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Levelモルフ  作者: 太陽
最終章 『終末の七日間』
228/237

Phase7 第八十話 『心』

 E区画、セントラルシャフト・コントロールルーム――。

 軍事兵器の扱いに際して、重要な設備を扱う上でのその中では、今も死闘が繰り広げられていた。


「おおおおおおっっ!!」


「――――」


 戦っているのは二人の命ある存在。人間とモルフ、二つの生物が命の奪い合いに興じていた。

 自身の存在がまだそこにあることを確かめる為に雄叫びを上げ、目の前の敵と戦う神田慶次。

 彼の前には、固有能力である朱き眼と身体能力強化を使い、人間であれぼ到底成し得ないであろう速度でもって動き回るリーフェンがいる。


 視野が広がり、集中力が極限なまでに底上げされた神田慶次ではあったが、それでもリーフェンの動きの全てを見切れているわけでは決してない。

 目に見えぬ速さを体現させているリーフェンは、神田慶次の視界には残像のように微かに見えているだけだ。

 それでも対抗できていたのは、彼の長所でもある敏捷性の高さが功を成してだからに過ぎない。


「はぁっっ!!」


「くっ!!」


 針の穴に糸を通す繊細さのように、リーフェンの手に持つレイピアによる刺突をギリギリで避け、神田慶次の右肩が抉られる。

 それだけで済んだだけでも奇跡だった。串刺しになる筈だったその刺突を受け流すことができたのは、リーフェンが攻撃態勢に入る瞬間に反応し、次の動作を間に合わせることができたからだ。

 対するリーフェンも、固有能力である朱き眼の力をフルに活用し、神田慶次の動きの先を見ていた。


 神田慶次の一挙手一投足――呼吸や目線、全てを眼で見た情報から逆算し、確実に刺突を命中させる為のタイミングを見計らっていたのだ。


 この状況の中で、分が悪いのは変わらず神田慶次の方だった。

 極限集中状態を体現する神田慶次であっても、今のリーフェンを止めるまでには至ってはいない。

 これがもしも、両刃刀をリーフェンが失っていないとすれば、決着は一瞬だっただろう。

 出水陽介が、清水勇気が、シャオが、アリスが、ニックスが、命を賭して繋いだ結果がここまでの状況を生み出すことに成功していたのだ。


 だから、ここからは神田慶次がどう踏ん張るかが勝負の要となる。


「らぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」


「――っ!」


 自身の右肩を抉られた瞬間、そこから反撃する為に神田慶次はサブマシンガンの引き金を引き、銃撃を放つ。

 が、何度も行われたそのシチュエーションに、リーフェンも読んでいた。

 右足に力を入れ、地面を蹴った彼女は、神田慶次の頭上を飛び越えて銃弾を躱した。

 この瞬間、神田慶次は次なる一手を既に考えつき、その動作に入っていた。


「そこだっ!!」


 左手を振るい、リーフェンの着地地点へと振り向いた神田慶次は、痛む右手を我慢しながら着地地点へと銃口を向けた。


「――――」


 リーフェンも、その瞬間に神田慶次へと朱き眼で姿を捉えて、着地地点へと降り立つ。

 今までなら銃弾を躱す為に避ける動きをしていた彼女であったが、その瞬間、リーフェンは神田慶次のいる方向へと目掛けて真っ直ぐに突っ込んできた。


「――っ!」


 そのタイミングに合わせて、銃撃を放つ神田慶次。しかし、リーフェンにはその銃口からどこに銃弾が飛ぶかを眼でしっかりと捉えていた。

 射出される銃弾の全てを避け、ただの一発もその身に受けることなく、リーフェンは一瞬にして神田慶次の懐にへと迫った。


 その瞬間を、神田慶次は狙っていた。


「がっ!?」


「――ッッ!?」


 互いの距離が縮まった瞬間、足元が爆発して、両者が吹き飛ばされる。

 何が起きたのか、リーフェンにはこの時は分からなかった。

 神田慶次は何もしていなかった。ただサブマシンガンの引き金を引き続けていただけなのは眼で見続けていたから分かる。

 なのであれば、地面が突然爆発したのはどういうことなのか――?


