第一章 第零話 『世良望 =』
つまらない人生だ。
彼女は、毎日毎日そう考えていた。
まだ十三年程しか生きていない彼女は、その短い人生でもってそう考えていた。
唯一、楽しい時があったとすれば、それは人を殺め続けてきたまだ自分が十歳の頃だった。
「今日から、君の名前はイリーナだ」
銀髪の男にそう言われて、彼女は生まれて初めて名前を貰った。
生来のことだが、彼女は父と母の存在を知らない。
このロクでもないスラムの一人だ。
どうせ、売女とそれを買った男の間に生まれて捨てられたのだろうと思っていた。
ただ一人で生きてきた彼女は、とある日に自分に名前をつけた男、銀髪の男に声を掛けられた所から人生が変わった。
肥溜めのような腐った生活をしていた彼女にとって、もはや飢餓で死ぬしかなかった状況だ。利用して、金目の物を奪ってやろうと考えていたが、そうはならなかった。
銀髪の男は、優しく手を差し伸べて、生きるのに困らない程度の衣食住を与えてくれた。
その間、何度か殺してやろうとナイフを向けたこともあったが、まるで敵わない。
だが、その男はそれでも彼女を見捨てなかった。
それどころか、その男は彼女にこう言ったのだ。
「君は俺と似ている。いや、同類と言っていいだろう。世界を変えることができる、そんな才能の持ち主だ」
最初は、何を言っているのか全く理解ができなかった。
だが、この男はイカれた狂人であることだけは分かった。
それから、彼女は人を殺める為の術を銀髪の男に叩き込まれた。
役に立たないことはない。スラムで生きてきた彼女にとって、周りの人間は全て敵であったのだ。
死と隣り合わせの生活をしてきた彼女にとって、護身術を得る事は素晴らしく頼もしいことだった。
実際に教えられたことを実践して、人を殺めたこともある。
心はまるで痛まなかった。むしろ、高揚感に掻き立たれて、もっと殺したい、殺してやりたいとさえ思っていた。
その様子を見ていた銀髪の男は、彼女と同じように狂人のような笑みを浮かべて言った。
「やはり、お前は俺と同類だな」
言葉の意味は分からなかったが、彼女はさして気にはしなかった。
銀髪の男と過ごして一年が過ぎた頃、彼女は暗殺術だけでなく、語学に関しても教えられた。
日本語というらしいが、この国においてそれが何の役に立つのかが分からなかった。
とある島国における公用語らしいが、今後何かに使うことがあるのかと考えていた時に、銀髪の男はこう言った。
「君には、日本という国に一時的に住んでもらう。そこで君は安泰な生活を送り、来るべき時を待つんだ」
最初は、この男に見捨てられたのかとさえ思われた。
銀髪の男に連れられた先は、この男の仲間だろうか、屈強な肉体をした人の集まりの元へと来ていた。
「紹介しよう、彼女はイリーナ。これから組織の一員となる存在だ。皆、失礼のないように」
銀髪の男がそう言った直後、屈強な肉体をした人達の見る目は変わった。
まるで、讃えるように跪き、彼女を歓迎したのだ。
聞くところによれば、この組織は長い間、世界の中でも公表されていない特殊な組織だそうだ。
なぜそれが公表されていないのかは分からなかったが、組織にとっては都合が良いものだったのだろう。
彼らは国ができない非人道的な実験や、密売、暗殺等を買って出る組織のようだった。
この銀髪の男は、恐らく組織の中でもかなり上の地位に属していることも、周りを見ればよく分かる。
それから二年が経ち、十二歳になった頃、彼女は日本へと密入国をした。
戸籍情報を現在日本にいる組織の一人の娘として入れ替わることによって、彼女はそこにいたように見せかけるようにできていた。
名は、今までのイリーナではなく、世良 望として名を変えて生きていくことになった。
