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悪役令嬢を断罪した、その後で

作者: まりり

 ノックの後に続いた、ギブスですというよく知っている名を聞いて、このファーニヴァル王国の王太子であるロードリック・エル・ファーニヴァルは、入れと短く入室の許可を与えた。

 すぐに扉が開く音と、数歩分の足音、続けて何かを床に置く固い音が聞こえたがロードリックは、プラチナブロンドの髪とアイスブルーの瞳という、見る者にいささか冷たい印象を与える整った顔をあげることはしない。先ほどの声は間違いなく近衛騎士のギブスのものだ、確認する必要を感じなかったのだ。


「ご報告いたします。本日、正午ちょうどにラウレンツ元公爵令嬢の刑を執行いたしました」


 はっきりと告げられた言葉にロードリックは、「そうか」とだけ答えた。やはり顔はあげずに、書類の末尾に流麗な文字で署名を入れる。

 書いた文字に震えはない。幼い頃からの婚約者だった令嬢の死の知らせにもロードリックの心は、冬の凍てついた湖のように冷えたままだ。


「アラン・エドモンズ博士が調合した毒薬で、苦しむこともなくまるで安らかな眠りに落ちるような最期でした。死亡確認はエドモンズ博士と、その助手の方がお二人で行われましたので間違いありません」


 よく通るギブスの声にロードリックは、やはり「そうか」とだけ答えた。

 この王太子の執務室は、いつもなら補佐官や秘書官が複数詰めている。しかし、今日は一人にしてくれと人払いしていたので、今はロードリックとギブスの二人しかいない。

 ロードリックは署名した書類を処理済みの箱に放り込み、新たな書類を手に取った。ギブスの視線を感じてはいたが、気にせず目を通す。

 王都の外れを流れる川の汚染がひどく、異臭を放っている。その川の水を生活用水としている民もいるため早急に何とかして欲しいという嘆願書だ。

 ロードリックは、机の上の他の書類をパラパラとめくる。

 この手の嘆願書なら、ロードリックの元に来る前に川の水質調査が行われ、その調査報告書と共に解決策を提示して王太子の署名を入れるだけになっている書類が別に添えられているはずなのに、どうもそれらが見当たらないのだ。

 ロードリックは未処理の箱に書類を放り込んでから、ようやく顔をあげた。馴染みの騎士は、扉を背に直立不動で立っていた。

 年上ばかりの近衛騎士団の中では比較的ロードリックと年が近く、また伯爵家の次男という低くない身分のためにロードリックの傍近くに控えることの多いこの黒髪の騎士は、その顔をわかりやすく強ばらせていた。ロードリックの近くに控えるということは、婚約者であるマーガレットのことも見知っているということになる。若く美しい令嬢の死を目の当たりにして、屈強な騎士とはいえ思うところがあったのだろう。


「ご令嬢の遺体は予定通り、エドモンズ博士が引き取られましたが……あの、本当によろしかったのでしょうか。博士は、今後の医療の発展のために解剖に使うとおっしゃっておられましたが……」


 医療の発展のためや、医師を志す者たちの実習のために死体を都合して欲しいと医療院から依頼があることは別に珍しいことではない。その場合は、貧民街で野垂れ死んでいた者や、平民の救護院で死んだ者の中から身よりのない者などを与えている。

 エドモンズ博士は王宮侍医だが、本来は医者というより研究者としての顔の方が有名だ。特に薬物学では、この国で最高の権威と言っても過言ではないだろう。

 若く、傷ひとつなく、ましてや病で死んだ訳でもない遺体など滅多に手に入るものではないから、博士が欲しがるのは無理もない。エドモンズ博士はすでに老齢と言っていい年だが、その探求心は衰えることがないらしい。


「いくら罪を犯したとはいえ、マーガレット様は公爵令嬢です。それなのに……」


 優しい男だなと、その震える声を聞きながら思った。王太子に意見するなどと、下手をすれば不敬罪だ。それでも言わずにはいられなかったのだろう。

 ロードリックは、軽く息を吐いた。

 ギブスの言いたいことは、まあ理解できる。いくら罪を犯して処刑されたとはいえ、マーガレット・ラウレンツは由緒正しい公爵家の長女であり、ほんの二週間ほど前まではロードリックの婚約者だったのだ。それなのに死した後まで平民の中でも底辺の者どもと同じ扱いを受けるなど、あまりに無慈悲ではないかと言いたいのだろう。


「献体は、マーガレットの意思だよ。死んだ後くらいは、世のためになりたかったのかもしれないね」

「そう、ですか……」


 もっともロードリックも、マーガレットが献体を望んでいると報告を受けた時にはさすがに戸惑った。

 死を賜るのは仕方がない、彼女はそれだけの罪を犯してしまった。だけど、死んだ後までも罰せられるのは違うと思ったのだ。

 彼女のあの白く美しい肌を鋭利な刃物で傷つけるなど、あまりに惨い。

 なので、ラウレンツ公爵家に彼女の遺体を引き取り、葬式はしないにしても密やかに埋葬してやったらどうかと提案してみた。

 しかし、マーガレットの父親であるラウレンツ公爵はにべもなく、とっくに勘当した者など当家の娘にはあらず、関係ない者を引き取る訳がないとのたまった。

 確かに、彼女が捕縛されて速やかに死刑が確定するまでの僅かの間にラウレンツ公爵家より長女マーガレットの離縁届が提出され、その場で受理されていた。普通はこのような届け出には処理に時間がかかるものなのだが、前もって手をまわしていたのか、驚くべき早さでマーガレットは公爵令嬢から何の力も持たないただの娘になり果てていたのだ。

 もしもマーガレットが公爵令嬢のままであったならと、ふと思う。公爵令嬢なら、多分もっと丁寧な捜査が行われていただろう。

 しかし、貴族位を持たぬ平民の娘のために何人もの騎士を捜査に当たらせることなど有り得なく、背後関係さえろくに調べられぬままにマーガレットの刑は執行されたのだ。


「詮無いことを申しました」

「いや、かまわない。いつも言っているだろう、思ったことは何でも遠慮なく言って欲しい」


 それでも申し訳ありませんでしたとギブスは謝罪を口にしたが、真っすぐにロードリックを射抜く視線に非難の色が見え隠れしているような気がするのは気のせいか。いや、詳しい事情を知らない者にしてみれば、マーガレットが凶行に及んだ元々の原因がロードリックの不実にあると思うのは、仕方のないことだろう。


「刑の執行と同時に、ラウレンツ元公爵令嬢が使われていた部屋を片付けました。私物が少し残っておりますが、処分してよろしいでしょうか」


 そう言いつつギブスは、足元に置いていた木箱を持ち上げた。軽そうに持たれているその箱の小ささに、ロードリックは眉をひそめた。


「それだけか?」

「はい」

「ドレスや宝石類が山ほどあっただろう」


 王太子の婚約者ということで、マーガレットには王宮内に一室が与えられていた。王妃教育のためにこの数年は、その部屋に住んでいる状態だったはずだ。

 住んでいたということは当然、ドレスや靴、帽子などの身の回りの物や、誕生日ごとにロードリックが贈っていた宝飾品だってあったはずだ。

 王太子から婚約者への贈り物だ。子供の頃に贈った物はそれ程でもないが、この何年かはかなり高価な品を贈ったと記憶している。


「夜会用のドレスや宝石などは、リリアナ様が姉上の遺品だとおっしゃって持って行かれました。普段着などは処分するようおっしゃられましたのでそのようにいたしましたが、問題ありましたでしょうか」

「リリアナが?」

「はい」


 リリアナ・ラウレンツは、発表はまだだがロードリックの新しい婚約者になる予定の令嬢であり、マーガレットの二歳下の異母妹だ。マーガレットの実母は五年ほど前に亡くなり、その後に公爵の愛人であった今の公爵夫人とその娘であるリリアナが公爵家に入ったのだ。

 貴族が妻以外に愛人を持つのはよくあることであるし、本妻が亡くなった後に愛人を妻として迎え入れるのもよくあることだ。

 なので、そのこと自体は別に咎められることでもないのだが、そういった経緯の再婚が貴族の間であまり歓迎されないのは、先妻の子と後妻の子で争うことがままあるからだ。

 跡取り問題であるとか、単に子供同士の仲が悪くて時には事件に発展することさえある。

 ラウレンツ公爵家の場合は、市井で育ち、控えめでおとなしい性格のリリアナを、生まれつきの公爵令嬢で高慢なマーガレットが、王太子の婚約者であることも笠に着てひどくいじめたらしい。

 それまでロードリックは、マーガレットは貴族女性の見本のような完璧な令嬢だと思っていた。すっかり騙されていた訳だが、ロードリックに婚約者の本性を教えてくれたのは、その妹のリリアナだった。

 このファーニヴァル王国では、爵位を持つ家の子女は全員、十五歳になったら王都にある王立学園に入学し、勉学を通じて貴族としての矜持や義務を学ばなければならない。ロードリックが三年生、つまり最終学年に上がったと同時に王立学園に新入生として入学してきたリリアナをロードリックは、最初はマーガレットの妹としか認識していなかった。

 しかし、校内で度々顔を合わせ、話をするうちに親しさは徐々に増していき、そうしてリリアナが入学してから季節を一つ見送った頃には、ロードリックが生徒会長を務める生徒会室でリリアナと二人で昼食を摂るのが日課になっていた。

 そんなある日のことだった、ひどく疲れた様子のリリアナがロードリックに相談したいことがあると言い出したのは。昼休みの生徒会室でリリアナが涙ながらに語った話は聞くに堪えず、思い出しただけでロードリックの身の内に怒りの炎がゆらりと立ち上がる。

 マーガレットがリリアナに平民のくせにとか、生まれ育ちが貧しいとどう取り繕っても品がないとか、それこそ品のない言葉を投げつけてなじるのは毎日のことで、リリアナが新しいドレスを仕立ててもらえば自分付きの侍女に命じてクローゼットの中のそれを切り裂き、両親がいない日に姉妹二人で食事を摂っていればリリアナのグラスに花瓶の濁った水を注いで飲めと強要し、挙句の果てには屋敷の下働きの男に命じて庭を散歩していたリリアナを作業小屋に引き込み凌辱させようとまでしたらしい。

 その時には幸いなことに他の使用人が気づいて事なきを得たそうだが、それ以来リリアナは恐くて美しい庭園を歩くことができなくなった。いつだったかロードリックが学園の裏庭を散歩しようと誘った時も青ざめてガタガタと震えだしたから何事かと思ったが、そんな過去があればあの優しくも繊細なリリアナが心に傷を負うのは当たり前のことだ。

