Phase5 第五十四話 『生まれてきた意味』
移民という言葉を聞いたことがあると答える者は多いだろう。
元々の国籍である本来の移住地を離れ、別の国へと移住を試みようとする者達のことだ。彼らがそれをしようとする理由には様々なものがある。
人種や宗教、または経済的な理由など多様に及ぶのだが、それを加味すれば移民とは言わない。
移民の中には難民と呼ばれる者達が存在する。
自国にいれば命の危険が脅かさられる、いわゆる迫害を恐れて他国へと国際的保護を求めようとする者達だ。
しかし、昨今の移民問題はシビアなものとなっている。
どの国も、進んで移民を受け入れようとしようとはしない。なので、不法移民と呼ばれる形で取り締まることも少なくはない。
なぜ、国が進んで移民を受け入れようとしないのか、それにも理由は様々とあるが、一番は治安の悪化だ。
新天地を目指すことが出来たとしても、そこで新たに就職することは難しい。タダ働き同然として働かせられ、まともに働くことができたとしても、経済的に深刻な事態が起きれば、不当な解雇も相次ぐのだ。
ロサ・エレナ・ロペス・ガルシアもいわゆる難民の一人だった。
難民となったその理由はどこにでもありがちな、いわゆる貧困な環境がそうだった。メキシコは総人口の20%が貧困という割合にあり、その半分は極貧という環境になっている。
エレナもその一人であり、周囲から見られる目は酷く厳しいものだった。
人間として扱われることはなく、動物のような扱いをされることが当たり前の社会で彼女は生き抜いてきた。
しかし、耐え切れなくなった彼女は母親と共に国境を越えてアメリカへ移住しようと決意した。
まだ年端もいかない年齢だったエレナは母親に連れていかれるがままに国境を越えようとしていた。
棘のある鉄線の下を、母親が身を削ってエレナを抱えて潜ったことも記憶に新しかった。
なにせ、アメリカ側も移民対策をしており、一時期は壁を隔てようとしてまで移民を取り入れないようにしていた過去もあったのだ。
監視の目を掻い潜り、エレナと母親はアメリカという広大な大地を踏みしめることが出来た。
しかし、エレナ達を待ち受けていたのは希望の未来ではなかった。
住む場所も働く場所もない。人権がなかった彼らにとって、アメリカという場所は未知の世界であり、何もない場所でしかなかったのだ。
母親はエレナを見捨てなかった。夜になればエレナを置いていなくなる時もあった。
そして朝になった時、どうやって手に入れたのか、アメリカの紙幣であるお金を持って帰ってくることがあった。
それを使って、二人は食べ物を得て生活をすることが出来ていた。
でも、そんな生活は長続きこそしなかった。ひもじい生活しかできなかった二人だったが、ある日を境に転機が訪れた。
あれは寒い冬の出来事だった。いつものように母親が夜になって出掛けた日、エレナは薄い毛布に包まっていた。
エレナは母親が仕事を見つけてきたのだと考えていた。
だから彼女は希望を持つことが出来ていた。この世界において、仕事がないということは死んでいることと何ら変わりはない。
まだ働ける年齢でなかったエレナにとって、母親は希望の星だったのだ。
しかし、朝になっても母親は帰ってこなかった。
どれだけ待っても、夜になっても母親は帰ってこない。
お腹が空き、それでもエレナは待っていた。
母親は自分を見捨てない。そんなことは一緒に生きてきて自分が一番に理解していたことだ。
なのに帰ってこないのは何故なのか? エレナは我慢が出来ず、隠れていたその場所から飛び出した。
走った。どこに向かっているかも分からず、エレナは母親の居場所を探し続けた。
汚い服を見に纏い、体も洗っていなかったエレナを見て軽蔑の眼差しを向ける者達も多かった。
でも、そんなことは気にしなかった。それよりもエレナにとっては母親の安否を知ることの方が大事だったからだ。
そして、彼女は知ることになる。
そこはエレナ達と同じホームレス達の溜まり場だった。
ゴミ捨て場ではないが、ゴミが溜められていたその一帯の中に、見知った人がいた。
母親は死んでいた。身に纏っていた衣服も剥ぎ取られ、皮膚は青く変色している。
何が起こったのか、それを理解したのはそのすぐ後のことだった。
「汚ねえ女だったな、あんな貧相な体で身売りとか鳥肌が立っちまったよ」
「ひひっ、俺はありだったんだけどなぁ? でもまあ嬲るのも悪くなかったけど」
「それにこの女、多分アメリカ人じゃねえ。恐らく難民だぜ。殺したところで何の罰にもならねえ、掃除しといて正解だよ」
聞くに耐えない、母へと向けられた暴言の数々。
なぜ、そんなことを言われなければならない? 生きていく為に、少しでもいい未来を得る為にアメリカまでやってきた私達がどうしてこんな目に遭わなければならない?