こうも簡単に潜入することができたことに対して、なんという杜撰な体制の国なのだろうかと考えていたが、それよりも勝る感情があった。
それは、驚きと退屈だ。
海を一つ隔てたその先にあるこの島は、驚く程に技術が発展しており、その島の住民は裕福な暮らしをしていたのだ。
最初は許せなかった。国が違うだけで、ここまで不平等な生活の差があることを世良は知らなかったのだ。
だが、次第にどうでもよくなっていき、こう思うようにもなった。
――退屈だな、と。
この国では、殺人や傷害事件は起こるらしいが、それでも微々たるものだ。
世良がいた国では、一日に何人もの人が死んでいた。
そんな世界で生きてきた彼女にとって、当時は抜け出してやりたいと思っていたのだが、この日本という国にきて考えは変わった。
あの頃の、人を殺してきた生活の方が楽しかったと、そう思ったのだ。
この国は、全てが退屈だ。
朝から働きに出る男、遊びに出かける子ども、買い物に出かける女の人。
全てが、まるで国に洗脳されているかのように傀儡の動きをする彼らを見て、反吐が出そうになった。
元々、人間は殺し合う生き物だ。奪い奪われ、そうやって人間は繁栄してきたのだ。
それを馴れ合うかのようにして生きている彼らは、なんとも保身が強い連中なのだろうかとさえ思う。
縛られて生きることを選んだこの島の住民に、この先ロクな結末はないだろうと世良は考えていた。
そんな日々を過ごす中で、世良は退屈のあまり、自殺衝動に駆られた。
銀髪の男は来るべき時を待てと言った。
元々、我慢が強い性格をしていた訳ではないので、限界が来るのは早かった。
死ぬことは簡単だ。
両手があれば、自分の首を絞めて死ねることもできるし、ナイフがあれば尚簡単だろう。
誰も止める者はいないので、その日の夜に決行しようとした時、電話が鳴った。
電話の声は、知らない男だった。
「世良望君だね。君には今から御影島へと来てほしい。そこで、見てもらいたい物があるんだ。拒否権はない」
唐突にそう言われて,電話は切られた。
見てもらいたい物と言われて、世良は少し気になった。
銀髪の男が言う、来るべき時が来たのかと思っていた世良は、すぐに準備をして御影島へと向かった。
船で向かった先は、日本本土から六時間もかけてくる遠い島だった。
そこで、世良は組織の一人と合流して、島の山間の中にある古びた古屋へと連れてこられた。
こんな場所になんの用があるのかと思っていたが、そこはカモフラージュだった。
地下に進む梯子があり、そこから降りて向かう先は研究所のような場所であった。
「おお、君が世良君か。待っていたよ」
髭を生やした老人が、待ち侘びたように椅子に座っていた。
「君の育て主から連絡がきてな、ぜひとも君に見てほしい物があるとのことで、ここに呼んだのだよ」
育て主とは、恐らく銀髪の男のことだろう。
こんな遠い場所まで呼んで、一体何なのかと思っていた矢先、髭を生やした老人はリモコンのようなものを取り出した。
「この地下にある、とある実験室の映像だがね。まずは驚くかもしれないが、これを見てくれ」
リモコンのボタンを押して、モニターに映し出されたのは、何の変哲もない部屋だ。
そこには一人の人がいた。
これが一体何なのかと訝しんでいたが、何かがおかしい。
モニターに映る男は、普通の人間とは思えない挙動をしているのだ。
「ふふふ、驚いたかね? この男は、実はもう生きてはいない。死人なのだよ。死人が生き返り、今この時も、この部屋の中で生きているのだ」
確かに、モニターに映る男は、生きているように思われない。
首を爪で掻きむしったのか、致命傷に至るほどに、傷口は抉られていた。
だが、一つ気になるのは、これは本当に生き返ったというべきなのだろうか?
