第三章
1
ドアが閉じ、エレベーターが上昇を始める。
事務課長の五反田は必死にハンカチで汗を拭き、初芝は壁に貼られた案内板を熟読し、今江は両腕を組みながら壁に寄りかかり、暗澹な視線を空中に投げつけていた。
「ふむふむ。診察エリアは一階と二階。二階には病棟もあるんですね。三階から五階は病棟がメインで。六階は、あれ。六階はずいぶん部屋の数が少ないですね」
剣呑な雰囲気を意に介さず初芝が訊ねた。
「六階は北側のエレベーターホールから伸びた通路に部屋が並んでいるだけで、残りの面積は全て屋上になっております」
五反田が答える。
「いえ。全てではありませんね。屋上中央部分はガラス張りのテラスになっていて、そちらへはこの本館中央にあるエレベーターからしか行けません」
「もう一つエレベーターがあるんですか」
「いま使っている北側エレベーターで三台、中央エレベーターでも三台が稼働しています」
六階に着いたと告げるアナウンスの後にドアが開く。エレベーターホールを抜けるとアラベスク模様の絨毯が敷かれた細い廊下が左手に伸びていた。廊下の右の壁には明かりとりの小窓を挟んで、等間隔にいくつもの絵画が飾られている。天使とキリストが身体を寄せ合う宗教画もあれば、毒々しい色使いの花束が描かれた油絵や、手ぬぐいで顔を拭くはだけた和装の女性を描いた浮世絵などもある。
廊下の奥に病院長室があった。
『少しここでお待ちください』と言い残してドアの中に五反田は消えた。
「で。どう思う」
「そうですね。ぼくとしてはやはり一つの場所に飾るなら統一したジャンルの絵を飾るべきだと思います」
「おもしろい冗談ね」
初芝は両目を大きくまばたいてから『あ、そっちですか』と手を叩いた。
「死亡推定時刻のことですね」
「それ以外に何があるっていうのよ」
「すみません。まじめにやります」
両ほほをはたいてから初芝は今江に向き合った。
「小松さんによると被害者の死亡推定時刻は午前零時から前後一時間以内。二十三時から午前一時の間に殺されたということになります」
「だけど、あの篠栗って看護師は、午前二時五十分ごろに被害者の姿を目撃した。看護師さんが嘘をついているのか、それともうちの検視官は警察手帳を返納するべきなのか」
「すみません。お待たせしました」
ドアが開かれ五反田が出てきた。汗を吸い過ぎて黒ずんだハンカチをポケットにしまいながら、事務課長は二人を部屋の中へと案内した。
廊下と同じアラベスク模様の絨毯の上に、白衣の老人が立っていた。
黒いものが混じった白髪は短く切り揃えられており、額に走る三本の皺は貫禄を示していた。年齢は六十代前半といったところか。
小柄な外見からねっとりとした声が発せられた。
「この度はどうもご迷惑をおかけしました。病院長の落合と申します」
落合は、一歩前に乗り出し慇懃な態度で名刺を差し出した。
その名刺は今江ではなく、彼女の横にいる初芝に向けられていた。
初芝は一歩下がって、不自然な咳払いでのどを鳴らした。
落合は二人の刑事の顔を見比べると、『おぉ』と声をあげ、げっ歯類のような出っ歯を見せつけながら名刺の向きを変えた。
「これは失礼いたしました。ずいぶんとお若く見えたもので」
差し出された名刺を今江は両手で受け取った。心の内にどどめ色の感情を隠しながら作り笑いを見せつける。後ろで初芝が『南無三』と三度つぶやいた。
「警察組織は男女平等の思想が行き届いているようでうらやましいですね」
「年功序列の古臭い制度が息づいているだけですよ。天神署捜査一課の今江です」
落合は革張りのソファーが並んだ応接セットの方へ二人の刑事を案内した。ソファーの周囲にはアンティーク調の棚や小机が並び、それらの上には表紙に落合の顔写真が載った新書や文庫本、ラミネートされた新聞紙の切り抜きが飾られていた。
初芝は棚の前で腰を曲げた。
「『心臓疾患を問い直す』。『病院と共に生きる』。『高い薬と安い薬 危険な薬と安全な薬』。『令和版 心臓疾患を問い直す』。すごいですね。これ全部先生が書いた本ですか。どれもこれも有名な出版社のやつだ。本を読まないぼくでも知っている会社です。ふむふむ。これは新聞の切り抜きですね。『シリーズ明日の医療。第十五回。薬剤費削減を目指して』。えっとなになに。『昨今医療機関によって同一の症例に対する……』。うわぁ」
今江に腰のベルトを引っぱられ、初芝は音を立ててソファーに落ち着いた。苦笑いを浮かべる落合に初芝はぺこりと頭をさげた。
「五反田くん。お茶を淹れてくれるかな」
「おかまいなく。お時間はとらせません」
今江は五反田を手で制した。
「今朝七時半ごろ、こちらの病院の研修医である下川仁さんのご遺体が健診センター二階の待合室で見つかりました」
「人が殺されているとは聞いていたが。下川くんだったとは」
「ご存じですか」
「もちろん。我が山吹医科大学では学部生の卒業試験に病院長の口頭試問が課されます。わたしは卒業生全員と言葉を交わし、これと認めた者のみに卒業の資格を授与しているのです。下川くんのことも覚えています。えぇ。今年から後期研修医として第二外科所属となりました」
