第五章
1
「お腹が空いてきましたね」
テーブルの上で指を躍らせながら初芝は頭をくねりと曲げた。
「もう十一時半だ。まじめに仕事をすると時間が経つのが早い」
「わたしはいらない。現場を回っている時はお昼ごはん食べないから」
絶望的な顔をする初芝に背を向けて、今江は医学雑誌や医療関係の書籍が並ぶ本棚を物色していた。ちなみに絶望的な顔をする初芝の背後では、これまた絶望的な顔をしてうろたえるうら若き看護師たちの姿があった。
「別にどうってことない本ばかりね。長ったらしいカタカナばっかり」
「お昼食べないんですか。だめですよ。食事はパワーの源です。お腹にごはんをいれないといざっていう時に動けません。事件の早期解決のためにはごはんを食べなきゃならないんです。ごはんを食べないなんて今江さんは真面目に捜査をする気がないのですか。これは仕事です。ごはんを食べるのは警察の仕事です。昼食を抜かすなんて国家権力に対する謀反です」
「神経が張るとお腹にものが入らないの。あんた一人で行ってきなさい」
「あ、ぼくは行ってもいいんですね。わかりました。あの、すみません看護師さん。ここらへんで美味しい定食屋さんって――」
「誰だあんたら。ここで何してんだ」
怒髪天を衝く勢いの白衣の男が、エレベーターホールから二人の刑事に向かって声を荒げた。
「わ。すごいでっかい身体。いかり肩の人が怒ってますよ」
「あんたなかなかセンスあるわね」
「何のセンスですか」
「人を怒らせるセンス。それ、絶対あの男の前で言わないでね」
男の身体がナースステーションのカウンターにぶつかり、ペン立てやらバインダーやらがリノリウムの床に落ちていった。
二メートル近い身長。筋骨隆々の身体はキングサイズのベッドのようにぶ厚く、そんな身体の頂にちょこんと小さな顔が乗っている。鼻が高く、髪は金色。瞳孔の小さな黒い両目だけに初芝は親近感を覚えた。
「どうもこんにちは。天神署刑事部捜査一課の今江巡査部長です。こっちは初芝巡査です」
「初芝です。どうぞよろしく」
初芝は片手を差し出したが、男はそれを乱暴に払いのけた。
「ナースステーションは関係者以外立ち入り禁止だ。警察だからって好き勝手していいわけないだろ。行政機関だからこそ規則はしっかり守っていただきたいね」
「お願いしたら皆さん快く受け入れてくださって」
二人が六階のテラスから三階東ナースステーションに戻ってくると、おかめ顔の看護師は姿を消し、残っているのは顔立ちが若く押しの弱そうな看護師ばかりだった。昨夜下川仁が座っていた席を確認したい。そう頼んで二人はナースステーションの中に入った。返事は聞かなかった。
「わたしたちはコリンズ先生を待っているのですが、先生はいつ頃こちらにお戻りになられますかね」
男はぎろりと目玉を動かした。
「俺がコリンズだ」
「コリンズ竜一さん?」
「竜一・コリンズだ!」
「あぁそうですか」
今江はテーブルに手を向けた。
「どうぞお掛けください」
「あんたらに指図される筋合いはない。これはうちの備品のテーブルだ」
「では掛けてもよろしいですか」
淡とした口調で今江は言う。三十センチ近くある身長差を前にしても今江はまったくひるむ様子を見せなかった。
「ちょっと待て。これは取り調べか」
「参考までにお話を伺いたいだけですよ」
「それをこんなところで。どこか人のいない所の方がいいんじゃないか」
「あら。人に聞かれたくないことをお話ししていただけるのかしら」
コリンズは椅子の上に身体を落とした。巨体からの衝撃に四本足の椅子が悲鳴をあげる。
「ドクターコリンズ。下川仁さんが健診センターで遺体となって見つかったことはご存じですね」
「無論だ」
「下川さんとはどいうったご関係ですか」
「同僚だよ。おれは第一外科。あいつは第二外科の後期研修医だった」
「ドクターも後期研修医ですか」
「あぁ。といっても俺は後期研修医三年目。来年からは晴れて助手だ」
「ふむ。ドクターは今年でおいくつになりますか」
「三十だ」
「なるほど。下川さんは後期研修医一年目でしたね。さて、先輩として下川さんはどんな後輩でしたか」
「あんたらの魂胆はわかっている。俺が下川を殺したと思っているんだろ。いや、そうじゃない。俺が下川を殺したことにしたいんだ。たしかに俺はあいつを嫌っていた。年下のくせに生意気で、先輩を立てることを知らないあいつはうざかった。でも残念ながら俺にはアリバイがある。俺は昨日の夜は九時ごろ帰宅して、それからずっと家にいたんだ。うちのマンションは出入り口に監視カメラが設置されているから、嘘だと思うなら確認してみるといい」
「『ぶっ殺す』と公言されたと聞いてますが」
「酒の席の話だ」
「冗談だったのですか。本当は殺意があったんじゃないですか」
コリンズ竜一は大きく舌打ちをした。
