幕間C
うとうとと船をこいでいた法律はポケットの中でリズミカルに繰り返されるスマートフォンの振動で目を覚ました。
かすれた視界で通話の表示をフリップ。『もしもし』と口にする前に、スマートフォンから怒声が飛びかかってきた。
「籐藤さんですね。数時間前にお帰りになったばかりだというのに。そんなにぼくが恋しくなったのですか」
「冗談じゃない。誰が好んで男になんか。あぁくそ。そんなことどうでもいい。それよりな、法律。お前の妹だ。妹さんの件だ」
「はぁ。どの子のことでしょう」
スマートフォンを耳に当てながら窓辺に近づく。東京の空をぶ厚い雲が覆っていた。
「病院に勤めているやつだ」
「どうかしましたか」
「それは、どこの病院だ」
「籐藤さん。どうしました。なぜそんなことをお尋ねになるのですか。嫌な予感がしますね。病院。そりゃたしかに病院ですが」
「今朝。I市の病院でコロシがあった。研修医がひとり、ナイフで胸を突かれて死んでいたらしい」
籐藤の声がワンオクターブ下がった。法律はスマートフォンを強く握りしめ、窓辺に腰を降ろした。
「この程度の事件にわざわざ警視庁が出向くわけがない。所轄だけで解決できる事件だ。だけど、桂さんは初芝を現場に送り込んだ」
「なるほど」
法律の脳裏に、屈託のない初芝の笑顔が映った。
「『恒河沙の兄妹』との協力を望む警視監が、所轄の殺人事件に警視庁の刑事を派遣した。しかもその現場は病院だという。そしてぼくの妹は病院で働いている。これらの符号が合わさって意味するものとは――」
「もう一度訊くぞ、法律。おまえの妹は、どこの病院で働いている」
「山吹医科大学附属病院です」
「やっぱりそうか。警視監はお前の妹たちの所在にネットワークを張っていた。今朝、殺人事件の通報があって警視監のネットワークは大きく反応を示した。警視監は妹さんの様子を探るために、初芝を派遣したわけだな」
「当の初芝さんは、桂さんからどんな密命を受けたのですか」
「何も言われていないらしい。ただ急いで現場に向かい、捜査に協力してこいと。お前さんの妹のことは伝えなかった」
「ふぅん。なるほど。でもまぁ、『この程度の』事件なんでしょう」
皮肉めいた口調で法律は言った。
「警察がてこずる殺人事件なんてそうそう起きるものではありません。あの子もきっと静観を決め込みますよ」
「『この程度の』事件。そうだなおれも最初はそう思った。だが、報告を聞いているうちに雲行きが怪しくなってきた。なんでも、死亡推定時刻は午前零時から一時間前後だというのに、午前三時ごろに生きている被害者の姿を見たって証人がいるんだ」
「はぁ。死体が動き出したというわけですか」
「馬鹿なことを言うな!」
籐藤の怒声が法律の鼓膜を響かせる。法律は小さくうなり声をあげた。
「他にもいろいろとおかしな謎があるらしい。なぁ、妹さんは病院にいるんだろう。どうにか協力してくれないか」
「無理ですね」
法律は言った。突き放すように鋭い口調だった。
「先ほどもお伝えした通り。彼女は探偵という職業を嫌っています。嫌っているどころではない。嫌悪し、忌むべきものとして敵対視している。そんな彼女がどうしてぼくの頼みに『JA』と答えてくれましょうか。残念ながらご協力はできません。お気を悪くしないでください。あの子を説得するくらいなら、このスマートフォンを一口で飲み込む方が簡単です」
「……そうか」
籐藤の声は落ち着いていた。
「まぁ仕方がないか。わかってる。そもそも、民間人に協力を依頼するのが間違ってるんだ。すまなかった。どうしても気になってな」
「いえ。お気になさらないで」
「余裕があったら初芝に妹さんの様子を見てきてもらうよ。変わった名字だからすぐに見つかるだろう」
「残念ながら、そうはいかないでしょう。妹は『恒河沙』の姓を名乗っていません」
「そうなのか」
籐藤は驚きの声をあげた。
「じゃあなんて名字なんだ。下の名前は、なんだ」
「……すみません。お客さんがいらっしゃったので切りますね」
誰もいない事務所のドアを見つめながら法律は言った。
「客だと。お前、そんな看板も出していない探偵事務所に客なんて。おい。もしもし。聞いてんのか。法律。ほうり――」
法律はスマートフォンを窓辺に置き、もう一度窓の外の曇り空を見つめた。
「はてさて。これは天のおぼし召しか。それとも悪魔の采配か。何はともあれ、おもしろいことになってきたな」