 リーフェンは左足と腹部に痛々しい傷を残し、白く染まっていた白装束が大量の血に濡れて、まだそこに立っていた。

 神田慶次も、爆発の影響で全身に裂傷を負って、立ち上がっていた。


「何を、したの?」


「お前……その眼で全て見透かしているんだろ? だから、視線を俺から外した瞬間に……仕掛けたんだよ。俺の足元に、手榴弾をな」


「――――」


 信じられない行動を取った神田慶次に、リーフェンはそこで初めて驚きの表情を浮かべる。

 サブマシンガンの銃撃を避け、神田慶次の頭上を飛び越えた瞬間、リーフェンは確かに神田慶次から視線が外れていた。

 この瞬間だけは、神田慶次の動作を見ていないのだから、リーフェンには何をしたのかが分からない。だから、神田慶次は自身の体もろとも犠牲にする覚悟で足元にピンを引き抜いた手榴弾を転がしていたのだ。

 銃弾を眼で見て避けることが出来るリーフェンでも、見えていない攻撃には反応することができなかった。


 しかし、そうだとしても、自分の身を犠牲に打ち出したその作戦は狂気の沙汰とも言えるものだ。


「結構……効いてるようだな。その様子だと……」


「それで、勝ったつもり? もう、あなたもボロボロ」


「……そうだな。だから、死んでもお前はここで食い止める」


「……そう」


 もはや、この戦いに終わりがあるとするならば、どちらかが死ぬまで――互いにそれを再認識し、傷だらけの体を無理に動かそうとしていく。

 リーフェンにはモルフとしての能力、再生能力を有しているのだが、そう簡単には行使はできないだろう。

 神田慶次との戦いにおいては、この男がそれを許すとは到底考えられないからだ。

 神田慶次は甚大な怪我を受けているにも関わらず、それでも戦う姿勢を崩してはいない。


「――――」


「――――」


 互いの体から地面へと血が流れ落ち、それでも二人の眼は相手を見て離さない。

 お互いに譲れない信念がある以上、それがぶつかり合うのも戦争の一つだ。

 目の前の相手を殺さない限り、互いの目的は達成されることはない。もはや、二人に話し合うという選択肢はとうに無くなってしまっていた。


 ここから先の戦いは、血に汚れた泥臭い死闘だ。


「ふっ!!」


「っ!」


 最初の一歩目から歩くスピードで動き出し、そのまま加速して神田慶次の懐へと迫るリーフェン。今までの異次元速さではなく、神田慶次の目でも見えるスピードだ。

 しかし、それでも速いという事実は変わらず、レイピアによる刺突を躱し、蹴りでの牽制で距離を離させようとする。


「かぁっ!!」


 しかし、リーフェンは構わなかった。

 神田慶次の蹴りを腰に受け、その不安定な体勢のまま神田慶次の左肩へとレイピアへと刺突をぶつける。


「くっ!!」


 神田慶次の左肩を、リーフェンのレイピアが貫く。

 血と共に肩を貫かれた痛みが襲いかかり、神田慶次はそれでも意識を集中させる。

 ここで引けば、死が確定する。引けば終わり――ならば。


「おおおおおおおっっっ!!」


「――――っっ!?」


 右足を振り上げ、リーフェンの側頭部へと蹴りを放つ神田慶次。渾身の蹴りは脳を揺さぶり、神田慶次の左肩に刺さっていたレイピアが抜けて、数メートルの距離が空く。


「あああああああああっっ!!」


 射程距離――神田慶次はすかさずサブマシンガンの引き金を引き、リーフェンは目掛けて銃撃を放つ。


「ま、だ……っ!!」


 体勢が崩れたリーフェンは、朱き眼の能力をフルに活用し、その場で体を逸らしながら銃弾を躱していく。

 躱し、そしてタイミングを見たリーフェンは一歩で神田慶次の懐へと距離を詰める。