生前の頃を知るわけではないが、とても普通の人間とは思えない挙動をしているのだ。
「やはり、気になるかね? 先ほどは感極まったこともあって間違ったことを言ったが、実際は違う。この男は、もう死んでいるのだよ。今、この男の身体を動かしているのは、人間の意識ではない。モルフと呼ばれるウイルスによるものだ」
モルフ。
そう言った老人の話の聞いて、世良は最初、信じられなかった。
人間は死ねば、何者にもその身体を動かすことはできない。
そんな理をぶち壊すように、ウイルス自身が可能とさせたのだ。
「おっと、そういえば自己紹介がまだだったね。私の名はイヴァン。君と前の名前と同じ、ロシア人だよ」
イヴァンと名乗る老人は、重い腰を持ち上げるように椅子から立ち上がった。
「君にこの映像を見せたのは、これから私たちがやることを君に伝える為の信憑性をつけさせる為だ。このウイルスには、まだ奥深いものがある。それを知れば更に分かるだろうが、このウイルスは世界を壊すほどの力がある。それは、世界最大の軍事国家であるアメリカでさえもな」
話の概要がよく分かってきた。
恐らく、組織はこのウイルスを使って、戦争を仕掛けるつもりということなのだろう。
だが、これだけ聞いてもまだ夢物語のように感じられる。
ただ、人を死なせるだけのウイルスが、どれほどの感染力になりうるのかは分からないが、大国を滅ぼすなど、この小さな組織にできうる筈がない。
それに、世良にとっては拍子抜けな話であった。
何かもっと面白い、楽しめるような話を期待していたのだ。
でも、結局のところ、見せられたのはたかが人を死なして動かすことのできるウイルスの紹介だけだった。
益々、自殺願望が強くなった世良は、イヴァンという老人にとある提案をした。
「な、なに!? 何を言っているんだ君は!?」
驚き、異常者を見るような目で見られても、世良は何とも思わなかった。
世良が提案したのは、モルフと呼ばれるウイルスを自分に打ち込め、ということだった。
この世界に対する未練が無くなり、どうせ死ねる方法があるならば、そのウイルスを使ってやろうという魂胆だったのだ。
「それは、自らが実験体に志願するということなのか? それが何を意味するのか、君は本当に分かっているのか?」
いちいちうるさいジジイだ。
心の中でそう呟きながら、世良は頷いた。
実験体だろうがなんだろうが、死ねるのならば気にしなかったのだ。
「……分かった。そこまで言うのならばやろう。今すぐでいいのかね?」
こくりと頷き、イヴァンは世良を連れて、地下研究所の最下層、実験室のような場所へと連れていった。
目の前には、四方一面、白一色の部屋の作りとなっており、唯一違うのは一箇所だけガラスで隔たれた窓のようなものがあるぐらいであった。
そして、その中に世良は一人入り、その手には注射器が握られていた。
「それを人体に打ち込み、ウイルスを注入すれば確実に君は感染する。はじめは、意識が混濁するような感覚に襲われるだろう。痛みも何も感じないが、一時間もせずに君は死に至るはずだ」
先ほどとは違い、部屋の中に取り付けられた拡声器からイヴァンの声が聞こえた。
このウイルスは、どうやら感染者に痛みを感じさせずに死をもたらすようであり、安楽死として見るならば、都合が良いものだと思われた。
特に迷うこともせず、世良は注射器の針をその左腕に刺した。
注射器の中の液体が体内に入り、世良はその瞬間、急激な眠気が襲いかかってきた。
説明された話と違っていた為に困惑したが、世良は身を任せるようにその場で倒れる。
意識が混濁し、頭の中では何も考えることができないでいた。
それなのに、心は安らかだった。
恐怖も不安も感じず、ただ心地よい、そんな感覚だったのだ。
これが死と言うのならば、なんと良いものなのかとさえ感じるほど、世良は静かに眠っていった。
どれほど時間が経ったのか、死後の世界は意識さえも残るのかとも思われて、世良はその手を動かした。
「?」
何故なのか、身体を動かせる感覚がある。
死んだと思っていた筈なのに、身体は残っていたのだ。