「まぁいいさ。後ろ暗いところは何もないんだ。調べたきゃ勝手に調べろ。言っとくが俺には弁護士の友人がいるんだ。生半可な証拠で俺を犯人扱いすると痛い目に合うぞ」
「ご忠告どうも。また何か伺いたいことがありましたら寄らせていただきます」
2
「飯の時間だ」
コリンズ竜一は大股歩きでナースステーションを後にした。
「やれやれ。台風のような男でしたね。それで、今江さんはあの男のことをどう思います。動機の点で言えば、今のところ一番怪しいわけですけど。アリバイがあるそうですね」
「マンションの監視カメラか。一応誰かに確認させるけど、あそこまで強気ってことは嘘じゃなさそうね」
「ドクターコリンズはシロですか」
「まだそこまではわからない。とりあえずどうする、あんたはお昼食べてくるの」
「あれ。お二人とも。まだここにいらっしゃったのですか」
声の方に顔を向けると、そこには私服姿の篠栗看護師がいた。
「あぁどうも。お帰りですか」
「はい。なんだかんだで昼まで雑務に駆り出されちゃいました。まるまる無給のボランティアですよ。本当に仕事っていやになりますね」
そう言いながらも彼女の笑顔に屈託の色は見られなかった。
「若い子はタフでいいわね。結局何時間働いたの」
「昨日の当直は十七時からで、今は十二時前だから。約十九時間この病院にいたことになりますね。途中何度か仮眠をとったけど、やっぱり眠くて仕方がないですよ。あ」
篠栗はテーブルの上に置かれた赤色のプラスチックファイルを手にとった。
「なんですかそれは」
初芝が両目を好奇で輝かせた。
「回覧板です。院内の回覧資料を全員が目を通し終えたら、このファイルに入れて総務に提出するんです。朝になったら総務に提出するつもりだったのに、すっかり忘れていました。あ、そうだ」
篠栗はファイルを開いた。二つのリング状の金具がプリントの左側に空いた二つの穴の間を通っている。プリントは数十枚の束になっているが、篠栗が目を通しているのは一番上の一枚だけだった。
「刑事さんたちもこれを見てください」
篠栗はファイルをテーブルの上に広げた。
一番上のプリントの題は『第二回地域フォーミュラリ検討委員会報告書』。右上に記された日付は三日前のものだ。会議で為された質疑応答や、提案事項などが羅列されており、下部には名前をサインする欄が小さく並んでいる。
「刑事さん。下川くんは今日の二時半頃にこのプリントを読んでサインをしていました。このサインは下川くんが一時以降も生きていた証拠ですよ」
「ちょっと失礼」
今江はファイルを両手で抱えた。サインを書く欄の一番右下に、下川仁の名前がある。下川の名前が最後で、その上に糸島研修医の名前が、さらにその上に秋月医師の名前があった。
今江は下川の名前を見つめた。極端に右上がりでハネのくせが強い。糸のように細く書かれたその名前は、どこか書き手に神経質な性格を連想させる字体だった。
今江はプリントをめくった。二枚目のプリントの題は『セミナーのお知らせ。“長寿大国日本で一〇〇度目の誕生日を迎えるために”』。一枚目と同じく下部にはサインを記入する欄があり、もちろんそこには下川の名前があった。
三枚目、四枚目、五枚目、六枚目とプリントをめくる。『第十回医師の働き方改革対応委員会定例会報告書』。『旧館改修工事正月休暇期間変更のお知らせ』。『“夫婦で通う マタニティスクール”開園のお知らせ』。『山吹医科大学附属病院 音楽会のお知らせ』。
今江は下川の書いたサインをなでた。
「どれも同じ字。たしかに下川さんのサインですね。下川さんがこのサインを書いたのが午前二時半ごろ。それは確かですか」
「はい。このファイル、昨夜の時点でナースステーションから消えていたので全員サインをして誰かが総務に出したと思ってたんです。それなのに一時半くらいに糸島君がサインしているのを見て驚きました。糸島くんてば、ナースステーションの外でプリントを読もうとして持ち歩いていたみたいなんです。彼、ナースステーションにいるのがあんまり好きじゃないみたいで」
「それは困りますね」
「全員のサインがあるか確認したら、下川くんの名前がないことに気づいたんです。下川くんには仮眠室から戻ってきたら書いてもらおうと思って、ファイルをこのテーブルの上に置いておきました。それで先ほどお話しした通り、いつのまにか下川くんが戻っていたので、すぐにサインをさせたわけです」
「わかりました。どうもありがとう」
篠栗はあくびをかみ殺しながらエレベーターホールへと向かった。
「またしても証拠が増えましたね」
初芝は首筋を軽くなでた。
「間違いありません。下川さんはナースステーションから姿を消す二時五十分頃まで、たしかに生きていたんです。監視カメラの映像に間違いはない。検視官の死亡推定時刻が間違っていたんです」
「死亡推定時刻が狂うように細工をしたってこと」
「そういうことになりますね」
「うちの検視官はプロよ。プロを騙すなんて、簡単にできる話じゃないわ」
