幕間D
籐藤との通話を終えた法律は、細い指を動かして通話履歴を開いた。軽快なダイヤル音を聞きながら、さて開口一番にどんな罵声が飛び出してくるのかと身構えた。
ダイヤル音が途切れる。談笑の声がBGMとして聞こえてきた。
「あ、もしも……」
通話の終わりを告げるツーツー音。
口の中に取り残された『し』を吐き出しながら、通話終了の画面表示を法律は見つめた。
「まぁ電話に出てくれただけでも合格点かな。いや、合格だけど正解じゃない。正解じゃないと意味がない。意味がなければ為しえない。為しえなければ仕様がない。仕様がなければ破滅のみ。とりあえずリダイアル」
度重なるリダイアルの末にやっとこさ電話は繋がった。血のつながった妹との心のつながりを実感した法律ではあったが、電話口から聞こえてきた声は妹のものとは似ても似つかぬ男の声だった。
「あの、もしもし」
「あれ。どなたですか。まさかの間違い電話。まいったな。三十八回もリダイアルしたのに」
「三十八回!?」
「わ、そんな大声をあげないでくださいよ。三十八回なら少ない方です。前回は百八回もかかったんですから」
「煩悩の数と同じだ」
「人間の煩悩は百八では済まないと思いますけどね。で、そちらはどなたです。妹に代わっていただけますか」
「あぁ、失礼しました。わたし、山吹医科大学附属病院の岸と申します」
「岸さんですか。これはどうも。いつも妹がお世話になっております」
「はい、それであの。妹さんはいま目の前にいるのですが、わたしが休憩室に入ってくるなりスマホを渡してきまして、電話がかかっていたので出た所存です」
「それはそれはご迷惑をおかけします。実はそちらの病院で今朝殺人事件が起きたと聞きましてね。心配になって妹に電話をかけたわけですよ」
「ご存じでしたか。そうなんですよ。といっても死体が発見されたのは妹さんがいる本館ではなく、隣の健診センターですがね。ぼくたち職員もまだ詳しい話は聞いていないんです」
「恐縮ですが何とかして妹を通話口に戻してもらえますか」
「む、無理です。今も不動明王みたいな形相でスマホを睨んでいるんですよ。スマホを手渡したりしたら、ぼくの右手ごとはたき落とされそうだ。一回電話を切っていいですか。あとはお兄さんで何とかしてくださいよ」
「あ、あ、お兄さんとは何ですか。ぼくは妹以外にお兄さんと呼ばれる筋合いはありません」
「兄妹そろってめんどくさいなぁ」
「ではめんどくさいついでにお願いですが、岸さん、ぼくがこれからお伝えする言葉を妹に伝えてもらえますか」
「伝えるだけでいいのですね」
「いえ、さらに妹の返事をぼくに伝えてください」
「めんどくさい伝言ゲームだ!」
「さささ。貴重な休憩時間を浪費させるわけにはいきません。ちゃきちゃきいきましょう」
一度大きく咳払いをし、テーブルの上に置かれた緑茶でのどを潤してから法律は口を開いた。
「では岸さん。お願いします。『目星はついているのか』」
「目星? えっと……」
電波の向こうで岸と妹の声が聞こえる。間接的とはいえ、こうして実妹とコミュニケーションがとれることに法律は大きな満足感を得ていた。
「あの、『電話切るから』だそうです」
緊張に満ちた声で岸は言った。電話の向こうでは必死に額の汗を拭っているに違いない。
「やれやれ。質問と答えがかみ合っていませんね。そしたら岸さん、こう言ってください。『事件についてどの程度知っている』」
「はい。『事件についてどの程度知っているか』ですね」
「お尻の『か』はいりません」
「細かいなぁ。……はぁ。『部署が違うから詳しいことは知らない』だそうです」
「なるほどね。それじゃこうだ。『知りたい?』」
「『うるさい』だそうです。こんなに口の悪い妹さんは始めて見ましたよ!」
「猫をかぶってるんですよ。今後とも仲良くしてあげてくださいね。はは。そんな罵声でへこたれるぼくではありません。妹の口から発せられる全ての言葉は、ぼくの鼓膜で『愛している』に変換されますから」
「都合のいい耳ですね」
「それじゃ次はこうだ。『この事件は少しばかり厄介だ。たぶん、まともな思考じゃ解決できない』」
「は? はぁ」
法律の奇妙な言葉に困惑しながらも、岸は伝言ゲームを遂行してくれたらしい。岸は法律にこう伝言した。『関係ない』。
「『そうだね。ぼくたちには関係のない事件だ。関係ないからこそ、協力してあげて欲しい。警察の人たちが誤った道に進んでいると思ったら、助けてあげて欲しいんだ』」
「『厄介だなんて、どうしてわかる』だそうです」
「『これはただの直観だけど、覚えているだろう。ぼくの直観は、ただの直観ではすまないんだ』」
たっぷり十秒はあろうかという沈黙。
「あの、無言です。返事はありません」
「そうですか。それじゃあ最後にお願いします。『何か困ったことがあったら、お兄ちゃんに言うんだよ』」
岸の声が回線の向こうで遠ざかる。乱暴にスマートフォンを掴む音が鼓膜を貫き、そして最後に、『死ね』という言葉が法律の脳を突き刺して兄妹の会話は終わった。