 マーガレットが王宮に住むようになってからは心休まる日々を過ごしていたリリアナだが、王立学園への入学で再会してしまった。学園は人の目があるせいか今はまだ何かをされた訳ではないけれど、顔を合わせると憎々し気に睨まれる。何かとても悪いことが起こりそうで恐くてたまらないのだと言ってリリアナは、涙で濡れた瞳でロードリックに縋った。

 可哀想なリリアナを抱きしめて優しく慰めながらロードリックは、マーガレットを八つ裂きにしてやりたいと思った。ロードリックの前では優し気な顔をしながら、その裏の顔のなんと醜いことか。

 しかし、ことがいじめの範疇ならロードリックといえども苦言を呈するくらいしかできないのが実情だった。いや、凌辱させようとしたのはいじめの範疇から外れているだろうと思うが、それでも公爵家内の問題であって、王家が権力を振りかざして罰するようなことではないのだ。

 ロードリックは、可愛いリリアナのためにできる限りのことはした。マーガレット本人を直接何度も糾弾したし、父王にマーガレットは王太子妃にふさわしくないと訴えることもした。

 だけど、いくらその罪を暴き立てて責めてもマーガレットは澄まして身に覚えがございませんと答えるばかりだったし、父王に関してはあんないい娘がそんなことをするはずがないと信じてもくれなかった。

 悔しかった、情けなかった。

 父王まで騙している、マーガレットが憎くて仕方なかった。

 腕の中で震える、こんなか弱い女の子一人助けられなくて何が王太子だと、そう思った。

 証拠さえあればと思わず呟いてしまったが、狡猾なマーガレットは証拠なんて全く残していなかった。

 やがて、王立学園の卒業が近づくにつれてロードリックは焦りを感じるようになっていた。ロードリックとマーガレットは同学年のため、一緒に卒業となる。卒業すれば、すぐに結婚の準備に取り掛かることになるのだ。

 王族である以上は、結婚は義務だ。次の王になる者が早く伴侶を得て子をなせば、それは国の安定につながる。特にロードリックは、王妃が早世したこともあって王のただ一人きりの息子だ。一日も早く正当なる血筋の世継ぎをと、誰もが願っていた。

 そのあたりのことをロードリックはもちろん、幼い頃からちゃんと理解していた。いつか恋をしてみたいという憧れのようなものはあったが、あきらめてもいたのだ。王子たるものは、国のことを一番に考えてなくてはならない。

 マーガレットとの婚約が決まったのは八歳の時だったが、ロードリックは黙ってそれを受け入れた。名門、ラウレンツ公爵家の令嬢だ。血筋に問題がないなら、ロードリックに嫌がる理由がない。

 もっとも、顔合わせの席でよろしくお願いいたしますときれいなカーテシーを披露したマーガレットを見た時、赤茶色の髪と琥珀色の瞳は地味でいまひとつだと思った。だけど、顔は可愛らしかったし、華奢で小柄なところがロードリックの好みではあったので、そのくらいならと妥協したわけだ。

 ロードリックは、丸々と太った妻だけは勘弁して欲しいと内心でこっそりと思っていたので、痩せているという一点だけでマーガレットは合格だった。

 あれから十年と少し、マーガレットはロードリックの婚約者であり続けた。

 もうすぐ十八歳になるマーガレットは学園の成績も優秀だし、王妃教育も熱心に取り組んでいる。王宮に部屋を賜ってからはロードリックの仕事を手伝いはじめ、執務官や書記官たちの評判も上々だ。髪と目の色は当たり前だが地味なままだが、それでも美しく育ち、太ることもなかった。

 王太子妃、そしてゆくゆくは王妃となるのにマーガレットには表向き何も問題がない。だけど、ロードリックはマーガレットの心が腐り果てていることを知ってしまったのだ。

 このままならリリアナを愛しながらもマーガレットと結婚することになるのかと、ロードリックは本当に焦っていた。そう、マーガレットを恐れるリリアナを慰めているうちにいつの間にかロードリックは、この優しい少女を愛していたのだ。

 輝く金の巻き毛と、サファイヤのような青い瞳の可愛いリリアナ。ロードリックが思い描いていた理想の美少女そのままだ。

 成長するにしたがってすらりと背が伸びたマーガレットとは違い、リリアナは十六歳になった今でも小柄で、ロードリックが大切に守ってやらなければすぐにでも折れてしまいそうだ。そんな庇護欲をかりたてる可憐さも、ロードリックの好みだった。

 初めて唇を重ねた時、ロードリックの頭にはこれが婚約者に対する不貞であることなど微塵も浮かばなかった。恐くて夜も眠れないのと肩を震わせていたリリアナを抱きしめて、あまりの愛しさに歯止めが利かずに気づけばその可憐な唇を奪ってしまっていたのだ。

 すまないとすぐに謝ったが、リリアナは嬉しいと泣き笑いしてくれた。その儚い笑顔があまりにきれいで、吸い込まれるようにまた口づけていた。

 その日から、二人は恋人同士になった。

 十年以上婚約していてもマーガレットとは口づけをしたいなんて思ったこともないのに、リリアナの唇は甘くロードリックを誘い、あらがうことなど不可能だった。

 人目を避けて逢瀬を重ね、唇を貪る。昼休みの生徒会室で、または放課後の裏庭で。こっそりと王宮に呼んだこともある。理性を総動員して口づけ以上のことはしなかったが、それもギリギリの攻防だった。

 腕の中の柔らかな温もり。ロードリックを心から慕い、甘えてくれる可愛い恋人。

 日に日にリリアナの全てが欲しいという欲望と、マーガレットなどと結婚したくないという気持ちが膨れ上がっていく。そして、あと二か月ほどで卒業だという頃、リリアナが青い顔でロードリックに小さな小瓶を見せた。マーガレットの部屋のクローゼットの中から見つけたというそれは、小指ほどの大きさの茶色いガラス瓶だった。

 お姉様は私たちのことを知っている、このままでは私は殺されるとガタガタと震えるリリアナから小瓶を受け取り、中身が何か調べさせた。そして、そうであってくれるなと願ったロードリックの願いはむなしく裏切られ、それはレプトリカという、隣国では北の方の野山に普通に自生している草の根から取れる毒薬だった。ほんの数滴で死に至るという猛毒は、誰が誰の皿に入れるつもりだったかは考えるまでもなかった。

 先代の王と、その妃、そして当代の王妃……つまりロードリックの母が毒で一度に亡くなるという大事件が起こって以来、ファーニヴァル王国では毒に対して苛烈なほどに厳しく、一部の許可を得ている薬物学者以外は持っているだけですぐに捕縛、入手経路を吐かされたのちに裁判もなく即刻処刑される。

 ロードリックはすぐに兵に命じて王宮の自室にいたマーガレットを捕らえさせた。そして、必ず自白させろと厳しく言い渡したのだ。

 普段は穏やかな王太子の激しい怒りに驚いた騎士たちは、本来なら貴族用の独房に入れるべきマーガレットを一般の罪人が捕らえられる冷たい石床がむきだしの汚い地下牢に入れ、すぐに尋問を開始した。

 どうやって毒を入手したのか、誰を殺すつもりだったのか。

 手足を縛られたうえで椅子に座らされたマーガレットは、ほとんど休む暇もなく責め続けられた。

 さすがに公爵令嬢に拷問はまずいだろうということで暴力はふるわれなかったが、これだって女の身には十分に辛い責め苦だ。尋問する騎士は数時間おきに交代するが、マーガレットに交代要員はいない。途中で一度だけぬるい水を飲むことが許されたがそれだけで、食事は与えられず、横になって眠ることも許されない。

 マーガレットが意識を保っていられたのは、一日と少しが限界だった。お前が誰かに命じて毒を手に入れて妹を殺そうとしたんだなという台詞を聞きながらマーガレットは、椅子から崩れ落ちた。その倒れる際に頷いたように見えたとのことで、マーガレットの処刑が決まった。毒の入手方法も、他に手を貸した者の有無さえはっきりとしないままの、なんとしても自白させなければならないと焦っていた騎士たちによる、まさに無理矢理な決めつけだった。

 そして今日、刑は執行された。捕縛からわずか二週間後のことだった。

 マーガレットを気に入っていた王はなんとか助けようとしたが、証拠の毒が実在する上に、妹であるリリアナがこれまでのマーガレットから受けた諸々のことを涙ながらに語り、父親である公爵もそれらが全て事実であると証言したものだから、国法を誰よりも順守しなければならない王としてはどうしようもなかったのだ。

 がっくりと肩を落とした王がせめて楽に死なせてやって欲しいと願い、それだけはなんとか通った。そうして、王宮侍医であり薬物学者でもあるアラン・エドモンズ博士が調合した眠るように死を賜る毒を混ぜたワインの杯が今日、マーガレットに与えられたのだ。


「………か、殿下」

「え?」


 ギブスの呼ぶ声に、物思いにふけっていたロードリックは、ハッと我に返った。マーガレットの遺品が入った木箱をかかえたギブスが強い瞳のままでロードリックを見ている。


「殿下、お疲れですか」

「いや……ああ、そうだな。このところ、いやに不備のある書類が多くてな」

「それはきっと、マーガレット様が執務を離れたせいですね。アンヴィルが言っていました、マーガレット様の仕事は速い上にものすごく丁寧なのだと。マーガレット様に触発されて他の秘書官も必死に頑張るから、仕事の効率が上がるとか」

「そうか、アンヴィルがそんなことを……」


 アンヴィルとは、ロードリックの執務を補助する秘書官の一人だ。ギブスとアンヴィルは学園時代からの友人で、今でもよく飲みに行くらしい。


「私のような者の目には、良いご令嬢としか映ってなかったのですが……ご姉妹の間で、何があったのでしょうね。半分とはいえ血の繋がった妹君を殺そうとするなんて」


 今でも信じられませんと続いた言葉は独り言のように小さく、辛そうにうつむいた姿は屈強な騎士のはずなのに何だか頼りなく見えた。その姿を見ていると、あんなに憎かったはずのマーガレットの在りし日の笑顔がロードリックの脳裏を掠める。


「それ、後で確認するからそこに置いておいてくれ」

「あ、はい」


 遺品の入った木箱を秘書官が使う机の一つに下ろすと、では失礼しますと頭を下げてギブスは出て行った。静かになった執務室で次の書類に手を伸ばしたロードリックは、しかしその手を途中で止めてほんの数秒だけ迷った後、軽く息を吐いて立ち上がった。

