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第四章

 1

 「難しく考えることはありません。犯人は渡り廊下を通らなかった。ならば犯人は別のルートで現場に侵入した。単純明快な論理です」

 「でも、聞いたでしょう」

 今江はしかめっ面を天井に向けた。

 「一階の出入り口は全て施錠されていた。唯一の出入り口は二階の渡り廊下だけ」

 廊下の壁に背中を預けて並ぶ二人の前を、赤い顔の子どもを抱きかかえた母親や、松葉杖をついた学生、老人の乗った車いすを押す看護師などが通る。一階の中央エレベーターホールは、院内でもっとも人の往来が多い場所のようだ。

 「鍵がかかっていたから入れない。ならば、鍵を開ければいいんです。おっと。そんな怖い顔をしないでください。わかってますよ。病院の鍵の管理がそんなずさんなはずがないと言いたいんでしょう。だからそれを今から調べに――」

 「電話」

 今江はスマートフォンを取りだした。

 「もしもし。事務課の五反田です」

 「今江です」

 「大変遅くなってしまい申し訳ありません。昨夜の当直者のリストが完成しました」

 壁にかかった丸時計を見上げる。十時五分。たかだか五分の遅れを『大変』なる言葉で修飾するのか。

 今江と初芝は五反田がいる事務課へと向かった。事務課は中央エレベーターホールの南側にある、受付会計カウンターの右手に隣接していた。

 事務机が並ぶ殺風景な部屋の中、パソコンの前でチェック柄の事務服を着た女性たちが無表情でキーボードを叩いていた。

 五反田は事務課の奥にある席で二人を待ち構えていた。ごしごしとジャケットに手のひらをこすりつけてから、机の上に置いてある一枚のリストを今江に渡した。リストには職員の名前、性別、年齢、所属部署と職名が記載されていた。

 「リスト上のほとんどの職員はまだ院内に残っています。ですが、何人かの身勝手な職員は勝手に退社してしまったようです。本当に申し訳ありません」

 「お聞きしたいことがあるのですが」

 今江の背後から初芝がすっと身を乗り出した。

 「健診センターの鍵はどこにあるのですか」

 「事件現場の鍵ですので警察の方にお預けしているはずですが」

 「あぁ、そうではなくて」

 初芝は自分の額を平手でたたいた。ちなみに現在健診センターの鍵は五反田の言う通り、現場にいる制服警官が預かっている。

 「普段、健診センターの鍵はどこで管理されているのですか」

 「そういうことですか。健診センターを含め院内の鍵はすべて事務課が管理しております。必要なときは我々に申請していただき、貸し出す流れとなっているわけです」

 五反田は壁にかかったキーボックスを開けた。中にはタグをつけた鍵が並んでいた。

 「ディンプルキーですね。合鍵はありますか」

 「二本あります。合鍵は全てわたしの机の中にある小型金庫に収まっていますよ。といっても、合鍵を使う機会なんて滅多にないので、金庫も久しく開けておりませんけどね」

 初芝は事務課長に頼み込んでその金庫の中を確認させてもらった。暗証番号型の金庫を開ける。たしかに合鍵は二本そこにあった。

 「これまでに鍵を紛失したことはありませんか」

 「ありません。ディンプルキーの合鍵を作る場合、メーカーに発注をかけたりと手間と時間、何よりも費用がかかります。院長の耳に入ったらと思うと、ゾッとしますね」

 「今朝も健診センターの鍵はキーボックスの中にあったんですよね」

 「もちろんです。榊原さかきばらさんにお渡ししたのはわたしです。鍵は開錠と施錠が完了したら事務課に返してもらう規則となっております。昨日の朝も榊原さんにお貸しました。榊原さんはセンターの開錠が済むと、鍵を返しにここに再びいらっしゃいました。夜はまた別の職員が鍵を借りにきて、施錠後すぐに返しにきました」

 「この鍵を夜中のうちに盗み出すことは可能ですか」

 五反田は顔を引きつらせ、くちびるの端から微かに息を漏らした。

 「可能ですがナンセンスです」

 「ナンセンス?」

 聞きなれない横文字に初芝の顔が傾いた。その顔を今江が両手で掴んで縦に戻す。

 「監視カメラでしょ」

 今江は親指を背後に向ける。初芝は事務課入口のドア枠に手をついて外に顔を突き出した。

 「あ」

 斜めに傾けた顔から呆けた声が発せられる。事務課の入口を向いた監視カメラが天井に設置されていた。

 「たしかにキーボックスから鍵を盗み出すことは可能です。しかし、この部屋の入り口は二十四時間カメラが録画しておりますので、データセンターの記録を確認すれば誰が下手人かはすぐにわかります」

 「なるほど。可能だけどナンセンスとはそういうことですか。それじゃあ早速映像の確認を……するけど、たぶん無駄でしょうね」

 初芝は両手で自分の顔を覆った。

 「犯人がこのキーボックスから鍵を盗んだとしたら、それは犯人がこの病院について熟知していることになる。しかし犯人が熟知しているなら、この事務課の入り口に監視カメラが設置されていることも知っているはず。うむむ。でしたらどうでしょう。昨夜このキーボックスの中に入っていた鍵は健診センターの鍵ではなかった。犯人は鍵をすり替えておいたんですよ」

 「鍵はどのタイミングですり替えられたの」

 今江は両腕を組みながら訊ねた。

 「それはもちろん、夜に施錠してから事務課に返すまでの間に――」

 「あの、素人考えで恐縮ですが」

 戦々恐々といった体で五反田はつぶやいた。今江は片手を突き出し、首を振った。

 「わかっています。そもそも犯人は合鍵を使って一階から侵入したはずがない。そうでしょう」

 今江の言葉に五反田は深くうなずき、初芝は『は?』と裏返った声をあげた。

 「今江さん。それはいったいどういう意味ですか。一階からの侵入が不可能と認めたら、それじゃあ犯人はどこから来たっていうんですか。犯人が二階の渡り廊下を通らなかったことはさっき確認したでしょう」