生まれた国が違うだけなのに、一つ国が違えばこうも変わってしまうのか?
それならば、私達は元より存在しなかった方が良かったのか?
あの国にいたって、どの道野垂れ死ぬことは分かっていた。だからここまで来たのに、どうして人間として扱われない?
この世に生まれてきて、どうして幸せを得ることができない。
それならば、私達が生まれてきた意味は――。
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『レベル5モルフ』同士の二人の戦いは一気に激化していく。
鉄骨ひしめくコンクリート地帯での戦闘、その場所でエレナと椎名は轟音を鳴らしながら打ち合っていた。
「――っ!」
「随分と動けるわねぇ、ナイフで切ってもたちどころに塞がるし……ずるい能力じゃない」
もはや、その戦闘は人間が後を追えるものではなかった。
地上戦から空中戦に変わり、鉄骨を足場にして二人はコンクリート地帯を戦場に格闘戦を繰り広げていく。
「はっ!!」
「くっ」
椎名の蹴りに合わせて、エレナは腕で防御の姿勢を取る。『レベル5モルフ』の力があれば、椎名の蹴りはその腕の骨ごと折ることが可能ともされている。が、実際にはそうならなかった。
腕に当たった瞬間、まるで柔らかいボールに触れたかのような感覚になり、それはエレナの体も含めて蹴りが受け流されてしまう。
結果的に吹き飛ばすこともできず、椎名の蹴りはその場で受け止められることとなった。
「どんな威力の蹴りであろうと私には効かないわ。もう分かっているでしょ?」
「……うん」
「随分と余裕そうだけど、もう少し自分の心配をした方がいいわよ」
お互いに決め手に欠ける拮抗した状況が続いていたが、それは長くは続かない。
二人の戦闘は周囲に人がいればすぐに見つかるであろう規模が大きいものだ。つまり、この戦いに気づく存在が現れるのも時間の問題だった。
「嘘……っ!」
「面白くなってきたわね」
二人の戦闘に対して、近くにいた『レベル4モルフ』が俊敏な動きで接近してくる。
そして、狙われていたのはなぜか椎名の方だった。
「なん……でっ!?」
「相性って怖いわね。『レベル5モルフ』の力がありながらM5.16薬を投与していればモルフに襲われることもないんだから」
エレナの方には一体も襲いに掛からない『レベル4モルフ』にその理由の答えを出すエレナであったが、彼女の答えに椎名は理解が出来ていない。
M5.16薬、その特性は椎名も知る由がなかったのだろう。投与された者はモルフに襲われなくなるというそれは、まさしく『レベル5モルフ』にとっては相性が良いものとなってしまっている。
二体の『レベル4モルフ』による接近に、椎名は細い鉄骨を踏み締めて勢いよく後ろへと飛んだ。
「っ!」
「へぇ、少しは考える脳はあるんだ?」
エレナと『レベル4モルフ』二体を相手にするのは明らかに分が悪い。椎名は咄嗟に距離を離そうとした。
足場が悪いというこの地形で、椎名は器用に鉄骨から鉄骨へと飛び移ることが上手くできていた。
しかし、それは相手も同じだ。
「近づか……ないでっ!!」
カポエイラの要領で、椎名は襲いかかってくる『レベル4モルフ』を蹴り飛ばす。
俊敏な動きで躱してくるというのが『レベル4モルフ』の恐ろしいところだが、それは椎名も同じ条件なのだ。高い身体能力を持ち合わせた椎名の蹴りの速度に、モルフも反応がしきれない。
しかし、余裕がなかった今の状況ではそれが仇となる。
「私のことを忘れてるわよ」
「あっ……」
『レベル4モルフ』の対処に精一杯の椎名の隙をついて、エレナは真っ直ぐに椎名へと迫る。その単純な動きであれど、椎名はエレナの動きに目を配ることができず、空いた腰へと蹴りを入れられてしまう。
