幕間B
「大学病院とはな。ずいぶんとお堅いところに勤めているじゃないか」
籐藤剛はいくらかぬるくなったブラックコーヒーを口に運び、皮肉交じりの微笑みを見せた。
「忙しい仕事ではありますが、探偵と違って収入は安定しているし危険もない。あの子も過去にいろいろとありましたからね。探偵稼業を嫌っているんです。普通の生活ってやつに満足しているんでしょう」
「じゃあもとより探偵になんてなってくれるはずないじゃないか。それなのになんだ。お前は自分が頼み込めば妹さんが看護師を辞めてくれると思ったのか」
「あ。あ。女性だからって看護師と決めつけるのは偏見ですよ。病院で働く女性は看護師だけじゃない。医者もいれば事務職もいる。売店の店員や清掃員。施設管理の仕事なんかもあるでしょう」
「話をそらすな」
籐藤の瞳に怒りの色が灯る。法律は背筋を伸ばして小さく会釈した。
「病院を辞めて探偵業を手伝えってのはお前のエゴじゃないか」
「ぼくは病院の仕事は続けても構わないと言ったんです」
「副業として探偵をやれってか」
「手の空いている時にちょいっと来てそこの席に座ってくれればいいんですよ」
法律は事務所の中央を指さした。そこには四つの机が集まって島をつくっていた。年季の入った机の上にはものが何一つとして置かれてはいない。ノートパソコンも、筆立ても、卓上カレンダーさえも、ない。
「本人にやる気がない以上は仕方がないだろ。病院勤めの妹さんのことは諦めるしかないな」
「いえ、諦めません」
法律は言った。
「諦めないというか、諦める必要はありません。たしかにあの子は十日前にぼくの誘いを断った。だけどあの子は探偵です。あの子の細胞には探偵のDNAが深く刻みつけられている。探偵としてのあの子は眠っているに過ぎません。ぼくは肩を軽くたたいてみただけ。あとは彼女が自分の意志で起きるのを待つだけです。あぁ。そんな顔をしないでください」
法律は十本の指をかたかたとテーブルの上で躍らせた。
「比喩です。二重人格なんかじゃありません。潜在意識とでも言えばいいのかな。例えばですね、不可解な事件の話を耳にするとか、未解決事件を扱ったテレビ番組を見るとか、そんなことでいいんです。『謎』が彼女を目覚めさせる。どうしようもない恒河沙の血が、あの子の魂を活性化させる。その時彼女はぼくたち兄妹に力を貸してくれるはずです」
「わからん。そもそもお前たちはどうして別々に暮らしているんだ。一番下の子は高校生なんだろ。その子は母親と二人で暮しているのか」
法律は口もとに右手をそっと当てた。たっぷり十秒ほど押し黙ってから、彼はぽつぽつと言葉を紡いだ。
「ぼくたち兄妹は母親のことをよく知りません」
籐藤は顔を歪ませた。
「どういうことだ」
「恒河沙理人は『恒河沙』の名を――『反謎』の称号を未来へ残すためにぼくたちを産みだしました。あの男にとって大切なのは自分の遺伝子であり母親のものではありません。ぼくたちは全員腹違いの兄妹です。理人は自分にとって都合のいい女性に子どもを産ませ、二歳の誕生日を迎えた子どもを母親の元から連れ去り探偵としての教育を始めました。恒河沙理人とはそういう男なんです」
「狂ってるな」
籐藤は深いため息をついた。
「二歳の子どもを母親から引き離すなんて、子どもにとっても母親にとっても不幸だ」
「いえ。母親たちは嬉々としてぼくたちを手放しました」
「馬鹿な。そんな母親がいるわけないだろ」
「恒河沙理人のことを思い出してください。籐藤さんの目から見て、彼はどんな男でした」
籐藤は約ひと月前に出会った恒河沙理人の姿を脳裏に描いてみた。