 「え。犯人は渡り廊下を通らなかったんですか」

 五反田が驚嘆の声をあげた。後ろにいる事務課員たちも怪訝な視線でこちらを見つめている。

 「すみません。捜査に関してはお話しできないこともありますので」

 今江は初芝の尻を平手で叩いた。



 2

 「なるほど。そういうわけですか」

 健診センター入り口前。初芝は自分の尻をさすりながらうんうんとうなずいた。

 規制用テープを超えて、渡り廊下の方へと近づく。渡り廊下の下には一台の監視カメラが取り付けられ、健診センター一階の正面入り口とその横にある職員用の入り口を向いていた。

 「健診センターの入り口と職員用の入り口はカメラで監視されている。健診センターなんて特異な場所で殺した以上、犯人はこの建物に通じていると考えて当然でしょ。そんな犯人が監視カメラに堂々と映りながら扉を開けて入ってくるなんてありえないわ」

 今江は近くを通った天神署の若手刑事にゴディバの紙袋をわたし、署に帰ってハードディスクの中身を確認するよう伝えた。

 「院内だけじゃなく、外にもカメラはあるわけですね。教えてくれないなんてずるいじゃないですか」

 「わたしだって教わったわけじゃない。自分の目で見て気づいたの」

 「健診センターには裏側にも勝手口があります。犯人はそこから入った可能性もありますね」

 今江は首をふった。

 「健診センターの外部北東にも監視カメラが二台設置されているわ。一台は南東を向いて、本館と健診センターの間を監視している。もう一台は北東を向いて本館裏側を監視している。ちなみに、健診センターと南側にある旧館の間の通路は、健診センターの正面入り口を監視しているカメラの撮影範囲内にある。カメラの目をかいくぐって裏の勝手口に回り込むのは無理でしょう」

 健診センターの南側に建つ三階建ての建物。山吹医科大学病院が地域医療の中枢として芳声嘉誉ほうせいかよを受けるよりも以前、この旧館は本館という名前で呼ばれ稼働していた。現在病院本館が建つ敷地東部には当時民家や公園が並んでいた。山吹医科大学附属病院は長年の交渉を経てそれらの土地を確保し、そこに新世代の医療を旨とする本館を新設したのだ。

 初芝は駆け足で健診センターの周囲をぐるりと回り始めた。今江は制服警官から健診センターの鍵を借り、試しに正面入り口と職員用の入り口の扉の鍵穴に差してみた。カチリと音を立てて鍵がかかった。鍵を制服警官に返すと、初芝が肩を降ろしながら戻ってきた。

 「わかりましたよ」

 ピンと肩が飛び上がった。

 「旧館の裏側を通るんです。病院敷地内入口にあるガードマンの守衛室の後ろから南側の建物の裏側に入れます。もちろん鍵をどうやって手に入れたのかその謎は残りますが」

 「仮にそうだとして、犯人はどこから来たの」

 「え」

 今江の問いかけに初芝はハチドリの羽ばたきのような速度で瞬きを繰り替えした。

 「そりゃルートはいくらでもありますよ。例えば病院入り口のゲート……は守衛室があるから無理か。あそこには監視カメラもあったな。それじゃあ本館。本館の入り口から……て、あそこも監視カメラがあるのか。それじゃあ南側にある立体駐車場はどうです。犯人は立体駐車場の中で人気がなくなるのを待ち、夜になって動き出したのです」

 病院敷地内、本館の正面には三階建ての立体駐車場がある。

 「立体駐車場の出入り口にも監視カメラがあるわ」

 今江は静かに首をふった。

 「それから、立体駐車場の外側北西の角にもカメラが一台あって、これは本館と立体駐車場の間を監視している。ちなみに立体駐車場の西側からこっそり抜け出したと考えるのも無理よ。駐車場の西側の壁には、守衛室と旧館の正面を監視しているカメラがあるわ」

 「それじゃあ病院を囲む塀の上から。あぁ、わかってます。わかってますよ。そんな怖い顔をしないでください。三メートル近い高さの木塀の外、病院の周囲は民家やコンビニが並び、外部から脚立を使って病院敷地内に侵入することも不可能」

 「はい。よくできました」

 桃色の手と無色の表情で今江は初芝の頭を撫でた。整髪料で固めた黒髪が乱れ、初芝は渋い表情を見せた。

 「監視カメラに雁字搦かんじからめ。本当に嫌になるわ」

 「今のところ犯人がどこから現場に侵入したのかはわからないというわけですね。念のためデータセンターに戻って、健診センターの近くにあるカメラの映像を確認させてもらいませんか」

 「そうね。それから、このリストに載っている人たちに話を聞きに行くことにしましょ」

 データセンターに入ると、二人はミキに頼み、健診センター入り口を向いた監視カメラと健診センター北東側にある二台の監視カメラのデータを再生してもらった。

 「お、誰か来ましたよ」

 カメラの時間は二二時〇五分。健診センターと本館の間の通路を監視するカメラの映像に懐中電灯を持った男が映った。つば付きの帽子を被ったその男は用心深く周囲を見回している。

 「これは警備員さんだよ。警備員さんが夜中に異常がないか巡回してるんだ」

 ミキは羊羹をほうばりながらモニターを指さした。彼女の言う通り、モニターの男は角ばったジャケットを着た警備員だった。

 警備員の姿は本館裏側を向いた監視カメラにも映っており、その姿は奥へ奥へとゆっくり進み、やがて本館の裏側、敷地内北東に広がる闇の中に消えていった。詰所の位置から推測すると、時計回りで巡回を行っているようだ。

 「この警備員さんからも話を聞く必要がありますね。やることがいっぱいだ」

 耳をかきながら初芝が言った。



 3

 「刑事さん。こっち、こっちです」

 ナースステーションの奥から篠栗しのぐりさおりが出てきた。

 三階東ナースステーション。被害者の下川しもかわひとしが所属していた第二外科の患者の多くは、三階東側にある病棟に入院しており、その病棟の管理を任されているのがこのナースステーションだ。