「健診センターは捜査のためしばらくの間は営業を停止していただくことになります。よろしいですね」
「ダメだと言ってどうにかなるわけではないでしょう。構いませんよ」
「あの、本館の方は通常通り営業しても構わないのですよね」
五反田がおどおどとした態度で訊ねた。
今江は首を縦に振ったが、――ただし――と続けた。
「健診センターと本館は二階の渡り廊下で繋がっています。健診センターの一階は施錠されていたことから、犯人はこの渡り廊下を通って健診センターを訪れた可能性が高い。そこで必然的に本館の方でも捜査を行う必要が出てきます」
「本館の中を警察官が歩き回るのですか」
五反田が驚愕の声をあげた。
「それは困ります。こんな事件が起きたせいで、既に患者さんの足が遠のくんじゃないかと心配しているんですよ。警察の姿を見れば患者さんが安心するとでも。逆です。不安になって転院してしまうかもしれません。院長。だめですよ。これははっきりと断りましょう」
「ダメだと言ってどうにかなるわけではないだろう」
五反田はがくりと肩を落とした。
「構いません。患者さんの迷惑にならない限り、自由に捜査してください」
「職員の方々から話を聞くことがあると思われます。院長先生から院内全体に捜査に協力するよう告知を出してもらえますか。それと、昨夜この病院にいたスタッフの方からお話を聞きたいのでリストを作ってください」
「全員ですか」
「もちろん」
「承知しました。事務課総出でやれば十時までには完成するでしょう。できるね、五反田くん」
「い、いえ。せめて午前中いっぱいは頂かないと。朝は何かと多忙でして、その――」
衝撃音が院長室に響き渡った。二人の刑事の前で、小柄の病院長は両目を剥き出しにして、テーブルに叩きつけた右手をゆっくりと持ち上げた。
「は、はい。もちろんです。十時までには、必ず」
五反田は黒ずんだハンカチで顔の汗をふきとった。事務課長の言葉に満足したのか、落合は前歯をのぞかせて笑いながら、その視線を今江に戻した。
「わたしの方からもお願いがあります」
「なんでしょう」
平然とした態度で今江は応える。
「本館の中に入るのは私服警官、つまり刑事さんだけに限定させていただきたい。五反田くんが心配する通り、制服警官が院内にいらっしゃると患者さんのメンタルのためによくないので」
「わかりました」
今江はうなずいた。
「院内に入るのは私服警官のみ。全捜査員に通達しておきます」
「それから。患者さんへの接触も可能な限り避けていただきたい。彼らは捜査に協力するためではなく、病気を治すために病院にきているのです。わかるでしょう」
今江は再びうなずき、そして攻勢に転じた。
「落合先生は下川さんについてどのような印象を抱かれていますか」
「冷静沈着にして質実剛健。医者にとって必要な全ての要素を兼ね備えた、すばらしい研修医でした」
「誰かに恨まれるようなことは」
「ないでしょう」
「でも彼は殺された。そうですね。質問を少し変えましょう。彼には、何か殺され得るにたる事情があったのでしょうか」
落合の表情は崩れない。そして彼は答えない。その両ほほはゆったりとした線を引きながら二人の刑事を見つめていた。
2
「論理的な答えを思いつきました」
今江の数歩前を歩く初芝は人差し指をくるくると回しながら言った。
「下川仁の死亡推定時刻は午前零時から前後一時間以内。しかし被害者の姿は午前三時前に篠栗看護師によって目撃されています。この齟齬を解決する至極論理的な説明とは何か。えぇぼくにははっきりとわかりましたよ」
「お説ご拝聴」
深海魚のような目をしながら今江は初芝の背中につぶやいた。
「単純な話です。直球ど真ん中に事実を受け止めればいいのです。下川仁はたしかに零時ごろに死亡した。そして死亡した後に彼は三時ごろになってナースステーションを訪れたのです」
「なるほど」
質量を一切もたない返事が今江の口からこぼれ落ちた。
「動く死体です。つまりはゾンビです。午前三時頃にナースステーションを訪れた下川仁の身体は冷たく、心臓は止まり、生命のろうそくは既に消えていた。身体は冷たくなっても若き医師の医療に対する熱き魂は膨大な熱量を保ち続けていた。そんな彼の不死なる魂が自身の肉体をナースステーションまで運んだわけです」
「そしてナースステーションで解剖書を熟読した後、満足して遺体発見現場まで戻ったというわけね。でも遺体の周りの血痕に足跡はなかった。彼はどうやって血だまりの中央まで戻ったの」
「それはもちろん。飛び込んだんです。昨今のゾンビはジョージ・ロメロ監督が生み出した原初的な軛から解き放たれた存在です。今やゾンビは走り、会話をし、アイドルダンスまでしちゃうんです。スロウリィに歩くだけのゾンビなんて時代遅れですよ。ゾンビと化した下川仁なら半径一メートルに満たない血だまりの中央までボディプレスをかますくらい余裕でしょう」
――まぁ、問題は――と初芝は肩を落とした。
