Phase5 第五十三話 『Model opctopus assassin』
サーシャ達に襲い掛かり、殺す為に罠が張り巡らされたテリトリーへと誘導した栗毛色の髪をした女性、エレナと名乗るその者は、自身をクリサリダの幹部と自称した。
クリサリダの幹部――それを聞いてもなお、サーシャは銃口を下げようとはしなかった。
サーシャ達の視点からすれば、目的の相手を見つけたようなものだった。
サイレントハウンド部隊を陥れ、果てはモルフウイルスに感染する可能性があったにも関わらず、クリサリダは事前にウイルスの空中散布の情報を寄越すこともなく裏切ったのだ。
報復として、これ以上の絶好の機会はないであろう。
そして、あくまでそれはサーシャ側から見ての視点の話である。
クリサリダの幹部であるエレナ、この者はサーシャ達が何者かをまだ理解出来ていない。
「クリサリダの幹部……ね」
「あら? 知ってるのかしら? 一応、テロ組織として公表していたわけじゃないんだけどね」
「知ってるさ、私達はサイレントハウンド部隊。クリサリダの組織の者で、傭兵として活動していたんだからね」
「――ふーん」
サーシャ達の正体を知って、興味深そうに眉を顰めるエレナ。彼女の頭の中で何を考えているのか、サーシャには分かっていない。
これはチャンスなのだ。上手く警戒心を引き下げることに成功すれば、エレナを殺せる可能性は高くなる。
そうでなくても、今は銃口を向けているというアドバンテージがある。エレナとしても、戦う理由は無いとそう踏んでいたのだが、
「あなた、クリサリダの一員だったのね。まあ今まで相手にしてきた軍人よりも歯応えがあったから、それなりに死線を潜り抜けてきたって感じはしてたけど、そう」
「仲間に出会えて良かったよ。情報交換がしたかったんだ」
エレナの警戒心を解く為に、エレナへと向けられた銃口を少し下げるサーシャ。しかし、それはダミーだ。
実際は銃口がエレナの足先へと向けられることとなっており、銃口を下げたという行動で敵対心の恐れをエレナから取り除こうとしているだけのデコイ。万が一の際はいつでも撃てるよう、万全を尽くそうとしていた。
「姉さん……」
対話を試みるサーシャに、フィンは心配そうな表情をサーシャへと向けていた。
サーシャとしては、顔には出さないでくれと祈ることしかできない。
フィンが誤った発言や行動、仕草をしてしまえば、エレナがそれを察知する可能性もある。
そうなれば即座に銃殺するつもりだが、先ほどのエレナの動きを見ても、簡単にいくものかどうかが不明瞭だった。
「なぁ、いいだろ? あんたのことを教えて――」
「なんで対話をする必要があるのかしら?」
「……あ?」
エレナのことを聞き出そうとしたその矢先、彼女は蛇が睨むような視線をサーシャへと向けてそうのたまう。
言い切るよりも早く返答を返されたことで、サーシャの中での警戒心が更に上がる。害意のある返答ほど、恐ろしいものはないからだ。
そして、エレナはサーシャとフィンの二人に目線をそれぞれ向けると、
「あなた達がどっち側だとしても、人間という事実に変わりないんでしょう? なら、私の殺す対象に変わりなんてない」
「何を……言っているんだい?」
「分からないかしら? 私は人間を殺す為にここにいる。モルフになり損ねた人間共を駆逐する為にね。あなた達がクリサリダの人間であろうとなかろうと、いずれ人類はもう滅ぶ運命にあるんだよ。末端であったあなた達には知る由もなかっただろうけど」
「――――」
分からない。エレナの言ったことも、彼女の行動原理も、サーシャには理解が及ばない。
同じ組織であるというのに、この女は人間だからという歪な理由で殺意を持って殺しに掛かろうとしてきているのだ。
それを言ってしまえば、エレナ自身も人間ではないかとブーメランを返したくはなるが、その返し方をしたところで無意味だ。
主導権はこちら側、距離を取った時点で銃口を向けることができるサーシャ達に分がある。
下げた銃口をすかさず引き上げ、再びエレナの上体へと向けて銃口を向けると、
「動くな、あんたがクリサリダの幹部だろうが知らないよ。殺し合いを望むなら、私達は抵抗するだけだ」
「……ふふ、やっぱり素直な反応ね。抵抗、か。なら精一杯の抵抗を見せてくれるかしら?」