 「どうもお待たせしてすみません」

 今江は頭を下げた。ナースステーションの中には十人に満たない数の看護師たちがおり、興味の色に染まった目で刑事たちを見つめていた。

 「昨夜のことをお聞きしたいのですが、篠栗さんの他に夜勤をされていた看護師さんはいらっしゃいますか」

 「いますけど、あの。取り調べって一人ずつ行うんですか」

 「取り調べではありません。ちょっと話を聞かせていただくだけです。ただまぁ、そうですね。できれば一人ずつお願いします」

 「でしたら先にわたしからお願いします。もう一人の谷岡たにおかなんですけど、いま隣の休憩室で寝てまして、できるだけ寝かせてあげたいんです」

 要望通り篠栗から先に話を聞くことになった。

 篠栗に案内され、今江と初芝は面談室Aという部屋に入った。四角いテーブルと丸みを帯びたイスが中央に置かれた、猫の額ほどの広さの小部屋だ。隅に置かれた観葉植物が妙に圧迫感を発していた。

 今江は椅子に座りテーブルの上で両手を重ねた。横目で初芝が手帳を取り出したことを確認し、口を開く。

 「昨日の夜、何かおかしなことは起きませんでしたか。普段とは違うこと。普段とは違う挙動をとられた方だとか、なんでも結構です。思い当たることがあったら教えてください」

 今江と向き合って座る篠栗は眉をひそめた。

 「下川くんが消えたこと以外は何も。それ以外はいつもの当直と変わりませんでした。ナースコールの対応が何件かと、緊急手術が一件ありましたけど、それも秋月あきつき先生が難なくオペしてくれましたし」

 「どんな手術だったんですか」

 「複雑性のイレウス。腸閉塞ちょうへいそくです」

 「腸閉塞。名前はよく聞きますが、具体的にどんな病気なんですか」

 初芝が訊ねた。

 「腸がねじれてその腸自身を強く締め付けてしまうんです。血管も締め付けることになり、血行障害から短時間で患部が壊死することもある非常に危険な疾患です」

 「怖いな。それで、昨日の手術は上手くいったんですか」

 「はい。下川くん抜きでもなんとか成功しました」

 「手術の際にメスを握ったのが秋月先生だったわけですね」

 「そうです。下川くん抜きで手術を成功させるなんて、さすが秋月先生です。助手を務めた糸島くんは初期研修医で素人同然ですし」

 「秋月先生はベテランでしょう。研修医が一人いないくらいで大げさではないですか。」

 初芝が小笑いしながら言った。すると篠栗は燃えるような目で初芝をにらみつけた。

 「馬鹿なことを言わないでください。手術には執刀医を補助する助手が最低限二人は必要なんです。執刀医の腕の問題ではありません。患者さんの命を預かるわたしたちが確実に手術を終わらせるために必要な人員なんです」

 狭い室内に篠栗の大声が反響した。驚きのあまり目を見開く初芝を見て、篠栗は我を取り戻した。

 「あの、すみません。看護師風情が生意気を」

 椅子の上に縮こまってしきりに頭を下げる。こちらが反応に困るほどの恐縮ぶりに、初芝の狼狽は加速した。

 「初芝」

 今江は初芝の尻を平手で思いっきりはたいた。初芝はうさぎのように飛び跳ね、尻を押さえながら壁にもたれかかった。

 「気を悪くさせて申し訳ありません。素人が他人の仕事に口を出すなんて、本当に失礼しました」

 今江は深く頭を下げた。それを見て壁にもたれかかっていた初芝も、慌てて頭を下げる。

 「いえ、そんな。わたしの方こそ失礼しました」

 「ただ、少し気になることもあります」

 頭を下げたまま目だけを動かして篠栗の様子をうかがう。今江は自身の推測を確信に変えるために口を開いた。

 「手術には最低限二人の助手が必要。秋月先生は他の医局にヘルプを頼むことはできなかったのですか。例えば、第一外科の当直医なんかに」

 苦虫を噛みつぶしたような表情で篠栗は黙り込んでしまった。数分の沈黙を経て、篠栗はか細い声で言った。

 「あの、これわたしから聞いたって口外しないでもらえますか」

 「約束します」

 背筋を伸ばしながら今江は言う。

 「第二外科は第一外科に、なんでしょう、上手く言えないな。頼みことができないというか、強気になれないというか」

 「消極的?」

 「消極的。そうですね。立ち向かう勇気がないんです」

 「どういうことですか」

 尻から手を離し、初芝が訊ねる。

 「以前外科医局は総合外科という看板で一つの医局に統合されていました。ですが十八年前に消化器外科を専門にしていた神原かんばら先生が、『より専門性の高い医療』を理念に第二外科を旗揚げし総合外科から独立しました。それまで総合外科のイニシアチブを握っていた、後の第一外科のメンバーはメンツを潰されたとして憤慨しました。表立って対立することこそありませんが、二つの外科医局には確かな遺恨が生まれたわけです」

 「反目しているから手術のヘルプを頼めないというわけね」

 「いえ。ちがいます」

 篠栗は両手を強く握った。

 「第二外科を独立させた神原先生は絶対的なカリスマの持ち主でした。先生がいたからこそ第二外科の旗揚げは成功したのです。だけど、十二年前に神原先生はくも膜下出血で亡くなり、第二外科の教授職はせき先生が後を継がれました。関先生は医師としての腕は神原先生から継いでいたけれど、院内政治を渡り歩く度胸と、些細なことを気にしない無神経な精神だけは継承しませんでした。第一外科からの陰口。慣れない幹部職の事務仕事。先生は精神を病み、いまは週に二、三コマ大学で教鞭をとるだけの仕事しかされていません。病院のほうにはほとんど顔を出してくれないのです。つまり、現在第二外科のトップの席は不在同然なのです」

 「しかし、それで業務は滞りなく回るのですか」

 「関先生の業務はその多くを雲仙先生が代行してくださってます」

 「雲仙。第一外科の教授先生ですね」

 「雲仙先生は心血管が専門ですが、消化器を始めほとんどの外科について一定以上の知識を持ち合わせています。第一外科の雲仙先生のおかげで第二外科が成り立っていると言って過言ではありません。ただこれは明らかに、神原先生にメンツを潰された第一外科の復讐です。雲仙先生は第二外科を吸収し、かつてのように総合外科という一つの看板の下で第二外科を支配しようと目論んでいるわけです」