目を開けてみると、そこは先ほど自分が立っていた四方一面、白一色の部屋だった。
生きていた。
致死率百パーセントと言われたこのウイルスに、自分は生き残ったことを理解した。
身体が妙に軽く感じる。
人間の身体ではないような、不思議な感覚だ。
どうして生き残ってしまったのか、世良にはまるで分からないでいた。
もはや、夢であるかのような、そんな様子さえ感じさせるほどに。
「い、生きている……! 生きているのか! 世良君!」
拡声器から見知った声が聞こえた。
最後に会話した人物、イヴァンの声だ。
「なんということだ! 君は克服したのか!?」
驚くような、そんな声が続いて聞こえた。
確かに、今自分は生きている。
それを伝えるように、世良は拡声器の声の主に今の自分の状態を伝えた。
「まさか、そんなことがありうるとは……。今、そこの扉を開ける。少し待ちたまえ」
イヴァンは、実験室の扉を遠隔操作で開けた。
実験室の外に出て、そこにいたのは武装した地下研究所の人間達だった。
「まだ、君が本当に克服したのかの確証を得たわけではないのでね。申し訳ないが、少しだけ付き合ってくれ」
銃器を向けられながら、世良はイヴァンのいる研究室の中へと移動を開始した。
この反応は、自然なものだろう。
なにせ、世良の状態は前例のないものだ。
もしかすれば、今この瞬間に世良が意識を失い、人を襲う化け物となっていてもおかしくはなかったからだ。
その後、世良はモルフについて詳しく知ることとなった。
モルフには感染段階があり、死後、ウイルスが身体を支配した後には四段階の進行段階があること。
そのどれもに当てはまらないことから、世良はウイルスを克服した者として、『レベル5モルフ』という唯一の感染段階の称号を得ることになったこと。
以前と違い、あり得ない程の身体能力を得て、更には感染者である者を自由自在に操ることも後で知った。
そして、時が立ち――。
△▼△▼△▼△▼△▼
「はい、皆さん。今日は転校生の紹介をします。世良さん、どうぞ」
「は、初めまして。せ、世良望と言います。皆さん、よ、よろしくお願い……します」
辿々しい口調で、世良はクラスメイトとなる生徒達へと自己紹介をした。
クラスの生徒達から一心に視線を浴びて、よそよそしくも演技のように上手くクラスの中へと入っていくことができた。
元々、世良は『レベル5モルフ』になる前から、この学校へ入ることは決まっていた。
本来の世良望は、中学の時から引きこもりという設定で、もうこの世にはいないが、入れ替わる形でこの日本に来ていたのだ。
研究と実験を経て、上層部より世良のクラスを実験に使うことになったのはこの後のことになる。
「世良ちゃんだよね? 私、椎名真希っていうの。よろしくね」
クラスに溶け込む気もなかったが、一人でいたある日、隣の席にいた同級生が話しかけてきた。
「世良ちゃんって、瞳が綺麗だよね。カラコン入れてるのかな?」
馴れ馴れしくも話しかけてくる、椎名という名の女子生徒は、陽気な女の子であった。
世良は、学校生活というものが分からず、困っていたところを椎名はよく助けてくれる。
「世良ちゃん、一緒に学校行こ!」
気づけば、登校時も一緒にいる仲となった。
平和ボケしたこの国で、はじめはうんざりしていたのだが、このような生活も悪くないと思う自分もいた。
いや、そうではない。
この子だけは特別なのだと、そう感じる自分がいたのだ。
他の誰よりも、椎名は世良という存在を見ていてくれた。
あの銀髪の男と同じくらいの、それほどにだ。
椎名には幼馴染と呼べる存在がいた。
二人とも同じクラスにいて、高校生になった今でも仲が良いとのことである。
朝の登校時、よく話しかけてくるが、彼らは世良に対しては好意的な印象であった。
その一人である笠井修二という男は、普段はうるさい二人組とつるんでいるのだが、クラスの中でも嫌な役目を率先して引き受けたりなど、他者に甘い性格をしている。
それ以外は、特に目立った能力を持ち合わせていないのだが、高校生の中で言えば普通であろう。