銃口を向けられ、余裕の表情で相対するエレナ。その不気味さに背筋に悪寒が走るサーシャだったが、彼女は迷わない。
フィンはサーシャの指示を待っている。しかし、指示を出すまでもない。即座に撃ち殺そうと、エレナへと向けられたショットガンの引き金を引く指に力を入れた直後だった。
エレナが持つナイフ、それが何も無い場を切りつけ、その瞬間にサーシャ達の立つ地面が崩れ出したのだ。
「――っ!?」
「自由落下の恐怖を味わいなさいな」
元々、踏み場が硬くなかったとはいえ、いきなり地面が予兆無しに崩れることなんてありえない。
その時、サーシャは何が起きたのかを瞬時に把握して、
「ワイヤーを……切ったのか!」
「正解。そんなことより受け身を取らないと死ぬわよ?」
「――っ! フィン!」
「うわわわ! これはヤバいですって!!」
掴むものも何もない、完全な空中にいた彼らは重力に任せて真っ逆さまへと落ちていく。
エレナの言う通り、受け身を取らなければ死ぬことは必死だ。
高さでいえば三階からの落下、地面までの距離はあっという間だ。考える余裕も与えられなかったサーシャは経験則に従って本能で対処した。
「あ、あああああああっっ!!」
地面に降り立つ時、正確に言えば受け身を取る為に、サーシャは足から降りるのではなく、あえて頭から落ちる向きに体勢を変えた。
そして地面に激突の瞬間、右肩から前へと滑り込むようにして転がるようにして衝撃を分散させて着地した。
「ぐっ、うぅぅぅっ!」
完璧な着地とは言えない。衝撃を分散したとはいっても、不恰好なやり方を取ったサーシャの全身には酷い鈍痛が襲いかかってきていた。
「フィン!」
「な、なんとか生きてるっす……それよりあのエレナってやつは……?」
「っ!」
生き延びることに成功したからといって、安全を確保できたわけではない。
共に落下したであろうエレナの位置を把握する為、周囲を見渡そうとしたサーシャ。しかし、彼女の姿が見当たらない。
「どこだ?」
銃を構え、身を潜めたエレナに警戒をするフィンとサーシャは全方位を隈なく見渡す。
これが狙いだとするならば、エレナは虎視眈々と見えない位置からサーシャ達へと奇襲を仕掛けようとする筈だった。
「フィン! どこから攻撃を仕掛けてくるか分からない! 注意しな!」
「了解っす!」
さしもの彼らも傭兵と呼ばれるだけの経験はあった。
遠隔からの狙撃ができる地形ではないこと――また、入り組んだこの地帯は罠を張るには絶好のステージでもある為、迂闊に動き回ることは危険なのだ。
その場で立ち止まり、彼らはいずれ仕掛けてくるであろうエレナの気配を探ろうと全方位にアンテナを張っていた。
「随分とやるじゃない、あなた達」
「――っ」
建物内に響くエレナの声。しかし、声の聞こえる位置の特定ができなかった。
エレナの位置を特定しようと、銃口を下げないまま目まぐるしく視線を全方位へと隈なく向けるが、それでも見つからない。
「ここは私のテリトリー。そして、あなた達の死に場所」
どこからともなく聞こえてくるエレナのその声に、二人の中で緊張が走る。
そして、
「どこまで足掻けるのか、見ものね」
「っ、姉さん!!」
「分かってる!!」
エレナのその言葉を皮切りにして、真上から無数の矢が飛んでくる。
予め設置されていたもの、クロスボウが死角に取り付けられていて、そこから飛ばしてきたものだ。
フィンもサーシャも、互いを気にかけていられる余裕はなかった。
矢の軌道を読み、すぐ近くの瓦礫の下へとスライディングをして難を逃れる。――いや、逃れられない。
「――っ、クソッ!!」
ピッ、ピッと電子音の音が微かに聞こえて、それが何かをサーシャは瞬時に理解した。
サーシャが逃れた瓦礫の下、そこには予め仕掛けられていた爆弾があったのだ。
すぐに瓦礫の下から這い出て、サーシャは爆破範囲から離れようとした。
そして、タイミングを読んだかのようにして瓦礫の下に仕掛けられていた爆弾が大爆発を引き起こす。
「がっ!!」
「姉さん!!」
爆風に巻き込まれ、吹き飛ばされるサーシャに向けて走り向かってくるフィン。幸いにして、怪我こそしなかったサーシャであったが、状況はすこぶる悪い。
エレナの次なる一手がまるで読めないのだ。あれではまるで、戦場に一人はいる罠を仕掛ける要員、トラッパーと呼んでもいいぐらいに嫌らしい手を使う女だった。