 「なるほどね」

 下らない内部政治の事情を聞かされ、今江の精神は音を立てて煮えたぎり始めた。

 「第二外科は第一外科に負い目がある。だから緊急手術で人手が足りなくてもヘルプを頼めない。今の第二外科の実質的なトップは誰なのかな」

 「秋月先生です」

 「あのロンゲの若々しい先生ですね」

 初芝の脳裏で秋月の肩まで伸びる長髪がふわりと揺れた。

 「若々しいといっても四十代ですけどね。雲仙先生でもカバーできない仕事は、すべて秋月先生が担っています。秋月先生も関先生と同じで、腕は立つけど院内政治が苦手なタイプですけどね」

 「別の医局長が他局に手出しをするのは問題がありそうですね」

 今江が鼻を鳴らしながら言った。

 「警察組織じゃあり得ない。あり得ないというか、そんな越権行為はトップが許しません。落合おちあい院長は雲仙先生に何か言わないのですか」

 篠栗の瞳が黒く笑った。

 「十八年前、神原先生が第二外科を旗揚げした時、雲仙先生は助教授の職に就いていました。当時の総合外科を修めていた教授は落合院長です」

 わかるでしょう、と篠栗は続けた。

 「神原先生にメンツを潰されたのは落合院長なんです。外科の再統合を誰よりも願っているのもまた、落合院長なんですよ」



 4

 「それじゃあ次に、下川さんのことを聞かせてくれるかしら。篠栗さんは下川さんとどんな関係なの」

 今江が訊ねると、篠栗は眉をひそめた。

 「同僚です。それ以上でも以下でもありません。プライベートでいっしょに出かけるなんてことも一度もありませんでした」

 「事務課からいただいたデータで篠栗さんの年齢を確認させていただきました。三十歳。下川さんは二十七歳だから、院内では近い方ね。下川さんが老け顔だから、あなたが年上だとは思えないわ」

 「よくみんな下川さんは平成生まれに見えないって言ってましたよ」

 「平成一桁世代同士、コミュニケーションはよくとられていたのかしら」

 「いえ、それは。どうでしょう。下川くんの場合は世代とか関係なく、特別仲良くしていた人はいないと思います。彼、暗いんです」

 「暗い、ね」

 「勉強家ですし、腕もたしかに立ちます。悪い人ではないのですが、とにかく無口な人間なんです。医者は患者と言葉を交わして、患者さんの気持ちを汲み取らなければなりません。病気に対して怯えているのかいないのか。どんな治療方法を望んでいるのか。この点に関しては、下川くんはまだまだ医者として未熟だったと言えます。同僚であるわたしたちともろくに言葉を交わしてくれないんですけど、特別トラブルもありませんでした。無口で、一人で、何もかもそつなく解決する。そんな医者でした」

 「彼を嫌っている人はいましたか」

 「嫌っている人はいません。というより、()()()()人はいました。嫌いなんじゃなくて、好きじゃないんです。仕事はできるけど、立ち居振る舞いは幽霊のように静か。患者さんからは時々冗談交じりでクレームがありました。あの研修医は不気味だ。担当医を変えてもらえないかって」

 「殺したいほど憎んでいるひともいなかったわけですね」

 「少なくともわたしが知る限りでは」

 今江は小さく頷き、仕切り直しのつもりで一度大きく鼻で呼吸をした。

 「次に、昨日あなたが見た下川さんのことを教えてもらえるかしら。いつ、どこで、誰といっしょに、何をしていたのか。自販機でコーヒーを買っていたとか、男子トイレから出てきたとか、そんな些細なことでも構いません。彼に関することは全て教えてください」

 「わかりました。まずわたしたち看護師は、患者さんに対応する時以外は基本的にナースステーションに詰めていて、当直医の先生たちは仮眠室で寝ていたり、ナースステーションや休憩室、同じ階にある医局で自習をしたり論文を書いたりと結構自由に動き回っています。だいたいは仮眠室で寝てますけどね」

 「あなたも昨日はナースステーションにいたわけね」

 「はい。それで、そう。十一時半を回ったころでしょうか。ナースコールから戻ってくると、下川くんがいました」

 「具体的に、どこで何をしていたの」

 「ナースステーションの奥にある一人がけのテーブルでカルテを眺めていました。当直の時はよくこのテーブルで作業していましたね。下川くんの特等席です。特別声もかけず、わたしはカウンターの内側で看護記録を書いたり、翌朝の検査の準備をしていました」

 「十一時半ね。それでそのあと下川さんは」

 「わかりません。気づいたらナースステーションから消えていていました。時計を見たらちょうど日付が変わるタイミングだったことは覚えています。十一時半から十二時の間に下川くんは健診センターに向かったわけですね」

 渡り廊下の手前にあるナースステーションで当直業務をしていた泗水しすい看護師は、十二時前に中央エレベーターの横にある階段から下川が降りてきたと証言している。下川は三階東ナースステーションを出ると、中央にある階段を使って二階まで降りてきたと思われる。

 「その後は?」

 「十二時を過ぎたころ、わたしがトイレからナースステーションに戻ってくると、さっきと同じ席に座って今度は雑誌を読んでいました。それから十二時半ごろに306号室の長峰さんからナースコールがあって、下川くんが対応してくれました」

 「一人で?」

 「はい」

 「長峰さんって方はどうしてナースコールを押されたのですか」

 「眠れないから睡眠導入剤が欲しいと。入院患者さんの中には、昼間体を動かさないから夜眠れないって人が多いんですよ。長峰さんは毎晩のように薬を催促されるんです」

 「薬を処方するのはお医者さんじゃなければいけないのですか」

 「看護師でもできます。ただ、うちのナースステーションには下川くんが座っていたテーブルの横に薬品棚がありまして、睡眠導入剤を取り出してそのまま自分で病室に向かってくれたわけです」

 「長峰さんにお話を伺うことは可能でしょうか」

 今江が訊ねると、後ろで初芝が『え』とつぶやいた。

 「もちろんです。ご高齢の方ですけど、頭はしっかりしているので話は聞けるはずです」

 「ちょっと、いいんですか」

 今江の耳元で初芝は言った。

 「院長先生から、患者には接触するなと言われたじゃないですか。もしバレたらめんどうなことになりますよ」

 「バレなきゃ問題ないでしょ」

 「バレませんかね」

 「何とかなるでしょ。それで、長峰さんの病室から戻ってからは」

 今江は篠栗に声を向けた。

 「同じ席に戻って雑誌の続きを読んでいました。でも数十分後に仮眠室に行きましたね」

 「仮眠室へ行ったのは確実ですか」

 「絶対とは言えません。ただ大きなあくびをしながら立ち上がったので、『仮眠?』ってわたしが尋ねたら『はい』って答えました」

 「なるほど。揚げ足取りをしてすみません。続きを」

 「下川さんは二時半ごろにナースステーションに戻ってきて、先ほど健診センターでもお話しした通りです、二時四十五分ごろまで同じ席で解剖書アトラスを読んでいました。死亡推定時刻は午前十二時時から前後一時間でしたっけ。あり得ませんよ。下川君は午前一時以降も、確かに生きていました」