「――っ!」
コンクリートの地面へと吹き飛ばされ、砂煙が巻き起こった。
同じ『レベル5モルフ』同士の戦闘だが、この条件では椎名の方が圧倒的に分が悪い。それを知らしめられるほど、エレナは自身のアドバンテージを理解して攻撃へと転じてきていた。
「その厄介な再生能力以外はさほど大したことないのね。極端な話、四肢さえ捥げばあなたを無力化するのも難しくなさそうだわ」
椎名の力である超速再生能力に関してだけは評価していたエレナだが、それ以外の能力に関してはエレナと同等ぐらいだとそう判断していた。
ちょこざいな攻撃は意味をなさないが、一気に崩すことができれば椎名を殺すことは容易い。椎名の弱点を見抜いたエレナは、すぐにでも行動を移そうと椎名のいる地上へと降り立った。
「――ん?」
降り立ったと同時、エレナは椎名のいる砂煙が舞う地帯を見て違和感を示した。
あの威力で蹴ったのだ。腰の骨は折れていてもおかしくないと想定していたエレナは、再生能力を使用している隙にトドメを刺すつもりでいたのだが、
「はぁっ、はぁっ……」
椎名はその場で立ち、息切れを起こしながらも無傷の状態でいた。
あれも再生能力によるものなのかと勘繰っていたエレナであったが、実のところは違っていた。
椎名は着地の寸前、少しでも衝撃を分散させるために受け身を取っていたのだ。どこでそのような技術を身につけていたのか。それはネパールでの出来事が大きかった。
ミラとの戦いの際、椎名はホテルの上階から飛び降りる瞬間があった。あの時は受け身を取るなんてことはできなかったが、二度目ともなれば椎名も同じように地面に叩き伏せられるわけにはいかない。
見様見真似ではあるが、ミラの着地方法を上手く行うことができた椎名は無傷でその場に立つことが出来たのだった。
「でも、いつまで持ち堪えられるのかしらね? 所詮は格闘術を少しかじった程度のそれで私は倒せない」
「……どうして」
「うん?」
「どうして……戦わなくちゃならないんですか?」
「――まだそんなことを言っているの?」
この期に及んで、いまだに戦う理由を見出せないでいる椎名に、エレナも呆れを通り越しそうになった。
もう既に、二人の戦いは殺し合いと言っていいほどに発展しきってしまっている。
「あなたはどうせ人間側の立ち位置なんでしょう? なら、私と戦う理由は明白に――」
「私は……私には分からない。人類を、皆を殺そうとするあなたの考えが……どうして、仲良くすることができないの?」
「――――」
甘い言葉を吐き続ける椎名に、エレナはそこで苛立ちを覚えた。
何も知らない、何も分かっていないのはお前の方だと、感情が昂る。
「これ以上……皆を傷つけないで……。悲しむ人だってたくさんいるのに……」
「勝手なことばかり抜かすんじゃないわよ」
偽善の言葉など、エレナには何一つ響かない。しかし、椎名の言葉によって怒りの感情が芽生えたエレナはその場から全速力で椎名へと攻撃を仕掛ける。
「――っ!」
「悲しむ人がいる? なら人類が生きていれば悲しまないとでも言いたいの? ふざけるんじゃないわよ! どれだけ偽善を仰いだってね、人は腐るんだよ!!」
関節を外し、椎名の手を拘束しに掛かろうと予測のできない動きを仕掛けるエレナ。椎名は攻撃に転じず、エレナの組み手を払うことに必死だった。
「国境の左側ではクソの役にも立たないクソ野郎がのうのうを生きていて、国境の右側では何も悪いこともしていないのに生きることも許されない。そんな世界をあなたは望むとでも言いたいの? ふざけんな!! モルフがいない世の中があったとしてもね、世界のどこかには理不尽に殺されて悲しむ者もいるんだよ!!」
