベル』
「侵入者は女と聞いていたが、どうやら複数だったようだね。女の方はどうなっているんだ?」
「はっ。ノアが様子を見に行くとのことでしたが、現状は把握できておりません。通信機に出ないところをみると、殺された可能性もあります」
クラウスがアベルと名乗る男に対して、敬う姿勢でそう答えていた。
修二の事など気にも留めない様子でいたのは、こちらがすぐに動けないことを分かってのことだろう。
椎名が人質としている以上は、修二も迂闊には動くことができないのだ。
「ふむ。まあ組織の大多数は『死都実行作戦』に出ているからな。やはり、守りを薄くしたのは失敗だったか」
「ええ。ですが、もうじき迎えのヘリが来ます。この男さえ始末すれば、特に脅威はありません」
気になる単語を挟みながら、目の前の男達は淡々と言葉を交わしていく。
相手の動向を見て、特に言葉を発しずにこちらを凝視するエルーへと注視しながら、修二はアベル達の移動方法に驚いていた。
「ヘリ……だと?」
「おや? 屋上に来たのが逃げてきたとでも思ったのかい? 元々、私達はこの場で待ち合わせをしていてね。キミ達が襲撃することは想定外だったのだよ。なにせ、この事態に来るとは考えもしなかったのでね」
屋上にいること自体は、修二も疑問に感じていたことだった。
しかし、ヘリでの逃亡に関してはまるで頭にはなかった。
ここで空へと逃げられれば、追跡することは不可能となってしまう。
手に持つサブマシンガンを強く握り締めながら、事態は修二に託されていることを改めて認識する。
「……あなたはどうしてここにいるの? さっき、私が確実に殺したはず。なのに、傷すら完治させて来たことに驚きを禁じ得ないのだけど」
エルーがこちらへと尋ねて、その額には汗が流れ落ちていた。
まるで得体の知れない者を見るように、修二へと警戒を解いていなかったのだ。
それは、すぐ隣にいるクラウスも同様だった。
だが、そんなことは修二も同じ思いであった。
「……そんなもん、俺が聞きたいぐらいだ」
「ボス。こいつはさっさと始末するべきです。さっき交戦しましたが、不意を突いてエルーが拳銃で腹に穴を空けたのです。虫の息であることもこの目で確認していました。この男が生きていること自体、俺達にはあまりに危険を感じます」
「……なるほど。確かにそれは危険だ。だが、一つだけ聞かなければいけないことがあるだろう?」
アベルは、焦るクラウスを手で諌めながら、修二の方を見る。
クラウスがボスと呼ぶ以上、この男が『フォルス』の組織をまとめていることは間違いはなさそうであった。
「キミは死んだはずなのに生きていた。そして、傷口すら治してここに立っている。その原因すらキミは知らない。……となると、可能性は一つしか残らないことになるが」
「まさか……」
エルーが何かに気づいたように、化け物を見るかのような目で修二を見る。
アベルが何が言いたいかは修二もよく分かっている。
可能性として考えられるとするならば、ただ一つしかないだろう。
「キミは、『レベル5モルフ』ということだ。自覚がないところを見るに、いつ感染したのかも分からない稀有な例だろうがね」
修二の考えの通り、アベルは自らの推測を口に出した。
その推測を否定することは出来ない。
なぜなら、修二自身も同様にそう考えていたからだ。
原因は不明だが、今の自らの現状を考えるとするならば、それが最有力な候補であることは間違いないだろう。
「……仮にそうだとして、どうする? 貴重な実験サンプルとして捕らえでもするつもりか?」
「いやいや、私達はここにいる椎名という名の女の子一人さえいれば十分なのだよ。たとえ、他の誰がこの女の子と同じ『レベル5モルフ』になろうと、それは関係ないことだ」
「――ますます分からない。お前たちは何の為に椎名を攫ったんだ?」
「? もちろん金の為だ。私達はあくまで雇われ人。クライアントが欲しがる物を用意しているだけに過ぎないのだよ」
「――――っ」
その程度の理由で、と怒りに唇を噛み締める修二であったが、修二は押し殺すようにして無理矢理に抑えつけていた。
ここで暴れたところで、状況が好転するどころか、確実に椎名を助けられる保証がなかったからだ。
だが、同時に分かったこともあった。
アベルの言う『フォルス』の組織が、あくまで金で雇われた側であること。
それは、クラウスが話していたことと同じであり、真実ということなのだろう。
裏で大きな組織が動いているということでもあるのだが、その情報が明らかになったことは大きい。
あと気になることがあるとすれば、なぜ椎名を攫おうとしたのかというところなのだが。