 篠栗は語気を強めて今江を見つめた。今江は小さくうなずくにとどまった。

 「それで、その後は」

 「それでおしまい。その後はいつのまにかナースステーションから消えてしまいました。行き先は健診センターでしょう。先ほどカメラの映像で確認した通りですよ」

 「なるほど。参考になりました」

 今江と初芝は頭を下げ、篠栗に当直をしていたもう一人の看護師を呼ぶよう依頼した。



 5

 篠栗看護師が部屋を出て数十秒後。今江は立ち上がり、ドアを開いた。

 「お花を摘みに行ってくる」

 廊下に出て、ナースステーションへ向かう。十メートルほど先を篠栗が同じ方向へ歩いている。しきりに首をかしげる篠栗のもとへ駆け寄り、トイレの場所を聞こうとしたが、病室から出てきた車いすの老人に道をさえぎられる形になったので諦めた。

 篠栗は昨日いっしょに当直に就いたもう一人の看護師を呼びに行っている。二人目の証人から何か有用な情報を聞き出せるかという期待と、はたまた更なる奇怪な新事実が飛び出すのではないかという不安が今江の心の中で相克していた。

 篠栗はナースステーションの手前で角を右に曲がった。先ほど篠栗はナースステーションのとなりに休憩室があると言っていた。次なる証人はそこで当直明けの身体を休めているらしい。

 好奇心が今江の心を揺すった。今江はナースステーションの看護師たちに気づかれないよう角を曲がる。数メートルの短い廊下の左手に、開け放たれたスライド式のドアがある。ドアの向こうには数十センチの横幅で白いカーテンが垂れている。音を立てないようそっとカーテンを開いた。

 狭い通路の横に天井まで伸びる巨大な棚が置いてある。化粧品や乾電池、工芸品や医療用テキストなど多種多様なものがごちゃごちゃと散らばっていた。その棚の向こう側がひらけた空間になっているようで、そこから二人の女性の声が聞こえてきた。

 「ほら、起きて。刑事さんが待ってるから」

 篠栗の声だ。

 「んんん。起きます。すぐ行きます。あぁ、もう十時半。どこに行けばいいんですか」

 「面談室A。中年の女性の刑事さんと若い男の刑事が待ってるから」

 「若い男とな。どうです。先輩のお眼鏡にかないましたか」

 「ルックスはまぁまぁ。けど中身はポンコツかな。ほら、職員証忘れないで」

 「ありがとうございます。どんなこと聞かれましたか」

 「下川くんのことがメイン。昨日の夜下川くんが何をしていたかとか、どんな人間なのかって聞かれた。嫌っている人や殺意を抱いている人はいないかだって」

 「コリンズ先生のことですね」

 今江の鼻がすんと鳴った。

 「馬鹿なこと言わないで。竜一(りゅういち)くんは関係ないでしょう。昨日は当直じゃなかったし。そりゃわたしだって下川くんが殺されたって聞いて、最初は竜一くんのことを疑ったけど」

 「ですよね。でも病院にいなかったんだからあり得ないか。まぁ警察のことだから既に目はつけてるんでしょうね。日本の警察は優秀だってよく聞きますもん」

 「そうなの? それじゃあ()()()()も警察にいろいろ聞かれるのかしら」

 「ある意味じゃ星野先生がこの話の中心人物ですからね」

 今江の目の前で棚が揺れ、最上段に乗っていた制汗剤のスプレーボトルが落ちてきた。乾いた音が狭い室内に反響する。今江はすぐさまその場をあとにした。

 トイレから戻ると、面談室Aの中には手持無沙汰に貧乏ゆすりをする初芝と、りんごのような赤い頬をした若い女性が待っていた。

 ワンサイズは大きいだろうニットのセーターを着たその女性は、椅子を後ろに押し出して勢いよく立ち上った。

 「初めまして。山吹医科大学附属病院看護科所属の谷岡たにおかです。よろしくお願いします」

 「天神署の今江です。お疲れのところ申し訳ありません。これが終わったら帰っていただいて構いませんので」

 谷岡は立った時と同じく勢いよく座りなおすと、ひざの上で両手を重ねた。

 「若いわね。看護師になって何年目?」

 谷岡の緊張を読み取り、今江は言葉遣いをフランクに変えた。

 「一年目です。四月から実際に仕事が始まって、五、六、七、八、九、十、十一、十二わぁ、もうすぐ九か月になるんだ。まだまだ慣れないことばかりで大変です」

 「そう。こんな事件が起きて戸惑っているでしょう。緊張せず、リラックスしてちょうだいね」

 「はい。あの。なんでも訊いてください。なんでも答えますから」

 「それじゃあ早速。昨日、何か変わったことだとか、いつもと違うことは起きなかった?」

 谷岡看護師は赤いほほに手を当てた。

 「ありません。下川先生が殺された以外は、いつもと変わったことなんて別に」

 この点は篠栗と同じだ。今江は深く追求することなく話題を変えた。

 「次に下川さんについて教えて。昨夜は下川さんにお会いした?」

 「はい」

 「それじゃ。あなたが見た下川さんの一挙手一挙動を全部教えてちょうだい」

 唸り声をたっぷり十秒ほど鳴らしてから、谷岡は語り始めた。

 「十一時は回っていたかな。わたしがカウンターでうつらうつらしながら作業をしていたら、うしろから音が聞こえて、振り返ったらいつの間にか下川先生が定位置でカルテを見ていました」