「ゾンビの実在を前提としなければこの推理は成り立たないことですよね」
六階のエレベーターホールに着くと、エレベーターの到着を知らせる軽快な音が二人の耳に飛び込んできた。右側のエレベーターのインジゲーターが『6』の数字をオレンジ色に照らしている。
ドアが開くと、男が一人飛び出してきた。
白衣に身を包んだその巨体の男は、重低音のうめき声を漏らしながら今江たちの前で止まった。顔つきからは五十代ほどの年齢と察せられる。ボリュームのある髪とひげは黒いものと白いものが半々の比率で入り混じっておりカオスな様相を形成していた。
「ひょっとしてお宅らは警察の方ですかな」
男は額の汗を白衣の袖でぬぐった。今江は男が首からぶら下げている職員証を一瞥して、すぐさま男ににじり寄った。
「天神署の今江です。こちらは初芝」
「はっはっは。見ただけでわかりましたよ。緊張感、恐ろしいまでの緊張感だ。撃鉄が引かれた回転式拳銃のような恐ろしさですね。今日この建物の中でそんな緊張感を出せるのは、刑事さんたちしかいませんよ」
「それで、あなたは第二外科研修医の下川仁さんとどんなご関係にあるのですか。雲仙景政教授」
今江は男の職員証に視線を固定したまま言った。男――雲仙教授はネックストラップからつながった職員証を名刺のように突き出し、毛むくじゃらの顔に笑みを浮かべた。
「自己紹介が遅れて申し訳ない。えぇ。第一外科の雲仙と申します。下でナースから聞きましたよ。まさか下川くんが殺されるとは。少しお時間よろしいですか」
雲仙は周りに目をやってから言った。
「わたしは外科医局の教授として、この事件の概要を把握しておく必要があります。恐縮ですが、いま現在判明していることを包み隠さず教えていただけないでしょうか」
「先生は第一外科医局の教授さんですよね。第二外科医局の研修医が死亡した事件について把握しておく必要があるとは思えませんが」
雲仙はその瞳を細く絞って今江をにらみつけた。それは一瞬、ほんの一瞬のことだった。横で見ていた初芝が、雲仙のその瞳の中に憤怒の色を読み取った次の瞬間、この外科教授は毛むくじゃらの顔の中に笑顔を咲かせて高らかに笑い始めた。その目に憤怒の色は既になかった。
「いや失礼。そうですな。たしかに第一外科のわたしがしゃしゃり出る権利はありませんな。とはいえ第一外科と第二外科は捌く場所は違えど、その仕事内容は著しく近接している。職務上接する機会が最も多い部署でして、その部署の長としてある程度の事情は把握しておきたい。そういうわけなのです」
「捜査内容をお話しすることはできません」
「ご事情はわかります。ですから少しだけでいいんですよ。わたしが耳に入れても問題ないことだけ。それだけで構いませんので」
「今のところは、何もお伝えできません」
「下川は誰に殺されたのですか。既に犯人の目星はつけているのですか」
「お伝えできることはありません」
「というか、本当に下川は殺されたのですか。自殺という可能性はありませんか。そうだ、そもそも死因はなんですか。いったい何で殺されたんですか」
「胸をナイフで突かれたんですよ。出血性のショック死で間違いないでしょうねぇ」
「初芝」
今江は背後を振り返り、初芝をにらみつけた。
「いいでしょう。これくらい教えないとこの先生は解放してくれそうにないですし」
今江だけに聞こえるよう初芝は小声で言った。雲仙医師はあごひげを指で弄りながら何か考えごとをしている。
「どうでしょう先生。この病院でナイフコレクションが趣味の方なんかはいらっしゃいませんか」
「いや。わたしの知る限りでは。ま、まて。きみたちはなんだ。この病院のスタッフが下川を殺したと考えているのか」
「そういうわけでは。だけど、病院で人が殺されたんだから、その病院に勤めている人間を疑うのは自然なことでしょう」
「ない。断じてない。うちのスタッフが殺人事件だなんて。そんなことはあってはならない」
雲仙は鼻息を荒くしながら白衣をさすり始めた。太く黒い毛の生えた五本の指は海洋生物の触手のようにうねっている。
「もうよろしいでしょうか」
エレベーターの方へと身体を向けながら今江が言った。
「捜査がありますので、これで失礼します」
「待ってください。確認したいことがあります。捜査はどのような方針で行われるのですか」
「お答えできません」
「健診センターはいつになったら再開できるのですか。本館の方は通常通り営業できるのですか」
「既に院長先生とお話しさせていただきました」
「職員に話を聞くつもりですか。よくドラマであるみたいにアリバイなんかを」
「そうです。それでは早速。雲仙先生は昨夜どちらに」
雲仙はぱちくりと目をしばたたかせてから、ごほんと一度空咳をした。
「昨日は夜八時には自宅に着いて、それから外には出ていない」
「はいどうも。ありがとうございます」
「待ってください。それじゃあえっと、待ってくださいってば」
下の階へと向かうエレベーターの中で今江は再び腕を組みながら壁によりかかり、初芝はそんな剣呑な表情の先輩刑事を刺激しないよう黙って操作盤の前に立っていた。