もう一人の幼馴染、立花陸と呼ばれる男は、笠井修二と違い、筋肉質なガタイの持ち主だ。
大したほどの者でもないが、彼も幼少期から椎名と仲が良い存在である。
幼馴染から椎名を知る彼らを、世良は羨ましくも感じた。
椎名は、世良にとっていつの間にか、なくてはならない大切な存在となっていたのだ。
そんな彼女を御影島の実験に参加させることを、最初は反対していた。
だが、ふと思うこともあった。
世良だけが唯一得ることになった『レベル5モルフ』の力、これは本当に世良だけにしかなることができないのか、と。
あれから実験に実験を重ねても、世良と同じように『レベル5モルフ』へと至る者は誰一人として現れなかったの報告は受けている。
だが、それは『レベル5モルフ』になる為の条件を満たしていないからではないかとも考えられた。
それを調べようと、世良は再び御影島にある地下研究所へと向かった。
『レベル5モルフ』である世良を、拒む研究員は一人を除いていない。
拒むとすれば、それはあの女だ。
日本人の研究者らしく、白衣に身を包んだ彼女は、世良のことを何故か毛嫌いしている。
時折、汚い言葉を浴びせてくることもあるが、一応は組織の上の位置に属する者の一人の為、殺したりはしなかった。
それに、それをしようとすれば、間違いなくこの地下研究所は血みどろの惨劇になるだろう。
それほどの実力者であることも、事前に聞いている。
歓迎されるように案内されて、辿り着いた先はイヴァンの研究室だ。
「おお、世良君かね。久しぶりじゃないか。どうだね、あれから調子は?」
イヴァンは、久しぶりの再会に喜んでいた。
世良は、別にイヴァンに会いたいわけでこの研究所へ来たのが理由ではないが、用はあった。
「何? モルフの実験記録データが見たいと? 構わないが、何か気になることでも?」
それをこれから調べる為に、聞いていたのだが、イヴァンは何も言わずに資料を渡してくれた。
資料を見てみると、やはり全ての被験者は同じ感染段階を踏んでおり、世良に近い現象を持つ者は誰一人としていなかった。
だが、一人だけ。ただ一人だけ、気になる被験者がいた。
それは、『レベル3モルフ』へと至った者の一人だ。
この者は、感染させる為に、感染した妻に噛まれることによってモルフとなった被験者であった。
この『レベル3モルフ』の男は、他の被験者と違い、ごく稀にだが、奇妙な声を発していたとされている。
それは、聞き取りづらい声で妻の名前を発していたとされているが、あまりにも声が乱雑で聞き取りずらい為、気のせいであるともされていたようだ。
だが、世良はこれを見て、確信した。
恐らく、『レベル5モルフ』になりかけていた近い者だ。
ウイルスに負けて、最終的にはその身体を支配されることになったのだろうが、間違いない。
『レベル5モルフ』になる為の条件は必ず存在する。
その条件は世良だけが理解して、他の誰にも話さないでおこうと心に決めていた。
そして、この先どうするかももう決めていた。
△▼△▼△▼△▼△▼
時が立ち、御影島への大規模実験が始まる一週間前のことだ。
世良の家に、あの銀髪の男がやってきた。
何年ぶりになるのか、もはや分からなかったが、その風貌は以前とまるで変わっていない。
「久しぶりだね、イリーナ。いや、今は世良望、か」
以前の名を呼び、訂正した銀髪の男は涼しげに世良の名を呼んだ。
「君には言っていたな、来るべき時を待て、と。今回、御影島での実験はその前哨戦だ。まさか、君がその特異点である『レベル5モルフ』になるとは思いもしなかったが」
「わざわざここまできて、何の用事で来たのかな? 世間話で来たわけじゃないのだろう?」
返すように、世良は銀髪の男に尋ねた。
そう、わざわざこの日本に来て、それだけを話す為に来たわけがないことは分かっていた。
その言葉を待っていたように、銀髪の男は口を開いた。
「世良、君は何か隠し事をしているのではないかい?」
「――――」
核心をつくように、銀髪の男はその双眸に宿る瞳で世良の目を見た。