3
初芝を昼食に向かわせたあと、今江は一階の北側にある売店横の出入り口から本館の裏側へ出た。
コンクリートで固められた足元には白い線で区切られた跡がある。無数に並んだ四角い区画の中には数字がふられており、どうやら以前はこの場所を駐車場として開放していたようだ。
今江は日陰に入りスマートフォンを取りだした。一回目のコール音が途切れる前に相手は電話に出た。
「はい。総務部です」
「天神署刑事部捜査一課の今江と申します。桂さんに繋いでいただけますか」
電話口の相手は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「すみません。もう一度お名前をお願いします」
丁寧な言葉遣いの後ろに侮蔑の意志を感じる。総務部はキャリアならば誰もが一度は所属する部署だ。電話口に出た男もキャリア候補なのかもしれない。
「桂さんです。桂副総監に内線を回してください」
「いえ、そうではなくて。あなたのお名前です」
「今江です。天神署刑事部捜査一課今江恭子巡査部長です」
「少々お待ちください」
耳元に流れる保留音のメロディーは二小節に満たないところで終わった。
「お待たせしました。申し訳ありませんが警視監はただいま来客対応中です」
「わかりました。またあとでかけ直します」
「いえ、警視監は午後も――」
相手の言葉を待たずして電話を切った。もとより桂に電話が繋がるなんて思ってはいない。所轄のヒラ刑事の電話を繋ぐようなうかつ者が、警視庁の総務部にいるはずもなかろう。
もちろんあとでかけ直すつもりもない。これはただの牽制攻撃。桂が電話に出ることはないが、所轄の刑事が電話をしてきたという事実はその耳に確実に入るだろう。
そして今江の予想通り、すぐさまスマートフォンが鳴った。相手は捜査一課課長の田所だ。どこかの定食屋で昼食を摂っているのか、背景音がやかましい。
電話口に副総監を呼び出すなんてどういうつもりだ。越権行為も甚だしい。
予想通りの罵詈讒謗を空返事で受け流す。一通り聞き終えたところで、署内で検証中の監視カメラの映像について訊こうとしたが、『カツカレーお待たせしました』という声が聞こえると、電話は一方的に切られた。
スマートフォンを握る手をだらりと降ろし、壁に背を預けて今江は大きく息を吐いた。
4
コリンズ竜一とは対称的に、星野あやめは中学生と見まがうほどの小さな体躯をしていた。
細く長く濃い黒のまつげが震えている。そのまつげの間から上目遣いの視線を向けられると、女性である今江をもってしても庇護欲がむくむくとこみあげてきた。
アイドル的存在。なるほど。谷岡看護師の定評は適格だ。美形ではあるが美貌ではない。綺麗ではあるが華麗ではない。妖艶なる一輪の薔薇というよりは、野に咲き風に葉を揺らす桃色のフリージア。フリージア嬢と今江はつぶやいた。当のフリージア嬢は無言で頭を下げ続け、畏縮の態度を崩さなかった。
「とって食うつもりはありません。どうぞリラックスして、質問にお答えください」
「あの。事件のことなら午前中に他の刑事さんにお話ししましたけど」
星野が所属する内科の病棟は六階東側にあり、その病棟を管理するナースステーションの看護師と内科医局の取り調べは天神署の他の刑事が担当していた。
「ごめんなさい。どうしても確認したいことがありまして。本当、お忙しいところ恐縮です」
甘ったるい笑顔と共に初芝は身体をくねらせた。
「午前中と質問が重複したら申し訳ありません。星野あやめさん。後期研修医一年目のお医者さんね」
「はい」
「今年の春から内科の専属となったわけ。どう、お仕事には慣れた?」
フリージア嬢は曖昧な笑みを浮かべるだけで何も言わなかった。
「殺された下川さんとは仲がよかったの」
「ただの同期です」
「ただの同期。そっか。ただの同期ね。するとあなたはずいぶんと恋多き乙女なのかしら。少なくとも一度はデートをした相手を、あなたはただの同期と称するのね」
星野の顔色はみるみるうちに白くなった。
「デートなんてそんな。わたしと下川さんはそんな関係じゃありません」
「デートをしたことがない。つまり、デート以外の目的で、病院外で会ったということ」
星野は声を詰まらせうつむいた。『どうしよう』とつぶやき、肩を震わせる。
「病院の方々から下川さんについていろいろとお聞きしました。彼は休みの日に女性と逢瀬を楽しむような男ではないようです。そんな彼が貴重な休日に、こともあろうに病院のアイドルと評されるあなたと会っていた。これでもあなたは、被害者を『ただの同期』と言うのですか」
「お願いします。あれは本当に、事件とは何も関係がないんです」
「ということは、休日に下川さんとお会いしたことを認めるんですね」
目頭に涙をためながら星野はうなずいた。