「さて、キミが本当に『レベル5モルフ』なのかどうか、そんなことはあまり気にしてはいない。キミの装備を見ても、特殊部隊ということは見て取れている。だが、些か分が悪いのではないのかい? キミ一人でどうにかなる状況でもあるまい」
「――試してみるか?」
「試さずとも分かるさ。クラウス、エルー。テーザー銃を構えろ。お前達のどちらかが死んでも、それでこの侵入者を無力化できる」
修二の挑発に意を介さずに、アベルはクラウスとエルーへと指示を出す。
クラウスとエルーは、修二の武器など気にも留めずに言われた通り武器を取り出す。
テーザー銃とは、長距離型のスタンガンのようなものであり、撃たれた者は射出された電極から高圧電流を受けて局所的な激痛を受ける。
死ぬことはまずないが、無力化されればその合間に殺すことは容易だ。
また、部下の死など厭わないアベルに、何一つ疑問を持たないことに行動する二人を見て、修二は身構えていた。
それほどに忠誠心が勝っているのだろうが、分が悪いというのは事実だった。
お互いに武器を向けあって、膠着状態に陥った状況の中、アベルは「ほらね」と口を開く。
「人質を連れ、挙句には三対一という状況で劣勢なのはむしろキミの方だ。まあ、私は戦闘員ではないので実質は二対一なのだが」
「あんた達にとって、俺は邪魔者なんだろ? なぜ、仕掛けてこないんだ?」
「それは簡単な話だ。キミと話がしてみたかったのだよ」
アベルの口車に乗せられているようで釈然としなかったが、あえてその状況にさせようとしていることだけは分かる。
その気になれば、修二を殺すことなど簡単な話だろうが、それは修二の特異体質を気にしている可能性もある。
『レベル5モルフ』の特性を知っているのならば、あの驚異的な身体能力に関してももちろん熟知しているはずだ。
それを警戒してのことなのか、単純にアベルの言ったとおり、話がしたいだけなのかは判断できないが、修二としては乗せられる以外に道はなかった。
「俺と話って、何を話したいんだ?」
「――そうだね。キミがどこまで知っているかにもよるが、キミは――いや、キミ達は私たちのクライアントについてどこまで把握しているのだい?」
クライアントとは雇い主ということだが、それは修二自身も何一つ把握していないことだった。
ここまで腹を割って話そうとするアベルに奇妙な雰囲気すら感じられるが、嘘をついたところで無意味なことは分かっている。
むしろ、情報を引き出し、時間を稼いでアリスが到着することに賭けた方が状況は好転するだろうと、修二は覚悟を決めた。
「――何も知らない。裏で別の組織が関わっていることは俺も知っているが、全く表にでてきていないからな。あんた達はどうなんだ?」
「残念だけど、キミと同じだ。素性の一つも分からなく、私に接触してきたのも中国系の女性だったからね。ちょうど、待ち合わせにくるのもその女性だ」
「……あんた達の目的は何なんだ?」
疑問を投げかける修二に対し、アベルはその問いを待っていたかのように口元に笑みを浮かべて、
「私たちはね、奴らの情報を少しでも知りたいのだよ。私たちと交渉した時に提示された金は、並外れた程の膨大な金額だった。そんな組織が同業他社としてあることに、我々も気に食わないのだよ」
「なるほどな。それで、一泡吹かせてやりたいと?」
「正確には、同じ土俵に立ってもらいたいとは感じているね。なにせ、我々も組織の命運を懸けてここにいるのだから」
実に悪者の組織らしい考えだった。
『フォルス』だけが前線で動いて、それを陰から高みの見物をしていることに対して気に食わないのだろう。
対立関係になるというのは間違いないのだが、そこは修二としてはどうでもいい。
それよりも、修二が気になる事は、
「その組織は、何の為に日本にウイルスをばら撒くなんて考えたんだ?」
「推測だが、恨みや憎しみがあるのかもしれないな。それをして誰にメリットがあるかを考えるならば、国と国同士のいざこざよりも思想の観点に着目する方が分かりやすい。この国はかなり豊かな暮らしをしているそうだからね」
もしもそうなら、危険思想なんてレベルのもんじゃない。
ふざけた理由もそうだが、そもそも一般市民を対象とした生物兵器の投与など、イカれているにも程がある。
推測を挙げている以上、アベル達――『フォルス』もこのことは知らないのだろう。
「実際、ここにいる『レベル5モルフ』である女の子についても私たちは半信半疑なのだよ。ウイルスに克服し、その特性を自在に扱える存在など、生物の定義をあまりにもひっくり返している。クラウスやエルーはキミを見て信用したのかもしれないがね」