この男が何を言っているのか、すぐに分かった。
恐らく、『レベル5モルフ』になる為の条件だ。
誰にも話さなかったが、何故それがバレたのかが分からない。
動揺の色を隠せなかった世良は、銀髪の男にそれを見抜かれて、その肩に手を置いて言った。
「君が、君だけがそれを独占するのはいただけない。その特異点は、選ばれし者が有すべき力だ。分かるかな?」
まるで、全てを分かっているかのように、絶大なプレッシャーが世良へとのし掛かる。
あえて説明するまでもないが、世良が例え、この銀髪の男と差し違えたとしても、世良にはまるで勝ち目はない。
それは、『レベル5モルフ』の力があっても無くても同じことだと、世良は自身で理解していた。
それ程に、この男は底が知れないのだ。
だから、問答だけで言葉を交わすことにした。
「死ぬかもしれないのに?」
「そう言うということは、君は俺がその特異点になりうる可能性があることを分かっているということだろう?」
見透かされている。
もはや、これ以上の問答は不要だろう。
世良は、『レベル5モルフ』への到達条件を彼に伝えた。
「なるほど……。くく、はははは。そういうことか! 素晴らしい、ならば俺も『レベル5モルフ』への条件を満たしているではないか!」
「何を言っているのか分かっているのかい? なぜそうも自信満々に言えるのか、僕には理解できないな」
「何を? 分かったことを。なれるさ、その条件は、今の君と俺が合致していることだからだよ。簡単な話さ」
「もしも、今の僕にそんなことを考えてもいなかったらどうするつもりなんだい?」
「無論、それは俺が選ばれない存在であったと、それだけの話さ。だが、問題はない。必ず俺は選ばれる。その確信はある。だから、俺を感染させろ」
微笑の果てに、最後、そう強く言い放った男に対して、世良はため息をついた。
そして、銀髪の男の要求通りにしてやった。
△▼△▼△▼△▼△▼
日の出が差し込み、世良はもう使うこともない生活していた家の前に立っていた。
「この世界はつまらない」
かつて、考えていた悩みを彼女は言った。
動きやすい格好をして、世良は荷物が入ったカバンを地面に置く。
「この世界は、一度リセットしないといけない」
彼女はただ一つの目的を掲げて、朝日を見つめている。
後悔も何もない。
元々、彼女は死のうとしていたのだ。
それは、『レベル5モルフ』となったことで阻止されたが、今は自殺願望を感じることなどは微塵もなかった。
「だから、僕が世界を支配するんだ。彼女と一緒に……」
凶悪な計画の中で、世良は一人、組織とは違う目的を心に秘めていた。
その心の中を知る者は、恐らくこの世界に誰一人としていないだろう。
組織の連中も、銀髪のあの男も、世良の本意は分からない。
きっと、この時の為に自分は生まれてきたのだと、そう思った。
この愚かな世界を壊す為に、自身だけが『レベル5モルフ』の条件に合致しなくとも、その感染段階に足を踏み入れることが出来た。
これは天命であると、世良の中で信じ込んでいたのだ。
「世良ちゃーん! こっちこっち!」
世良の名を呼ぶ声が聞こえた。
それは、彼女が守りたい存在、椎名の呼ぶ声だ。
「待たせてごめんね。荷物確かめてたら遅れちゃって」
「う、ううん。大丈夫だよ。僕も今、家から出たところだから」
「そっか。じゃあ行こっか! 今日の旅行は楽しみだね!」
今日は、クラスメイトの皆で御影島への旅行へ行く日。
それは全て組織と世良が計画し、仕組んだとされる運命の日であった。
何も知らない椎名を巻き込むことに、最初は気が引けていた。
それでも、彼女は必ず死なせない。
この笑顔を独占する為に、世良は世界の全てと戦うことを決意する。
選ばれし者だけが生きる、最高の世界の創造をするために、世良はその足を踏み出した。
「そうだね、行こうか」
彼女の覚悟は既に決まっており、もう止まるという選択肢はどこにもなかった。
そして、世界は知ることになる。
世良の行いが、その結果が生み出すものが何になるのか。
朝焼けの陽射しが、二人を照らし続けていた。




