第二章
1
「山吹医科大学附属病院までお願いします」
「ハイよ」
佐藤賢介は白手袋をはめなおすと、メーターを起こし、タクシーを路肩から出発させた。
「急ぎますか」
そう訊ねながら佐藤がバックミラーを見ると、鏡の中の女性客も佐藤を見つめていた。黒いパンツスーツ姿の女性客は、ほほの小じわを吊り上げ――
「安全運転の範疇で急いでください」
と曖昧な注文を返した。
朝陽に照らされた四車線の国道に車は少ない。ライトイエローのタクシーは客の要望に応えるため急加速した。
「場所はわかりますか」
客が訊ねた。カーナビの中にある3Dポリゴンの街並みを赤い矢印が駆けていく。目的地の設定はなされていない。
「もちろん。夜中にここいらを回していると、しょっちゅう急患のお客さんを運びますからね。救急車を呼べばいいのに、どうもみなさん、あの大げさなサイレンがご近所さんを叩き起こすって遠慮するみたいですよ」
「救急車は有料だなんて思い込んでいるひともいますからね」
「え、違うんですか」
「もちろん。国民皆保険制度の賜物ですよ。わたしたちの給料からの天引きが、一回四万五千円という救急車の稼働費用を賄っているわけです」
「へぇぇ。詳しいですね。あ、お客さん、山吹の看護師さん?」
女性客は小さくかぶりを振った。
「ううん。それじゃあ患者さんだ。でも病院は九時からでしょう。道は空いてるし、病院についても四十分以上は待つことになりますよ」
「とにかく急いでください」
東京都西部は多摩地域に位置するI市。そのI市の丘陵地帯にある住宅街にタクシーは差しかかった。
丘の頂上からI市を見おろす白亜の塔。いや、遠目には白く見えるが、実際に近づいてみると、その外壁は赤味が強い橙色に染められていることに気づくだろう。もちろん、この外壁は病院の名前を意識したものだ。山吹医科大学附属病院はI市における地域医療の中核を担う総合病院として、近隣住民の心の拠り所となっていた。
「ん。ありゃなんだ」
病院の正面ゲートの向こう、左手に立つ建物の前でパトランプを照らすパトカーが群れをなして停まっていた。その周囲では制服警官たちが慌ただしく駆けまわっており、病院職員と思わしき通勤服姿の人々は怪訝な視線を送りながら右手にある病院本館に向かっていた。
「なにか事件ですかね。怖いなぁ」
「このあたりで停めてください」
病院の手前で女性客はタクシーから降りた。佐藤はハンドルに左手を置きながら、底の薄い革靴を鳴らして病院のゲートをくぐる女性客の姿を見つめていた。
女性客は迷うことなくパトカーの群れへと向かい、幾人かの制服警官が彼女に丁重な敬礼を構えた。
佐藤はハッと息を飲み、そして一度舌打ちをした。向こう三日の賞味期限を持つであろう、営業トークのネタを聞き損じたと、彼はこの時後悔した。
後日、佐藤はこう考えを改めた。賞味期限は三日ではなかった。それはこの山吹医科大学附属病院が存在し続ける限り、その鮮度を保ち続けたに違いないと。
2
「ご苦労さま。わたしが一番乗りかしら」
敬礼を返しながら今江恭子は訊ねた。眼前に立つ二階建ての建物は、一本の渡り廊下でつながる隣の本館の影に飲み込まれ、薄暗い雰囲気をかもし出していた。
「はい。お早いお着きでしたね」
若い制服警官の声は少しだけ裏返っていた。瑞々しいふるまいとその肌の艶に、今江は羨望の念をかすかに抱いた。
「近くに住んでいるの。玄関を出たところで連絡が来てタクシーを捕まえたわけ。それで、どんな状況」
「報告します。本日〇七三一、こちら山吹医科大学附属病院健診センター二階待合室において、刺殺体が発見されました。心臓を刃物で刺されたらしく、現場は血の海と化しています。遺体の詳しい状況は現場で小松さんに訊いてください」
「検視官がもう来てるの」
今江が言った。マッシュショートの黒髪が風に吹かれて揺れる。
「はい。巡査部長の少し前に」
「そっか。小松くんか。それなら納得。遺体を見つけたのは誰」
「第一発見者は同センター職員の水谷恵四十歳。開館準備のため待合室に向かった際に、遺体を発見したとのことです」
「被害者は誰なの」
「首にかかった職員証には『下川仁』とありました。顔写真の部分が血で汚れていたので、被害者のものとは断言できませんが」
「服装は」
「紺色の、あれ、なんて言いましたっけ。お医者さんがよく白衣の下に着ている半袖の、動きやすそうなシャツです」