 レイピアによる連続の突き。神田慶次は顔面へと迫り来るレイピアの刺突をギリギリで躱しながら、リーフェンの腹部へと蹴りを入れ、再び距離を空けさせた。


「――っ!」


「ふっ!! ――かはっっ!?」


 執拗に神田慶次の懐へと迫ろうとしたリーフェンであったが、彼女の体はそこで悲鳴を上げた。

 度重なるダメージをその身に受けていたリーフェンは、内臓の血が溜まり、口から吐血したのだ。


 その隙を神田慶次は見逃さない。


「おおおおおおっっ!!」


「ぐっっ!!」


 再びリーフェンへと放たれる銃弾、それは躱されることなく、リーフェンの腹部と胸部に当たる。

 勝負は決した。客観的に見れば、誰もがそう感じたことだろう。

 しかし、今戦っている二人はそんなことは一切考えていなかった。


「っ、あああああああああっっ!!」


 声を張り上げ、リーフェンはその場から動き出し、銃撃に構わずして神田慶次へと突撃を図る。


「――っ!」


 血迷った判断だとしても、油断はしていなかった。

 神田慶次はこの瞬間に仕留めようと、サブマシンガンの引き金を引き続け、リーフェンを殺すことに賭けた。

 だが、止まらない。あれほどの銃弾をその身に受けながら、速度を落とさずして接近してくるリーフェンに、神田慶次は隙を生んでしまう。


「がっ!?」


 リーフェンの刺突を躱そうとした神田慶次だったが、間に合わない。

 彼の頭部目掛けて放たれた刺突を躱そうとしたが、判断が一歩出遅れてしまった神田慶次は、左目を刃が掠り、目を潰されてしまう。


「あああああああああっっ!!」


 勢いに吹き飛ばされ、神田慶次の後方へと転がったリーフェンは地面を蹴り、再び地面を、障害物を、天井を蹴って縦横無尽に跳ねていく。

 左目が全く機能しなくなった神田慶次は、失った左目のことなど後にして、残る右目でリーフェンの姿を捉えようと振り向いた。


 もう少し、もう少しのところまできている。

 どれだけ血が外に溢れ出したのか、もう自分自身でも分かっていない。

 体が冷たくなる感覚がよく分かる。意識が崩れていく感覚も確かにある。

 それでも倒れるわけにはいかない。この女をここで食い止める為に、全てを犠牲にしてでもここで食い止める!!


「こいっ!!」


「――っ!!」


 サブマシンガンの銃口を真っ直ぐに向け、リーフェンの先手を彼は委ねた。

 この状況で、先に神田慶次が撃ってもリーフェンには銃弾は当たらない。

 ならば、やれることは一つ。リーフェンが神田慶次へと攻撃を仕掛けた瞬間、そこを突いて相打ちを図る。

 これ以外に、リーフェンを倒す手段はもう残されていない。


 互いに、様子見を図る余裕はなかった。だから、それはすぐにでも始まる。


「はぁぁぁぁぁっっ!!」


「っ、おおおおおっっ!!」


 リーフェンが天井へと着地したその時、天井を蹴って真っ直ぐに神田慶次へと迫る。

 その瞬間を狙って、神田慶次は銃口を彼女へと向けた。

 この銃撃で仕留め切る。そうしようとして引き金を引いた神田慶次であったが、


「――っ!? しまった!」


 引き金を引いても、サブマシンガンの銃口からは銃弾が放たれることはなかった。

 弾切れ――それに気づき、リロードをする余裕もない。


 その瞬間、リーフェンが神田慶次目掛けて飛び掛かり、神田慶次は背中から地面に倒れ、覆い被さるようにリーフェンがのしかかる。


「――っ!!」


「くっ!」


 この体勢はマズイ。すかさず、神田慶次はサブマシンガンから手を離し、レイピアの持つ手を掴みかかろうとしたが、リーフェンはもう片方の手で神田慶次の左手を地面に抑えつけ、レイピアを持つ手を逆手に持ち替え、神田慶次の顔面目掛けて突き刺しにかかる。