「――なら、俺の方が信用に足るんじゃないのか?」
「というと?」
「椎名じゃなく、俺をその組織に引き渡せばいいのじゃないか? 単刀直入に言えば、俺は椎名を助けられればそれでいい。俺が代わりになりうるとお前の部下も判断がついたはずだ。俺は、それでも構わないと考えている」
問答に交渉を織り交ぜて、修二は慎重にアベルへと問いただした。
ある種の賭けでもあった。
素性も知れない組織は、こと今に至るまでモルフというウイルスに執着している。
それは、御影島での地下研究所の資料データから見ても明らかであった。
連中の目的の中に、『レベル5モルフ』に対する異様なまでの興味を抱いていることは、椎名の誘拐からみても分かっていたことであり、それならば『レベル5モルフ』の可能性を持っている修二を取引の条件に出す事は、連中にとっても都合は悪くないはずなのだ。
「修二……ダメ……」
椎名が、修二の提案を引きとめようと懇願するように促す。
しかし、それを修二は受け入れるつもりはない。
「椎名、俺は自分を犠牲にする為に提案しているわけじゃない。あえて敵の懐に潜り込めれば、やりようはあるかもしれないんだ。それは、こいつらにとっても悪くない条件でもあるはずだしな」
椎名を助ける為に、自らの身を差し出す。
そのことに椎名が反応することは分かってはいたが、修二としても椎名が連れて行かれることを容認できるはずがない。
『フォルス』も、奴らに何かしらの工作を立てたいとするならば、修二の提案は簡単には無碍にできないはずなのだ。
暗に手を組むという意味合いでもあり、正直なところ反吐が出る思いだが、状況が状況だ。
椎名を救出するために、どんな最善手を組むのも厭わないのが今の修二の考えであった。
「く、くくくく」
静寂の中、アベルが手で口元を押さえながら、笑うのを我慢できない様子でいた。
それは、良い意味なのか悪い意味なのか、修二からすれば分からない雰囲気を醸し出されて、修二は続けた。
「あんた達にとっては悪くない条件のはずだ。俺が奴らの中に潜り込めば、多少は情報を得られるはずだしな」
「面白い。キミは面白いよ。まさか、そうくるとは思いもしなかった」
「――――」
「しかし残念だが、その提案は受け入れられない。いや、そもそも前提から不可能だと言っておこうか」
「どうしてっ!?」
提案を拒否されたことに修二は戸惑いの色を隠せず、声を大にして叫んだ。
交渉の場において、感情を表に出す事は一番の悪手なのだが、修二としては理由が分からずにそのことが頭に入っていなかった。
そんな修二の問いに対し、アベルは人差し指を立てて見せた。
「奴らが私たち『フォルス』へと出した条件。それは『椎名真希の誘拐と受け渡し』だ。そこに別の者が介入する術はない」
「ま、て……。だから、俺が代わりになれば……」
「こちらが既に椎名真希を誘拐している以上、その提案には乗れないということだ。さっき、聞いただろう? キミは私たちのクライアントについてどこまで把握している? と――」
アベルの言う拒否する理由の意味が分からず、思わず修二は黙ってしまう。
そうして畳み掛けるように、アベルは根拠となる理由を話そうとした。
「連中が何者なのか、それを知らないのは我々も同じ。もしも椎名真希ではなく、キミを奴らに差し出したとしよう。その時、奴らに我々が椎名真希を渡さなかったとすればどうなると思う?」
「それ、は……」
「当然、反抗勢力としてみなされ、敵対は免れないだろう。そして、キミがここにいる以上、誰かの指示で来たということはもう分かっている事実だ。ならば、連中の一味がそこに潜んでいないという確信はどうとるつもりなんだい?」
「――――」
アベルの言う理由の意味が、そこでようやく理解する事が出来た。
椎名が誘拐されたという事実は、既にこちら側では知れ渡っている情報だ。
連中の素性は分からないが、それはどこに潜んでいるかの問題で、有体にいえばスパイが修二側の中に潜り込んでいる可能性も十分にありうるということなのだ。
その中で、椎名ではなく修二を差し出せば、連中は『フォルス』が椎名を独占したと考える可能性だって十分にある。
つまり、誘拐を実行した時点でわざわざ代替を用意する意味などないということなのだ。
「俺は交渉材料にはまるでならない、か」
「仕方のない事実だ。連中の目的が何であれ、我々は仕事をこなすのみだからね」
交渉が失敗し、修二は警戒の色を強めた。
このまま椎名を引き渡すことなどありえはしない。
戦闘は免れない状況なわけだが、お互いに武器を向け合っている状況では、お互いに無事では済まなくなることも明白だった。