「スクラブウェア。病院関係者には間違いなさそうね。とりあえず、隣の本館に行って、下川仁の顔を知っているひとを連れてきて。被害者が誰なのかを確定しなきゃ」
「承知しました。死体を見てもビビらない肝の据わった男を連れてきますよ」
小走りで駆けていく若い警官を見ながら今江はため息をついた。
「男も女も関係ないでしょうが」
3
「遅かったですね」
鑑識服に身を包んだ小松宙太は、マスクと制帽の間から黒い瞳をのぞかせた。
「わたしが遅いんじゃない。あんたらが早すぎるの」
「早いにこしたことはないでしょう。一分一秒一コンマの速度で死体は口を重くしていきます。死者の言葉を紡ぎ取るため、誰よりも早く現場に着く。それが万願寺一派のポリシーです」
「警視庁の大先生の噂はよく聞くけど、実際に会ったことはないのよね。あんたみたいに誰彼問わず偉そうな態度をとるひとなの」
「まさか。ぼくとは似ても似つかぬ偉人ですよ」
「聖人君子?」
「いえ。一騎当千です」
「検視官の話をしてるのよね」
「もちろん。わたしたちは戦士ですから。真実の御旗のもとで、欺瞞という名の悪を滅ぼす活溌発地の戦人」
「その四字熟語は知らない」
「ではご存じと思われる四字熟語に変換させていただきます」
「うん」
「元気百倍」
「あんたと話していると頭痛がしてくる。死体と会話させてもらうわ」
「どうぞ。僭越ながら通訳を務めさせていただきますよ」
遺体は待合室の中央にあった。
血だまりの中にぼうず頭の男がうつ伏せで倒れている。制服警官の報告にあったとおり紺のスクラブウェアを着ているが、正面は鮮血に染まり、『ただの』紺と『狂気の様相を呈した』紺によるツートンカラーを成していた。
「先に少しだけ持ち上げて見させてもらいましたよ。胸部の刺創から大量に出血しています。出血性ショック死で間違いないですよ。胸ポケットにPHSが入っていましたが、得物は上手く横をすり抜けています」
「もう少し詳しく見てみましょうか」
シートを広げ、その上に遺体をあお向けに寝かせる。遺体の正面を見て、二人は顔をしかめた。
「どれ。ちょっと失礼」
小松はニトリル生地の手袋の上から遺体の見分を始めた。
「ふんふん。間違いありません。刺創は胸のこれ一つだけです」
「それは普通じゃないわね」
刃物を用いてひとを死に至らしめる場合、多くの加害者は被害者の身体に繰り返し刃物を刺しこむ。骨に弾かれたり、躊躇ゆえに刺し込む深さが足りなかったりと、一度の攻撃だけでは致命傷とはなりがたいことが多いからだ。
突き刺し、血が出る。しかし相手はまだ動いている。ならばと追撃二度三度。
また被害者への深い恨み故に、繰り返し突き刺す――多くの場合それは死後にも繰り返される――ことも珍しくはない。
「凶器は」
「ナイフです」
小松は血の海の中に浮かぶナイフを指さした。
「うつ伏せに倒れた際に、身体から外れたんですかね。身体の下敷きになっていましたよ。他にそれらしい凶器は見つかっていませんし、それで間違いないでしょう」
今江はナイフのもとに近づいた。木製の柄がついた片刃のナイフ。刃渡りは十五センチほど。
「ナイフで心臓をひと突き。そりゃ心臓を刺されれば誰だって死ぬけれど、犯人はこの一撃だけで満足した。普通の犯人とは異なり、たったの一撃で相手の死を確信した」
「まるで、人間を切り刻むのに慣れているかのようですね。慣れている。ふむ。犯人は連続殺人鬼でしょうか。令和によみがえった切り裂きジャック伝説」
「人間を切り刻むのに慣れているのは殺人鬼だけじゃないわ」
今江は両腕を組んで深く息を吐いた。
「人間を切り刻んで金を稼いでいるひともいるでしょ。もちろん、合法的にね」
4
「被害者の名前は下川仁ですか」
小松は血だまりの中に落ちている職員証を見た。
「顔写真の部分が血で汚れているので、本当にこの被害者が下川仁なのかわかりませんね」
「いま病院の人間を呼びに行ってもらっている」
「死体を見てもらうわけですね。まぁ、医者なら見慣れているから大丈夫か」
「すみません。お連れしました」
先ほどの制服警官が待合室の入り口に現れた。
制服警官の後ろでグレーのスーツを着た男が落ち着かない様子で身体を揺らしている。年齢は五十代といったところか。
「事務課課長の五反田と申します」