「三週間前の月曜日に近所のファミレスに呼び出されたんです。どうしても聞きたいことがあるからって。でも本当に、下川さんと会ったのはその日だけなんです。病院内でだってろくにお話ししたことはありません」
「下川さんに何を聞かれたのですか」
「今後の病院運営にかかわる大事なことだって、だけどそんな大したことじゃなかったんです。ただわたしが先月参加した“会議”について――」
星野のか細い声を切り裂くように、面談室の扉が音を立てて開け放たれた。
「刑事さん。星野くんの取り調べは午前中に終わったはずだ。それを午後も立て続けだなんて」
朗らかな笑顔と共に巨体の男が面談室にすべり込んできた。決して広くはない面談室の人口密度が急激に増した。
巨体の男――雲仙教授はあごひげをさすりながら今江を見おろした。
「ここは六階。外科の先生がいらっしゃるところではないでしょう」
動揺を感じさせない口調で今江は応えた。
「彼女は当直明けなんです。警察の方が来られると思って、昼まで院内に残ってもらったんですよ。本来ならおうちのベッドでぐっすり眠っている頃なのに」
破顔の裏側にある瞋怒の情を雲仙は隠しきれていなかった。ほほはひくりひくりと痙攣を繰り返している。
今江は解き放たれた扉の外に白衣を着た男がいることに気づいた。雲仙と同じく五十代と思われる。ずんぐりとした矮躯の男は、脂ぎった顔のせいかガマガエルを連想させた。男は眉間にしわを寄せて面談室の中を見つめている。
「どうしても聞きたいことがあるなら後日にしてください。それだって正当な理由がなければご遠慮願いたいところですがね。え。いったい星野くんに何をお尋ねになったのですか」
「大したことではありません。ねぇ、星野先生。会議て一体――」
今江の言葉を耳にした瞬間、雲仙は深く息を吸って身体を鶏のように膨らました。
「会議っていうのは……」
「黙ってろ」
雲仙は片手を突き出して星野を制した。
「雲仙先生」
今江は雲仙と対峙した。視線を反らさず、まばたき一つせず、敵意を込めて、確たる意志を――
「先生のおっしゃる通りですね」
今江は引き下がった。少なくとも、言葉の上では。
「そうですか。星野先生は当直明けでしたか。なるほど、これは失礼しました」
柔和な口調で今江は続ける。ただし瞳の色は敵意のまま。
雲仙は一度唾をのみ込み、不自然に大きくうなずいた。
「星野くん。今日はもう帰りなさい。次の出勤はいつだ。明後日か。明日は休日。そうだったよな、水科先生」
雲仙が振り返ると、廊下に立っていた禿頭の白衣は小さく首肯した。
音もなく星野は椅子から立ち、そそくさと今江の前を横切った。
「あぁ、ちょっと待って。星野さん」
星野の背中が跳びはねた。バレッタでまとめた髪がうなじから白衣の内側へと降りていき、白衣に隆起を作っている。
「そっか。あなたも昨日は当直だったのね」
振り返ろうとした星野の前に雲仙が立ちふさがった。雲仙は星野の背中を強く押し、若き女医はそそくさと廊下を駆けていった。
「困りますね、刑事さん」
雲仙が両腕を組んで顔をしかめる。
「本音をお聞かせ願いたいですね」
「何?」
今江は歯を見せて笑った。
「いったい、何にお困りですか」
5
「全員揃ってるわね。じゃ、始めましょう」
病院内三階にある小さな会議室。最後にその部屋に入った今江は、室内の皆が立ち上がり、敬礼するのを制して言った。
今江は会議テーブルの上にリストを広げた。午後二時を回り、捜査一課の刑事たちが午前中に集めた情報の報告会が催される。
「リストの順番通りでいきましょう。そしたら、地階の放射線科を担当したのは誰だったかしら」
「わたしです。報告させていただきます」
三十路に差し掛かったばかりの坂倉巡査が緊張した面持ちで言った。
「CT装置やMRIなど画像診断に用いる診断機器が設置された放射線科ですが、リストの記載通り昨夜は二名の放射線技師が当直にあたっていました」
坂倉は二人の放射線技師の名前を口にした。
「昨夜は両名共に地階から上に出ることはなかったと証言しています。地下一階にはトイレも自動販売機もあるので、食べ物さえあれば一晩こもるくらい何ともないそうです」
「仮眠はしなかったのか。仮眠室は四階だろ」
四階の聞き込みを担当した橋本巡査部長が訊ねた。年齢は今江とたいして変わらない。無骨な性格の男だ。
「いつも診療台で横になっているそうです。診察室にある背もたれのない小さいソファーみたいなやつです」
「たしかに四階で寝ている時に叩き起こされて地階まで戻るのは面倒なのかもな」
続けてくれ。橋本がそう言って手を差し出した。
「事件については朝方に日勤の人間と交代する時に初めて知ったそうです。何も変わったものは見ていないし起きてもいない。被害者の下川仁についても、前期研修の際に来た気がする程度で、よく知らないそうです」
あぁやっぱり、と何人かが小声で言った。
「俺たちもだよ。下川のことを覚えているやつはあんまりいなかった」