「あああああああああああっっ!!」


「っ!!」


 神田慶次にはもう武器は残されていない。そう結論付けていたリーフェンは、迷わず神田慶次を殺しにかかる。

 もう手立ては残されていない。これで終わりだ。


 レイピアの刃先が、彼の顔面へと到達しようとしたその時、彼の右手が動いた。


「がっ!?」


 リーフェンの首筋に刃が届き、神田慶次の上に乗っかっていた状態から後ろへと尻餅をついて倒れるリーフェン。

 首から血が流れ落ちていることを手で確認したリーフェンは、何が起きたのか分からず、神田慶次の方を見た。


「はぁっ……はぁっ……!」


「……まだ、武器を、持って……っ!」


 神田慶次の右手には、先ほどまでは持っていなかった刃渡りの短いナイフがあった。

 それは、先ほどまでは一切使用していなかったものだ。

 どこに隠しもっていたのか、接近戦に持ち込み、まるでこの時の為にあったかのように使われたそれは、神田慶次の持つ最後の武器に他ならなかった。


「……レイラ、助かった……ぞ」


「……くっ」


 それは、神田慶次がE区画へと向かう直前に、レイラから渡されていたナイフだ。

 基本は銃による応戦を主軸としていた神田慶次が、最終手段として残していた最後の武器――それがリーフェンに確かに届いたのだ。


「いい加減……しつこい」


「俺も……お前も……そろそろ限界が近いだろ? このナイフには毒が仕込まれている……もう、お前も……」


「……まだ、終わらせ、ない。まだっ!!」


 毒が体を巡り、リーフェンが自身の体に違和感を持っていることは神田慶次の目から見てもすぐに分かった。

 しかし、神田慶次もかなり限界が近いことは確かだった。

 互いに死が近づいている最中、リーフェンはそれでも抗う意思を示した。


 全力を振り絞り、銃での応戦がないことを知っていたリーフェンはもう、上下左右に動き回ることはしない。

 ただ真っ直ぐに、神田慶次がいる方向目掛けて突っ走った。


「おおおおおおおっっ!!」


「――っ!!」


 どれだけ体を痛めていても、リーフェンの動き、その速度は変わらない。

『レベル5モルフ』の身体能力強化をフルに活用した彼女は、これまでと何ら変わらない目で追いきれない圧倒的なスピードを維持したまま神田慶次へと追撃しにかかる。

 神田慶次も、最後の武器であるナイフを手で構え、応戦しにかかった。


「ふっ!!」


「くっ!!」


 人間と『レベル5モルフ』。その能力に差が縮まることはまずありえない。

 どれだけ努力しようとも、その絶大な差は覆すことはできないのだ。


 レイピアによる突きをナイフで受け流し、対抗しようとした神田慶次だが、リーフェンの身体能力は遥か先を行き、そのレイピアを突きではなく斬るという行為に突然切り替えたのだ。


「がっ!?」


 動きを読んでいても、対応が間に合わない神田慶次は、リーフェンのレイピアによってナイフを持つ右手とは逆の左腕が斬られる。


 切断こそしなかったものの、腕の半分を深く斬られたことで、彼の左腕はもはや、彼自身にも動かせなくなってしまう。


「っ、うおおおおおおおおおっっ!!」


「っっ!?」


 もはや、泥臭いと言ってもいいくらい、綺麗な戦いとは言えないものとなっていた。

 神田慶次は斬られた左腕など気にもかけずに、残る右手のナイフを振りかぶり、リーフェンのレイピアを持つ右手を狙い、そのまま振り抜いた。


 そして、彼女の右手が切断され、レイピアが彼女の右手が掴まれたまま宙を飛ぶ。


「っっ! あああああああああっっ!!」


 勝負は決した――そう思われた。

 だが、リーフェンは残る力を振り絞り、宙に浮かぶレイピアの刃先を左手で掴み、そのまま神田慶次の腹部へと突き刺したのだ。


「がっ! がはっ!!」


「ぐっ! うううぅぅっっ!!」


 互いに、力を使い切り、死闘は終わりを迎えた。

 二人とも、力が抜け落ちて、そのまま地面に倒れていく。


「ぐ……ぅぅっ……」


 互いの血が地面を濡らし、それが広がっていく。

 もう二人とも、立ち上がることもままならないほどのダメージをその身に負っており、命の危険さえあるような状態だ。


 それに加えて、互いに毒が塗られたナイフをその身に受けていたことで、消耗はより早くなっているような状態――このまま時が過ぎれば、二人とも死に至ってしまうだろう。


「く……くそ……」


 神田慶次は、動かない体を無理やりにでも動かそうと手に、足に力を入れようとする。しかし、その両手両足には力が入らない。

 全身から尋常ではない汗と血が流れ、それでも意識を強く保とうとしている。

 彼がまだ動こうとする理由は、目の前に倒れている彼女の存在があったからだ。


「ぐ……くっ……」


 同じくして、毒の巡りと身体的ダメージが影響で動くことが困難なリーフェン。彼女はまだ生きており、動かない体を無理に動かそうも身じろぎしている。


 このままではマズイ。そう神田慶次は考えていた。

 なぜならば、リーフェンは『レベル5モルフ』の力を持つ者だからだ。彼女のモルフの力の一つである再生能力があれば、時間さえあれば回復してしまうからだ。


 ここでトドメを刺さなければ、またリーフェンは復活してしまう。

 失った右手も、再生能力さえあれば簡単に元通りになってしまう。

 そんなことになってしまえば、人類は――世界は本当に終わりを迎えてしまうのだ。


「クソッ……」


 神田慶次は自身の状態を考えていなかった。

 もう動かない左腕も、もう見えない左目も、全身にある夥しい傷も、それら全てが相乗して神田慶次が今まで動けていたのは、極限なまでの集中力とアドレナリンが機能していたからに過ぎない。