「私に構うな! それより周囲を……」
「すぐそこにいるわよ」
「っ!?」
誰もいない筈だった場所からヌッと現れたエレナ。その突然の奇襲に、サーシャとフィンは対応ができない。
エレナの持つナイフ。それがサーシャの首目掛けて振り抜かれようとしたその時であった。
「その人に……触らないで!!」
「――っ!?」
横合いから蹴りを繰り出し、エレナを吹き飛ばした者、それは一時離れていた椎名だった。
彼女はサーシャ達の窮地から救う為、状況を確認するや即座に助けにきていた。
「サーシャさん、フィンさん、大丈夫ですか!?」
「助かったよ、でも気は抜くな。奴はまだ――」
死んでいない。そう言おうとしてエレナの方を見た直後だった。
彼女の姿が消えてしまっていたのだ。
「な……に?」
見失った、それがあまりにも不自然にサーシャは考えていた。
なにせ、隠れる場所なんてものは周辺に何もなかったからだ。あるものは砕けた瓦礫や丸い鉄パイプがある程度、とてもじゃないが、人が隠れられるような物はどこにもない。
「たかだか人間一人にここまでしてやられるとはね」
「……人間、ですか」
「どうしたんだい? 椎名」
「えと、あの感じ……私もまさかとは感じているんですが……」
「ハッキリ言いなさいな」
要領を得ない椎名の返答に、その本心を聞き出そうとするサーシャ。椎名は苦々しい表情をしながらこう答えようとした。
「あの女の人、もしかしたら――」
「こんなところで同類と出会うなんて奇遇ねぇ」
「え? きゃっ!」
言い切ろうとした直前、椎名が背中を蹴られてその場から吹き飛ばされる。
「うわっ!!」
フィンが焦って椎名のすぐ側へと忍び込もうとしていた張本人、エレナへと向けて銃弾を乱射した。
しかし、エレナはこれを体操選手さながらに側転をして避ける。
サーシャも応戦しようと銃口をエレナへと向けようとしたが、
「なっ!?」
するりと、人間の体では到底抜けることもできない壁の隙間へとエレナはその中へと入り込んでしまう。
そして、またエレナの姿を見失うこととなる。
「人間……じゃない。まさか……っ!」
「そう、あなたの目測通りよ。私は『レベル5モルフ』」
位置を特定できないまま、エレナの声だけが一帯に聞こえて、彼女は自身の正体を明かす。
「少し泳がせていたら良い収穫だったわ。もうあなた達を生かす理由もない」
「――っ! フィン!」
強烈な殺気を感じて、フィンへと警戒するよう投げかけるサーシャ。その目線を向けた瞬間に、エレナはフィンのすぐ後ろへと迫ってきていた。
「くっ!」
エレナのナイフとフィンの銃がぶつかり、難を逃れるフィン。そのまま蹴りだそうとしたフィンであったが、そう簡単に上手くはいかなかった。
彼がエレナの横腹へと目掛けて放った蹴り。それが当たった瞬間、普通なら直撃して体を飛ばせるものだったものが、その場でエレナの体が曲がらない方向へと体が折れ曲がったのだ。
「な、なんで……?」
「捕まえた」
柔らかい何かにぶつけたかのような感触と共に、フィンの足がエレナに掴まれてしまう。
何が起きたか分かる間も無く、エレナはフィンの足を掴んだままその関節を折ろうとして――。
「やめて!!」
「っ、早いわね」
フィンの足が折られようとした直前、椎名がすぐさまに加勢してエレナの顔面目掛けて蹴りを放とうとしていた。
今度は避けたエレナであったが、その隙にフィンも掴まれていた足を離すことに成功する。
「た、助かったっす」
「気をつけて下さい……。やっぱりあの人、『レベル5モルフ』です!」
「知ってるさ、自分から自供していたからね。しかし……それにしても……」
相手が『レベル5モルフ』であることを理解しながら、サーシャはエレナの奇妙な体質に違和感を示していた。
フィンの蹴りを受け止めた時、人間の体では物理的に入ることも難しい壁の隙間に入り込んだ時、あれはまるで、エレナの体がスライムのようになっているように見えて――。
「私の能力に当たりをつけはじめた頃かしら? 別に隠すつもりもないんだけど」
「……あなたは、一体?」
「同じモルフなら大体は検討がつくんじゃないの? 私の力は溶解能力。体の部位を、骨を一時的に溶かして相手の攻撃を受け流す。普通なら通れない隙間も私なら難なく通ることができる。もちろん、溶かした部位は再生成することができるわけだから、元通りになることも容易なわけよ」