 ギブスが置いて行った木箱に歩み寄り、中を覗く。そこには、本当に僅かな品が肩を寄せあうようにおさまっていた。


「少ないな」


 思わず呟いた声が、誰もいない部屋に吸い込まれる。

 本が三冊と、小銭入れ。ペンとインク壺、便箋と封筒。櫛と手鏡、刺繍の施されたハンカチが数枚。

 丸めて端の方に納められている白いリボンには、ロードリックにも見覚えがあった。マーガレットが学園にいつも結んで来ていた物だ。マーガレットの温かみのある赤茶色の髪に、この白いリボンはよく映えていた。


「これは……」


 リボンの隣にあった手鏡を手に取り裏返すと、背面には色とりどりの花の中で遊ぶ青い小鳥が描かれていた。この手鏡もまた、ロードリックに見覚えのある物だった。

 あれは確か十歳くらいの頃だったか、父王にたまには婚約者と出かけてはどうかと言われ、マーガレットとお忍びで街に遊びに行ったことがあった。その時に、庶民向けのあまり高級ではない雑貨屋で見つけたのがこの鏡だ。マーガレットが琥珀色の瞳をきらきらさせて背面に描かれた小鳥を見ていたので、ロードリックが何気なく買い与えたのだ。

 宝石の一つもついている訳でもなく、名のある画家が手掛けた訳でもないほんの数枚のコインで購えるそれは、公爵令嬢の持ち物としてはあまりに貧相な品だったのだが。


「まだ持っていたのだな」


 きっと大切にされていたのだろう。鏡面は曇りなく磨かれ、全体に傷などもないようだ。


「これは本ではなく、日記か?」


 手鏡を木箱に戻し、次にロードリックが手に取ったのは三冊あった中でマーガレットの髪色と同じ赤茶色の革の表紙の一冊だった。パラパラとめくってみれば、手書きの文字がならんでいる。几帳面な整ったこの字は、マーガレットの手によるものだ。いつも書類に書かれた字を見てきたから、間違いない。


「日記は、これだけだな」


 残りの二冊には、普通に活字がならんでいた。一冊は医学の入門書のようで、薬草の見分け方や簡単な応急措置の方法が絵つきで説明されている。

 もう一冊は、小説だ。巷で人気のあるシリーズ物の冒険小説で、ロードリックは読んだことはないが、駆け出しの冒険者の女の子が、医療過疎地である辺境の村々を旅する若い医者の護衛に雇われ一緒に過ごすうちに事件に巻き込まれたり、恋が芽生えたりする話らしい。

 読んでいないのになぜ知っているかと言えば、マーガレットに薦められたからだ。

 このような市井で人気の小説は、民の生活を知るのに役立つから読むべきだと言われた。貴族なんて一握り、この国の多くは平民なのだから、その平民の間で流行っている小説を読めば、貴族の目には見えない平民のことが知れるのだと。


「マーガレットは、本当に読んでいたのだな」


 表紙には、小説のタイトルのあとに十五と書かれている。つまり、十五巻だ。人気のシリーズ物だとは聞いていたが、まさかそんなに続いていたとはと驚く。そして、それを十五巻まで読んだのであろうマーガレットにも驚く。


「真面目すぎだ」


 学園と王妃教育、その上にロードリックの執務の手伝いまでしていたのだから忙しかっただろうに、さらに読書まで。

 ロードリックの執務室で、真剣な顔で秘書官たちに仕事を習っていたマーガレットの姿が思い出される。とても覚えが早いとほめていたのは、誰だったか。


「……」


 ロードリックは医学書と小説を再び箱に入れ、日記だけ持って自分の席に戻った。表紙をめくると、最初のページの随分と幼い文字が目に入る。日付は、王国暦六百十五年九月十日、今から八年も前の日付だ。




 **********


 615年9月10日


 今日、十歳のお誕生日のお祝いにお母さまからこの日記をいただいた。

 これは毎日書く日記ではなく、嬉しいことや悲しいこと、何か心に残るようなことがあった時だけ書く日記なのだそう。

 そうすれば、この日記は私の歴史書になるそうだ。

 悲しいことも書かなくてはだめ?私は、嬉しいことだけ書きたいと言ったらお母さまは、悲しいことも書かなくてはだめですとおっしゃった。

 悲しいことも私を形作る一部だから、省いてはだめなのですって。

 お母さまのおっしゃる通りに私はこれから、この日記に嬉しいことも悲しいことも正直に書いていこうと思う。

 できたら、嬉しいことの方が多ければいいなと思うけれど。


 **********




「そういえば、この日付はマーガレットの誕生日だな」


 婚約者の義務として、ロードリックは毎年この日が近づくと宝石商に命じて贈り物を用意させていた。なので、日付だけは知っている。

 マーガレットの十歳の誕生日ということは、ロードリックとはすでに婚約していた。そして、マーガレットの母親はまだ元気だったはずだ。


「歴史書か、自分史というやつだな」


 無意識に呟きながら、ページをめくる。次の日付は、誕生日から二か月ほど後のものだった。




 **********


 615年11月18日


 信じられないことが起きました!

 今日、私はあの方と街でお買い物をしたのです。

 それだけでも信じられないくらい幸せだったのに、なんとあの方は私に贈り物を買ってくださったのです。

 本当に信じられない、幸せすぎてどうしましょう。

 可愛い小鳥、絶対に一生大切にする。

 ああ、嬉しい。嬉しい嬉しい。


 **********




「これは、まさか」


 幼い字で、信じられない、嬉しいと何度も繰り返されているが、信じられないのはこっちの方だと言いたい。

 ロードリックは、秘書官の机の上に置いてあるマーガレットの遺品が入った木箱を凝視した。可愛い小鳥とは、まさかあの安物の手鏡のことだろうか。

 確かに、マーガレットと二人でお忍びで街に行ったのは十歳くらいのことだった。ということは、この『あの方』というのは……。

 王族の名を呼ぶのは不敬とされるから、マーガレットはロードリックをずっと殿下と呼んでいた。リリアナは名前で呼ぶようにと言ったらすぐにロードリック様と呼ぶようになったが、マーガレットは婚約者なのだからそんな堅苦しい呼び方をしなくていいと何度言っても、頑なに殿下呼びを変えなかったのだ。

 しかし、自分以外の誰かに見せることのない日記の中でくらいロードリックと名を記せばよいだろうに、どこまでもマーガレットは真面目だ。その真面目さがロードリックにはいささかつまらなく感じられていたけれど、亡くなった今となっては胸の中心のあたりが何だか苦しい。

 そうか、そんなに喜んでくれていたのか。


「言ってくれなければ、わからぬではないか」


 小さな小さな呟きは、少し掠れていた。リリアナを虐げていたマーガレットに対する憎しみは変わらない。それでも死んで当然だとは、いつの間にか思えなくなっている。

 ロードリックは、ページをめくった。ピアノをお母さまに聴いていただいたとか、お城のお茶会のために新しいドレスを作ってもらったとか、女の子らしい嬉しいことが日付を飛ばしながら綴られている。

 このお城のお茶会とは、月に一度程度行われていたロードリックとのお茶会だろう。大きなリボンの水色のドレス……薄らと記憶にある。あのドレスは、確かにマーガレットによく似合っていた。お人形さんみたいだと思ったのを覚えている。

 ページをめくっていると、ちょくちょくと『あの方』が出て来る。あの方とお会いできた、お話をしたと本当に些細な出来事が宝物のように綴られているのだ。

 随分と前のことであるし、どれも些細なことすぎてロードリックは覚えていないけれど、マーガレットはこれらを全部覚えていたのだろうか。お話しできて嬉しい、今日はいい夢が見られそうと、まだ幼さを残した文字が躍っているようだ。

 他愛ない少女の日記に影が差したのは、王国暦六百十六年の冬だった。少し大人っぽくなってきたそのページの文字は、ところどころ滲んでいた。




 **********


 616年12月9日


 この日記には、できることなら嬉しいことばかり書きたかった。

 でも、悲しいことも書かなくてはだめなのよね。

 今朝、お母様が倒れた。

 すぐにエドモンズ博士が往診にいらしてお母様を診察してくださった。

 エドモンズ博士は高名なお医者様ですから大丈夫ですよと侍女のサラが言ったけれど、エドモンズ博士はお母様のお部屋から難しい顔をして出てこられて、執事のマーカスにお父様とお話がしたいとおっしゃった。

 お父様とは、もう随分とお会いしていない。

 お仕事がお忙しいのよとお母様がおっしゃっていたけれど、そうでないことくらいは私だって知っている。

 お父様は、もうお母様を少しも愛してらっしゃらないのだろうか。

 ううん、そんなことあるはずない。

 お母様は、あんなにお美しいのですもの。

 病気になったと聞いたら、すぐに飛んで帰ってらっしゃるわね。

 お父様が帰っていらっしゃったら、きっとお母様の病気も良くなるわ。

 そうよ、大丈夫。

 サラが言う通り、きっと大丈夫なのよ。


 **********




 少女の予想は、悪い方に外れる。父親は帰って来ないし、母親の病状はゆっくりと悪化していったのだ。

 母が病気を得てからは週に一度程度の頻度で書かれていた日記が、段々と間遠くなっていく。一か月、ニか月と飛ぶ日付と、どんどんと短くなっていく文章。母の病状を簡潔に綴り、最後に父が帰って来ないと締めくくられるページが何ページか続いたあと、とうとうその日はやって来た。

 マーガレットの実母、フローレンス・ラウレンツ公爵夫人が亡くなったのは王国暦六百十八年の春、その葬儀にはロードリックも列席した。




 **********


 618年4月26日


 昨日までの雨が嘘のように晴れたのは、天国の神様がお母様を歓迎してくださったのだろうか。

 棺の中のお母様はただ眠っているようで、本当にお美しかった。

 春でよかった、だってお花が咲いているもの。

 お母様のお好きだった白い百合の花を捧げた、喜んでくださったかしら。

 妻の葬儀を無視する訳にはさすがにいかなかったのか、数年ぶりに父が帰って来た。

 一応は悲しそうな顔を取り繕って参列してくださった方々に挨拶していたけれど、正直なところ見たくもなかった。

 今更だわ。

 あの方がいらしてくださったことだけが、私の救いね。

 お話はできなかったけれど、お姿を見られただけでも十分よ。

 気分が悪くなったと言って、私は先に帰った。

 父は葬儀の後、屋敷には帰って来なかった。


 **********




 あの葬儀の日、ラウレンツ公爵はハンカチでしきりに目元を拭いながら父の名代として参列したロードリックに大袈裟なほど感謝の言葉を吐き続けていた。その様子がなんだか滑稽で、加減がわからなくなるほど悲しんでいるのだろうとロードリックは思ったのだが、ハンカチで目元を拭っていたとしても泣いているかどうかはわからないのだと今になってようやく気付いた。