 その状態が解けてしまった現状では、もはや彼が再び動ける理由になるものは何一つ残されていなかったのだ。


 終われない。まだ、このまま終わったらダメだ。何の為にここまできたのか。一人でここまできて、死ぬ気で戦うつもりできて、こんなところで終わってしまえば、仲間達に顔向けなんて出来はしない。

 出水も、清水も、皆が繋いできた道を、自分が終わらせることなんてあってはならない。


 動け、動けよっ!! 何の為に鍛えてきた体なんだ。最後くらい……役目を果たしてみせろ!!


 どれほど鼓舞しても、体は言うことをまるで聞いてはくれない。

 今でこそ、リーフェンも同じ状態のため、神田慶次もトドメを刺される状況ではないのだが、あと一歩が届かない現状に怒りを心の中で吐き出していた。


「……さん……」


 そして、必死に動こうとしていた神田慶次に対して、リーフェンは震える手を離された距離に落ちているレイピアへと向けていた。

 彼女は声すら出すことが難しいほどの状態となっており、肺呼吸が困難となっている。


 その状態で、彼女は何かを声に出そうとしている。


「とう……さん……」


 神田慶次にも、その声は届いていた。

 リーフェンにとっての父親、そのような意味で受け取っていた神田慶次であったが、彼女にとって、本当の意味の肉親を呼んだわけではない。


 何が彼女をここまで突き動かし、何が彼女をここまでの存在へと昇華させることとなったのか、それはリーフェンの過去に由来するもの、彼女が口に出している父さんという存在に他ならなかった。