「事務課……ですか」
今江が落胆の声をあげた。背後で小松がくすりと笑った。
「天神署捜査一課の今江と申します」
「亡くなっているのは下川くんなのですか」
「わかりません。それを確認してもらうためにお呼びしたのです。よろしいですか」
「あの。先に質問をしてもいいですか。下川くんはどんな状態で。わたし、もっぱらデスクワークが主な仕事でしてグロテスクなのはちょっと、その」
「五反田さんは下川さんの顔はご存じなのですね」
「まぁ、はい」
「でしたらどうぞ。お願いします」
今江は左手を待合室の中へと向けた。自分の質問をうやむやにされたことに気づいていないのか、五反田は恐る恐る待合室の中をのぞき込んだ。
「う、うわ。血だ」
悲鳴に近い声があがる。しかし五反田は後ずさることはなかった。彼は今江とともにゆっくりと遺体に近づいた。
「うん……下川くんです。外科医局の下川仁くんです」
「よく見てください。間違いありませんか」
「間違いありません」
五反田は力強くうなずいた。
「わかりました。ご協力ありがとうございます」
今江と五反田は廊下へ出た。
廊下の向こうからスーツ姿の男たちが五人ほどやってきた。今江と同じ天神警察署の刑事たちだ。
今江は彼らに事件の詳細を説明し、現場に入って小松から遺体の状況を詳しく聞くよう指示をだした。
「捜査の指揮は今江さんがとられるのですか」
五反田が訊ねた。
「まだ確定したわけではありません。現状は年の功でわたしがトップに立っているだけです」
今江が答えた。
「なるほど。それであの、下川くんは誰かに殺されたのでしょうか」
五反田が訊ねた。
「おそらく」
今江が答えた。
「犯人は誰なんですか」
五反田が訊ねた。
「まだ何とも」
今江が答えた。
「事件解決のためには病院さんの協力が必要になります」
今江が言った。
「それはもちろん。とりあえず病院長のところへお越しいただけますか」
五反田が言った。
「えっと。その前にお聞きしたいことがあるのですが、よろしいですか」
今江でも五反田のものでもない声が訊ねた。
二人は声のした方に振り返った。そこには、白い歯をのぞかせるスーツ姿の若い男が立っていた。
「建物入口のカギは締まっていたんですよね。そしたら犯人は――」
「あんた誰」
今江の鋭い声が空気を裂いた。
「警察の方ではないのですか」
五反田が怪訝な視線を送る。今江はうなずき、男のスーツの襟をグイと掴んだ。
「病院関係者というわけでもなさそうね。もしかしてあんたが犯人なの。犯人は現場に戻ってくるって本当だったんだ」
「わわわ。勘弁してください。それにそんな通説が大ウソだってのは、ぼくらの業界じゃ常識でしょう」
「ぼくら?」
今江が手を離すと、男は襟を整えて含み笑いを浮かべた。
「はじめまして。警視庁捜査一課の初芝広大巡査です。捜査に協力するためおっとり刀でやってきました」
5
「あんたみたいな若造がなんでここに」
「怖い人ですね。警視庁が介入することよりも、年齢の方を問題視してきた」
初芝は警察手帳を懐にしまいながら言った。ヘリウムガスを詰め込んだ風船のように掴みどころのない態度だ。今江の本能がつぶやいた。『この男苦手』と。
「このコロシの端緒はほんの一時間前。ろくに捜査も進んでいないのに、いったい誰がどんな根拠で警視庁に捜査協力を依頼したの」
「さぁ」
再び今江は初芝の襟を掴みにかかった。決して小柄とは言えない初芝の身体が少しづつ上昇していく。
「く、くるちい」
「刑事さん。ストップストップ」
五反田が慌てて止めにかかるが、今江の両手は緩む気配をみせない。周りを歩く警察官たちは、触らぬ神に祟りなしといった様子で傍観を決め込んでいた。
「ぼ、ぼくだってわからないんですよ。出勤しようとしたらスマホに電話がかかってきて。パトカーに乗って大至急この病院に行けって桂さんが……」
「桂さん?」
そう口にすると今江は両手を緩めた。初芝の身体が崩れ落ちる。
「桂さんって。まさか、警視監が」
「そうです。知らない番号から電話がきて、不愛想に『もしもし』って応えたら、相手が警視監だったぼくの気持ちもわかってくださいよ」
今江の眉間にしわが寄った。遺体発見の通報からまだ一時間ほどしか経っていない。桂副総監はこの事件の情報を通報から一時間以内に把握し、初芝の派遣の訓令を下したわけだ。