 大きなステンドグラスが美しい大聖堂で執り行われたあの厳かな葬儀の裏側が垣間見えてロードリックは、何とも言えずに軽く目を閉じる。

 何なのだろうこの日記は、読むのが辛い。読むだけで辛いのに、実際にその場にいて諸々の出来事を体験していたマーガレットの辛さは如何ばかりか。

 公爵夫人の病状が思わしくなかった頃はロードリックとのお茶会も行われていなかったために、マーガレットと会うことがほとんどなかった。葬儀の日でさえ、黒いドレスをまとってうつむいていたマーガレットを遠目で見ただけだ。

 本当なら、婚約者である自分が傍に寄り添い励ましてやらなければならなかったのではないだろうか。マーガレットにとっては、ロードリックが姿を見せただけで救いになったのに。

 マーガレットが辛かった時期に自分は何をしていただろう、王太子としての勉強を頑張っていたなんて言い訳にもならない。

 瞑っていた目を開いて、ページをめくった。辛いから読まないという選択肢はない、読むべきだと思った。

 次の日付は、葬儀から十日ほど後だ。さっと目を走らせて、そのあまりのひどさに思わず日記を放り出したくなるのをなんとか堪えた。




 **********


 618年5月6日


 今日、父が帰って来た。

 新しい母だという女と、妹だという女の子を連れて。

 義母の名は、イザベラというらしい。

 私より二歳下の異母妹は、リリアナというらしい。

 私と違って、金色の髪と青い目を持つ可愛らしい女の子。

 父があんなに甘い声を出すのを初めて聞いた。

 リリアナ、リリアナとあの子を呼ぶ声。

 もしかして、父の目には赤茶色の髪の娘は映らないのかしら?

 仲のいい親子の姿を見たくなくて晩餐に出なかったら、父がノックもせずに私の部屋に入って来ていきなり頬を叩かれた。

 なんだ、私が見えていたのね。


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 もう嫌だ、もう読みたくないと思いつつもページをめくる。次の日付は、一か月後だ。




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 618年6月12日


 執事のマーカスが当家を去った、リリアナが私の背中を押して転ばせたのを咎めたせいで義母に辞めさせられたのだ。

 マーカスは、私が生まれた時からこの家にいて、ずっとずっと優しかった。

 マーカスに頼んで何とかならなかったことなんて一度もない、とっても頼りになる最高の執事だったのに。

 私のせいでごめんなさいと謝ったら、お嬢様のせいではありませんと笑ってくれた。

 紹介状もないのに、次のお仕事は見つかるのかしら?

 私の名前で紹介状を書こうかと思ったけれど、社交界にデビューもしていない私ではきっとだめね。

 メイドのマリーとキャロルも辞めてしまった、シェフのロブは来週辞めて故郷に帰るそうだ。

 サラだけが、一人で頑張ってくれている。

 義母が連れて来た新しい使用人たちはみんな意地悪で、サラにも辛く当たっているそうなのに、そんなことおくびにも出さない。

 ごめんねと、ありがとうをいっぱい言った。

 サラは、何のことですかと笑ってとぼけていたけれど。


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 ラウレンツ家の執事のことなら、よく覚えている。ロードリックとマーガレットのお茶会は、ほとんどが王宮で行われたが、何度か公爵家で行われたことがある。その時に、隙のない優雅な物腰で接待してくれたのがマーカスだ。

 元は黒だったという髪はもうすっかりグレーで、だけど年齢を感じさせない佇まいはさすがに公爵家の執事だなと感心したものだ。

 メイドの二人は知らないが、シェフはよくマーガレットが王宮でのお茶会の時に持って来てくれたチーズ入りのガレットを焼いていた者だろう。あれはおいしかった、さっくりとした歯ごたえとチーズの香りが絶妙で。

 そうか、あれらの者たちはとっくに公爵家を去っていたのだな。婚約者だったのに、そんなことも知らなかった。

 それにしても、リリアナがマーガレットを転ばせた?どういうことなのだろう、何かの間違いだろうか。




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 618年8月18日


 夕食の時、リリアナが花瓶の花を投げ捨てて私のグラスにその水を注いだ。

 喉が渇いたでしょうから飲みなさいと言われたけれど、茎なのか葉なのか、小さい何かがいくつも浮いている濁った水なんて飲める訳がない。

 父も義母も淡々と食事を続けるばかりで、私の方を見もしない。

 見かねたサラがうっかりを装って私のグラスを倒してくれたけれど、そのせいでサラはリリアナにひどく殴られてしまった。

 リリアナはまだ小さいのに、人を殴り慣れているせいかその平手はおどろくほど痛い。

 もういいから辞めてちょうだいとサラに頼んだけれど、サラは赤く腫れた顔でやっぱりにっこりと笑うだけなの。

 来月には、久しぶりに王宮でお茶会があるけれど、父に新しいドレスを頼むのは無理そうだ。

 最近、背が伸びて来たのでこれまでのドレスは合わないのだけれど、どうしたらいいだろう。


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「何だこれは、嘘だろう?」


 花瓶の水、これは聞いたことがある。けれどあれは、マーガレットがリリアナに対して行った嫌がらせだったはずだ。

 だけどこの日記では、役者が入れ替わっている。

 どうしてこんな嘘を書くのか。




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 618年9月6日


 クローゼットに入れておいたドレスがズタズタに引き裂かれていた。

 衣裳部屋に仕舞われていたお母様が若い頃に着ていたというドレスをサラが私に合わせて仕立て直してくれたのに、そのドレスが無残な姿になってしまった。

 決して器用ではないサラが、徹夜して直してくれた菫色のドレス。

 明日は、王宮でのお茶会だ。

 恥ずかしいけれど、すっかり丈が短くなってしまった物の中からましなのを着て行くしかない。

 王宮であの方にお会いしたら、きっと笑われてしまう。

 体調を崩したと言って、お断りしようか。

 でも、お会いしたい。

 あの方のお声を聞きたい。


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 そうだ、覚えている。お茶会でマーガレットが丈の合わないドレスを着て、恥ずかしそうにどうしても出てしまう足首を隠そうとしていたことがあった。

 ファーニヴァル王国の女性のドレスは、普段着はふくらはぎが隠れるくらいの長さのスカートでも良しとされているけれど、お茶会や夜会などでは足首が見えない長さのものを着るのがマナーだ。

 あの時は、久しぶりに会ったらマーガレットの背が随分と伸びていたので、急に伸びたせいでドレスの仕立てが間に合わなかったのだろうとあまり気にしなかった。

 それがまさか、切り裂かれた?いや、それよりも公爵令嬢が新しいドレスを仕立ててもらえなかったとか。

 ドレスを切り裂かれたというのも、リリアナの話の中にあった。そしてまたもや、役者が逆だ。

 どうしてマーガレットは、日記にこんな嘘ばかりを書くのか……。


「……」


 いや、これは日記なのだ。自分以外の誰かに読まれることなど想定していないのだから、嘘を書いてもしかたがない。ということはまさか、これが真実なのか。


「マーガレット……?」


 何とか用意したドレスを切り裂かれ、丈の合わないドレスを着てまで彼女は私に会いに来てくれたのだろうか。

 なんだかさっきから胸が痛い、それに喉がひどく渇いた。だけど、花瓶の水を飲まされそうになったマーガレットを思うと侍女を呼んでお茶を用意させる気にはなれない。

 震える指でページをめくる。次は、かなり日付が飛んでいた。この空白の期間に何があったのか、想像したくない。





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 621年1月10日


 随分と日記を書くのをさぼってしまったけれど、今日は嬉しい知らせが届いたから書こうと思う。

 なんと、王宮にお部屋を賜ることになったの!

 王太子の婚約者は、王妃教育のためにお部屋を賜るのが慣例なのですって。

 嬉しい。

 本当に涙が出るくらい嬉しい。

 だってお城に住めるということは、あの方にお会いできる機会が絶対に増えるわ。

 それに、これでサラを辞めさせてあげられる。

 サラは私に内緒にしていたけれど、実は知っていたの。

 恋人がいること、私のために結婚を待ってもらっていること。

 私が王宮に行くと言えば、サラはきっと一緒に行ってくれると言うだろうけど、これはきっぱりと断らなければだめね。

 サラ、大好きなサラ。

 私だって本当は離れたくないけれど、だけど大好きだからサラには幸せになって欲しい。

 出来るだけ早く王宮に行こう。

 春には、王立学園の入学式もあるし、これからはきっとうまくいくはず。

 でも、王宮に行くのにドレスはどうしよう。

 お母様のドレス、もうあまり残ってないのだけれど。

 リリアナに破かれたり、お皿を投げられてソースで汚れてしまったりして、随分と減ってしまったわ。

 そんなに私がお母様のドレスを着ているのが気に入らないなら、衣装部屋に残っているドレスを全部切り裂いてしまえばいいだろうに、私が手に取るまでは何もしないなんて本当に意地悪な子だこと。

 でも、お母様のドレスはどれも上等な物で素敵だけど、やはりデザインが少し古臭い。

 新しいドレスは必要だわ。

 私がみすぼらしい格好をしていたらラウレンツの恥になるから、父もさすがに買ってくれるだろうか。

 学園の制服も必要だし、嫌だけど頼んでみるしかなさそうだ。


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 二年もの時間を空けてからようやく書かれた日記の内容の切なさに、どうしてもため息が出る。侍女の幸せを願い、ドレスの心配をする公爵令嬢なんて聞いたこともない。

 結局、ドレスは買ってもらえたのだろうか?