「随分とふざけた力だね」
「あら、金髪のお姉さんには気持ち悪く見えるかしら? でも便利な力よ? この力のおかげで幾らでも相手の死角に忍び寄ることは容易になるわけなんだから」
エレナの『レベル5モルフ』の力――全身の部位を溶かして軟化させることができる能力。確かにそれならば、たとえ袋小路に追い込まれたとしてもたやすく逃げることも出来る。
「随分と小癪な能力だね」
「小癪……ね。果たして本当にそれが正しいかしら?」
「なに?」
右手を前に上げ、上げられた右腕の関節の部分がぐにゃりと曲がり、見るも耐えない見た目に変わるエレナ。それはまるで、人間の体がトラックに轢かれて無惨な姿になった時のそれに近い。
能力を行使しているからなのか、痛みを感じる素振りを見せない彼女は笑みを浮かべると、
「見せてあげる」
一言、そう放ったエレナ。それは戦闘を開始する合図となり、サーシャとフィンは持っていた銃を持ち上げた。
そして、エレナはその場からサーシャ達へ向けて人間では到底実現しえないであろう速度で接近する。
「はやっ!」
フィンが驚きの声を挙げるも、分かっていた事実だった。
エレナは『レベル5モルフ』だ。となれば、それを有するものが使えるであろう身体能力強化を彼女は使える。
『レベル5モルフ』の身体能力強化は、圧倒的な速度を誇る。それは、銃を持つ者にとっては最悪の相性とも言えるのだ。
距離が一瞬にして縮まるその瞬間に、間に割り込む存在がいた。
それは、
「椎名!!」
「近づかないで……ください!」
「ふぅん」
真っ向からぶつかり合う椎名とエレナ。取っ組み合いになり、接近戦になった彼らへと銃撃が出来なくなるサーシャとフィンだが、その銃口は降ろさない。
タイミングさえ見計らえば、エレナを撃つことができるからだ。
二人が接近し合い、互いに扱う格闘術でもって戦い合う二人の『レベル5モルフ』。そして、一気に戦闘は激化していく。
「少しは楽しめそうじゃない」
「――っ!」
椎名の多段蹴りをするりと躱し、関節技に持ち込もうとするエレナに、椎名はバックステップをして後ろ回し蹴りを決め込もうとする。
しかし、これも読まれていた。エレナは紙一重でこれを躱し、再び椎名の足を狙って手を回そうとしている。
「ふっ!!」
「これを避けるんだ。やるねぇ」
文字通り、カウンターを仕掛けてきているエレナの狙いは椎名の足を封じる為の関節技だった。
最初の攻防から、椎名が腕を使った攻撃を仕掛けてきていないことを把握していたエレナは、椎名の攻撃手段が蹴りだけだということを理解していた。
対する椎名も、エレナの隙をつけ狙う動きに警戒をしていた。
エレナの動きは不規則な動きをしているが、大方が組み手を意識したような動きをしている。
柔道とは違う、一撃で仕留めにかかる為の予備動作をしていたのだ。
「なんで……私達と……っ!」
「ん?」
「なんで……戦わなくちゃいけないんですか!?」
聞くだけ不毛な、戦いたくないという本音を口に出した椎名は問答をエレナへ掛ける。
剛と柔、傍目に見れば互いの流派は違うが、それが次元の違う速さで攻防を仕掛け合いながら言葉を交わし合おうとする。
「こんな戦い、意味なんてないのに……っ!」
「意味……ね。あなた日本人でしょ?」
「それが……なに!?」
日本人であることを指摘されて、言葉の意味を汲み取れなかった椎名はエレナへと問いかけを続ける。
「ぬくぬくと生きてきたあなたには分からないでしょうね。国境を超えた先にどれほどの差別があるかなんて」
「あなたが何を言っているのか……分からない!」
「分からないなら分からないままいれば? 馬鹿には何を言っても無駄だから」
椎名の蹴りを躱し、その隙に椎名のもう一方の片足へと突くようにしてエレナは蹴りを入れる。
「ぁっ――!」
コマンドサンボと呼ばれる柔術がある。合気道、柔術を組み合わせたそれは、軍人も扱う武術だ。
対人を想定したそれは、打・投・極のあらゆる手段を駆使して戦闘不能に追い込むといったものだ。
スポーツにおいてもサンボは存在するが、軍人が扱うものは少しだけ違いがある。より素早く敵を倒すことに重点を置いたその技は、目潰しや頭突きなど、スポーツでは反則とも取られる手段を行使していくのだ。
――重心が蹴りを放った逆足に向いていたことで、エレナに蹴りを入れられた椎名の左足が力を失うようにして曲がる。