 「定位置ってのは奥にあるテーブルのことね」

 谷岡はうなずいた。

 「それで、十二時前になったら、ふらりとナースステーションを出て、階段の方に行きました」

 三階には階段が三つあるが、ナースステーションから見える階段は、目の前にある中央エレベーターの横にある階段だけだ。

 「十二時を回ったころ下川先生は戻ってきました。ナースステーションに入ると、雑誌を読み始めましたね」

 「ふむふむ」

 初芝は手のひらをスラックスでこすった。

 「そのあと十二時半に患者さんからナースコールがありました。睡眠導入剤を渡すだけだったのにわざわざ下川先生が対応してくれたんです。下川先生がナースコールの対応に向かうのとほぼ同じタイミングで、わたしは休憩に入りました」

 「休憩ですか」

 篠栗からは聞かなかった情報だ。

 「十二時半から十三時まで、当直の看護師がひとり休憩をとることになってるんです。昨日はわたしが休憩をいただきました。ナースステーションのとなりにある看護師用の休憩室に行って、中のソファーで仮眠しました。眠っていたら、休憩室のドアを叩く音が聞こえて、下川先生が声をかけてくれたんです」

 「声を?」

 「下川先生は仮眠室に行く前に必ず声をかけてくださるんです。昨日も『下川です。仮眠室に行ってきます』とだけおっしゃいました」

 「声をかけてきた時間はわかるかしら」

 「一時数分前です。そのあとすぐに、ナースステーションに戻りました。下川先生は二時半ごろに仮眠室から戻ってきました。またいつものテーブルについて読書をしていましたけれど、いつの間にかいなくなっていて、それからは見ていません。緊急手術が入ったので、PHSで呼び出したんだけど出てくれなくて。あの頃先生は既に亡くなっていたんですね」

 谷岡の目撃証言は、篠栗のものと齟齬をきたしてはいない。口裏を合わせたと訝しむことができないわけでもないが、それをする理由は見当たらない。

 今江は閉じた口の中で奥歯を噛みしめた。

 谷岡の証言もまた、死亡推定時刻と矛盾している。午前零時前後一時間以内に死亡した被害者は、午前一時以降にその姿を確認されているのだ。

 「谷岡さんは下川さんとは親しかったのですか」

 「親しいとは言えません。仕事以外で会話したことなんて一度もないし、冗談の一つも聞いたことがありません」

 「下川さんの性格をひとことで現わすと」

 今江の問いかけに谷岡は小さく笑った。

 「それ、篠栗先輩にも同じ質問しましたか。答えてあげますよ。先輩は『暗い』て言いませんでした」

 「おっしゃる通りです」

 「やっぱり。篠栗さんだけじゃなく、他の人も言ってるんですよ。下川先生は暗い。愛想がない。可愛げがない。でもわたしは、そんなに下川先生のことは嫌いじゃなかったです。先生はちゃんとわたしにあいさつをしてくれましたから」

 「あいさつ?」

 今江は目を細くした。

 「はい。肩書のないヒラの看護師なんて、医師の先生たちからしたらいくらでも替えのきく存在に過ぎません。ほとんどの先生はわたしのことを路傍(ろぼう)の石程度にしか思っていなくて、わたしが挨拶をしても無視する人ばかりです。医師試験を突破したエリートだから当然ですよね」

 谷岡は悔しそうに笑った。

 「だけど下川先生は違った。下川先生は初めてお会いした時からきちんとわたしにあいさつをしてくれました。冷たい目で、冷たい口調で、それでもあの人はわたしを見てあいさつをしてくれたんです。おはようございます。おつかれさまです。お先に失礼します。休憩室にいる看護師に『仮眠室に行きます』なんてわざわざ報告してくれるのは下川先生だけですよ」

 谷岡は歯を見せて笑った。

 「もちろんわたしだけが特別ってわけじゃありません。他の看護師にはもちろん、清掃員のスタッフや自販機の補充に来た飲料会社の人にも、先生は必ず頭を下げて挨拶をしていました。確かに下川先生は暗い人です。冷たい人です。でも悪い人ではなかった。殺されていいような人ではなかったんです。礼節をもって人と接する、すばらしい医者だったとわたしは思います」



 6

 「殺されていいような人ではなかった。だけど彼は殺された。下川さんに殺意を抱いていた人に心当たりはありませんか」

 初芝は今江の声の音階が一つ上がっていたことに気がついた。

 「ありません。殺意だなんて、そんな物騒な――」

 「ミスターコリンズをご存じですか」

 谷岡の顔から血の気が引いていき、赤いほほがみるみるうちに白く染まった。

 小さく口を開けて呆けた表情をする初芝は、そろそろとテーブルの反対側に回りこみ、谷岡と顔を並べて今江を見つめた。

 「ず、ずるいですよ刑事さん。知っていたなら聞かなくてもいいじゃないですか」

 今江は立ち上がり、狭い室内を歩き回る。靴音を立てていると、この部屋に既視感を覚えた。六畳に満たない小さな部屋。簡素なテーブルに質素な椅子。そうだ。まるで取調室のようではないか。

 水を得た魚とばかりに今江の声は活力をもった。

 「コリンズ。下の名前はなんだったかしら。竜一。竜一ね。彼について知っていることを教えてもらえるかしら」

 「あの、わたしもそんなに詳しいわけじゃなくて。刑事さんはコリンズ先生のことをどこまで調べたんですか」

 「ほとんど」

 口が裂けそうなほどの微笑み。それを見て谷岡は二の腕に鳥肌を立てた。

 「だからこれは答え合わせなの。ミスターコリンズについてわたしが知っていることと、あなたが知っていること。この二つが一致しているかどうかを知りたくて訊ねているわけ。さ、正直に話してちょうだい」

 「コ、コリンズ先生はアメリカ人のお父様と日本人のお母さまを持つハーフで」

 谷岡はごくりと唾を飲み込んだ。

 「本当はアメリカの有名な医科大学に進学するつもりだったのですが、ご両親の離婚をきっかけに日本に帰国されました。高校卒業後、うちの大学に入学して、一昨年から第一外科の後期研修医に着任されました」

 第一外科。ひげもじゃの雲仙教授が支配する心臓血管外科だ。

 「それぐらいならもう調べはついてるの。それより、どうしてドクターコリンズは下川さんに殺意を抱いているの」

 「殺意だなんて、そんなつもりはないんです。ただ下川先生が殺されたって聞いて、最初に思い浮かんだのがコリンズ先生だっただけです。だって……刑事さん、コリンズ先生は昨日病院にいなかったんですよ。昨日は日勤で、早く帰ったはずです。犯人なわけが」