「地味で目立たない男。人付き合いも悪く、懇親会なんかにもほとんど出席しなかったらしい」
「今話しているのは坂倉でしょ」
切っ先の鋭い今江の声が皆ののど元に突き刺さった。
「放射線技師たちは地階から出なかった。嘘をついている感じは」
「なかったです」
「わかった。それと一階のデータセンターも坂倉の担当だったよね。報告お願い」
「はい。病院敷地内の監視カメラのデータが集約されるデータセンターですが、ここには昨日岡友晴三十六歳が夜勤に入っていました」
ソファーに眠りこけていたあの男だ。岡からもあまり有益な情報は得られなかっただろう。もし岡が何かに気づいていれば、データセンターで会った時点で今江に伝えているはずだ。
「岡は基本的にはパソコンの前にいました。雑誌を読んだり、休憩に来た職員と駄弁っていたそうです。部屋の外には、一階のトイレに行ったり、自販機で飲み物を買いに行ったりしたくらいでそれ以外の場所には行っていません」
「被害者のことは」
「少なくともデータセンター横の休憩室を頻繁に訪れる職員ではなかったと。常連だったら顔も名前も覚えていますからね」
「それ以外に有益な情報は得られなかったみたいね」
「はい。申し訳ありません。ただ――」
板倉は手帳から顔を上げ、頭の後ろをぽりぽりと掻いた。
「ちょっとこの男。おもしろいことを言ってまして。今江さん、この男に死亡推定時刻と目撃証言のズレについて話しましたよね」
「なり行きでね。カメラの映像を見せてもらった時に、午後一時以降に被害者の姿を見た看護師が一緒だったからしゃべっちゃった。悪かったわね」
「あ、いえ。責めているわけでは。そうではなくて、この男。ミステリー小説の愛好家らしくて、こんな持論を口にしたんです」
――奇抜であればあるほど、その謎の正体は単純である――
今江は静かに顔を上げ、板倉の顔を注視した。
「それはフィクションの話でしょ」
「あ、いえ。そうですが、でもこれってあれでしょ。いわゆる密室事件ってやつ」
「密室じゃないですよ」
初芝が声をあげて笑った。
「たしかに一階の入り口は鍵がかかっていたみたいですが、二階の渡り廊下は自由に出入りできたんですから」
「でも監視カメラがあった。カメラのレンズに映ることなく渡り廊下を通ることはできません。岡によると、密室とは物理的に閉じられていることだけを意味するわけではないそうです。鍵が開くことでドアの中に入れるように、カメラに映ることで健診センターの中に入ることができる。カメラが壁やドアの役割を果たしていたんです。これは立派な密室殺人事件ですよ」
「おもしろい話だけど、それで捜査が進展するわけじゃないでしょ」
今江は言った。
「実際に犯人は室内に入って被害者を殺し、現場を後にした。密室なんかじゃない。どこかに抜け道があるはず。何としてもそれを探してちょうだい。次。門脇くん。一階のICU《集中治療室》と救急外来センターについて報告して」
恵比須顔の門脇が『はい』と男にしては高い声を出しながら手帳を開いた。
「先に申しますとろくな情報は得られませんでした。ICU、救急外来センター共に昨日はいつも通りの当直業務を遂行。いつも通り地獄のように忙しかったそうです。重症患者を収容しているICUはいっときも患者さんから目を離せませんし、救急外来の方は次々と患者がやってくるので、てんてこまいだったとか」
「次々とは大げさですね。回転ずしみたいにのべつ幕なしに救急車がやって来るんですか」
板倉が茶化した。だが場に笑いの花は咲かなかった。
「どうもこの病院は救急外来の受け入れ率が非常に高いそうです。テレビのニュースでよく救急車の受け入れ拒否が問題になってるじゃないですか。病院のキャパシティが足りないからたらい回しになるやつです。地域医療の中枢人物たる現院長は、この受け入れ拒否を著しい問題と捉え、院長就任以来積極的に救急外来を受け入れる方針に病院の舵をとったそうです」
「立派なお考えね」
今江が言った。
「えぇ。やっていることは立派です。おかげで病院の評判は上々ですが、そのしわ寄せは現場にきています。積極的に患者を受け入れるといっても、人員を補充したわけでもなく、以前と変わらない数のスタッフで騙し騙し対処しているそうです。救急救命センターだけじゃありません。病院全体が人手不足で悲鳴をあげているそうです」
今江の脳裏にエレベーターの前で会った秋月医師の姿が映った。どうもこの病院の人員不足は重症のようだ。厚焼き玉子のような布団を欲した医師はぐっすり眠れただろうか。
「ICUも救急外来も特別変わったことはなかったわけです。いつも通りの忙しい夜だったと。被害者についてもよく知らない、覚えていない。殺された理由なんて聞かれてもわからないし、殺したがるやつなんて当然思いつかないそうです」
「コリンズ・竜一の噂は一階まで降りてきてないんですかね」
初芝が今江に耳打ちをした。