「あの医者どう思う」
エレベーターの中には二人だけしかいない。今江の問いかけに初芝は『えっと』とつぶやき――
「どっちの話ですか」
初芝の頭の中でビーバーとヒグマがラインダンスを踊っていた。
「じゃあどっちも」
「そうですね。どちらも苦手なタイプでしたね」
初芝は口を開けたまま振り返り、今江に向かって首をかしげた。
「今江さんも同じことを考えていらっしゃる。そうでしょう」
「そうね」
今江は耳にかかった髪をはらうと、キッと視線を頭上へ向けながら言った。
「落合院長は悠然とし過ぎているわね。自分の病院で部下が死亡したとなれば、普通ならうろたえるのが当然。下川仁が死亡した事実を当然と捉えているかのよう」
「おっしゃる通りです。そしてあの毛むくじゃら先生。しつこかったですね。事件について我々から聞き出そうと必死でした。彼には何か事件について知らなければならない事情がある。それがどんなものかは知りませんが、確実に、あの先生は腹の中に何かを隠していますよ」
3
本館から健診センターへとつながる渡り廊下まで来ると、今江は初芝を先にセンターの中へ向かわせ、スマートフォンで署にいる田所課長に報告を行った。
田所の上の空な態度が電波越しに伝わってくる。報告を終え、『副総監が送り込んできた刑事だが』と話を切り出してきたところで通話終了の表示をタップした。
今江が健診センターに戻ると、初芝は天神署の刑事たちと朗らかに談笑をしていた。この短時間で初対面の人間と打ち解けられる若者特有のメンタルフットワークの軽さに感心し、かつ殺人事件の現場で『朗らか』などと形容され得る態度の若造たちに怒りを覚える。年長者の今江は雷を一つ落としてから、捜査に関する指示を与えた。
「で、ぼくたちはどうしますか」
蜘蛛の子を散らすように逃げていく同僚たちを見送りながら初芝は訊ねた。
「当直のひとたちから話を聞きましょう。とりあえず最初は、渡り廊下のそばのナースステーションから」
二人は渡り廊下を通って本館に移った。
本館の二階は南西を病棟として構え、北側にあるエレベーターホールから南側まで時計回りでぐるりと診察エリアが続いている。診察を待つ病人やけが人で溢れている緑色のソファーが、北側のエレベーターホールから南側まで列を為して伸びていた。
ナースステーションは渡り廊下を抜けてすぐの右手にあった。木製のカウンターの奥にある広い部屋の中から、何人もの看護師たちが興味に染まった目で二人の刑事を見つめていた。
「すみません」
誰にともなく今江は言った。すると、奥から背の低い一人の女性が駆け寄ってきた。
インディゴブルーのジーンズに白いブラウス。私服姿のその女性は泗水みずきと名乗った。昨夜は彼女を含め三人の看護師がこのナースステーションに詰めていたという。
「あ。そうか。本当なら当直明けで帰っているところだったんですよね」
泗水の私服姿を見て初芝が言った。
泗水はえくぼを作って笑いかけた。
「警察の方がわたしたちのもとへいらっしゃると思って待っていたんです。だって、ほら。健診センターに一番近いのはうちのナースステーションですからね」
初芝は壁にかかった時計を見た。時刻は九時三十分。看護師の当直は日勤の職員との引継ぎなどを終えて八時半から九時ごろまでには終わるはずだ。当直明けの身を三十分以上待たせたらしく、初芝は謝罪の言葉を口にした。
「気にしないでください。いっしょに夜勤していた二人は向こうでジュースを飲んでるんで、ちょっと呼んできますね」
泗水はナースステーションから出て建物の北西にある自販機コーナーへ向かった。ナースステーションからは横に並ぶ二つの自販機が見える。泗水は自販機の前でくるりと身体を左に向けると、奥へとその姿を消した。手前にある階段の裏側まで自販機コーナーは続いているらしい。
泗水と並んで二人の女性が空き缶を片手に出てきた。チェックのアルスターコートと灰色のボアジャケット。二人とも私服だ。
「昨夜の事件のことはお聞きしましたか」
ナースステーションのカウンターのそばに立ちながら今江は訊ねた。初芝はカウンターの上に手帳を広げ、へたくそなペン回しにいそしんでいる。
「健診センターで病院のスタッフが亡くなったとだけ聞いています。噂では研修医の先生だったとか」
ボアジャケットの看護師が答えた。
「第二外科の下川仁さんです。彼についてご存じですか」
「名前だけではちょっと」
「坊主頭の若い男性。顔つきがちょっと怖くて、肌は白かった」
カウンターの下に落としたペンを拾いながら初芝が言った。
「坊主頭の。あぁ、やっぱり」
泗水はアルスターコートを着た年配の看護師と顔を見合わせた。
「何かご存じで」
「昨日の夜、その下川先生が渡り廊下を通って健診センターに行くのを見たんです」
「なるほど」
今江の眉がひくりと動いた。
「下川さんはお一人でしたか」
「一人でした。ちょうどこのカウンターに立って作業していた時に、階段から下川さんが降りてきたんです」