怒りに身を任せて、椎名の腰目掛けて蹴りを入れるエレナ。その反動を殺しきれず、椎名は宙へと投げ出されてしまう。
そして、追い縋るようにしてエレナは椎名へと飛びかかった。
「こんな世界、滅べばいいんだ!! 差別も貧困も何もない、その世界がモルフだけが生きる世界なんだよ!! あんたの言っていることをまとめてやろうか? それはあんたの周りだけが幸せな、知らないところで不幸を被る者がいても知らんぷりをしている世界、それがあんたの望む未来なんだろ!?」
どれだけ綺麗事を並べられようとも、エレナの考え方が変わることはない。人が生きている限り、不幸になる者は絶対にいる。
だから全てを殺し、不幸な者も幸せな者も何もいない世界を望む。それがエレナの望む世界だった。
全てを聞いて、椎名も言い返すことができない。それどころか、エレナの強襲を凌ぐことが精一杯だった。
「私はあなた達とは違う! 全ての人類を殺して必ず不幸のない世界を作る! どうなの!? これでも戦う理由にならないっての!?」
「――私は」
一手、判断を間違えてしまえば致命傷になりうるエレナとの攻防に、椎名はそこで口を開いた。
全部、彼女はしっかり聞いていた。エレナが戦う理由も、どうして全人類を陥れようとしようとするのかも、ようやく分かった。
その上で、椎名の答えは決まっていた。
「私は――それでも皆が幸せになる未来を信じたい!」
殴り掛かろうとしてきていたエレナの腕を掴んだ椎名。その動きは、今までの足を使った技ではなかった。
「なっ!?」
「はぁぁぁぁっっ!!」
力の流れを読み切り、重心を一切曲げずに繰り出した椎名のその技、それは背負い投げだった。
蹴りだけを警戒していたエレナには、そこからすぐに対処するだけの頭は回らなかった。そのまま、エレナは背中から地面に叩きつけられてしまう。
「がっ!?」
「はぁっ!」
追撃を仕掛けようと、椎名はエレナの腹部目掛けて蹴りを入れようとする。
そのまま決まってしまえば、エレナは倒されてしまうことは必死だ。
「くっ!」
「きゃっ!」
足の動きを見切ったエレナは地面に残っていた椎名のもう片足を蹴り、椎名はその場で倒れてしまう。
そのままマウントポジションに入ったエレナは椎名と組み合う形となった。
「この……っ! いい加減に!」
「離して!!」
寝技に持ち込まれれば不利になるのは椎名の方だった。
だから椎名は組み伏せられる前にエレナの腹部に足を潜り込ませて、そのまま蹴り上げる。
なんとも泥臭い戦いといえばそう見えてしまうだろう。
格闘術の技術の高さで言えば、圧倒的なのはエレナの方だ。しかし、感情的になってしまっていたエレナの動きは単調になってしまっており、ギリギリ椎名にも対応できる結果となってしまっている。
何がどうなれば決着なのか、それはもう椎名には分かっていない。分かっているのは、ここでエレナを止めなければならないということだけだ。
「あなたに……過去に何があったのか私には分からない。でも、まだ間に合うよ……。差別も貧困も何もない世界、そんな理想の世界があるのなら、私もそうしたい」
「ならっ……」
「でも、殺すのは間違ってる。そんなことをしても、何も成し遂げてなんかいない……」
「――っ」
「死んでしまったら……間違いを正すことも出来なくなっちゃう。それじゃあまるで……問題から目を離して……逃げてるだけだよ」
言い返すことすら出来ない言葉を投げかけられ、黙ってしまうエレナ。
もちろん、椎名の言っていることはただの理想論であり、実現なんて不可能に近いものだ。