コリンズ・竜一の殺意の発露は、外科スタッフ内では周知のことのようだった。ICUと救急外来センターのスタッフも知っていれば話してくれただろう。外科内で一種の箝口令が敷かれているのだろうか。警察に黙することまでは許さない、緩めの箝口令。
――そうかもしれない――
今江は考えた。現院長の出自たる外科医局内での痴話げんか。篠栗看護師はコリンズ・竜一について今江たちに話さなかった。外科医局と仕事を共にする看護師も口を閉ざしていたのだ。院長のお膝元で仕事をしている自尊心だろうか。院長に恥をかかせるわけにはいかない。弱みを見せるわけにはいかない。いや、自尊心というより忠誠心か。
「ありがとう。次は二階に行きましょう。二階は西側にナースステーションが一つあるだけだったわね。ここの担当も……」
「わたしです。不肖門脇。続けさせていただきます。本館二階は主に西側が病棟エリアで、東側が一階と同じく診察エリアとなっております。時計で言うと十二時から六時まで診察室が並び、六時から九時までが病棟、そして九時の位置にナースステーションがあります」
「二階の病棟は何科の患者が入院しているんだ」
橋本が訊ねた。
「主に産婦人科と小児科の患者さんだそうです。面談室で話を伺ってきたんですけど、途中で子どもが入ってきちゃって大変でした。大好きな看護師さんがいじめられていると思ったそうで」
門脇は苦笑しながら言った。今度は小さな笑いの花が咲いた。
「当直を務めていた三人の看護師から話を聞いてきました。そのうちの一人、泗水という看護師が、零時前に中央エレベーター横の階段を降りてくる被害者の姿を目撃しています。被害者は一人で降りてきて、健診センターに向かったそうです」
今江は復習のつもりで門脇の報告を耳に入れた。朝の自分と今の自分とでは、頭の中に入っている情報量に雲泥の差がある。朝には平然と聞き流してしまった情報はないかと意識を集中させた。
「今江さんに確認してもらった監視カメラのデータと一致します。しかし、泗水を含む三人の看護師はそれ以外の時間に渡り廊下を出入りする人の姿は見ていないそうです
「監視カメラには零時直後と三時前にも被害者の姿が映ったんじゃなかったか」
橋本が詰問する。ベテラン刑事の渋面にひるみながらも門脇は続けた。
「三人の看護師は時間があると奥のテーブルに座って勉強会を行っていたそうです。病棟の異変を見逃さないよう南側には注意していたけど、北側、つまり渡り廊下がある方にはほとんど意識を向けていなかったので見逃した可能性は十分あるとのことでした。加えて、消灯時間になると二階は病棟と中央エレベーターホール以外は消灯されるので、渡り廊下の前は薄暗くなるんです。話を伺う限り、被害者はずいぶんと影がうすい存在だったそうじゃないですか。見落としたとしても何ら不思議ではありません」
「だけど病棟の患者に何かあったらナースコールが鳴るだろう。わざわざ病棟の方に注意を向けるってのは納得できないな」
橋本は口を尖らせた。
「子どもです。子どもが病棟を逃げ出す時があるんですって。看護師が病棟の方に目を光らせておくしか方法はないそうです」
「子ども、か」
今江はぽつりとつぶやいてから、門脇に視線を向けた。
「被害者については何か言ってたの」
「大したことは聞けませんでした。二年前に前期研修医の下川と一緒に仕事をしたそうですが、はっきり言ってよく覚えていないそうです。被害者を恨んでいる人物にも心当たりはなく、被害者が死んで得する人物もいません。たかだか研修医ですからね」
「そっか。ありがとう」
大きく息を吐きながら門脇は背中を丸めた。その表情から緊張がみるみるうちに解けていく。
「次に三階。三階から五階までは各階の左右にナースステーションが分かれていたわね」
「はい。三階西のナースステーションを担当したのはわたしです」
無骨な表情の橋本が居住まいを正した。額の皺が汗で輝く。
「三階西の病棟には眼科や耳鼻咽頭科、泌尿器科や糖尿病科など比較的入院患者数の少ない医局が集まっています。また、皆さんご存じの通り、同階東側は被害者が所属していた第二外科の患者が収容されている病棟であり、東側に入りきらない患者さんの一部も西側の病棟に割り振られていたそうです。それなら被害者のこともある程度は知っているかと思ったのですが……」
「ダメだったわけね」
「はい。『よく知らない』。『話したことがない』。『誰?』とのことです。いやはや。ここまで人付き合いの悪い人間がいるとは思いもしませんでしたよ。この医者は真面目に仕事をしていたんでしょうかね」
「それで。昨夜のことは何か話してくれた」
「残念ながら。特別なことは何もなかったそうです」
「被害者の姿を見たりしなかったのかしら。東西のナースステーションは中央エレベーターを挟んで直線に結ばれてるでしょ」