 学園の制服は新しい物を着ていたようだから、きっと買ってもらえたのだろう。では、普段のドレスは、どうだっただろうか。

 思い出そうとするが、正直なところあまり覚えていない。

 夜会のドレスはロードリックの衣装に合わせた物を王宮で仕立てていたから困らなかっただろうが、普段着となると印象に残っていないのだ。グレーとか紺とか、地味な色の物ばかり着ていたような気がする。しかも、同じようなドレスばかり着ていたような……そうだ、暗い色のドレスばかり着ていたから、あの地味な髪と目の色と相まって余計に地味に見えていたのだ。

 リリアナは、会うたびに明るい色の華やかなドレスを着ている。よく似合っていて可愛いと思っていたけれど、姉との違いにどうして今まで気づかなかったのか。

 さっきまで鈍い痛みを覚えていた胸が、今はドキドキといやに大きく打っている。

 こんな日記は、嘘だと思いたい。

 だけど姉妹がそれぞれにまとうドレスの落差が、否応なしに真実を教えているのだ。


「……リリアナ」


 可愛い恋人、ロードリックの大切なお姫様。姉に虐げられていた、可哀想な令嬢。

 そう信じていたのに、ロードリックに向けられたあの無邪気な笑顔は偽物だったのだろうか。マーガレットにとっては母の形見であろうドレスを何着も破って、皿を投げつける醜い娘が本当のリリアナなのか。

 すぐにリリアナの部屋に行って、真実を確かめたい衝動をロードリックはなんとか堪える。マーガレットの処刑が決まったその日のうちに私もお部屋が欲しいですとねだられて与えたが、考えてみればあれだっておかしかった。

 優しいはずのリリアナが、どうして姉の処刑を少しも嘆かなかったのか。いくら虐げられていたとはいえ、姉であることは間違いないのに。

 ロードリックは、ぐっと唇を噛んだ。血の味がするが、かまわずページをめくる。とにかく、最後まで読まなければならない。

 王宮に居を移したそこからの二年ほどは、穏やかな内容が続いた。無事に入学した学園のこと、何の心配もいらない毎日の生活や王妃教育のこと。

 相変わらず、『あの方』も登場する。

 あの方とお茶を飲んだ、あの方と王宮の庭を散歩した。本当に他愛ない出来事が喜びがあふれる文章で綴られている。

 マーガレットがデビュタントだった夜会のことも書かれていた。

 あの方は踊ってくださるだろうかなんて、どうして心配するのか。踊るに決まっている、婚約者だ。実際に踊った、デビュタントの白いドレスで着飾ったマーガレットは実に美しかった。

 だけど、その美しかった彼女はもうこの世にいない、いないのだ。

 鼓動が加速する。ロードリックはいつしか、ハア、ハアと荒い呼吸を繰り返していた。

 ページをめくる、ロードリックには全てを読む義務がある。どんなに辛く苦しくても、読まなくてはならない。

 サラの結婚式に出席できた、その結婚式でマリーと再会できた。遠くの街に嫁いだキャロルから手紙が届いた、学園にマーカスが会いに来てくれた。

 マーガレットを大切にしてくれた数少ない者たちの名が喜びと共に記されているのをロードリックは、眩しい物を見るかのように目を細めて読んだ。

 先程の白いリボンは、キャロルからの贈り物らしい。手紙に同封されていたそれを手に、少し泣いてしまったと書かれている。

 穏やかな日々、だけどそんなささやかな幸せはずっとは続かない。リリアナが王立学園に入学して来たのだ。




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 623年4月1日


 恐れていた日が来てしまった、リリアナが学園に入学したのだ。

 二年ぶりに会ったリリアナは、やはり天使のように可愛らしかった。

 お久しぶりですお姉様と言われ、ちゃんと返事ができなかった。

 こんなことではだめだ、もっと強くならないと。

 お母様、どうか弱虫な私に力を貸してください。


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 天使のようなリリアナ。

 確かにリリアナの可愛らしさは天使のようだとロードリックも思うけれど、だけどそれは外見だけで、その内面は……。

 いや、だめだ。とにかく最後まで読むんだ。もう残りは少ないはずだ。日記の日付は無情にも、マーガレットの短い人生が終わった今日に近づいている。

 ロードリックは、大きく息を吸って気を落ち着けた。しばしの時間を置いて、意を決してページをめくる。



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 623年10月9日


 多分、私はもうすぐ婚約破棄を言い渡されるだろう。

 私が婚約者になれたのは、公爵家の娘だったからだ。

 私自身には、何の価値もない。

 だったら、同じ公爵令嬢なら可愛いリリアナの方が選ばれるのは当然なのだろう。

 いつまで城にいられるだろうか、婚約破棄されたらあの家に戻らなければならないのだろうか。

 嫌だ、それだけは絶対に嫌だ。

 だって家に戻ってしまったら、もうあの方に会えなくなるもの。

 そう考えるだけで、死ぬより辛い。

 愛されなくてもいいから、少しでもお傍にいたい。

 時々、遠くからお姿を見るだけでもかまわないから。

 言ってみようか、好きなんですと。

 思えば、まだ一度も告げたことがない。

 遅いかもしれない、困らせるだけかもしれない。

 それでも。


 好きです、幼い頃より心からお慕いしております。


 言いたい、これが最後なら。

 どうせ婚約破棄されてしまうなら。



 R様、私はあなたを愛しています。


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「……これが最後か」


 密やかな愛の告白を最後に、残りのページは白紙のままだった。最後の日記は、今から三か月ほど前の日付だ。

 想いを告げると書いてあるが、ロードリックはマーガレットからの告白を受けていない。結局は言えなかったのか、それとも言う機会がなかったのか。


「マーガレットは、こんなにも私を……」


 知らなかった、ロードリックは本当に知らなかったのだ。

 三か月前といえば、学園では授業中以外はずっとリリアナと一緒にいたし、城では護衛の騎士と補佐官や秘書官が常に周りにいたからロードリックが一人になるタイミングはほとんどなかっただろう。

 そういえば、マーガレットが頻繁にエドモンズ博士を自室に呼んで診察を受けていると報告を受けたのもこの頃ではなかっただろうか。王宮侍医なら他にもいるのに、必ずエドモンズ博士を指名するのだとか。エドモンズ博士は、マーガレットの亡くなった母上の主治医でもあったから、博士の診察は安心できるものだったのかもしれない。

 つまりは、信頼できる医者の診察が頻繁に必要なほど、あの頃のマーガレットは弱っていたのだ。


「しかし、R様か」


 最後の最後に『あの方』以外の呼び方をしたと思ったら、頭文字だけとは。日記の中だけでも、ロードリックと名を呼べば良かっただろうに。

 どこまでも彼女は、真面目だ。


「愛しています、か」


 聞くことのなかった愛の言葉がマーガレットの声で囁かれた気がした。


「マーガレット」


 その名を呼べばロードリックの中に、何か冷たい物が入り込んで来る。その氷の礫はすぐに心臓に達し、体全体を冷やしてしまう。

 好きです、幼い頃より心からお慕いしておりますともし言ってくれていたのなら、何かが変わっていただろうか。

 いや、変わらなかっただろう。変わらないどころか、ふざけるなと叫んでいただろう。


「……リリアナのところに行かなければ」


 ここまで読んで尚、ロードリックはこの日記がでたらめであるという望みを捨てきれないでいた。

 と言うより、もしこれが真実ならロードリックはとても耐えられない。

 もう取り返しはつかないのだ。

 マーガレットの処刑はすでに済んでいる、彼女は死んでしまった。


「リリアナ……」


 日記を置いて、ロードリックはふらりと立ち上がった。執務室を出て、そこからは走り出す。


「殿下!」


 扉の前を守っていた騎士たちが慌てて追いかけて来るのもかまわず、廊下を一気に駆け抜けた。いくつも角を曲がり、階段を上って奥へと進む。

 日記を読みながら、違和感があった。リリアナは、あの毒の入った茶色い小瓶をマーガレットの部屋のクローゼットの中で見つけたと言ったが、それは()()()置かれているクローゼットだ?

 日記を読む限り、マーガレットは王宮に部屋を賜って以来、一度も公爵家に帰っていない。リリアナの入学式で二年ぶりに妹と会ったと書かれていたし、それ以降も実家に戻ったという記述は一つもなかった。

 日記に嘘が書かれていた、もしくは嘘はなくとも真実を書かなかった可能性が全くないとは言えないが、王宮に住むようになってからのマーガレットの行動に関してなら調べる方法があるのだ。

 王太子の婚約者であるマーガレットには、護衛がついていた。今、二人の騎士がロードリックを追いかけているように、王宮内でもマーガレットは常に騎士の守りの中にいた。

 それは、外出する時も変わらない。

 護衛騎士たちは学園の中までは入らないものの登下校の際は必ず随従しているし、学園以外の外出に至っては四人以上の騎士が警護する決まりになっている。

 証拠もある、騎士団の事務方にある騎士たちの勤務記録だ。

 記録を調べてみなければ絶対とは言えないが多分、マーガレットはもう三年近く公爵家に帰っていない。騎士の目を盗んで抜け出した可能性は……いや、無理だな。

 王宮から公爵家までは、馬車で一時間以上かかる。往復で二時間以上、そんなに行方不明になったら大騒ぎになっている。

 ということは、リリアナの言うクローゼットが公爵家のマーガレットの部屋のクローゼットであるはずがない。

 だったら、王宮の部屋か?

 しかし、それもおかしいのだ。

 マーガレットは、王太子の婚約者ということで準王族として扱われていた。その部屋は、ロードリックや父王と同じ限られた一部の者しか入ることが許されない南翼にある。

 そう、限られた者しか入れないのだ。

 出入口は厳重に警備され、子猫一匹入れない。もし妹であるリリアナが姉に会いに訪れたとしても通されるのは別の翼にある応接室であって、クローゼットが置かれてあるだろう南翼のマーガレットの部屋ではないのだ。


 リリアナ、君はどこで小瓶を見つけたのだ?


 もし仮にマーガレットが密かに人を雇ってリリアナを殺そうとしたとしても、クローゼットに隠す意味がない。毒をリリアナの皿に入れろと命じることはあっても、クローゼットに隠せと命じることはないだろう。

 ロードリックは走った、目指しているのは東翼だ。まだ正式な婚約者ではないリリアナに南翼の部屋は与えられないので、客間の中でも特に高貴な方が来城した折に使う美しい一室を与えたのだ。

 あと少し、あとほんの数歩でリリアナの部屋の扉に手が届くという、その刹那にバンッという大きな音と共に何かが中から転がり出て来た。つんのめりそうになるのを何とか堪え、床にうずくまるそれを見てみれば、黒いメイド服を着た若いメイドが何故か頭から肩にかけて橙色のとろみのある液体のようなものをかぶってうずくまっていた。


「かぼちゃのスープは嫌いだと、何度言えばわかるの!今度またこんな物を出したら、ロードリックに言って首にしてやるからとシェフに伝えなさい!」


 中から聞こえた金切り声は、間違いなくリリアナのものだ。ロードリックの前では無邪気に喋る様子とはまるで違うが、それでも恋人の声を聞き違えはしない。


「何してるの、早く行きなさいよ。この、のろま!」


 扉の影から飛び出した足に履かれた赤い靴の裏が、やっと顔をあげたメイドの顔面を直撃する。ぎゃっと短い悲鳴をあげて、メイドは後ろに吹き飛び壁に背中を打ちつけた。


「リリ……アナ?」

「え?」


 ごく小さな、囁くようなロードリックの声が聞こえたらしく、リリアナが扉の影から顔を出した。そして、そこにロードリックの姿を認めるや否や「違うんです!」と叫んだ。


「違うんです、これは、えっと……そう、このメイドがあまりにひどくて、だから」


 両手を意味もなくパタパタと上げたり下げたりしながら上ずった声で言い訳するリリアナは、白いドレスを着ていた。それは、マーガレットがデビュタントの時に着ていたドレスだった。