しかし、エレナのやろうとしていることも真の解決には至らないやり方に間違いはない。
そのことを指摘されたことで、エレナは口籠った。
「……それでも」
身体能力強化と固有能力、それらを使えば椎名を殺すことは容易い。その自身の強みを活かす為に、エレナは構えた。
「それでも……私にはこの方法しかないのよ!!」
叫び、エレナの声がコンクリート地帯を轟かせて、全速力で椎名へと走り迫る。
先ほどまでとは違う、冷静な動きを欠いた安直な身のこなしだ。しかし、技量の差がある二人の間では、それが接戦になってしまう。
「くぅ……っ!」
「はぁぁぁぁぁぁっっ!!」
全力の拳と蹴りが高速に近い動きで繰り出され、椎名も応戦しようとエレナの動きを見計らって飛び回ろうとする。
鉄骨を足場にしながら、彼らは縦横無尽に飛び回っていた。肩に、太ももに、腰に当たることで鈍い痛みが椎名へと襲いかかりながらも、なんとか受け流そうとしていた椎名は反撃こそしなかった。
戦う理由を見出せないでいた椎名は、エレナに攻撃を仕掛けることができないのだ。
話が通じないミラとは違う。エレナはまだ迷っている節さえ感じられるのだ。
そんな彼女と戦う理由なんてない。たとえ甘いと言われようと、椎名の考えは変わらない。
ここでエレナを止める。それだけを考えて、椎名は宙空を舞った。
「やぁっ!」
「ちぃっっ!」
椎名は踏みしめた鉄骨を弾道ミサイルの如きスピードで足から追突して、その鉄骨を半分に叩き割る。
そうすることで、エレナは着地が上手く出来ずにバランスが崩れてしまう。
「もう、やめようよ!!」
「うるさい!! これが私の選んだ人生だ、人間なんか皆死ねばいいんだよ! ……なんで分からないのよ!? モルフになったあなただって、周囲から見られる目を気にしなかったことはないでしょ!?」
「……気にしたよ。でも……殺したいなんて考えたことはない! それに、悪いのは私じゃなくてモルフのウイルスでしょ!? だったらまだ希望はある!」
「何に対して!?」
「この世界から……モルフウイルスを無くせばいいんだよ!」
互いに譲れない信念のぶつかり合い。分かり合うことが出来ないであろう二人の意見は、まさに双方にとって暴力的で空想的なものであった。
椎名の空想的な叫びを聞いたエレナは、距離を離そうと離れた位置にある鉄骨へと飛び移る。
そして、それを追い縋るようにして椎名も飛んだ。
「そんなこと……できるわけがないでしょ!? そんなことをしても……また醜い差別がどこかで生まれる!!」
「できる!! 私が必ずモルフのいない世界を作ってみせる!! 差別が起きないなんてことは約束は出来ない……でも、向き合うことはできるよ!!」
「――っ、何を根拠に……」
無茶苦茶な言い分なのは誰の目から見ても明らかだった。
しかし、椎名の言うモルフのいない世界、それを実現させる手段については彼女は持ち得ていた。
それはエレナも知らない事実、デイン・ウォーカーという男の存在だ。彼の血は、モルフウイルスの抗ウイルス剤を作れる可能性がある唯一の存在だ。
だからこそ、椎名は真っ向からそれを言い放つことが出来た。最も、エレナがそれを信じられるわけもなく、
「信じられなくてもいい!! でも、向き合おうとしようよ!! まだ間に合う! 私は……あなたを……」
「――――」
椎名は感極まる様子で、エレナから付かず離れずの距離を保とうとしていた。
それを見て、エレナも気づいてしまった。
椎名はこれまで、一切の反撃をしてこない。得意の蹴りも、最初の邂逅以降は繰り出してくる様子もなかった。