「同じ質問をしましたよ。答えはノーです。中央エレベーターの横に階段があるでしょう。若いスタッフは階段を使うことが多いらしく、こちらの階段は西側のナースステーションからは距離があるため、静かに歩かれれば気づかないみたいです」
「それじゃ次、順番通りならわたしが担当した三階東ナースステーションの報告なんだけど、ここは最後にさせてもらうわ」
話がややこしくなるから、と今江は繋げた。
「三階にある手術室はどうだった」
「看護師と麻酔医、それから臨床工学士から話を聞いてきました。昨夜は特別変わったことは何もなく、被害者のこともよく知らないとのことでした」
「次に四階西のナースステーションと、東のナースステーション。ここも橋本の担当たっだわね」
「はい、報告させていただきます。四階は西側の病棟に脳神経内科の患者が、東側に脳神経外科の患者が主に収容されています。最初に西側のナースステーションですが、ここでもろくな話は聞けませんでした。被害者のことは知らないし、昨夜は何も変わったことは起きていない。といっても、あの看護師たちじゃ何か起きても気づかなかったでしょうけどね。看護師長に言われて渋々院内に残っていたらしく、話を聞きに来るのが遅いと不満たらたらでしたよ。他の看護師にも聞いてみましたが、ここのナースステーションはあまり勤務態度がよろしくないそうです。当直中も趣味の雑誌を読んだりスマートフォンを弄ったりと、まったくふざけた話ですね。当直の先生たちも、医局の自分の席か仮眠室にいるのがほとんどで、何も変わったことはなかったそうです」
「そう。それじゃ東側は」
橋本は目を開いて感慨深そうにうなずいた。
「一転して東側のナースステーションの勤務態度は上々です。院内でも有数の看護師たちが集まり、ちょうどわたしが訪れた時にナースコールが鳴ったんですがね、航空自衛隊の実働緊急発進さながらでしたよ。あぁ失礼。脱線してしまいました。看護師と脳神神経外科の先生がたに話を伺ったのですが、被害者のことを覚えている方は何人かいましたが、やはり親しいと言える関係のひとはいませんでした。彼が殺される理由も分からないとのことです。また、ここ四階東側のエリアには仮眠室があり、当直中はナースステーションの前をよく人が通るそうです」
「被害者の姿は」
谷岡看護師によると、一時前に下川は仮眠室を訪れている。三階東ナースステーションの横にある小さな休憩室から四階の仮眠室へは、中央エレベーター横の階段を上り、四階東ナースステーションの前を通るのが最短ルートだ。
「見たかもしれない、とのことです」
「煮え切らない答えね」
今江は眉を不機嫌に曲げた。
「そう言わないでください。当直中は多くのスタッフが仮眠室に向かうためこのナースステーションの前を通るんです。逐一誰が通ったかなんて、覚えていないのが普通ですよ。さらにこのナースステーションは三階と違って、北側の病棟も担当しているんです」
「北? 北にも病棟があるの」
「はい。四階と五階は北東にも病棟が並んでいるんです。四階東のナースステーションに優秀な看護師が集められているのは、他のナースステーションと同じ人員で多くの患者さんを担当するためみたいですね。同じく北東に病棟を構える五階東のナースステーションは、四階東とは逆に、凡庸なスタッフを多く揃えて勤務にあたっているそうですよ」
「ありがとう。それじゃあ次に、五階を担当したのは」
「じ、自分です」
新崎巡査が肩をすくめながら手を挙げた。アメフト部出身の巨体に似合わぬ怯えきった態度に隣の板倉がくすりと笑った。
「五階は東西共に主に内科の病棟となっております。当直を務めた看護師とお医者さんに話を伺いましたが、答えは他の階と同じです。特別おかしなことは起きなかったし、被害者についても詳しくは知らな――」
「星野先生には会ったかしら」
新崎の言葉を遮って今江が言った。
「は、はい。内科医局の後期研修医星野あやめ。二十六歳。女性。昨夜は内科の当直勤務に就いていました。本人に話を聞いたところ、昨夜は医局の机とナースステーション、それから仮眠室の間を移動した程度で特別疑わしいところは何も――」
「星野先生は、被害者について何て言っていた」
「い、いえ。何も」
「何もって何よ。一文字一句違いなく言いなさい。星野あやめは、下川仁について何て言ったの」
「ただの同期。よく知らないと」
「それ、大嘘」
今江は初芝の椅子を小突いた。初芝は立ち上がると、頭の後ろを掻いてから口を開いた。
「さる情報筋から得た情報ですが、内科医の星野あやめは、三週間前の月曜日、被害者に呼び出され、ファミリーレストランで席を共にしています」
「それは本当ですか」
新崎が大きな手で首筋をなでながら訊ねた。周りの刑事たちは好奇に満ちた目で初芝を見つめている。
「本当です。本人も認めました。星野あやめは下川仁と無関係ではなかった。星野は下川に呼び出され、彼女が参加した『会議』について情報を引き出そうとしていました」