 女性にしては背の高いマーガレットに似合うよう飾り気を極力省いたシンプルなデザインで仕立てられ、最高級のシルクには小さなダイヤが夜空に瞬く星のように縫い付けられた純白のドレス。あの華やかな夜会の夜、ロードリックにその身を委ねて踊るマーガレットがくるりと回るたびにそれらがきらきらと光って、本当に目が離せないほど美しかったのだが。

 そのドレスを今、リリアナが着ていた。

 しかしリリアナとマーガレットでは身長が違うため不格好に裾を引きずっている上に、胸もマーガレットの方がずっと豊かだったので布が余って肩からずり落ちそうになっている。そしてその首元には、ルビーとエメラルドのネックレスが二本ぶらさがっていた。

 ルビーの方はロードリックがマーガレットの十五歳の誕生日に贈ったもので、エメラルドは十六歳の誕生日プレゼントだ。

 リリアナの耳に飾られているダイヤのイヤリングは、社交界デビューの祝いにドレスとは別にロードリックが贈ったものだし、左手の薬指にはまっている大きなサファイヤの指輪は、宝石商に勧められるままに去年の誕生日の贈り物に選んだ。

 全身をマーガレットから奪った品々で飾り立てたリリアナは、愛らしい顔なはずなのに醜悪な道化にしか見えない。


「えっと、だからあまりにひどいからちょっと叱っていただけで、私は別に、えっと」


 ロードリックが黙っている間にも、途切れることなくリリアナの言い訳は続いている。


「私はただ、しつけをするつもりで叱って……」

「……メイドの仕事ぶりがあまりにひどいから、リリアナは叱っていたの?」

「そう、そうなんです!」

「スープを頭から浴びせ、足蹴にして?」

「ち、違うんです!スープは…えっと、この子が自分でかぶって」

「頭から?」

「だから違うんです、誤解なんです」

「何が誤解なのかな?」


 開け放たれたままの入口から中を見ると、五人ものメイドが並んでいる。廊下に未だ座り込んでいるメイドも入れれば、六人だ。食事の給仕ごときに、何故こんな人数が必要なのか。

 よく見ると、メイドたちはみんな青ざめて、ロードリックを縋るように見ていた。中には頬を赤く腫らしている者や髪がぐしゃぐしゃに乱れている者、手に包帯を巻いている者もいた。

 五人並んでじっとロードリックを見つめる目が助けてくださいと訴えかけているようで、ロードリックはどうしようもなく苦い息を吐いた。


「ロ、ロードリック様?」

「おや、さっきは呼び捨てにしていたようだけど、今は様をつけてくれるんだね」

「そんな、王太子殿下を呼び捨てになんてする訳がありません。聞き間違いです」

「そうなんだ?」


 なんて滑稽なんだろう。

 リリアナも、そして自分も。

 いや、こんな娘にすっかり騙されていたロードリックの方がより滑稽だろう。


「どうやって償えばいいんだ……」

「え、何ですか?」

「いいや、君には関係ないことだよ」


 にっこり笑ったロードリックにリリアナは、あからさまにほっとした顔をした。そして、ロードリックの手を取り、甘えるような仕草で軽く引っ張る。


「会いにいらしてくださって嬉しいです」

「そうだね、ちょっと君に訊きたいことがあるんだ」

「何ですか?」

「リリアナ、君はあの毒の小瓶を本当はどうやって手に入れたのかな?」


 可愛らしく小首を傾げたままで、リリアナが固まる。そんなリリアナに顔を近づけてロードリックは、やはりにっこりと笑って見せた。


「な、何を言って……」

「我が国では、毒を持っていただけで即刻死刑。もちろん、知っているね?」


 リリアナが引こうとした手を、今度はロードリックが捕まえる。やたらとにこにこと笑っているロードリックの背後には、急に走り出した王太子を追いかけて来た二人の騎士が立っていた。








 それからひと月ほど後、王家主催の夜会の場において()()()()()()()()()が病死したと発表があった。

 娘を失った心痛のため残りの人生は夫妻揃って神に祈りを捧げる生活をすべく、ラウレンツ公爵家はその爵位を王家に返上するという申し出を受理したとも。


 それまで様々な憶測が飛び交っていたが、そういう筋書に落ち着いたのかと納得して貴族たちは賢明なその口を閉じた。

 年頃の娘を持つ一部の上位貴族たちは、王太子ロードリックの新しい婚約者の選定について何か発表があるかと期待したようだが、それに関しては王家から何の発表もなく、ロードリックは父王と共に貴族たちの挨拶を受け終わるとすぐに誰とも踊らず静かに夜会の場を去った。







 その頃。

 そんな貴族たちの事情も思惑も何も届くはずもない北の辺境の地で、一人の若い娘が小高い丘の上から足下に広がる小さな集落を指差していた。


「見てください、レイナルド様!村が見えますわ」


 レイナルドと呼ばれた濃く淹れたミルクティーのような薄茶色の髪に若葉色の瞳の優しげな青年が、娘のはしゃぎっぷりがおかしいのかクスクスと笑いながら馬を引いてゆっくりと近づいて来る。


「ああ、あれがジェマ村だよ。ようやく国境を越えたね、ここはもうゴドリッジ王国だ」

「やりましたわ、脱国成功ですわよ」


 脱国などと大袈裟に言っているが、この辺りは山ばかりのため国境線があいまいで、近辺に住む者は日常的にあちらの国からこちらの国へと自由に行き来している。

 そのあたりのことはきちんと説明したのだけれど、それでも赤茶色の髪を男の子のように短くしている娘は嬉しくてたまらないようで、やりましたわーと言いながらくるくると回っている。


「あまり暴れるとケガをするよ、マーガレットは意外にお転婆なんだから」

「あら、私はマーガレットではありませんわ。とーっても優秀なお医者様と一緒に旅する新米看護婦のメグですのよ」

「それを言うなら僕は、レイナルドじゃなくてただのレイと呼ぶのではなかったかな?」

「そうよ、レイ様」

「様は、いらないんだけど」

「では、旦那様!」


 ひらひら、くるくると踊るマーガレットを捕まえると、きゃーっと可愛い悲鳴をあげる。紅も差していないのにほんのり色づく唇にちゅっと口づけて、レイナルドはマーガレットをぎゅっと抱きしめた。


「あー、もう!うちの奥さん、可愛すぎでしょ」


 二人が結婚式を挙げたのは、王都から逃げ出して二週間ほどかけてたどり着いた小さな街の教会だった。本当ならもっと落ち着いてからと思っていたのに、教会を見つけて我慢できずに思わず飛び込んでしまったのだ。

 突然訪れた訳のありそうな二人に神父は何も問わず、そっと花嫁のベールを貸してくれた。そして、すぐに二人の結婚式を執り行ってくれたのだ。

 厳かな宣誓のあと、結婚証明書にマーガレットは、ただ『メグ』とサインした。平民なら苗字がないなんてよくあることなので、それで二人の結婚は神に認められるものとなった。

 参列者もいなければ、綺麗なドレスもない、指輪の用意さえしていなかった結婚式だった。レイナルドはマーガレットに謝ったが、マーガレットはとても素敵な式だったと言うのだ。

 本当なら王都の大聖堂で、裾を長く引きずった豪華な花嫁衣裳に身を包むはずだった人なのにと思うとやはり申し訳なくて、レイナルドはマーガレットを抱きしめて、その耳元に囁いた。


「宝飾店を探して、指輪を買おう。ごめん、先に買っておくべきだった」

「それは嬉しいですけど、私は指輪はなくてもかまいませんのよ?」

「僕が買いたいんだよ、君が僕の奥さんだって印をつけなきゃ安心できない」

「私は、レイナルド様のものです」

「知ってる」


 彼女はレイナルドのものだ、それは知っている。こんなにもレイナルドに対する気持ちを隠さないのだから、疑う余地もない。

 だけど、それでもレイナルドはまだ不安だった。

 マーガレットの処刑が決まったと聞いたあの時の、世界がガラガラと音を立てて崩れるような絶望がまだ生々しいだけに、どうしても愛しい人がちゃんと隣にいてくれることを何度も確認してしまうのだ。

 レイナルドのフルネームは、レイナルド・エドモンズという。エドモンズ子爵家の三男で、王宮侍医で薬物研究の権威でもあるアラン・エドモンズの孫であり、そしてその助手でもある。

 三人いる孫息子のうち末っ子は特に可愛かったのか、祖父のアランは幼い頃よりレイナルドを連れ回していた。そうして祖父の仕事をずっと見て来たレイナルドは、自然のなりゆきで自身もまた祖父と同じ医者を目指すようになっていたのだ。爵位を早々に息子に譲って、自分は医学の道を突き進む祖父は、いつしかレイナルドの憧れであり目標になっていた。

 レイナルドが後に妻となるマーガレットに初めて会ったのはもう十年も前、レイナルドが十五歳、マーガレットが八歳の時だった。王宮侍医である祖父は主だった貴族家に往診に行くのも仕事の一つで、ラウレンツ公爵家の幼いご令嬢が熱を出したというので、まだ王立学園の学生だったレイナルドは祖父に荷物持ちを命じられてついて行ったのだ。

 赤い顔をして寝台に横たわっていた小さな令嬢をひと目見た瞬間、なんて可愛いんだと思った。熱で苦しいはずなのに、レイナルドと目が合うとにっこりと笑ってくれたのも後押しとなった。自分に幼女趣味はないはずなのにと内心で青ざめながら、それでもマーガレットから目が離せなかったのだ。

 王宮侍医の助手と高位貴族の令嬢、二人は時折顔を合わせる機会に恵まれた。

 可愛いと思っている少女に会えたら嬉しかったが、同時に切なくもなった。なぜなら彼女は高嶺の花、王太子殿下の婚約者であったのだから。

 少しずつ成長していくマーガレットは変わらずレイナルドを惹きつけ続け、どうやら幼女趣味ではなかったようだと胸を撫で下ろすも、だからどうにかなるという訳でもなく。

 レイナルドは、少しずつ淡い恋心を募らせていった。だけど、あきらめてもいたのだ。ゆくゆくは王妃になる令嬢だ、どう頑張っても手に入る花ではないのだと。

 そんなレイナルドの心など知りもせずに、会うたびにマーガレットはとびっきりの笑顔で話しかけて来るのだからレイナルドにしてみれば堪ったものではなかった。しかもマーガレットが王妃教育のため王宮に住むようになってからは、それが頻繁なものになった。王立学園を卒業して正式に祖父に弟子入りしていたレイナルドは、王宮侍医である師匠の助手兼世話係として、同じく王宮に住んでいたのだから。


 レイナルド様、おはようございます。

 レイナルド様、ごきげんよう。


 城内の廊下で顔を合わせるたびに、主人を見つけた子犬のように満面の笑顔で駆けて来るてんし……じゃなくて、マーガレット嬢。


 レイナルド様、一緒にお茶はいかが?