警視庁所属の桂がその通報の情報を得ることは不可能ではない。しかし、不自然だ。
凡庸な殺人事件が一つ発生したところで、すぐさま副総監のもとへ情報が届けられるはずがない。つまり桂は、今回の事件を構成する少なくとも何か一つの要素にネットを事前に張っておき、一時間前の通報がそのネットを揺らしたというわけだ。
だが、なんのため。なんのためにそのネットは張り巡らされたのか。
副総監のような重役が現場に介入することはめったにない。事件関係者が社会的に重要な立場にある場合などの例外もあるが、それならばこんな若造一人だけを手配するはずもなかろう。
今江の思考は疑惑の渦に飲み込まれていった。同時に彼女は確信していた。あの桂がその身を乗り出した以上、この事件の裏には何かがあると。
今江のポケットでスマートフォンが鳴った。
「今江です」
電話口の相手は天神署刑事部捜査一課課長の田所律郎だった。
いつもの高歌放吟な態度はどこへやら。生まれたての小鹿のような声で彼は言った。曰く、警視庁副総監からの指令のもと、警視庁捜査一課の初芝広大巡査と協力して捜査にあたるようにと。
「既に承知しています」
しかし、さらに付け加えられた情報は今江が未だに承知していないことだった。
曰く、初芝広大巡査は今江恭子巡査部長とペアを組んで捜査にあたるようにと。
「とりあえず、あなたはわたしについてきて」
今江はそっけない態度で初芝に言った。
「それでは五反田さん。病院長のところまでご案内願えますか」
「構いませんが、こちらの刑事さんが先ほど何かを言いかけていませんでしたか」
「え、え。ぼくが。あぁそうだ」
初芝はパタパタと両手をたたいた。
「入口はカギがかかっていたんですよね。だとしたら犯人は隣の本館とつながっている渡り廊下から出入りしたと考えるのが妥当です。渡り廊下のドアは夜間も施錠されているのですか」
初芝は廊下の奥を指さした。二枚のドアに閉ざされた向こうには本館へと繋がる六メートルほどの渡り廊下がある。
「いえ。あのドアは常時開放されております。一階の入り口は夜間人目につかない場所なので一応施錠しておりますが、渡り廊下の先にはナースステーションがありますので」
「なるほど。ということは犯人がこの渡り廊下を通ったことは間違いないようですね。今江さん。あとでそのナースステーションの看護師さんたちに話を聞きましょう」
「あんたが仕切るんじゃない」
今江は初芝の尻をはたいた。
「警視庁だかなんだか知らないけどね、あんたは巡査でわたしは巡査部長。警察組織においては階級が絶対。いいわね」
「いいですよ、もちろん」
けろりとした態度で初芝は言った。
「こんな感じの扱いは慣れてますんで」
6
渡り廊下を通って本館へ移ろうとしたが、待合室の前に来た時に初芝は『見てきていいですか』と二人を止めた。
「遺体。ぼくまだ見てないんで」
「一分だけあげる。ブーメランみたいに行ってブーメランみたいに帰ってきなさい」
ふらふらと身体を揺らしながら初芝は待合室へと入った。
「病院長さんにあいさつをしてから本格的な捜査を始めます」
今江は五反田に言った。
「とりあえず渡り廊下の向こうにあるナースステーションと、被害者が所属していた部署の方から話を聞くことを優先します。下川さんは外科の所属と先ほどおっしゃいましたね」
「第二外科の研修医です。今年から後期研修医として外科医局の専門医を目指していたところです」
「後期研修医というのは何ですか」
「専門研修医という別名の方がわかりやすいかもしれませんね。医学部卒業後、医師志望者は初期研修として複数の医局を渡り歩き、医師として最低限の臨床能力を取得します。二年間の初期研修を終えたあとは、希望した一つの医局に所属して専門的なスキルを取得していきます。これが後期研修となります。下川くんは今年から後期研修医として第二外科に所属していました」
「研修医。ということは年齢は」
「たしか二十……七とかだったかと思います」
今江は脳裏に刻んだ下川の顔を思い出した。
「二十代にしては老け顔ですね」
「貫禄がある研修医でしたよ」
「外科は複数あるのですか」
「はい。第一外科と第二外科があります」
「その違いは」
「第一外科は主に心臓を専門としております。第二外科の主な専門は消化器官です」