病院本館には建物の北側と中央の二か所にエレベーターがある。北側のエレベーターは一階から院長室や大会議室がある六階まで繋がっており、中央にあるエレベーターは地階から六階の屋上テラスまで繋がっている。
泗水は中央エレベーターの方を指さした。五人が立つ位置からは見えないが、たしかにエレベーターホールの向こうに階段があるらしく、ちょうど今、白衣を着た男性が階段から出てきて診察エリアの方へと向かった。
「それは何時ごろのこと」
「日付は変わってなかったと思いますけど……」
初芝は『ほうほう』とつぶやきながら手帳に『零時以前。たぶん』と書き込んだ。
「下川さん以外に健診センターに向かうひとを見ませんでしたか」
「見ていません」
泗水は即答した。横にいる二人の看護師も首を縦に振った。
「見てはいないけど、見逃した可能性はあります。わたしたちは常に周囲に目を光らせているわけじゃありません。自販機までジュースを買いにいったり、ナースコールで患者さんに呼ばれたりと、ナースステーションを空けることなんてしょっちゅうです」
「それに昨日も」
ボアジャケットの看護師はカバンの中から一冊の本を取り出した。桃色の表紙の上で白衣を着たポニーテールの看護師が赤ちゃんを抱きあげて笑っている。タイトルは『産婦人科ケア――パーフェクトマニュアル』。
「わたしたち少しでも時間があると、奥のテーブルで勉強会を開くんです」
泗水の視線の先を追うと、ナースステーションの奥に丸いテーブルが置いてあるのが見えた。
「あそこに三人で座って集中している時に、ナースステーションの横を人が通っても気づかないかもしれません。もちろん、入院患者さんがいらっしゃる病棟の方には気を使っていますから、そちらから人が来たらわかりますけど」
「病棟とは反対の北側の方だと、誰かが通っても気づかない可能性があるわけね」
「はい。だから、監視カメラのデータを見てください」
「データ?」
泗水の言葉に初芝は首をひねった。
泗水の細い人差し指が天井――否、天井からつきでた一台の監視カメラに向いていた。
筒型の監視カメラが渡り廊下の方を向いて設置してある。
「うちの病院のちょっとした特徴です」
泗水だけではなく、二人の看護師も天井に向かって指を差した。しかし、二人は泗水とはまったく別の方向を指差しており、その二人の指もまた全く異なる方向を向いていた。
今江と初芝は三本の指が向く方を見てハッとした。
北側エレベーターホールの前に三台。中央エレベーターホールの前にも一台。いや。それだけではない。ナースステーションの前に一台。病棟の長い廊下にも、大量のソファーが並ぶ診察エリアにも何台ものカメラが設置してある。
多い。明らかにカメラの数が多いのだ。
「これは」
「一階に監視カメラのデータを管理しているデータセンターがあります」
泗水は指を降ろして言った。
「そこでこの渡り廊下を見ている監視カメラのデータを確認してみてください。それを見れば、昨夜誰が健診センターに向かったのかがわかるはずです」
4
「はてさてやれこれ何とやら。まったく落ち着かない病院ですね。まるで刑務所だ」
エレベーターホールの角からこちらを覗く監視カメラに向かって、初芝は舌を突き出した。
横を通る老紳士と老婦人が初芝の挙動を見て苦笑を浮かべる。今江が若手刑事の頭をはたくと、初芝は『ふぷぅる』と奇怪な言葉を発して口元を抑えた。
二人は二階中央エレベーターの横にある階段から一階へ降りた。
階段を出ると今江の耳にドッと喧騒が飛び込んできた。一階もまた二階と同じように右半分のエリアを診察エリアが占めている。横に伸びた緑色のソファーが列になって並んでいるのも同じだ。ただし二階の診察エリアは三分ほどのひと入りだったのに対して、朝の十時前にして一階は七分ほどの席が埋まっている。大盛況だ。
「あ。刑事さん、ちょうどいいところに」
背後から鈴を鳴らしたような声がした。
振り向くと一台のエレベーターから篠栗さおりが出てきた。先ほど健診センターで会った時と同じく、スクラブウェアを着ている。
篠栗の横に眼鏡をかけた男が立っていた。革ジャンを羽織ったその男はとろとろとした両目で二人の刑事を見つめた。
「刑事さん。この人です。この人が犯人です。逮捕しちゃってください」
「は?」
「冗談じゃないよ。ぼくはただ……」
トートバッグを肩から下げたその男は、口元を隠しながら大きなあくびをした。
「えっと、どういうことですか。篠栗さん、このひとはどなたですか」
男は無言のまま首からぶら下がった職員証を二人に見せた。『第二外科 助教授 秋月清玄』。名前と所属の横には秋月の顔写真が載っている。写真の中の秋月は白衣と赤いネクタイを深く締め、整えられた長髪の下で矢のように鋭い眼光が輝いている。対して目の前にいる猫背の秋月はなんとも覇気がない。アンニュイな角度に曲がった首。革ジャンの下のシャツはシワだらけ。弱々しい手つきで肩に触れる毛先をなでまわしている。
「第二外科ということは、下川さんの」
「うん。下川くんはぼくの部下だよ。この忙しい時に死にやがって。本当にうらやましいやつだよ」