 「どうしてドクターコリンズは下川さんに殺意を抱いているの」

 ある種の微笑みは凶器になり得る。そんなことを初芝はいまこの瞬間に学んだ。

 「……先生は、下川先生を妬んでいたんです」

 妬んでいた。今江は口の中で小さくつぶやいた。

 「有名な医科大学の教授を父に持つコリンズ先生は、医師の家系に生まれたわけでもない下川先生の仕事ぶりが許せなかったみたいです。飲み会の席なんかでも下川先生がいないからってあることないことを周りに吹き込んで……。コリンズ先生だって十分優秀な医師なのに。患者さんの評判はものすごくいいんですよ」

 「わかるわ。わたしもよく周りの刑事から妬みの視線を受けるもの」

 今江は大げさにうなずいてみせた。

 「いつだったか、飲み会の席で言っていたんです。下川をぶっ殺したい。あんな根暗ネクラ野郎に医者の何がわかるんだって。それだけなんです。お酒の席のたわむれです。まさか本気にされないですよね」

 「残念だわ、谷岡さん」

 今江は両手を放り上げて首を振った。

 「やっぱりわたしたち警察は市民の皆様からの信頼を勝ち得ていないみたいね。テレビで報道されるたび重なる不祥事のせいかしら」

 「そんな。わたし、刑事さんのことを信頼しています」

 「そう。それならどうして本当のことを話してくれないの」

 谷岡は目を見開き、口をパクパクと動かした。初芝には彼女の顔色は白を通り越して透明になりかけているように見えた。

 「ね。それだけ話してくれたら今日は帰っていただいて結構よ。当直の仕事は大変だったでしょう。早く帰って、あったかいお風呂に入ってぐっすり眠りなさい」

 「……星野先生が、下川先生とデートをしてたって噂が流れたんです」

 「そう、やっぱりね」

 テーブルの下で今江は拳を握りしめた。

 「ご存じの通り、星野先生は当院のアイドル的存在です。若くて、綺麗で、気立てがよくて、女のわたしでも恋に堕ちちゃいそうなくらい素敵な女性です。コリンズ先生は星野先生に露骨にアプローチをかけていますが、いつものらりくらりとかわされています。デートの噂を耳にしたコリンズ先生は二人を追及したそうですが、星野先生は否定しますし、下川先生はあんな性格ですから知らんぷり。業を煮やしたコリンズ先生は、下川先生にメスを突きつけて怒鳴りつけたそうです。いえ、実際に見たわけじゃありません。これもただの噂かもしれないし。でも、下川先生と星野先生がデートをしたのは信じられないけど、それを聞いたコリンズ先生がメスを突き付けるってのは、本当だったんじゃないかって思うんです。コリンズ先生はずいぶん……」

 「ずいぶん?」

 「過激な人ですから」



 7

 「いつの間にそんな情報を仕入れてきたんですか」

 先ほどまで谷岡が座っていた椅子に着きながら、初芝はしきりに感嘆の声をあげていた。

 「そうか。お花を摘みに行くって……あれは嘘だったんですね」

 「もちろん。本当はトイレに行ってたの」

 「怖い人ですね。今江さんは」

 「あんたみたいなぼんくらとならつり合いが取れるでしょ」

 「怖い刑事と優しい刑事。ドラマでよくある組み合わせですね」

 「あんな嘘っぱちどこから生まれたのかしら。情報を聞き出すならダブル恫喝の方が有効に決まっているじゃない」

 「発言に気をつけてください。別の意味で怖いや」

 「じゃ、次は帰国子女野郎から話を聞きましょうか」

 今江は両手を払うそぶりを見せながら言った。

 「星野って女医さんも気になりますね。被害者とデートしたってのは本当かな。それから、昨夜はもう一人当直をしていた第二外科の医師がいたはずです。この人からも話を聞かないと」

 「被害者と秋月先生と、研修医がもう一人いたのよね。面倒。とっとと終わらせましょう」

 二人はナースステーションに戻り、三人の医師の所在を訊ねた。

 「コリンズ先生は午前中は一階で診察業務です。糸島くんはどこに行ったのかしら」

 紺色のカーディガンを羽織ったおかめ顔の看護師は、後ろの若い看護師に研修医の糸島を呼び出すよう指示した。

 「それから星野先生ですけど、あの方は内科の先生なんで、五階東のナースステーションに行ってください」

 「外科の先生じゃないんですね」

 「まさか。あんなお嬢さまが外科なんてとんでもない。箸より重いものを持ったことがないお嬢様に、メスなんて握れませんよ」

 お局の発言に周りの看護師も併せて苦笑した。心地よいとは言い難い雰囲気に今江の眉がひくりと曲がる。

 「糸島くんはテラスにいたみたいです。今こちらに向かってます」

 PHSで通話を終えた看護師が言った。

 「ふん。お日さまの下でぽかぽか昼寝ってわけ。いいご身分ね。当直明けだからって、時間があるならこっちの手伝いなり勉強なりやることはあるでしょ。これだから最近の若い先生は……あぁすみません。糸島先生はすぐこちらにお見えになるので少々お待ちください」

 中央エレベーターの横の階段から、ジュースのペットボトルを握った若い男が慌てた様子で飛び出して来た。

 「こら、走るんじゃない!」

 おかめ顔の看護師が怒声をあげる。スクラブウェアを着た若い男は顔をひくつかせながら近づいてくる。

 「刑事さん。()()が研修医の糸島先生です。糸島センセ。こちら刑事さん」

 「あ、あの。ども」

 すき間風のような声が糸島の口から漏れ出た。被害者と同じ紺色のスクラブウェアを着た糸島は、顔つきこそ幼いが中年男性のように腹が膨らんだ巨体だった。

 「天神署の今江です。糸島さんはいま、どちらからいらっしゃったのですか」

 「す、すみません。上のテラスです」

 「テラス。いいですね。久しぶりにお天道様の光を浴びたい気分です。そちらでお話を聞きましょうか」

 エレベーターに三人で乗り込み最上階のテラスへと向かう。

 エレベーターの扉が開くと、今江は思わず『へぇ』と声をあげた。

 ガラスで覆われた空間が目の前に広がる。三方を背の高い観葉植物に囲われたその空間には、太陽の光を堪能している大量の木製ベンチが扇形に並んでいた。

 「いい場所ね」

 我先にと進み、今江はベンチの一つに腰を降ろした。

 「適当に座ってください。声が聞こえる距離でね」

 糸島は背中を丸めながら今江の二列後ろのベンチに座った。顔は青く、視線を宙に泳がせている。挙動不審なふるまいに今江は少しだけ鼻息を荒くした。この男は、何かを知っている。