「『会議』? そりゃ一体何ですか」
「わかりません。ただ、どうも星野さんは外科医局の雲仙教授にとって都合の悪い事実を把握しているようです」
「星野あやめは内科医です。どうして外科医が関わるのですか」
「それもわかりません。つい先ほど、わたしと今江さんが星野さんから『会議』について訊き出そうとところ、雲仙教授が飛んできて、面談を強制的に終わらせてしまいました」
「星野あやめと雲仙教授。怪しいですね。雲仙教授に昨夜のアリバイはあるのですか」
「自宅にいたらしいわ。本当かどうか知らないけど、院内のカメラを調べりゃわかるでしょ。雲仙の姿がなく、朝方に雲仙が外から入ってくればアリバイ成立よ」
今江は二度両手を叩いた。
「とにかく。雲仙と星野の両名から目を離さないで。たぶん、何らかの形で二人は事件に関わっているわ。それじゃあ次。六階は、会議室と院長室で昨夜は誰もいなかったと。それじゃ、わたしたちの番ね」
今江は初芝に目線を送った。
「はい。三階東のナースステーションですね。このナースステーションでは、第一外科と第二外科の入院患者さんが収容されている病棟を担当しています。被害者の下川仁が最も頻繁に出入りしていたのがこのナースステーションで、もちろん昨夜も当直の看護師たちにその姿を確認されています」
初芝は昼までの捜査で得た情報を刑事たちに伝えた。下川抜きで行われた腸閉塞の緊急手術。二つの外科の上下関係。第二外科の吸収を望む第一外科。篠栗看護師が教えてくれた下川の悪評。二人の看護師が見た下川の行動。挙動不審な糸島研修医。そして、コリンズ・竜一の公言された殺意。
「なるほど。コリンズって医師だけが唯一被害者を殺す動機を持っているわけですね」
門脇は貧乏ゆすりをしながら発奮した声をあげた。
「酒の勢いで漏らしたとはいえ、常日頃から心の中で思ってなきゃ口にするはずありませんよ」
「だけどドクターコリンズは、昨夜はアリバイがあると主張している。門脇、このあとドクターコリンズのマンションに行って、監視カメラのデータを確認してきて」
「承知しました」
「今江さん。もう一度看護師たちが見た被害者の行動を確認させてもらえますか」
「わかった」
今江は壁に付いたホワイトボードにペンを走らせる。
・十二月一六日 二三時三〇分。
三階東ナースステーションでカルテ閲覧。二三時四八分までの間に退席。
(篠栗看護師証言)
・同日 二三時四八分。
二階西ナースステーション前を通過。渡り廊下を通り、健診センターへ。
(泗水看護師証言 監視カメラデータ)
・十二月一七日 〇〇時一〇分
渡り廊下を通り、健診センターから本館へ。
(監視カメラデータ)
・同日 〇〇時一〇分から数分以内。
三階東ナースステーションで読書。
(篠栗看護師証言)
・同日 〇〇時三〇分。
ナースコール対応のため、三〇六号室長峰氏のもとへ。睡眠導入剤を渡す。
・同日 〇〇時五八分頃。
四階仮眠室へ移動。
(篠栗看護師、谷岡看護師証言)
・同日 〇二時三〇分。
三階東ナースステーションにて読書。
(篠栗看護師、谷岡看護師証言)
・同日 〇二時三〇分~四五分。
三階東ナースステーションにて、回覧資料を閲覧、サイン。
(篠栗看護師証言)
・同日 〇二時四十五分以降。
三階東ナースステーションを退室。
(篠栗看護師、谷岡看護師証言)
・同日 〇二時五八分。
渡り廊下を通り、健診センターへ。
(監視カメラデータ)
同日 〇三時二〇分。
・谷岡看護師PHSにTELL。応答せず。
(谷岡看護師証言 被害者PHS着信履歴確認済み)
同日 〇七時三〇分。
・健診センター二階 待合室にて遺体発見。
(榊原恵証言)
「以上が今のところ判明している被害者の昨夜の行動ね。橋本と新崎は署に戻って、証言から得られた被害者の行動がカメラのデータと一致しているか確認して。骨の折れる作業よ。署内で暇そうにしている人を見つけたら問答無用で手伝わせなさい」
「わかりました」
「お任せください」
「板倉は地取り(現場付近での聞き込み)をしてる西崎たちと合流して。門脇は一度現場に戻って、鑑識の様子を見てきて」
「今江さんたちはどうしますか」
「まず病院入り口の警備員に話を聞いてくるわ。そのあと昨夜ナースコールを押した患者さんに話を聞きに行く」
「患者さんとの接触は病院長に禁じられてますけどね」
初芝が破顔した。それに応えず、目頭を抑えながら今江は大きく伸びをした。
「それから、一度データセンターにも行くわ」
「データセンター? 岡からまだ聞きたいことがあるんですか。あいつはもう家に帰しましたよ」
板倉の目線がきょろきょろと泳ぐ。岡への聴取に何か落ち度があったのではと不安なようだ。
「岡さんと話したいわけじゃない。ま、大したことじゃないから気にしないで」
「それから秋月医師との約束もお忘れなく」
初芝の腕時計は午後二時三十分を指していた。