第四章 閑話 『過ぎ去りし思い出』
『――お兄ちゃん』
声が聞こえる。
血の繋がった妹の声が――。
『――お兄ちゃん』
声が聞こえる。
まともな人生を送らせてやりたいと願っていた、たった一人の妹の声が――。
『――お兄ちゃん、どうして……私を見捨てたの?』
「……はっ!」
ビクッと体を跳ねらせて、浅い睡眠から目を覚ます神田慶次。
意識が鮮明になり、目の前にはベッドに寝かせていた妹、神田静蘭がいた。
彼女は目を覚ます気配がなく、今も昏睡した状態のままだ。
――嫌な夢を見てしまった。
そう思いながら、神田慶次は座っていた椅子から立ち上がる。
「……静蘭」
未だ、目を覚まさない静蘭の頬に触れて、神田慶次は鬱屈とした表情でいた。
静蘭の今の状態はいわば、植物状態といってもいいというのが医者の証言だった。
呼吸こそすれども、意識は明白ではなく、生きていることが奇跡とも言わんばかりの状態だったのだ。
「なんで……こうなってしまったんだろうな」
独り言を呟きながら、神田慶次は過去に縋る。
戻れるというのならば、どんな手を使ってでも過去に戻ってやりたかった。
あの時、メキシコ国境戦線で補給地点の異常に素早く気づくことができれば、静蘭がこんな目に合うことはなかったはずだ。
むしろ、あの戦線に参加さえさせなければ、静蘭が犠牲になることもなかった。
でも、それは不可能なことだった。
静蘭は誰よりも責任感が強い。
他の誰かが命を賭けて戦っている最中に、自分も力になろうとするのが妹の信条だ。
そんな彼女を止めることは、兄である神田慶次にも出来るものではなかったのだ。
「――お前の仇は必ず俺が討つ。だから、ゆっくり休んでてくれ」
声も届かない妹にそう告げた神田慶次は、ゆっくりと立ち上がって自分の荷物を持つ。
静蘭をこのような目に合わせた相手には目星はついていた。
白装束を身に纏い、銃弾が飛び交う戦場で妙な剣を使う女。笠井修二の言葉によれば、そいつは『レベル5モルフ』だということだが、相手の強さなんてものはこの際、どうでもいい。
静蘭に手を掛けた以上は、神田慶次にとっては憎むべき敵だ。
だから、自身の手で必ずその者の首を取ってやると心に誓いながら、彼は病室の入り口のドアに手を掛ける。
「あとは、お兄ちゃんに任せろ」
決意を言葉にし、神田慶次は病室を後にした。
神田のこの後の予定は、タケミカヅチ第二部隊の面々との訓練であり、それ以外には何もない。
部隊をまとめる隊長は神田なのだが、正直言って見合った役職だとは考えてもいなかった。
個人行動の方が得意な方だとされる神田は、隊員をまとめるよりはまとめられる側である方がやりやすかったからだ。
「よう、慶次」
「――――」
病室の廊下を歩きながら、その角で神田慶次を待っていた者がいた。
彼は神田もよく知る人間。隠密機動特殊部隊に入る前より、ヤクザ組織にいた頃に見知った仲だった男、高尾だった。
声を掛けられ、神田は返事をすることもなく、高尾の横を通り過ぎようとする。
そのまま無視して、先へ進もうとしたところで、高尾に肩に手を置かれてしまうが、
「……離せ」
「嫌だって言ったら?」
「お前と話すことは何もない。よくも、この病院まで顔を出せたものだな」
「……静蘭を見捨てようとした俺を恨んでいるのか」
「――当たり前だ」
否定することもなく、その通りだと言わんばかりに神田は高尾の顔を見て睨みつける。
神田にとって、ヤクザ組織の人間は同じ仲間だとは考えていない。
その原因は言わずもがな、妹である神田静蘭のことが掛かっていた。
当時、敵対したいたヤクザ組織に静蘭が攫われたあの時、高尾を含めた神田組の構成員は皆、静蘭を見捨てようとしたのだ。
その時、静蘭を助けようとしたのは神田慶次だけであり、静蘭を見捨てた連中は皆、神田にとっては相手にもしたくなかった。
「お前にこれを言っても信じてもらえないだろうけど……静蘭を助けようとした連中はいたんだよ。俺も含めてだけど、その前にお前が先走っていったからな」
「――――」
「それでも……お前が言うように動いたのはお前だけだ。だから、それについては俺も申し訳ないと思っている。その上で、話だけでもさせてくれないか?」
何を今更と、神田はイライラとしながらもその足は止まっていた。
それに、高尾がどう弁解しようと覆せない結果はある。
「なら、今回もお前は静蘭を助けられなかった。そうだよな?」
「そう……だな」
卑怯な質問だとはわかっていた。
今、昏睡状態にいる静蘭を助けられなかったのは神田も同じことだ。
しかし、あの現場には高尾もいたのだ。