「私は、まだ……」


 手を伸ばすことを、リーフェンは止めない。止めてしまえば、本当に自分という存在の存在理由を失ってしまう。

 だから、止めたくない。彼女にとってそれは――。


△▼△▼△▼△▼△▼△▼


 リーフェンという名は、自身で名づけた名前ではない。

 名づけられる頃の彼女は、心が壊れてしまっていた。


 なぜ、心が壊れてしまっていたのか、彼女自身にもそれは分からなかった。

 もはや、その記憶すら閉じ込めたくなるほどの絶望が、彼女自身に襲いかかっていたからだ。


 自分という存在、それがどこにあるのか、自分という存在理由が何の為にあるのか、何も分からなかった。

 ただボーっと歩かされ、冷たい空虚な通路を歩かされていた。

 これから自分がどうなるのかも、微かにだが分かってはいた。

 自分はこれから処分され、殺される。存在理由を否定され、何の意味もなく殺される。

 それでも、特に何かを感じることもなかった。

 自分にはそもそも存在理由などなかったのだ。

 生きる理由もなければ、生かされる理由もない。


 この世界において、自分という存在は数ある命の一つであり、ちっぽけなものだ。

 だからそれが一つ失ったところで、誰も何も感じない。

 ああ、そうかって、時が過ぎれば忘れ去られる。たったそれだけの存在に過ぎない。


「ちょっといいかな?」


 空虚で何もない自分の前に立つ、一人の男がいた。

 彼は私の顔を見るや否や、一緒に歩いていた私を管理する男へと話を持ちかけていた。


「彼女を私に引き取らせてくれないか? なに、必要なら言い値で条件を出してくれても構わない」


 私には、彼の声は半分も耳に入っていなかった。

 一つだけ分かるのは、彼が私に対して何かしらの興味を持っていたということだけだ。


「これからは私がキミの父親だ。血の繋がりはないが、そんなものは些細なもの。よろしくね」


 私は彼に連れていかれた。そして、そこで彼は自身を父親であることにしようと私に告げた。

 何を言っているのか、何も分からなかった。

 知らない人――初対面であった筈なのに、彼は私に対して優しげな表情を向けてくる。


 私には分からなかった。自分が何者かも分からない。そんな私に対して、なぜ私が誰かの所有物であらないといけないのか。

 私は彼に対して、興味の一つも湧かなかった。


 しかし、彼は私に対して興味があったようだ。


「ここがキミの住む場所だ。他に必要な物があれば、私に言うといい」


 彼は私に、不自由のない場所を提供してくれた。

 自分の部屋。自分の寝床。暑くも寒くもない、不自由のない生活――。


「う、おぇ。おえぇぇぇぇっっ!!」


 私は自分の置かれた境遇に吐き気を催し、その場で胃の中のものを吐き出してしまった。

 壊れた心。もうほとんど記憶すらない自分の中にも、分かることはあった。

 こんな平凡で()()()暮らしは、絶対に今の今まで経験なんてしたことなんてなかったからだ。


「おや、大丈夫かい? キミにとって、この場所は逆に良くはなかった、かな?」


 彼は私の心配をしている様子で、私の背中を摩っていた。

 分からない。分からなかった。

 自分を、何の存在理由もない私を、何の為に、何が理由で与えようとするのか。

 生きる意味も、生かされる理由もない私に、何を求めているのか。

 それほどの代償を、私に払わせようとでもしているのか。


「私はキミに安息を与えてあげたい。なに、キミは何も考えなくてもいい。ただ生きることに、何が困ることがある?」


「私はキミのことをまだ深くは知らない。だからこれから、色々と知りたいんだ。キミのことをね」


「私はキミの父親だ。だから、キミに自由を与えるのも私の務めだ。私は、キミに何かを求めているわけではないよ」


 彼は、事あるごとにそう諭して、私に与えた。

 自由を、痛みのない生活を、苦しくない日々を――。


 私は、自分の存在理由が分からずにいた。

 生きている意味も、生かされている理由も、何一つ分かりはしなかった。


 それでも、彼は私に生きる道を与えようとした。

 理由なんてない。ただ、自分の娘同然に可愛がろうとした彼に、私は徐々に興味を持っていた。


「キミが自分を見失っていることは知っている。失ったものを取り戻すことは難しいだろう。私が代わりになれるかは分からないが、手伝いならしてやれる。そんなキミに、プレゼントがあるんだ」


 彼は私に、ある物を差し出した。

 ちょうど、彼が私と初めて出会ったあの日から一年の月日が経った今日、初めてのプレゼントだった。


「色一つない白装束だ。キミは今、真っ白で何もない。これから、キミはその真っ白な装束に色をつけて生きてほしいという、私の願いだよ」


 彼は、私を哀れむように、皮肉めいたように、ただその通りの事実を口にして、それを差し出した。

 綺麗な白装束、汚れ一つない、きっと、今までの人生でこれほど綺麗な衣装を着たことはなかっただろう。


 私は何だ? 私は何の為に存在している?


 なぜ、彼は私を気にかけてくれる?


 存在理由もない、生きたいという意思も持たない私に、彼は何を期待している?


 私は、何がしたかったのか?


 この世界に絶望して、無数の命の散りゆく命の一つで、自分が消えたところで、何も世界は変わらない。悲しまない。気にも留めない。


 なのに、何だ? 私の眼は、どうしてこんなに濁って見える?

 心にささくれが立つ、この奇妙な感覚は何なのだ?