その口調に抑揚はない。
「秋月さんが犯人なんですか」
「篠栗。説明してあげて」
秋月医師は篠栗をあごで差した。
「秋月先生は昨日の夜、当直だったんです」
篠栗はほほを膨らませながら言った。
「他に当直で病院にいたスタッフたちと、警察の方が話を聞きに来るまで院内で待っていようって決めたのに、先生は一人だけ先に帰ろうとしているんですよ。これはつまり刑事さんに会うと都合が悪いというわけ、つまり先生が犯人というわけです」
「そんな無茶苦茶な。頼むよ。真夜中にじいさんの腹を捌いて腸を切除したのは誰だ。ぼくだ。ぼくがやったんだよ。世間一般市井の方々が惰眠を貪るあの時間に、ぼくは壊死寸前の腸と必死で戦っていたわけだ。仮眠室のペラペラベッドなんかごめんだ。家の厚焼き玉子みたいな布団でぐっすり眠りたいんだよ」
「先生。ことは殺人事件です。短時間で終わらせますので、もう少しお待ちいただけないでしょうか」
「じゃ、今ここで始めてもらえますか」
「それはちょっと」
今江はキッと目を細めた。
この時点で何よりも優先して確認したいのは監視カメラの映像だ。被害者の下川はいつ健診センターを訪れたのか。そして、下川を殺した犯人は誰で、その犯人はいつ健診センターを訪れたのか。監視カメラがそれらの情報を撮影している可能性は非常に高い。事件関係者に話を聞く前に、事実を固めておく必要がある。
「午後の三時には帰りますから」
眼鏡をはずし、目頭をおさえながら秋月は言った。
「え」
「午後の三時には病院に帰ります。話はそれからでもよろしいですか」
「それはもちろん。ですがよろしいのですか」
今江は腕時計を横目で見た。現在の時刻は午前十時。
「その、午後の三時ですよね。午前の三時ではなくて。えっと、五時間後」
「もちろんです。別に刑事さんたちのためではありません。もともと今日は午後三時から勤務に就く予定だったので」
「そうですか。大変ですね、医者って仕事は」
「医者が大変なんじゃありません」
秋月は眼鏡をかけなおした。
「医療が大変なんです。本当にこの国の医療は、まったく」
医師はトートバッグを抱え直し、エレベーターホールの向こうに広がる雑踏の中に姿を消した。
「関先生がいらっしゃれば……」
篠栗の口からそんな言葉がこぼれ落ちた。
「関先生とはどなたですか」
口を開いたまま篠栗は今江を見つめる。その瞳にほんの少し影が差した。
「第二外科医局長の関茂人教授です。ここ数年体調を崩しがちで、週に二、三回大学の講義を行うだけで病院の方にはほとんど顔を出してくださいません。教授がいらっしゃらないので、第二外科の仕事の負担は助教授の秋月先生に降りてくるわけです」
「それで秋月先生は多忙を極めているというわけですね」
初芝は深いため息をついた。
「秋月先生もメスを持つ腕がいいばかりに、いくつも手術を任されて大変なんです。西東京一番の外科医って評判なんですよ。そのくせ後進を育てるのはへたくそだから、第二外科の医師たちは一向に成長せず、先生の負担は増えるばかり。それに雲仙先生が――」
篠栗は言葉を切って二人の刑事を見つめた。
「すみません。関係ない話ばかり。それで、刑事さんたちはどちらへ向かわれるのですか」
「監視カメラのデータを調べたいので、データセンターって所に向かうところです。よければ案内してもらえないかしら」
「お安い御用です。どうぞ、ついてきてください」
データセンターは一階中央エレベーターホールの北側にあった。
西側にある廊下を迂回して、北側にある小さなドアを開いて中に入る。
薄暗く狭苦しい正方形の部屋。将棋盤のマス目の様に壁に並んだ大量のモニター。モニターの前で腕を組み、ブツブツと不気味な小声を繰り返す不健康な体つきの男。モニターの白い光が男を照らす。男が振り返りニッと黄ばんだ歯を見せつけ――といった今江の想像を、ドアの向こうにあるデータセンターの実相はものの見事に覆した。
蛍光灯の光に満ちた広い部屋の中、アロハシャツを着た小麦色の肌の女性がライムグリーンのオフィスチェアに腰をかけてキーボードを叩いていた。
「おはようございます、今日はミキちゃんの日だったのね」
軽快な口調で篠栗はアロハシャツの女性に声をかけた。女性は正面を向いたままキーボードを叩き続けている。キーボードが置かれたデスクの上にはモニターがひとつ。横のデスクの上には同じ型のモニターが五つ並んでおいてあった。その全てに沢山の小さなウィンドウが表示されており、その中では長い廊下やらナースステーションやらエレベーターホールやらと多種多様な映像が流れていた。
篠栗が後ろに立ってオフィスチェアをぐるりと回すと、今江と初芝は呆けた顔でこちらを見つめるアロハシャツの女性と視線を交えた。
「ありゃりゃ、どちら様でしょ。あ、やべ」
アロハシャツの女性は慌てて両耳からブルートゥースイヤフォンを外した。篠栗は再びオフィスチェアをぐるりと回して女性と対峙した。
「仕事中に音楽だなんていけない子ね」