そんな修二の意図ですらアベル達は分かっているのだろうが、気にしない。
何が何でも椎名を取り戻す為に、どれだけこの身を削ろうとも修二は構わないのだ。
「お互い、大変な立場だな」
一言、そう述べて修二は息をつく。
警戒感を身に宿すのはアベル達も同様で、互いにどう動くかを読みあっているような状態だ。
そして――、
「くるぞ。クラウス、エルー」
アベルが目を細め、そう指摘した直後、修二は隠し持っていた細長い針を投擲した。
それは、クラウスが修二の肩に撃ち込んだとされる暗器武器の物だった。
「なっ!?」
目を見開いて驚くクラウスに対し、エルーは冷静だった。
一直線にアベルへと向かう針は、エルーの持つ鉄製の盾のようなもので防がれる。
「ボス!」
「よそ見するな! クラウス、くるぞ!」
一瞬の隙を作ってしまったクラウスに、修二は本命であるサブマシンガンをクラウスへと向ける。
それと同時に、クラウスは修二へと剥き出しになった袖箭を向ける。
「くっ!」
「ちぃっ!」
お互いに撃ち合ったのはほぼ同時だった。
クラウスの放った針は修二の脇腹へと、修二の放った銃弾は、クラウスの腕に直撃した。
「がぁっ!」
「――っ!」
痛みに苦しむクラウスに対して、修二は逆に痛みを無視する勢いでその場から動き出していた。
既に、エルーがこちらへと向けてテーザー銃の銃口を向けていたからだ。
「終わりよ」
駆ける勢いを止めない修二へと向けて、エルーはテーザー銃の引き金を引き、撃ち出された電極のついた針が、走る修二の左脚へと命中する。
「があぁぁぁっ!」
高圧電流が全身へと流れて、修二はその場で倒れ込んでしまう。
全身の筋肉が隆起するような感覚が押し寄せ、痙攣が治らない。
失神しなかったのは幸いなことだったが、体が上手く動かないのが問題だった。
よろめく程度ならば動かせるだろうが、これでは格好の的である。
「クラウス、やれ」
アベルが指示を出し、クラウスは胸ポケットから拳銃を取り出す。
テーザー銃を使用しないことから、完全に修二を殺しにかかっている口だ。
「ちくしょうが……」
最後の力を振り絞って、修二は手に持つサブマシンガンを握りしめる。
だが、力が上手く入らずに、照準を合わせることすらままならなかった。
「動けよっ、俺の体……! こんな時だけ動かないでいてどうするんだっ!」
都合悪く、ここに来るまでに起こった身体能力の異常さは発揮されなかった。
たまたまなのかは分からないが、あの特異性は何かしらの条件があるようにも考えられたのだ。
そんなことを気にする場合ではなかったが、状況の打開の為に、修二は一瞬の時間の中で思考を巡らせる。
クラウスはもう、こちらへと拳銃を向けており、引き金を引こうとしている。
あと数秒もかからずに、放たれた銃弾は修二へと撃ち込まれるだろう。
そうなれば、虫の息となった修二に発砲し続けるだけで全てが終わってしまう。
エルーはテーザー銃を持つ手を下げて、修二の死ぬ瞬間を黙って見ていた。
もう自分が何もせずともこれで終わることを確信しているのだろう。
アベルは最初の出会い頭と同じように、涼しい様子で修二の方を見ていた。
彼もエルーと同じ考えなのだろう。
自分が死ぬことなんて、微塵も考えていないような素振りだった。
そして、椎名は――、
「――え?」
△▼△▼△▼△▼
銃声が鳴り響き、目の前の光景に何が起きたのか頭で理解が追いつかずに、呆然とした様子で修二は声を出していた。
修二の顔は、血が塗れるようにして赤く染まっていた。
クラウスが発砲したことは間違いなく、それでも修二には痛みは何一つ感じられなかった。
アベルも、エルーも、クラウスも、そして笠井修二も、皆が同様に目を見開いていた。
なぜならそれは――、
「椎名!!」
椎名が、修二を庇うようにして射線の間に入り、肩から撃ち抜かれていたからだ。
フォルスのメンバーは基本、初見殺しのような武器を使うことが多いです。
何をされたのか分からないと思い込ませることで、相手の混乱を誘いながら殺しにかかることがほとんどですが、相手の手持ちさえ把握できれば制圧は然程難しいわけでもない。
特に桐生と対峙したエンリケはもう一つ手持ちの武器はあったようなものなのですが、桐生の適応能力が高すぎて一瞬で決着がついたという感じです。
また、修二サイドにスパイがいる疑惑が浮上していますが、その大きな理由はなぜ、椎名の居場所がバレてしまっていたかという点に大きく絞られるのと、風間が指摘していた自衛隊を一極集中させた隙を狙われた点です。
普通に考えてもタイミングが良すぎるのは何人かは気づいている状況です。