「夜の間このドアは開放されているとのことでしたが」
今江は渡り廊下に繋がる両開きのドアをあごでさした。
「夜間に病院職員がこの建物を訪れることはよくあるのですか」
「いえ。ありません」
五反田は即答した。
「ここ健診センターでは健康診断や予防接種が主に行われています。遅くとも夜の八時には閉館しますし、残業が発生するような仕事量でもありません。夜間の入室を禁止しているわけではありませんが、そもそも夜間にここに来る理由がないのです」
「だけど、被害者は訪れた」
今江は手帳の上でボールペンを走らせた。
「仕事のために健診センターに来たわけじゃないとしたら、誰かと、例えば犯人と会うために――」
今江の声を突き飛ばすように目の前のドアが開かれた。渡り廊下へとつながるドアだ。
「あ、今江巡査部長。ちょうどいいところに」
そこには顔なじみの制服警官がいた。ぶ厚い身体の後ろで、スクラブウェアを来た小柄の女性がきょろきょろと目線を泳がせていた。
「こちらの看護師さんからお伺いしたのですが、昨夜から当直の医師が行方不明なのだそうです」
「行方不明って。篠栗さん、それはもしかして下川くんのことかな」
五反田が訊ねた。篠栗と呼ばれた看護師は激しく首を縦に振った。
「健診センターで死体が見つかったって聞いて、もしかして下川くんじゃないかなと思ったんです」
「あたりだよ。待合室で亡くなっている」
篠栗は両手を口に当てて壁にもたれかかった。みるみるうちに顔が蒼白に染まっていく。今江が彼女のそばに寄り、肩を優しく抱いた。
「大丈夫。大丈夫だから。あなたは看護師さんね」
「はい。東三階ステーション所属の」
「天神署の今江です。東三階っていうのは」
「名前の通り、本館の三階東側の病棟を担当しているナースステーションです」
五反田が助け舟を出した。
「東三階の病棟は主に外科の患者さんが入院されています。下川くんも頻繁に出入りしていたはずですよ」
「篠栗さんも昨夜は当直を担当していたの」
「はい。緊急オペが入ったのに下川くんと連絡がつかなかったんです。電話にも出ないし、どこを探しても見つからなくて。まさか健診センターに来ていたとは思いもしませんでした」
「下川さんを最後に見たのはいつ」
今江が訊ねると、篠栗はこめかみに手を当てて目を細めた。
「あれはたしか、三時前。二時五十分くらいです。ナースステーションでテーブルに座って解剖学書を読んでいる姿を見たのが最後です」
「三時前ね。緊急オペの呼び出しで下川さんに電話をしたのは何時ごろ」
「三時二十分くらいです」
篠栗の証言を参考にすると、下川仁が殺されたのは二時五十分から三時二十分の間ということになる。電話がかかってきたその時間、既に下川仁は殺されていたのだろう。
「ナースステーションを出る時に下川さんは何か言っていた?」
「いえ。気づいたらいなくなっていました。無口で存在感のない人だったから」
それだけ聞くと、今江は篠栗を本館の方へと返した。
「ブーメラン戻ってきました。お。パーティーメンバーが一人増えてる」
待合室から出てきた初芝が制服警官を見ながら片手をあげた。
「一分で戻ってこいって言ったでしょ」
「体内時計は一分です。お腹すきましたね。そういえばぼく朝食がまだでした」
「死体を前によくそんなこと言えるわね」
「つい最近もっとグロテスクな死体を見ましたんで。しかもたくさん」
そう口にした初芝の目元が哀愁に滲んだ。陽気な彼らしくないその表情に、今江の心臓がドクリと音を立てた。
「おっと初芝くん。パーティーメンバーならこっちも一人増えたじゃないか」
待合室のドアから小松が上半身をのぞかせた。小松の顔を見て初芝の哀愁はどこかに消えた。この数分の間に意気投合したのか、二人は笑顔で左右の人差し指を互いに向け合った。
「巡査部長殿。死亡推定時刻がわかりましたよ」
人差し指を今江に向けながら小松が言った。
「当ててあげる」
今江は鼻を鳴らした。
「二時五十分から三時二十分の間。どう、正解でしょう」
小松はぽかんと口を開けて今江を見つめた。検視官はドアから出てきて全身を見せると、左右に大きく首を振った。
「全然違います」
冗談でもなんでもない。そんな意志を伝えるためか、小松は彼には不似合いな堅い表情を作ってみせた。
「死亡推定時刻は午前零時から前後一時間です。二時五十分って。何ですかそれ」