 ――私は、泣いているのか。


「キミは、世界の……この不条理な世界の被害者だ。誰も彼もがキミを見向きもしなかった。死にゆくキミを、誰も止めようとはしなかった」


「この世界は歪だ。全ての不平等は、全て当人の生まれで決まってしまう。その子達に能力の差がなくても、生まれが違えば理不尽な不平等をその身に受ける子もいる」


「私はそんな世界が嫌いだ。命を軽く見て、自分の欲望の為だけに他者を見てみぬフリをする人間達が……」


「キミは死にゆく人間ではない。キミに存在理由がないのなら、私が与えてやる。私が……キミの理解者になってやる」


 私はその時、自分の冷たい体が温かくなる感覚になった。

 彼は私を必要としている。私は彼のことをまだ何も分かっていない。

 ただ、消えゆく命の一つを掬い上げ、か細い命の綱を、彼は切らせないようにしていた。


 私は――。


「……さん」


 私は、そうだ。私は――。


「とう……さん」


 きっと、誰かに必要とされたい、生きて欲しいと、そう言ってほしかったんだ。


 この世界は歪で、不条理だ。

 同じ種族同士で歪み合い、殺し合い、全ては自分達の為だけに生きようとする、下衆な生き物。

 気づいていながら、見て見ぬフリをする人間達。


 俯瞰して見てみれば、何のことはなかった。


 人間という生物は、自分以外のことなんか、まるで目に入っていなかったのだ。


 でも、彼は違う。彼は、私を見つけてくれた。

 必要とされている。だから、必要とされる為に生きていきたい。


 私は私の存在理由が分からなかった。でも、今なら分かる。


 私は――。


△▼△▼△▼△▼△▼△▼


「とう……さん」


 動かない手足、震える手を数メートル先に落ちている自分の武器へと手を伸ばそうとしても、届かない。

 ここまできて、ここまできたのに、あと一歩のところまできているのに、届かない。


「くっ……」


 あの男も同様で、地面から動くことができない。

 だから、今のうちに武器を取り戻して、殺さないといけない。

 父さんの為に、私自身が必要とされているのだから――。


 視界も暗くなってきていた。その中で、コツコツと歩くような音が聞こえてきた。

 その足音は地面に倒れるリーフェンへと徐々に近づき、彼女も焦ったのか、力を振り絞って離れた位置に落ちているレイピアへと手を届かせようとする。


 しかし、届かなかった。

 彼女と落ちていたレイピアの間に、足音を聞かせていたその両足が止まる。


「……姉さん」


「――――」


 その声を聞いた時、リーフェンの頭の中を鈍い痛みが駆け巡った。

 どこか懐かしい、でも、それはリーフェンにとって知らない記憶――。


「姉さん……僕は……」


 私は――知らない。知りたくない。それを知ってしまったら、私はきっと私じゃなくなる。

 父さんを、私の存在理由を教えてくれた自分自身を失うことになる。


「僕は……謝らないといけない」


「――――」


「あの時……姉さんが最後に僕に生きてと伝えたあの時に……僕は命を賭けてでも姉さんを救うべきだった。でも、僕は何もできなかった。僕が……弱かったばかりに……」


「――――」


「姉さんは変わってしまった。きっと、僕の独りよがりだってことも、薄々と気づいてはいたんだ。それでも、自分本意で……勝手に姉さんを取り戻そうと……した」


「――――」


「だから……ごめん……。もう……届かないかも……しれない……けど……」


「……――?」


「もう……僕は……死が近い……らしい。出血の量が……多すぎたみたい……。だから、最後は姉さんの隣で……」


「私、は……」


「……うん。いいよ、姉さんはそのままで、そのままでいい。これは……僕の勝手な願い……だから……」


「……ロン」


「……はは、思い、出したんだね。姉さん。僕の……本当の名前……」


「私のこと、なんか、気にせず……生きてって、言ったのに……」


「ごめん……。それでも、僕は姉さんを……忘れられなかった」


「……そう」


「姉さん……」


「大丈夫……私が、隣にいて、あげる」


「……ありがとう。姉さんは……やっぱり……優……し……ぃ……」


 そうして、リーフェンにとってたった一人の弟は息を引き取った。

 安らかに、安心したように、何も思い残すことはないように――。


 一人は誰だって怖い。一人で死ぬことは寂しい。

 だから、彼女は弟の手を握ってあげた。

 片方だけになった、たった一つの手を。


「――――」


 少しずつ、視界が暗くなっていく。頭の中がぼんやりとして、何も考えられなくなっていく。

 それが死だという事実に、彼女は気づいていた。

 全身を蝕む痛みと毒、そんなものはもう、痛覚すら無くなってしまった彼女には感じていなく、穏やかに、安らかに、ゆっくりと目を閉じていく。


 姉と弟、一度は離れ合った心が、そこで一つとなった。


△▼△▼△▼△▼△▼△▼


 全てが終わった。二人の死を見届けた神田慶次も、もう体力の限界が近づいてきていた。

 元より、生きて帰れるとは思っていなかった。

 死ぬ覚悟でここまできて、戦ったのだ。

 今の自分の状態は、全てを終わらせたその代償だった。


「ぐっ……」


 もう、体が動かない。失った血の量も計り知れなく、毒が体を巡っていた影響で体全体が痙攣を起こし始めてもいる。


 ――終わるのか。でも、もう後悔はない。

 自分の役目を果たした。それだけ分かれば、もう俺は……死んでも悔いはない。


 後の事は、皆がなんとかしてくれる。

 俺は……ここまでだ。


 死を予感していた神田慶次も、すでに覚悟は決まっていた様子だった。

 人類を救うことができた。その事実だけ分かれば、もう神田慶次には思い残すことはないのだ。


 そして、彼もゆっくりと目を閉じていった。

 深い眠りにつく直前、複数の足音だけが微かに聞こえて――。

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