「手術室でも先生がお気に入りの音楽を流したりするんでしょ。それと同じってことで許してよ」
「う、ちょっと痛いところをついてくるわね。って駄目駄目。そんな詭弁には騙されないからね」
「まいったなー。こんな早くに栗ちゃんが来ると思わなかったよ。サボり? つかだれ。あ、警察のひとか」
「天神署の今江です。こっちは初芝」
今江は警察手帳を提示しながら言った。
「水谷です。下の名前は美紀菜。ミキって呼んでいーよ」
「かっこいいアロハシャツですね」
「うちアロハシャツとコートしか持ってないの。だから春夏秋冬アロハオエ」
「ご出身はハワイですか」
「いんや鳥取。聞いたよー。隣の何とかセンターでひとが殺されたんでしょ。きょてーなー。んでんで監視カメラのデータが欲しいってわけでしょ。あたりだべ。はいこれ」
ミキはゴディバの白い紙袋を差し出した。
「ハードディスク。岡ちゃんがやっとけって。つい一時間前までのデータを入れといたよ」
初芝は紙袋を開いて中をのぞき込んだ。黒い外付けハードディスクが入っている。
「話が早くて助かります」
「んーまぁね。こんだけ監視カメラがある病院も珍しいでしょ。ほんとここの院長ってば悪趣味だよね」
悪趣味。今江がその言葉の意味を訊ねようとした時、部屋のどこかから低いうなり声が一度聞こえた。
声のした方に顔を向ける。部屋の左手に車輪の付いたパーテーションが横に並んでいた。データセンターの天井はパーテーションの向こうまで伸びている。初芝がドア一枚分のすき間からパーテーションの向こうを覗くと、そこは円形のテーブルやソファーが並べられた居心地のよさそうな空間が広がっていた。
マガジンラックと大型テレビの横にある青いソファーの上に大柄な男が寝転がっていた。男はいま一度『うご』といびきをかいて、寝返りをうった。
「それが岡ちゃん。わたしと同じ会社から派遣されてる先輩なの。昨日は岡ちゃんが夜勤だったんだけど、警察のひとが来るだろうから寝ながら待ってるわけ」
ミキは二人の刑事の間を通ってソファーに近づいた。テーブルの上に置かれた口の空いたペットボトルをほんの少しだけ傾け、中の透明の液体を男の半開きの口の中に注ぎ込む。次の瞬間、すさまじい咳と共に男は飛び上がった。
「ほぁ! ほぁっはぁ! あぁ。うおぃやい。びっくり、えへぇ。あぁ。おはよう。いま何時。うん十時。眠いし腹減り。ん、ん、ん。あ、あれってもしかして警察のひと?」
男はソファーから立ち上がり、一度大きくノビをしてから刑事たちに向かって頭を下げた。
「どうも。岡です。えっと、昨日の夜この病院の中で人が殺されたって聞いて。たぶんカメラのデータが必要になるだろうと思って。はい」
「天神署の今江です。ハードディスクはさきほど水谷さんからお預かりしました。ご協力に感謝いたします」
「いえいえ。市民のつとめってやつです。ん。この場合の『つとめ』て漢字どっちだろう。務め? 勤め? まぁいいや。気が済んだら返しにきてください。いまは予備のハードディスクでデータを保存してますが、こっちは容量がしょぼいんで」
「わざわざわたしたちを待っていてくださったのですか」
今江が訊ねる。
「はい。帰ろうかとも思ったけど、たぶん当直をしていた病院のスタッフさんたちも残るだろうと思って。なんかそう思うと、ひとりだけ帰るのも抜け駆けみたいで悪いなって。この病院のひとたちは働きすぎなんだよ」
「秋月先生とか偉い先生は何人か帰っちゃいましたけどね」
篠栗がほほを膨らませて言った。
「そりゃお偉い先生はそうするでしょうよ。まぁ秋月先生は別。あのひとは帰ったほうがいいよ。冗談ぬきで働きすぎ。まったく。働き方改革なんて叫ばれてるこのご時世に、この病院は前時代的なんだから」
「あの、この場所はデータセンターの休憩所ですか。それにしてもずいぶんと広いような」
初芝の言う通り、パーテーションで区切られた向こう側には、かなりの面積が広がっていた。派遣社員ひとりが休憩をとるには、あまりにも広すぎる。
「違います。ここはわたしたち病院職員の休憩所です。この部屋はデータセンター兼職員休憩所。わたしたち看護師やスタッフがお昼を食べたりする部屋なんです」
「データセンターと兼用。そんなの聞いたことがない」
「それが悪趣味なんだって」
パーテーションの向こうに戻ったミキが明るい口調で悪態をついた。
「ねぇ栗ちゃん。わたしから説明してもいいかな」
「構わないよ」
両腕を組みながら篠栗は答えた。
「いまの病院長が病院長に就任した時にね、一部のお医者さんや看護師さんが、正規の休憩時間以外にサボっているのが問題になったの。そんで解決策として採用されたのが、大量の監視カメラとこのデータセンター兼休憩室ってわけ」
「監視カメラはまぁなんとなくわかるけど」
今江は眉間にしわを寄せて言った。
「データセンターと休憩所を兼用っていうのはどういうこと」
「監視カメラの映像を職員さんたちに見せるんです」
ペットボトルを片手に岡が語りだした。