薄暗いガレージの中、後光を背にして立つチェスターコートの男。老獪な顔つきの上で照り輝く少年の如き肌の艶。不気味さと不快さと人間的魅力を兼ね備えた魔性の探偵。その本性は傲慢にして暴君。『反謎』はその場に居合わせた人々の精神を、あるいは肉体を存分に傷つけ、魅了し、去っていった。
恒河沙理人は悪人だ。悪人でありながら、その超越的な性格には不思議と人を惹きつける力がある。それは台風や雷雨などの災害現象に直面した時の感情によく似ている。恐ろしい。命の危機だ。それなのに心の隅には非日常への嬉々とした感情が溢れている。その力に触れてみたい。その力に壊されたい。人智を超えた存在への畏怖と畏敬が相反することなく共存している。カリスマ。思考を捨て、この男に従い続ければすべてが穏便に片付くだろう。そんな、そんな感情がたしかに――
「母親たちは恒河沙理人を信仰していた。彼女たちは自身の子どもを次なる『反謎』とするために、喜んで差し出したというわけか」
「そんなところです」
「そしてお前たちは恒河沙理人のもとで探偵としての修行を積んだわけだ」
「いいえ。ぼくたちは恒河沙理人からは大して教わっていません。ぼくたちに探偵のいろはを教えてくれたのは、理人の弟子達です」
「恒河沙理人には弟子がいるのか」
「はい。理人は探偵の技能を大きく四つに分けて体系化しました。四人の弟子にそれぞれの技能を極めさせ、一つの技能に特出した専門家型探偵を四人育て上げたのです。一人の弟子につき一人の子どもを預け、探偵としての才能を開花させる。それが弟子達に課せられた師匠からの命令であり、理人が自身の手で弟子達を育て上げた理由でもあります」
「四人の弟子は全国に散らばっている。だからお前たち兄妹も離れ離れで暮しているというわけか」
やっと最初の疑問の答えが回収された。しかし次の瞬間、籐藤の脳裏に再び疑問符が浮かび上がった。
「四人の弟子? お前たち兄妹は五人だろう。それなら理人の弟子も少なくとも五人いるはずじゃないか」
籐藤の問いかけに法律は顔を曇らせた。彼は立ち上がり、窓のそばに寄ると、その窓に片手をつき重い息を吐き出した。
「おっしゃる通りです」
法律は言った。その言葉には熱がなかった。絶対零度の感情が込められた声に籐藤の背中は寒気を覚えた。
「恒河沙理人には、四人の他に、もう一人弟子がいました。体系化された四つの技能を全て極めた万能家型探偵。理人も一度は血のつながっていない彼に『反謎』の名を継がせようかと考えたそうです。彼は名探偵として名を馳せましたが、その実力は『反謎』には値しないと理人は判断し、『反謎』候補から降ろしました。理人が他に四人の弟子を集めたのはそれからのことです。四人の弟子。自身の子どもの教育係。つまりこの時になって初めて理人は血のつながりに固執するようになったわけです」
「その五人目の、いや。最初の弟子もまた兄妹のうちの一人を探偵として育てあげたわけか」
籐藤はソファーに腰を降ろしたまま、窓際の法律の方を見ることなく訊ねた。
「彼のもとに送られたのがぼくです。万能家型探偵のもとに送られたぼくは、当初『反謎』に最も近い序列一位の存在として期待されました。他の四人はそれぞれの弟子のもとで、専門家型探偵を目指して育てられた、いわばぼくの『予備品』でした」
――だけど――
「十年前。ぼくは失敗した」
鋭利な口調で法律は言った。
「ぼくは失敗し、裏切られ、すべてを失い、恒河沙理人はぼくを見限った。ぼくは『反謎』候補から脱落した。そのことに未練はありません。すべてを失って、ぼくはその時初めて恒河沙理人の醜悪に気づいた。『反謎』の称号は黄金色の王冠なんかじゃない」
法律の瞳が過去を想起していた。
「あれは罪人を示す烙印です」