 レイナルド様、散歩におつきあいくださいませんこと?


 可愛いんですけど、誤解してしまいそうなんですけど。自分ごときに、どうしてそんな嬉しそうに笑うんですか!

 しかし、相手は公爵令嬢。しかも、王太子の婚約者。

 気のせいだ、もしかしたら好かれてるかもなんて自惚れはいい加減にしろ。七歳も年下なんだぞ、好かれるわけないだろ。ないないないない、絶対にないから。

 ずっとそう自分に言い聞かせ、うずく恋心を宥めすかして何とかかんとか切り抜けて来たけれど、それでも四か月ほど前、レイナルドはマーガレットが繰り出した最終攻撃に完全敗北した。

 夜の医務室で一人夜勤をしていたレイナルドのところに、どうやって護衛の目を掻い潜ったのかマーガレットがこっそりと訪ねて来たのだ。

 そして、衝撃の告白。


 好きです、幼い頃より心からお慕いしております。


 まず、自分の耳を疑った。次に、自分の正気を疑った。

 レイナルドの目の前で両手を胸のところで組んで、祈るような眼差しの彼女が本物かどうか、確かめるためにちょっと触ってしまうくらいには自分が幻を見ていない自信がなかった。

 人差し指の先でちょんと肩に触れたらマーガレットは、「ひゃんっ!」と可愛い悲鳴をあげて大袈裟なくらい飛び上がったけれど、すぐそのあとで「お望みでしたらどうぞ触ってくださいませ」なんて真っ赤な顔で言うから、あやうくレイナルドの魂は抜けかけた。

 からかうのはやめてください、あなたは王太子殿下の婚約者でしょうと言えば、もうすぐ婚約破棄される予定なんですと、そこだけは妙にあっけらかんと答える。

 確かに、王太子に婚約破棄などされればいくら公爵令嬢とはいえ、次の縁談を探すのは難しくなるだろう。だったら、子爵家の三男坊にも万が一の奇跡が起こる可能性はゼロではない、かもしれない。しかもレイナルドには、あのアラン・エドモンズの後継者という、爵位では得られない地位がある。


 レイナルド様、私はあなたを愛しています。


 駄目押しのその一言でレイナルドは落ちた、それはもう雲の上から一直線に地上に到達するような見事な落下っぷりだった。

 夢にまで見た麗しの令嬢を恋人にできたレイナルドの、そこからの行動は早かった。まずは、祖父であり師匠でもあるアラン・エドモンズを味方に引き入れたのだ。

 孫の気持ちも、マーガレットの秘めた恋心も薄々察していたアランは、大喜びで協力してくれた。マーガレットが診察に呼ぶたびにレイナルドを伴い訪れて、診察をしますからと人払いをした上で、二間続きのマーガレットの部屋の手前の居間に自身は残り、奥の寝室に恋人たちを押し込んで二人の時間を度々作ってくれたのだ。

 その際、コトに及ぶだけの時間はないからなと孫の耳元で囁いて、その度に遠慮のないげんこつをちょうだいしていたが、それさえも楽しそうで。

 このまま上手くいくような気がしていた。レイナルドも、マーガレットも、そしてアランも。だけど運命は、どこまでも意地が悪かった。

 マーガレットが無事に婚約破棄されたらすぐに婚約を申し込もうなどと、幸せな計画を立てていたレイナルドの元に信じられない知らせが届いた。ロードリックが人目も気にせず真昼間に騎士を使ってマーガレットを捕縛させたものだから、王太子の婚約者が牢に入れられたという衝撃の噂は口から口へ、あっと言う間に城中を駆けめぐったのだ。

 マーガレットが婚約者と恋仲になった異母妹を毒でもって殺そうとしたなんて、レイナルドにしてみれば明らかなでたらめだ。マーガレットは、王太子を愛してなんていない。それどころか、王太子から婚約破棄を言い渡されるのを今か今かと待ちわびていたのだ。

 それでも、真実を知らない人たちにはもっともな犯行理由に思えたらしい。

 マーガレットは毒なんて持っていないのだからきっとすぐに無罪が証明されて釈放されると信じていたレイナルドだったが、エドモンズ博士に地下牢まで往診をお願いしたいと言われて祖父と共に慌てて駆けつけてみれば、手足を縛られたままで気を失ったマーガレットが粗末なむき出しの寝台に横たわっていた。

 ようやく自白した、処刑される前に死んでしまったら困るから診察してもらいたい。

 マーガレットを厳しく尋問して、無理矢理嘘の自白を引き出したのであろう騎士に殴り掛からなかった自分をほめて欲しいとレイナルドは思った。もっとも騎士に構うよりも先に、飛びつくようにマーガレットの診察をしただけなのだけれど。

 幸いなことにマーガレットは、気を失っているだけだった。汚れのついた頬を拭い、カサカサに乾いていた唇に水を含ませた布を優しく押しつけたところで瞼が上がり、綺麗な琥珀色の瞳が現れた。

 レイナルド様とマーガレットの唇は動いたけれど、声は出なかった。どんなひどい目にあったのかと思うだけで、レイナルドの目に涙が滲んだ。

 手足の縄を解け、ちゃんと食事を与えろ、もっと清潔な寝具を用意しろ、そうしないとすぐに死んでしまうぞと、祖父が騎士たちに恐ろしく低い声で言い募っているのが聞こえた。レイナルドはこのままここで看病すると申し出たが許されず、祖父と一緒に牢を追い出されてしまった。

 牢を出る際、これで死刑は確定したと笑い合っている騎士たちの前だけは平然と歩いて、そのあとはフラフラになっているのを祖父に引っ張られて自室まで戻り、そこで膝から崩れ落ちた。

 もうどうしたって堪えようのない涙をボロボロとこぼしていると、久々に強烈なげんこつが頭に落ちて来る。


 しっかりせい、泣いても助けられん、考えろ、諦めるな。


 二十五歳にもなって、こんな子供みたいに怒られるとは思わなかった。それでもそれでレイナルドの目は覚めた、急速に頭脳が働きだす。

 実のところ、マーガレットを助けるのは簡単だった。王とは旧知の仲のアランがブランデーの瓶を片手に訪ね、いい感じにほろ酔いになったあたりでラウレンツ公爵令嬢は可哀想だ、元はといえばお前の息子が浮気したせいだろう、せめて楽に死なせてやってはどうか、斬首刑ではなく毒にしてやれ、毒は私が用意するからと囁いた。遺体は解剖すると言って私が引き取ろう、そして丁重に埋葬するから心配するなと続ければ、マーガレットを気に入っていた王は泣きながら何度も頷いたとか。

 目論見通り、ラウレンツ公爵令嬢の処刑にはアラン・エドモンズ博士が立ち会うことが決まった。

 計画を知らせるためにレイナルドが頼まれていない往診に行くと、マーガレットは既に地下牢にはいなかった。休暇を取っていた護衛騎士の一人が休暇明けにマーガレットが地下牢に入れられていることを知り、すごい勢いで来てマーガレットの捕縛に関わった騎士たちを殴り飛ばし、そしてすぐさまマーガレットを貴族用の牢に移したそうだ。

 レイナルドが貴族用の牢を訪れると、そこには黒髪の騎士が恐い顔で仁王立ちしていた。しかしレイナルドが往診に来たと言えば、すぐに鍵を開けて入れてくれる。窓に鉄格子はあるもののそこは普通の部屋で、質素だが清潔な服を着たマーガレットがベッドを椅子がわりにして座っていた。

 診察をするから出て行ってくれと言えば、騎士は素直に出て行く。そのあまりの緩さに呆れたものの、レイナルドにとっては都合がいい。

 外に聞こえてはいけないので、レイナルドはマーガレットを抱きしめてその耳元に小声で計画を伝えた。献体の話が出たら承諾するよう言えば、とろけるような笑顔で頷く。


 必ず助ける、僕を信じて。


 優しく口づけて、約束を残したレイナルドにマーガレットは、なにも心配しておりませんと囁いて、やはり笑った。

 そうして迎えたマーガレットの処刑の日、ワインのグラスに即効性の睡眠薬を入れ、すぐに眠りに落ちたマーガレットの死亡確認を行った。そして解剖のためだと言って実は眠っているだけのマーガレットを引き取り、そのまま祖父が老後の住まいにと購入していた郊外の小さな屋敷に運んだ。

 翌日の朝早く、高名な薬物学者であるアラン・エドモンズ博士の弟子が医療過疎地である辺境の村々を巡る旅に出た。若いけれど腕がいいと評判のレイナルド・エドモンズ医師の傍らには、短く切られた赤茶色の髪の手伝いの少年が付き従っていたが、誰も気に留める者はいなかった。王都の大門を守る衛兵はレイナルドの顔を知っていたので、その手伝いの少年ごと快く通したのだ。

 そして、二週間の旅を経てたどり着いた小さな街で、レイナルドの古着を着ていた少年が平民の娘たちが着ているような簡素な服に着替えた。

 そこで結婚式を挙げ、そのあとは北を目指す。

 街道を行けば馬車も使えたし、もっとずっと早く進めたのだが、関所を通らず国境を越えるために山道を選んだのでかなり遠回りになった。

 マーガレットが馬に乗れなかったため、一頭の馬に二人乗りして、馬を休ませ、休ませしながら山を越え、王都を出て一か月後には無事に隣国に抜けられた。山の中で夜を迎えてしまって野宿した日もあったのに、マーガレットはずっと元気だった。

 そうして、ファーニヴァル王国の隣国であるゴドリッジ王国の最北に位置するジェマ村を今、新婚の夫婦は互いの手を取り合いながら見下ろしていた。


「レイ様は、ジェマ村にも行ったことがおありなのよね?」

「ああ、じい様に連れられて医者のいない村ばかり散々まわったからね」

「アラン先生、あのお年でお元気ですわね」

「旅の間は、僕より元気だったよ。何度、置いて行かれそうになったか」


 よほど大変だったのか、思わず遠い目をするレイナルドにマーガレットがくすくす笑う。そんなマーガレットの村娘のような服の胸元には、革紐に通された琥珀色の小鳥が揺れていた。