 初芝はベンチとベンチの間のすき間で腕を組みながら糸島を見つめている。

 「思った通り人がいないわね」

 「思った通り?」

 糸島が聞き返す。今江はわざとらしくあくびをした。

 「スクラブウェア(仕事着)を着て、患者がいる場所でサボる人なんていないでしょ。ほとんどの病院スタッフは午前中のこの時間は忙しく働いているだろうし」

 糸島は目を大きく開き、太い二本の指でせわしなくズボンをつまみ始めた。

 「下川仁さんが亡くなられたのはご存じですね」

 「は、はい。健診センターで殺されたって」

 「昨夜は第二外科の当直を秋月先生と下川さん、それからあなたが担当されていたと聞きました」

 「腸閉塞イレウスのオペが入って、それなのに下川先生が来なくて焦りました。いい迷惑だよ」

 糸島の声は小さくて聞き取りにくい。今江は少しだけ声を大きくはり上げた。

 「下川さんの姿を最後に見たのはいつですか」

 「ナースステーションにいたのを見ました。時間は、わかりません。日付は変わってなかったと思うけど」

 「他の時間帯は」

 「わかりません。一時半ごろにナースステーションに行った時はいなかったな。ぼくそのあと、ずっとナースステーションには寄りませんでした」

 「緊急手術の時間まで」

 「は、はい」

 「では、その間はどちらに」

 「仮眠室です。寝てました」

 目の動きが活発になった。どうしてこんなにもわかりやすいのだろう。今江は思わず大きく咳ばらいをしてからもう一度訊ねた。

 「緊急手術が始まるまでどちらにいらっしゃいましたか。われわれの仕事を増やさないでいただきたいですね」

 今江は天井の一画を指差した。そこには監視カメラが睨みをきかせていた。

 「我々は既に昨夜の監視カメラのデータをすでに頂戴しています。あなたが昨夜何をしていたのかなんて、時間をかければすぐにわかるんですよ」

 「あの。あの。違うんです。だってぼく、犯人じゃないのに誤解されたら」

 「犯人じゃないかと誤解されるようなことをしていたのですか」

 後方から初芝が訊ねる。糸島は飛び上がり恐怖に染まった目で初芝を見た。

 「違うんです。ぼくはその、病院の中をうろついていただけなんです。仮眠室では眠れないし、ナースステーションにはいたくないし」

 「眠れない?」

 「ぼく、潔癖症なんです。他人の眠ったベッドなんか絶対に使いたくなくて」

 「シーツやまくらカバーはかえているでしょう」

 「嫌なものは嫌なんです。いくらクリーニングに出したとはいえ、そのシーツには汚いおじさんの唾液がしみ込んでいるわけでしょ。気持ち悪い。考えるだけでぞっとする」

 「ナースステーションにいたくない理由は」

 「用事があれば行きますよ。でもぼく、ナースと仲良くないので。あいつらぼくのことをすぐに笑って。それに、下川先生は当直の時はよくナースステーションにいるから」

 「下川さんとは仲がよくなかったのですか」

 糸島はハッと目を開いて今江を見ると、ぼさぼさに生えた黒髪をかきむしりながら『違う違う』と早口でぼやいた。

 「違うんです。仲は悪くなかったです。ただあの人は無口、違う、静かで、だからその、いいじゃないですか。下川先生のことは」

 「殺されたのは下川さんですよ。どうでもいいわけないでしょう」

 妥当が過ぎる。初芝はあきれ顔を手で覆いながら首をふった。

 「下川さんのことはあまりよく思っていなかったようですね」

 「みんなそうです。あんな暗い先輩。みんな嫌っていました。ぼくだけじゃないんですよ」

 「皆が嫌っていることとあなたが嫌っていることは何も矛盾しません。念のため確認したいのですが、病院の中をうろついていたとは、具体的にどこを」

 「このテラスだとか、自販機コーナーとか。データセンターの休憩室にも行きました。あそこを管理している人はぼくに干渉してこないし」

 データセンター横の休憩室で眠っていた大柄な男、岡のことだろう。彼からの聴取は別の刑事が担当している。

 「健診センターに繋がる渡り廊下の方には行きませんでしたか」

 「行ってない。あそこのナースステーションのやつら、いつも夜中に勉強会しててムカつくから」

 サボって院内を徘徊している自分への当てつけだとでも思っているのだろうか。糸島の偏屈な態度と独りよがりなその思考に、今江は渋い息を吐き出した。

 「下川さんは誰に、何故殺されたのでしょう。犯人と動機に思い当た――」

 「知りません!」

 ムチが風を切るような早口で糸島は言った。そのあまりにも不自然な口調に思わず初芝は『うわ』と声を漏らした。

 「知りません。ぼくはそんなの知らない」

 糸島は頭を振って親指の爪を激しくかみ始めた。深爪の下から少量の血がでてきて、思わず顔を離す。

 「あの。ぼくこれで失礼します。用事、用事があるんで。それからあの、医者なんで。忙しいんで。あんま来ないでください。いえ、どうしてもって言うなら別ですけど。あの」

 「ドクターコリンズはどんな人ですか」

 「コリンズ先生? 知りません。第一外科の先生なんて、ぼくは第二外科ですから」

 「最後に一つだけ教えてもらえますか」

 初芝の脇をすり抜けようとする糸島に向かって、今江は声を張り上げた。

 「いったい、なにを隠しているんですか」

 文字通り糸島は飛び上がった。汗だくの顔半分を今江に見せると、すぐに顔を戻してエレベーターの呼び出しボタンに飛びついた。インジゲーターは『2』の表記をオレンジ色に染めたままなかなか変わらない。糸島は唸り声をあげながら、横にある階段を駆け下りていった。


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