その意味するところが何なのか、それは彼女がエレナを本気で倒すつもりがなかったからだ。
言葉による会話は無意味。だとしても、椎名の言葉を信用するには、彼女の行動が信用に値することとなってしまっている。
既に、エレナの心の中はぐちゃぐちゃになってしまっていた。
強固な信念、それが揺らいでしまってきている現状で、エレナの反撃の手数は明らかに減ってきていた。
もうひと押し、もうひと押しだと、椎名は考えていた。
エレナは感情のない殺戮者ではない。ちゃんとした人間なのだと分かっていた椎名は、なんとか説得の道を見つけ出そうと努力していたのだ。
「――――」
エレナの警戒心が徐々に弱まる。彼女が考え、結論として導く言葉は何になるのか、それを知ることは叶わない。
なぜなら――。
「わた――」
ドンッと、コンクリート地帯を響かせる発砲音が鳴り響いた。
それと同時に、エレナの体が力を失ったかのようにして踏み締めていた鉄骨からバランスを崩して落ちていこうとする。
「……え?」
何が起きたのか、椎名も理解が追いついていない。
エレナの頭部、そこから血が出ているのが見える。
そして、エレナは高さ十メートルはある地点から地面へと真っ逆さまに落ちて、ピクリとも動かなくなった。
椎名は地面に降り立ち、訳もわからない様子でエレナの元へと駆け寄った。
そして理解した。彼女が動かない理由、それがどうしてなのか――。
「な……んで?」
エレナは絶命していた。瞳孔は開いたまま、頭部に貫通していた銃弾が致命打となって即死していたのだ。
なぜ、どうしてそうなったのか。それを仕掛けたのは誰なのか、その答えは残酷なものだった。
「危なかったね。あなたが気を逸らしてくれたおかげで、狙撃のタイミングを逃さずに当てることができたよ」
「サーシャ……さん……」
「いやー、さすがっす姉さん。他にも当てられる瞬間はあったと思ったんすけど、確実に命中させられるギリギリまで粘るなんて俺には無理っすよ」
あの時、あの瞬間にエレナの頭部へと狙撃したのはサーシャだった。
あの移動速度の中、頭部を狙い澄ました命中精度は尋常ではないものなのだが、椎名にとってはそんなことは頭の中にはない。
「どう……して……」
「? どうしたんだい?」
「まだ……救えたかもしれないんです。エレナさんは、根っからの悪人じゃあ……なかったのに……」
意気揚々と獲物を仕留めたことに対するサーシャとフィンの態度も、エレナが死んでしまった事実も、椎名にとっては辛い現実だった。
元より、椎名は人を殺す覚悟が希薄だ。話し合いで解決できるならばそうしたいと考える彼女のスタンスは、椎名自身を苦しませることとなってしまう。
しかし、状況の全てを把握していたわけではなかったサーシャは眉を顰めると、膝から崩れ落ちていた椎名の側へと歩み寄り、
「根っからの悪人じゃあない……ね。本気でそう思っているのかい?」
「……え?」
「こいつは悪人だよ。大量の人を殺してきた。その過去は絶対に変わらない。それでも悪人じゃないのかい?」
「――っ、でも!」
「なら、エレナがアメリカに投降したとして、彼女が心変わりの姿勢を見せたとして、アメリカ側がそれを許すと本気で思うの? どう考えても殺されていたよ」
「――――」
「エレナもそれを分かっていたから意思を曲げようとはしなかった。もう引き返せないところまできているって知っていたからさ。……戦争がどうして起きるか分かるかい? 善も悪もない、自分が正しいと思って互いにぶつかろうとするから戦争なんだ。だから、勝った方は正義で負けた方は悪だなんて歴史が実際に起きているんだよ」
「ぅ……うぅ……」
正論を言われ、椎名は涙目になりながらその場で崩れ落ちていた。