 それはまだレイナルドが王立学園に通っていた頃、休みのたびに荷物持ちをしろとレイナルドを無給でこき使っていた祖父が、何の気まぐれか給料じゃといくらかの金をくれたのだ。たいした額ではなかったのだけれどせっかくだから母に何か贈り物をしようかと街に出たレイナルドは、まだ元気だったラウレンツ公爵夫人に連れられた十歳のマーガレットとばったりと出くわしたのだ。

 母への贈り物を探していると言えば、良い店を知っているから案内してあげると小さな手がレイナルドの上着の袖を引っ張った。そうして連れて行かれたのは庶民向けの雑貨屋で、マーガレットはあれでもないこれでもないと散々迷った末にきれいな刺繍の入った肩掛けを選んでくれた。

 会計をする時、目についたペンダントを一緒に買ったレイナルドは、選んでもらったお礼ですと小さなレディーに差し出してみた。琥珀色の小鳥はガラス製で、おまけに革紐にぶらさがっている。平民でも子供がつけるような安物を果たして公爵令嬢が受け取ってくれるだろうかと思ったけれど、マーガレットは小鳥と同じ色の目をまん丸にして、まるでものすごい宝物をもらったかのように恭しく受け取った。

 あの時の小鳥のペンダントがまだマーガレットの胸元を飾っているのが、なんだかとんでもない奇跡に思えてレイナルドの胸を締めつける。服の下に着けていたおかげでこれだけは持ち出せて良かったとマーガレットは言うけれど、いきなり捕縛されてそのまま一度も自分の部屋に戻ることがなかったマーガレットは、その持ち物の全てを王宮に置いて来てしまったのだ。

 その中には、マーガレットが亡くなった母からもらったという日記もある。

 あの王宮の、限られた者しか入ることが許されない高貴な方々が住まう南翼にレイナルドは、医者の権限でもって祖父と共に何度も足を踏み入れた。そして、祖父の協力の下にマーガレットと二人きりの時間を過ごすことが出来たのだ。

 それは短くとも、本当に幸せな時間だった。

 祖父が隣室で見張ってくれているのだから誰も入って来ないだろうに、二人してベッドの影の床の上に隠れるように座って色々な話をした。

 初めて会った時、熱を出して寝ていたマーガレットにレイナルドが一目惚れしたんだと言えば、私もあの時にレイナルド様を好きになったのですなどと言う。君はまだ八歳だったでしょうと言えば、八歳でも恋に落ちることはありますと澄まして答える。

 本当に幼い頃からお慕いしていました、これが証拠ですとマーガレットは、自身の日記を惜しげもなく見せてくれた。

 そこには、マーガレットが一途にレイナルドを想い続けて来た歴史があった。

『あの方』として、日記の中で何度も登場するレイナルド。あの方とお会いできた、あの方とお話しできた。

 もう勘弁してくれとレイナルドは、すぐに白旗を揚げた。こんな可愛いことを言われて、二人きりですぐ傍らにベッドがあるとかなんの拷問か。隣の部屋にはじい様、隣の部屋にはじい様と、呪文を唱えてなんとか自分を落ち着かせた。

 ちなみに、レイナルドを名前ではなく『あの方』と書いたのは、万が一誰かに読まれた時の保険だったそうだ。果たして公爵家に日記を盗み読むような無作法者がいるのだろうかと首をひねりかけて、彼女が王太子の婚約者だったことを思い出した。

 本当に、万が一の保険だったのだ。

 読みようによっては、『あの方』が王太子だと思われるよう上手に書かれている。最後に書かれた『R様』には、ちょっと笑ってしまった。レイナルドとロードリックの頭文字が同じ『R』なので、こういう書き方ができた訳だ。

 そう、私にはレイナルド様に隠すようなことは何一つありませんとマーガレットは、日記を最後のページまで読ませてくれたのだ。そこには、あまりに辛い日々が綴られていた。そして、マーガレットがどうしてもうすぐ婚約破棄される予定なのかもわかった。


 僕が幸せにしよう。

 どんなことがあっても、どんなことをしても絶対に。


 日記の最後、レイナルドを愛していると書かれた一行を指でなぞりながらそう誓った。

 あまりに愛しすぎてすぐにでも攫ってしまいたいけれど、愛しいからこそ待つべきだと知っていた。このままいけば、彼女が言う通り婚約破棄になるだろう。今はただ、その時を待つべきなのだ。

 そう思っていたのに、妹に嵌められてマーガレットは捕縛され、処刑された。最悪の汚名を着せられて。

 正直なところ、マーガレットの妹と両親を殺してやりたいと思う。人の命を救う医者であってもレイナルドは聖人君子ではないから、素直にそう思う。

 それでもやらない、復讐よりも大切なのはマーガレットの幸せだ。今はただ、二人でなんの心配もなく暮らせる地までひたすら逃げるだけだ。

 二人が目指しているのは、あと二つ国境を越えた先にある西の大国、アドラム王国だ。温暖な気候のおかげで豊かな実りを得られる広大な穀倉地を有する国で、気が遠くなるほど遠いけれど、ファーニヴァル王国とは国交もないため、そこまで行けばさすがに王太子の婚約者であったマーガレットを見知っている者はいないだろう。

 そこは以前、ラウレンツ公爵家でシェフをしていたロブという男の故郷だそうで、実家はアドラム王国でそこそこ大きな商家なので、なにかあったら遠慮なく頼ってくださいとラウレンツ公爵家を辞する時にマーガレットにそう言ってくれたらしい。

 たとえどこにたどり着いたとしても、レイナルドは医者の腕でもってマーガレットを養うつもりでいるけれど、それでも頼れる知り合いがいるといないとでは、いる方がもちろんいいに決まっている。と言うか、マーガレットがロブのチーズガレットをもう一度食べたいと言うから実は即決だったのだけれど。


「レイ様、あれはレプトリカですか?」

「ああ、よくわかったね」


 マーガレットが指差した手の平のような大きな葉をつけた草を見て、レイナルドはよくできましたとばかりにマーガレットの頭を撫でた。褒められてマーガレットは、勉強しましたからとちょっと得意顔だ。

 自国を出る時は関所を避けたけれど、以後は普通に街道を使う予定だ。その為には、マーガレットに身分証が必要になる。

 レイナルドの医師証明書と、結婚式を挙げた教会の神父が発行してくれた結婚証明書でもって、医師レイナルド・エドモンズの妻として関所を通ることは可能だろうけれど、長旅ゆえにできればマーガレット自身の身分証を手に入れておきたい。

 なのでマーガレットは、ゴドリッジ王国の首都に着いたら看護師の資格を取る予定なのだ。医師資格を取るのは難しいが、看護師資格はそうでもない。現役医師の推薦と簡単な試験でわりと簡単に取れる。

 という訳でマーガレットは、本当に新米看護婦のメグになるために旅の間、レイナルドを教師に勉強中なのだった。


「こんな普通に生えていて、間違えて口にすることはありませんの?」

「この辺りの人ならみんな知っているし、知らなくても根を食べる人はあまりいないよ。それに、精製していない根のままならかなり大量に食べない限り問題ない。数本なら、少し痺れるくらいだね」

「そうですのね」


 ゴドリッジ王国の北部の山々に自生しているレプトリカは、その根から強い毒が取れるのだが、茎や葉に毒はないのだ。間違って根を食べて死んだと言う話は、今のところ聞いたことはない。

 だが、大量の根を集めて精製すれば、それは凶悪な毒になる。見ての通り普通に自生しているものだから、そこいらの小悪党が小遣い稼ぎに作って売り捌いたりする。毒に厳しいファーニヴァル王国でさえ、手に入れるのは実はそんなに難しくないのだ。

 マーガレットの妹がマーガレットに罪を着せるために使ったのも、このレプトリカの毒だったらしい。公爵令嬢なのに、闇市場にでも行ったのだろうか。

 マーガレットが置いて来た、あの日記。

 もし誰かがあれを読んでマーガレットの妹の本性に気づかないだろうかと思わないでもないけれど、まあそのあたりのことはどうでもいいとレイナルドは思う。リリアナとかいう娘が王太子妃になろうが、罪人になろうが知ったことではない。


「メグ」

「はい、レイ様」

「そろそろ行こうか」

「はい!」


 茎や葉に毒はないと知っていても恐いのか、レプトリカの前にしゃがみ込んではいるが手は出さずにじっと見ているマーガレットに声をかけると、ぴょんっと勢いよく立ち上がる。レイナルドが何をしようが何を言おうが全て嬉しいらしい新妻があまりに可愛くて、ついつい緩んでしまう頬を軽く叩いて引き締めた。


「ジェマ村に宿屋はございますの?」

「宿はないけど、村長が泊めてくれると思うよ」

「まあ、村長様のお宅に泊めていただけるのですね」

「そうだよ、言葉使いに気をつけてね」

「うっ……はい、頑張ります」


 マーガレットは最近、上品な令嬢言葉を町娘風に変えようと努力を始めている。特に人前では、気をつけて喋るようにしているのだ。もっとも普通に喋ろうとして妙な言い回しになることも多く、レイナルドはふき出すのをいつも我慢していた。

 レイナルドが手を差し出せば、マーガレットはすぐに握って来る。そうして最愛の妻と手を繋いで歩きながらレイナルドは、きれいに晴れた空を見上げた。

 これから暖かくなる季節で助かった、この調子ならアドラム王国には三か月かからずに着けそうだ。もっとも広大な国であるため、ラウレンツ家の元シェフの実家がある街までそこからさらにひと月はかかりそうだけれど、それでも二人なら長い旅路も楽しいだけだ。

 多分、数年は先になるだろうがアドラム王国である程度の生活の基盤が築けたら、祖父のアランに手紙を出すことになっている。今頃アランは、年齢を理由に引退の準備を進めているはずだ。そしてレイナルドからの手紙を受け取ると、すぐにアドラム王国に移住すると言っていた。穏やかな気候のアドラム王国で、ひ孫の世話をしながら余生を過ごすのも悪くないとか。

 その際、王宮で下級文官として働いている一人の男を引き抜いて、従者として連れて来る予定になっている。

 その男の妻の名を、サラという。

 男と妻と双子の娘、家族四人での移住となる。


「レイ様、あれも薬草ですわよね!」

「残念、あれは雑草」

「えー……」


 しょぼんと肩を落とすマーガレットにくすくす笑って、レイナルドは握った手にきゅっと力を込めた。


 この先にどんなことが待ち構えていても、絶対にこの手は放さない。


 青く晴れた空の下、馬を引いた若い夫婦がのんびりとのどかな田舎道を歩いて行った。



こちらでは初投稿の、初異世界物です。

世界観が慣れなくて何度も書き直しましたが、楽しかったです。

ツッコミどころがあるかもですが、ご容赦ください。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


マーガレット視線のお話を連載中です。

よかったら読んでやってください。

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