だから、助けられなかったのは高尾も同じことだと、神田は問いかけとしてそう示した。
「――それで、話ってなんだ?」
結局、自らを罰するような発言をしてしまった神田は、高尾の話を聞こうとした。
その言葉に少し驚くような表情を見せた高尾だが、彼はパーマを掛けたその髪を触りながら、答えづらそうにして、
「その……静蘭のことについてなんだが、お前が良いって言ってくれるなら、後の様子は俺に見させてくれないか? 何があっても、俺が静蘭を守ってやるから」
「――――」
「俺も、こんなことを言って受け入れられるとは思ってねえよ。静蘭をほったらかしにしたのは事実だし、その事実は覆らない。だから、今こそ役に立ちたいんだ。昔みたいにお前との仲を取り戻したいとは言わない。ただ、俺にもお前の大事な者を守らせて欲しいんだ」
純粋な本音を聞かされて、神田は口籠る。
彼は、今までのように接してくれとは言わない。
ただ、静蘭のことは任して欲しいと、そう神田にお願いしていたのだ。
受け入れられないことは前も今も変わらない。
だが、静蘭から目を離す時間があることは間違いはなかった。
その間、敵勢力の誰かが静蘭を手に掛けるリスクがないとは言い切れない。
だから、誰かに静蘭を任せる必要があった。
高尾は神田の返答を待つばかりだった。
神田は間を置いて、目を閉じて考え込むと、
「――じゃあ、任せてもいいか?」
「! いいんだな!? 任せろ! 命に替えても、静蘭は守ってやる!」
声を荒げ、任せてもらえるということに喜んだのか、高尾は嬉しそうな様子だ。
元より、神田にとってはそれが最善であるという判断なのだが、仕方なかった。
「その代わり、静蘭のことを狙う奴がいたら必ずなんとかしてくれ。俺がいない時は特にな」
「ああ、分かった。その辺は俺も対策しておくから任せてくれ」
「……それと、もう一ついいか?」
「何だよ?」
付け加えるようにして、もう一つ問いただしたいことがあった神田は、高尾にあることを聞こうとした。
それは――、
「出水はどこにいる?」
「出水陽介か? ……あいつは別の病院に移ったよ。思ったより状態が良くないらしくてな。そっちには八雲琴音が一緒にいるはずだ」
「――そうか」
静蘭と同じくして、容体が良くないとされる出水陽介の所在を聞いた神田は、その先に琴音もいると聞いて、一先ずは安心した。
彼も、メキシコ国境戦線で負傷した一人だった。
共にいた笠井修二以外のメンバーは全員死傷し、彼だけはなんとか一命を取り留めたのだが、彼も目を覚まさない一人だ。
静蘭の看病に付きっきりだった神田は、その出水の状態が不明瞭だった為に、高尾へとそう聞いたのだが、琴音がいると聞いて少しだけ安心した。
「俺からも一つ聞きたいんだが、いいか?」
「なんだ?」
高尾からも質問があるようで、今後に関わる内容ならばと神田は内容を聞こうとした。
高尾は、首を傾げながら神田にあることを問いかける。
「笠井修二がどこにいるか、知ってるか?」
「――いや、知らないが、なぜだ?」
「あいつ、最近どこにも見当たらないんだ。風間のおっさんは暗い表情をしてたし、何かあるんじゃねえかと思ってな」
「――――」
笠井修二がどこにも見当たらないこと。
それは、神田でさえも知る由もなかったことだ。
一度は修二を殴ってしまった神田だったが、それが起因するものでもないだろう。
何か、考えがあって一人で行動しているのだろうと、神田はそう考えて、
「気にしなくても大丈夫だろう。静蘭のことは任せたぞ」
「おう、分かった」
特に気にすることでもないと決めつけた神田は、あとのことを高尾に任せて先へと行く。
高尾に静蘭のことを任せることに少しだけ不安はあるが、今は他に任せられる人間はいない。
先ほど、高尾が言っていたことをなぞると、笠井修二がいなくなったことに合わせて、他にもいなくなった仲間がいたからだ。
それは、椎名真希と清水勇気。彼らはメキシコ国境戦線には参加しておらず、いわゆる待機組だったのだが、帰還してからも彼らの姿を見た者はいない。
特に、『レベル5モルフ』である椎名真希がいなくなったという事実には、上層部も何かしら慌ただしくなるものだと思っていたのだが、そのような雰囲気も感じられなかった。
つまりは、彼らは神田の知らない安全な場所で何かをしているのだとは考えられるが、それは考えても答えは出てこない。
「何がどうなってるんだろうな」
正直、現状を把握出来ていないのは自分だけなのかと不安を覚える神田であったが、多くは語る必要もないだろう。
無事でいれば万々歳だが、今の神田は静蘭のことで手一杯であり、それ以外のことに気を回せる余裕はない。