「休憩所に入るまえにモニターの前を通ることで、『自分の業務は監視されている』という意識が植え付けられる。二十四時間すべてのデータを保存しているので、何かトラブルが起きた時にはすぐに確認ができます。加えて、わたしたちデータセンターの職員は、病院の職員さんが録画データを見たいとおっしゃったら積極的に見せるよう指示を受けています。見られる側であり、見る側でもある。相互監視の関係を職員間に植え付けることで、院内に緊張を取り戻せると院長は考えたわけです」
「ね、悪趣味でしょ」
ミキはふんすと鼻を鳴らした。
「でもまぁ、その悪趣味のおかげでこうして証拠品が手に入ったわけですし。われわれとしては万々歳ですね」
ゴディバの紙袋をさすりながら初芝が言った。
「今ここで見たいデータがあるんだけど」
今江はミキに言った。
「ん。いいよ、どこのやつ。いつのやつ」
「二階渡り廊下の入り口を見ている監視カメラ。そのカメラの映像を、昨夜の、そうね。十時から朝の八時まで早送りで流せるかしら」
「承り~」
妖精のタップダンスを思わせるリズムでミキはキーボードを叩いた。モニター上に映像データが流れ始める。ぽっかりと口を開いた渡り廊下。人の姿はない。
「暗いですね」
初芝が言った。
「夜間になると病棟以外の照明は消しちゃいますから。左の方の光源は、ナースステーションのものでしょう」
篠栗の言葉に初芝はうなずいた。今江は目を皿にしてモニターを見つめている。早送りで映像は流れているが、そこを訪れる人も物もないため、映像は代わり映えしない。まるで静止画のようだ。
「健診センターの一階が施錠されていた以上、犯人と被害者はここを通ってセンターを訪れたはず。つまり、被害者の他にこの映像に映った人間が犯人というわけです」
「だけど。どうして夜の十時からなんですか」
篠栗が訊ねた。
「先ほど今江さんにお伝えしたのですが、わたしは三時前に下川くんの姿をナースステーションで見ました。再生するなら三時前からでいいんじゃないですか」
「えっと、それは」
「言ってもいいわよ」
背中を向けたまま今江は言った。
「すぐに分かることだから」
「どういうことです?」
「実は、被害者の死亡推定時刻は午前零時から前後一時間以内と鑑定結果が出ています」
初芝の言葉に篠栗は苦悶の表情を浮かべた。
「そんなはずありません。だってわたしは、それじゃあわたしがあの時ナースステーションで会ったのは……」
「そろそろね」
今江がつぶやいた。五人の視線がモニターに注がれる。画面の右下に表示されている時刻は23:45と表示されていた。
――45、46、47、48――
一人の男が画面内に現れた。
坊主頭の後頭部が、決して鮮明とは言い難い画面に映った。かすかな光が紺色のスクラブウェアを照らしている。振り返った顔をカメラがとらえた。下川仁だ。
「被害者ですね」
初芝がつぶやいた。彼の横で篠栗が両手で口を押えていた。
画面の中の下川仁は、カメラの奥、健診センターへと吸い込まれるように消えていく。
「二十三時四十八分。下川仁は診断センターを訪れた。そして彼はこのあと画面に映る犯人に――」
「殺されたというわけですね」
今江の言葉を初芝が繋ぐ。
画面右下の時刻は分刻みで加算されていく。
00:10。一人の男の姿が画面に映った。
「え」
初芝は呆けた言葉を口にした。
画面の上の方、健診センターの入り口側から男が現れた。紺色のスクラブウェアを着た坊主頭の男は本館へと姿を消した。
「も、戻ってきた。被害者が、戻ってきた」
映像は再生を続け、やがて右下に表示される時刻は01:00をまわった。
「ほら、やっぱりわたしが言った通りでしょ」
跳ねるような口調で篠栗は言った。
「下川くんは三時前まで生きてたんですよ」
「だとしても。どうして。どうして被害者はこの時間に健診センターを訪れたの」
今江の頭の中で疑問符が暴れまわっていた。
疑問符はそのカギ爪のような切っ先で、今江の脳細胞をずたずたに切り裂いていく。
02:00。02:10。02:20.02:30。時刻は少しずつ加算されていく。画面にひとの姿は映らない。
02:58。画面に再び、紺のスクラブウェアを着た坊主頭が映った。
最初に映像に映った姿と同じく、男は本館から渡り廊下を通って健診センターへと向かった。
「ほらやっぱり。下川くんが殺されたのはこの後なんですよ」
「静かに」
今江の怒声が部屋中に響いた。
下川仁を殺した犯人がカメラの前を通るはずだ。表示された時刻は淡々と数字を重ねていく。犯人は誰だ。誰が下川仁を殺したのか。犯人の姿を見逃すまいと構えた今江と初芝は、グッと目を見開き、息をのみ、そして――
「これは、どういうことでしょう」
初芝は頭を抱えて壁に手をついた。
映像の時刻は08:00と表示されている。この頃には通報を受けた警察官たちが現場を訪れ、犯人の姿がないか隅から隅まで現場を探し回っていた。
建物内に犯人の姿はなかった。だから警察は犯人が殺害後、渡り廊下を通って逃走したと考えた。
だが、渡り廊下には誰も映らなかった。
午前二時五十八分以降、渡り廊下を通った者は、一人もいなかったのである。