そして、上半身が前に傾き、思わず手が前に出てしまったところをエレナは見逃さなかった。
「一本」
「あっ!」
するりと椎名の後ろへと回り込んだエレナは、椎名の右腕を後ろから掴みかかり、抜け出せなくなってしまう。
上半身が前のめりになり、椎名の右腕だけが天へと向いたその状態でエレナは躊躇いはしなかった。
本来ならば一本と取られ、その場で拘束が解かれるスポーツの一場面。それをエレナは拘束を解くことなく、勢いよく椎名の右腕の関節ごと曲げられない方向へと折り曲げた。
「いっ……!」
「痛い? それにしても単純な動きね、能力を使うまでもなかったわよ」
「椎名!!」
椎名がエレナに関節技を極められたその状況を呆然と眺めているわけにいかなかったサーシャは、持ち手にコンバットナイフを握り、エレナへと接近を仕掛ける。
「――――」
続けて来る敵を見据えて、エレナは冷静だった。
椎名の右腕を離し、その場から立ち上がったエレナはサーシャのナイフによる薙ぎを下半身だけは動かさず、上半身を仰け反らせることで避けたのだ。
「ちぃっ!」
「はい、また一本」
エレナがそう一言放った直後、仰け反らせた上半身を元に戻し、そのままサーシャの腰目掛けて抱きつくようにして突進する。そして、サーシャの左足を軽く持ち上げたエレナは突進する勢いを弱めないままサーシャの体を持ち上げ、そのまま壁へと激突する。
「かはっ!」
肺から空気の全てが吐き出させられたかのような感覚だった。
無論、サーシャはエレナのコマンドサンボによる動きは警戒していた。しかし、読み切れなかったのは彼女の異常な体幹能力の高さだった。
あれほど仰け反らせた体勢からすぐに立て直すなんて、並の人間にはできっこないのだ。
「姉さん!」
「上司を目の前にして撃てる? 撃てないわよね。私は撃てるけど」
「――っ!」
サーシャの体から手を離さないまま、空いた手で隠し持っていた拳銃を取り出し、その銃口をフィンへと向けるエレナ。
フィンも銃口を向けてはいたが、撃つことが出来ない。
あれほどサーシャとの距離が隣接している状況では、人質に取られているようなものだからだ。
「悔しみながら死になさい」
避けることも何も出来ない。エレナに撃たれそうになり、悔しみに表情を歪ませていたフィンだが、エレナはこの時、一つだけ抜けていた部分があった。
想定外といえば想定外、それはある者の力をだ。
「――え?」
不意にエレナの視界が、脳が揺れた。
地面を擦れる音が聞こえ、それが自身の体が吹き飛ばされたことを理解したのは数秒後のことであった。
一体、何が起きたのか? サーシャはすぐに動けず、フィンも何も出来ない筈。あの『レベル5モルフ』の椎名も、激痛ですぐには動き出せない筈なのに。
――『レベル5モルフ』。
「大丈夫ですか!? サーシャさん!」
「ぅ……く……」
エレナの視界に、背中から壁にもたれかかっていたサーシャに肩を貸す椎名の姿が見えた。
先ほどまでに右腕の関節を折ったにも関わらず、椎名は完全に回復させてその場に立っていたのだ。
「再生能力……にしては早すぎるわね」
『レベル5モルフ』の力を有する者が再生能力を持つことはエレナも理解していたことだ。当然、エレナ自身もそれは使えるし、椎名にもそれがあることは分かっている。
しかし、再生能力はどのモルフも再生速度が一定であることは決まっている。
そこで、エレナはある程度の推測を立てることができてきた。
「それが……あなたの能力なのね」
椎名の力、超速再生能力に目星をつけたエレナは立ち上がった。
傍目から見れば、背骨ごと折られたであろう威力の蹴りを受けたにも関わらず、エレナはほぼ無傷の状態だったのだ。
「どうして……立ち上がれるんですか?」
「あなたの力とは違うわね。これが私の能力の本領」
ゆらりと体を揺らせ、エレナは椎名達へと見下すような視線を向ける。
エレナの扱う『レベル5モルフ』力、溶解能力と称したその力の本領は――、
「私は受けた打撃を全て体の内側を柔らかくすることで衝撃を弱められる。つまり、あなたの蹴りは私には効かないのよ」
超速再生能力とは違う、椎名と相性が最悪の情報を聞かされる。
「さぁ、そろそろ終わりにしようか。本気で殺しにいくわよ」
次話は少し重たい雰囲気の内容があります。