ならば、今は自分のやるべきことをやろうと、神田はタケミカヅチ第二部隊が集まる宿舎へと向かおうと足を進めていく。
「あっ、神田さん!」
「不知火か」
病院を入り口へと差し掛かる自動ドアの前に、神田の部隊の一人である女性、不知火弥生がいた。
彼女は部隊の中では珍しい女性隊員であり、戦う側としては合わないような小柄な体格をしている。
どちらかといえば大人しめな気質だが、彼女は二重の瞼を少しだけ緩めて、神田の方へと歩み寄り、
「お待ちしていました。――もう大丈夫なのですか?」
「……ああ、もう大丈夫だ」
何のことかと言われれば、不知火が聞いたのは静蘭のことだろう。
彼女は気を遣って、神田の気のすむまでこの場所で待っていてくれていたのだ。
それに気づいた神田は、少しだけ申し訳ない思いになり、
「すまない、待たせてしまった」
「いえ、大丈夫ですよ。身内のことですから仕方ないです」
謝罪の言葉に対し、不知火はお世辞にもそう答えてくれた。
本当は、あまり待たせてしまうのは良くないことだっただろう。
訓練の予定時刻はとうに過ぎており、他の仲間達も待たせているような状況だ。
しかし、そのことに対しては不知火も何も言わず、ただ神田の思いを優先させていてくれた。
「他の皆は集まっているのか?」
「いや……それがですね……マイルズの姿が見えないのです」
「マイルズが?」
待たせているであろう他の仲間達の状況を尋ねた神田だったが、神田の部隊であるアメリカ人の一人、マイルズの姿が見当たらないという事実を不知火から聞いて、神田が眉をひそめる。
メキシコ国境戦線でも彼の経験は役に立ち、モルフとの戦闘においても難なく切り抜けたこともあった。
元海兵隊員であるとのことだが、マイルズがいないというのは、神田が来るのが遅かったからなのかと、怒るに怒れない気分になるが、
「マイルズは元々の予定時刻からずっといなかったんです。だから、居なくなった理由は私にも分かりかねるのですが……」
「……そうか」
どうやら、神田の考えとは別で、最初から彼は集合時間にいなかったとのことだ。
バックれたといえば聞こえは悪いが、神田も神田で遅れて行くような身だ。
だから、あまり追求はする必要はなさそうだと、神田は不知火の肩に手を置いて、
「マイルズのことはいい。集まったメンバーだけで今日は訓練を開始しよう」
「了解しました」
心がバラバラになっているかのような雰囲気さえあるが、今日はもう仕方がない。
マイルズを抜いたメンバーだけで訓練をしようと、神田と不知火は待たせている他の隊員達と合流する為に移動を開始した。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼
同時刻、神田に静蘭のことを任された高尾は、静蘭のいる病室へと足を向けていた。
神田慶次に静蘭を任せられるとは、正直思っていなかった。
疎ましい存在でもあった筈なのに、それでも任してくれたのは、彼も余裕がなかったが故のことなのだろうが、それでも構わない。
高尾にとっては、これは償いみたいなものだ。
当時、ヤクザ組織にいた頃に、静蘭が他勢力の組織に攫われた時、行動に移し兼ねていた自分がいたことは事実だったからだ。
それを先立って、神田慶次が一人でカチコミをかけに行ったのだが、それを知ってさえいれば高尾も共に向かっていただろう。
彼が一人でそうしたのは、ヤクザ組織であった神田組に不信感があったからに違いなかった。
「でも、任してくれたからには俺も全力で応えないとな」
どのような思いがあれど、静蘭のことを任せてくれたことは事実だ。
だから、これからのことを考えるべく、高尾も準備を考えていた。
「この病院はセキュリティが甘い。まずはトラップを仕掛けつつ、静蘭に近づけさせないようにして……あとは……」
神田慶次が懸念していた、敵勢力が静蘭を狙うリスク。それを解消させるためには、静蘭の周囲に近づけさせない罠を仕掛ける必要がある。
これでも、高尾は神田組の中では若頭の立ち位置にいた人物だ。
まだ若いのにも関わらず、構成員をまとめる力やシノギを稼ぐカリスマ性は、神田組の中でも買われていた存在でもあった。
裏の世界に住んでいたからこそ、それなりの残虐性を持ったやり方も知ってはいたし、それは今回にも役に立つ筈だろう。
「――と、着いたな」
あれこれ考えている間に、いつの間にか静蘭のいる病室の前に立っていた高尾は、その入り口のドアの取手を掴む。
そして、中に入った高尾は、その中の光景を見て立ち止まった。
「――え?」