ならば、椎名のしたことはエレナを惑わせる為の謀略にしかならなかったのか。本気で説得を試みたあの行動も、結局は何も変わることはなかったのか。
残酷な現実は、椎名の心を抉るには十分なものとなってしまっている。
それを見かねたサーシャはため息をつくと、
「あなたが清い心を持っていることは知っている。だけど、もう分かっているでしょ? この世に人間がいる限り、争いは無くならないって」
「……姉さん、流石に言い過ぎじゃあ」
「フィン、黙ってな。――私達だって、ここまで生きてきて誰一人殺したことがないなんてことはない。直接的な数で言えば、エレナよりも遥かに人を殺してきた自信はある。そんな連中とあなたは共に行動をしていたんだ」
「……ぁ」
「ハッキリ言うよ。あなたの言葉は敵に対して毒にしかならない。それは戦闘においては使える手段かもしれないけど、時と場合によっては命を賭けた相手に失礼なんだよ。それだけは覚えておきな」
椎名の言葉がエレナに響き、説得に成功したとしてもエレナに未来はない。
たとえモルフのない世界が、差別のない世界が未来にあったとしても、それを見ることはエレナには叶わない。
それだけのことをエレナはしてしまっていたのだ。
だから、サーシャは厳しい言葉を掛け続けていた。
「立つか、そのまま俯くかはあんたの自由だよ。自分の信じる道を行くか、諦めるのもあんたが決めることさ」
椎名にとっては苦しい選択肢だっただろう。サーシャは椎名に対して、自らの為すべきことを自分でどうするかを決めさせようとしている。
椎名にとってはここが分水嶺となる起点だ。
しばし、時間が経過して、椎名はゆっくり立ち上がる。
「……私は、甘かったのでしょうか?」
「甘々だね。悪いことじゃあないけど、現実を少しは見な。じゃないと、私達よりも遥かにタチの悪い存在になってしまうよ」
「私は……それでも皆が手を取り合う世界を夢見ています。エレナさんの言う差別のない世界も、その一つです」
「……そうかい」
「だから……私がエレナさんの意思を継ぎます。必ず、実現してみせます!!」
割り切ることも妥協することもなく、椎名は自分の意見を貫こうとサーシャにそう言った。
それを聞いたサーシャは、否定の意見を出すわけでもなく、椎名の肩に手を置くと、
「なら、その意思は絶対に曲げないことだね。もし曲げるようなことがあったら、私があんなの頬をぶっ叩くからね」
「はい!!」
力強い返事と共に、椎名の目からは涙が頬を伝って地面へと落ちていた。
かくして、奇襲を仕掛けてきていたクリサリダの幹部の一人、エレナを撃破した一同。目的地であるミスリルまでの距離は残り数十キロのところまできていた。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
椎名達とは別の道をゆく者達、デイン達は椎名達とはかなり距離が離れた地点にいた。
目的地までの距離は然程変わらない。しかし、ミスリルに近づこうとする余裕は彼らにはなかった。
その理由は彼らにとって予想外な、正にアクシデントが起きていたからであった。
「はぁっ、はぁっ」
息切れを起こしながら、手に持つアサルトライフルのバレル部分を握り締めていたテオは、目の前の絶望的な状況に辟易していた。
なぜなら、彼の目の前にいたのは、
「クソが……」
悪態をつき、目の前にいる謎の黒コートに身を包み、仮面を被った男、テオ達の周囲を逃げられないように瓦礫で覆い尽くし、殺意の限りをぶつけてくる謎の男と交戦していたからであった。
年内までに3~4話分はなんとかして投稿します。さすがに遅すぎました。