立ち止まったのは、高尾にとって信じ難い光景が映し出されていたからだ。
全身が硬直し、目の前のその状況に驚きを隠せなかった高尾は、唇を震わせながらにいた。
なぜなら、今も昏睡状態にいた筈の静蘭が目を覚まし、寝かしつけられていたベッドから起き上がっていたからだ。
「せ、静蘭! 目が覚めたのか!? 俺が分かるか? 高尾だ、昔、何度か話したのを覚えてるだろ!?」
「――――」
感極まっていた高尾は、静蘭に自身のことを覚えているかどうかの確認を取ろうとした。
神田慶次がそうであるように、静蘭も神田組のことを毛嫌いしている可能性があることを忘れていた高尾は、そんなことすら気にすることもなく問いかけていた。
当の静蘭は高尾の顔を見ると、無表情のまま見つめてきている。
「大丈夫か? 目を覚ましたばかりなんだ。今、ナースコールで看護師を呼んでくる。――慶次にも伝えないと……」
ともかく、静蘭が治ったことを共有しなければと、高尾は急いでベッドの側にあったナースコールのボタンを押そうとした。
しかし、
「あの……」
「ん、どうした? どっか痛いのか?」
怪訝な表情のまま、静蘭は何かを言おうとして、高尾のことを見ている。
その表情からは、少しだけ怯えているかのような雰囲気を感じ取り、妙に感じた高尾は、ナースコールのボタンを押す手前で手を止めたが、その後に彼女が発した言葉は、高尾ですら想像外のものだった。
「あの……あなたは、誰……ですか?」
「――――」
全身がそう毛立つような感覚になった。
心臓が脈打つ感覚を覚えながら、高尾は目を見開いて静蘭と顔を合わせる。
――今、何と言った?
高尾のことは、日本での騒乱の後からも一度顔を合わせているから、知らない筈がない。
なのに、静蘭はまるで、高尾のことを知らない人だと言ったかのような、そんな問いかけに聞こえて、
「静……蘭? お前、慶次のことを……兄のことを知っているか?」
真っ先にそう問いかけたのは、確証を得るためでもあった。
唯一の血の繋がりを持つ兄、神田慶次のことを聞いた高尾は、心がざわつく感覚を覚えながらも、そのことをしっかりと聞こうとして動きを止める。
そして、静蘭からの返答は――、
「兄……ですか? 何も……分からない……ですが……」
「――冗談だろ?」
辿々しく答え、静蘭は未だに怯えながら兄のことを知らないと答える。
――静蘭は記憶を失っている。
そのことを意識した時には、高尾の喉は一気に水分を失ったかのようにカラカラになっていた。
「えと……あなたは、私を知っているんですよね?」
「……あぁ」
「何も……何も思い出せないんです。私の名前が静蘭だってこと……それ以外は何も……」
自分の名前だけは分かり、それでも他の全てを思い出すことができないとそう言い切った静蘭に、高尾は唇を噛み締めた。
せっかく、せっかく目を覚ましたばかりなのだ。
なのに、どうしてこんなことになる。
静蘭のことを任されたばかりでもあるのに、このような状況、兄である神田慶次に一体何と説明すればいいのか。
しかし、今はそんなことを気にしていられる状況ではない。
「ともかく……誰か呼ばないと」
一時的な記憶喪失の可能性に希望を抱いて、高尾は止めていた指を動かしてナースコールのボタンを押す。
専門家に見てもらえば、今の現状に少しは説明もつくはずだ。
何か糸口さえ見つかれば、こんな残酷な結末を迎えることはないのかもしれないと、高尾は専門医の到着を待った。
そして、静蘭は続け様にこう聞いてくる。
「あの……あなたは私の何なのですか?」
その問いかけは、今の怯えた状態にいることの本音でもあった。
高尾のことを知らない静蘭は、高尾が良い人なのか悪い人なのか、その認識さえない。
だから、彼女はそのことを問いかけてきたのだ。
高尾は目を瞑り、少しだけ考えた。
慶次は俺に託した。――静蘭を守るようにと。
ならば、俺に出来ることは一つしかない。
「俺は――」
「――――」
その場から立ち上がり、真っ直ぐに静蘭と向き合った高尾は、真剣な顔つきでこう答えた。
「俺はお前の味方だ。だから、安心してくれ」
記憶を失い、全てが無に帰した静蘭。
静蘭を任され、必ず守ると告げた高尾。
この世は不合理で理不尽極まりないもの。それは、誰にとってもそうであるものだ。
でも、生きてさえいれば、必ず希望はある。
高尾はそう信じて、静蘭を必ず守り切ってみせると、声に出して決意を固めた。
これは、最終章が始まる少し前の話。
phase1の始まりを告げる修二の仲間の物語でもあった。
次話より第五章投稿予定です。
第一話は6月2日午後七時を予定しています。




