第十一章
1
ドアを開けると、パーテーションの奥から押し殺した話し声が聞こえてきた。
パーテーションのすき間から岡が顔を見せる。よく肥えたこの技術職員はこちらを見て頭を下げると、テーブルの上のノートパソコンを抱えてパーテーションの内側に戻った。
岡に続いてパーテーションの内側――データーセンターに併設された休憩所にはいる。のどの奥から小さな声が漏れ出た。多い。十人近い病院職員が室内に会している。
何人か顔見知りの職員が挨拶をしてくる。微笑と小さく右手をあげるにとどめておく。これでいい。第三土曜日の午前十時。月に一度の土曜の休館日。仕事の少ない貴重な一日を警察なんぞに潰されるわけだ。少しぐらいの無愛想がちょうどいい。
誰もいない奥のソファーに座る。両目を閉じて、腕を組み――ほんの少しだけ右目を開けて周りの様子をうかがう。看護師もいれば、医師もいる。他にも私服組の職員が何人か。
ローテーブルの上に広げたノートパソコンを弄りながら岡がぶつぶつとつぶやいている。足元にある家電量販店のロゴが書かれた大きな紙袋からコンセントの延長コードを取り出し、部屋の隅までえっちらおっちらと伸ばしていった。
話し声が聞こえる。どうやら皆も刑事にこの部屋に呼ばれたらしい。どういうつもりだろう。探偵小説のように、皆の前で犯人を告発するつもりだろうか。
まさか。何の意味がある。犯人に羞恥を味合わせるためか。いや。あの女刑事はそんな不合理で下品な手を好むようには見えなかった。金魚のフンの若い刑事も同じく。
目を閉じて、暗闇の中に下川の顔を浮かべる。地蔵のような、白く冷たい顔。
ばかな男だった。何もわかっちゃいない。自分が何者なのか。この世界がどんな姿をしているのか。何も、何もわかっちゃいない。
だから殺した。
だから下川は死んだ。二十何年だかの短い生涯に、黒くぶ厚い幕をおろしてやった。
下川を殺したあの日から今日で四日目。
この四日間の自分の精神状態を鑑みる。思わず口の中から笑い声が漏れでた。笑い声。そうだ。これがジョークでなくて何だというんだ。
あの夜の記憶は、一片も欠けることなく頭の中に残っている。
――考えていただけましたか――
暗闇の中。静かに振り返る下川。
勘繰られてはまずい。素早く懐に飛び込み、下川の胸にナイフを差しこんだ。
ためらいなんてなかった。覚悟はしていた。修羅に堕ちる覚悟。人殺しの烙印。
だから何だ。だから何だ。だから何だっていうんだ。
充分な深さまで刺さったナイフを素早く抜き取り、返り血を浴びないよう横に飛ぶ。血だらけの両手をこちらに伸ばしながら、膝から崩れ落ちていく若き研修医。陸に打ち上げられた魚のように痙攣する身体。地鳴りのようなうめき声は、時間の経過と共に微かなものへと変わっていった。
ひとつの生命が、目の前で消えた。
ひとつの生命を、この手で奪った。
すべてをこの手が覚えている。
自分の心臓が焦燥を覚えることはなかった。
今一度、ナイフが下川の胸に突き刺さるあの感覚を想起する。
笑える。脈拍は正常だ。ひとを殺したのに、なんとも思っていない。恐ろしいほどに平常心。
ドアが開く音が聞こえた。自然な態度を装って目を開く。ライトグレーのスーツに緋色のネクタイをあわせた若い刑事が現れた。
初芝とかいったか。覇気のない表情で腕にかけたコートをさすっている。室内の皆にかけるあいさつの声も弱々しい。
若き刑事はパーテーションの裏側に引っ込んだ。岡が刑事の元に向かい、小さな声で会話をしている。
五分ほど経っただろうか。もう一度ドアの開く音が聞こえた。
パーテーションのすきから、パンツスーツ姿の女性が現れた。今江刑事だ。横の席にコートを置き、乱れた前髪を整えてから口を開いた。
「遅れてしまい申し訳ありません」
「それは構いませんが……」
おどおどとした態度で五反田事務課長が言う。
「お話を伺いたいと刑事さんがおっしゃるのでここに来たわけですが、まさかこんなにも人がいるとは思いませんでした。聞けば皆さんも刑事さんに呼び出されたそうじゃないですか。いったい、何をお考えなのですか」
「まず我々から今回の事件についてお話させていただきます」
女刑事は淡々とした口調で言った。
「その途中、わたしの方から、皆さんへ事実の確認や情報の正誤について質問をさせていただきます。その都度、皆さんには真摯にお答えいただきたい所存です」
「だけど、もうずいぶんと刑事さんにはお話ししましたよ。同じことを繰り返して、いったい何になるんですか」
「もちろん。事件が解決するのです」
室内の空気がざわついた。皆は驚愕の表情で顔を突き合わせている。
「先に聞かせてください。結局、自殺だったのですか」
自分の口からそんな言葉が漏れでた。我ながら白々しい。
「違います」
太刀の一筋のように女刑事は言った。
「下川さんは殺されたのです。他ならぬ、同僚の手によってね」
「それは恐ろしい」
脈拍、変動なし。
何もかもがいつも通りだ。
2
今江は人差し指の根本を口に当てると、『まず最初に』と話を切り出した。
「大前提として皆さんに共有していただきたい情報があります。大したことではありません。純然たる事実。下川仁という第二外科の研修医が、健診センター二階で遺体となって見つかった。この純然たる事実から話を進めていきたいと思います。下川さんは心臓をナイフで突かれて死亡しました。五反田さんにはご遺体を確認していただきましたね。血だまりの中で下川さんはうつ伏せに倒れていた。間違いありませんね」
「そ、その通りです」
五反田は空のカップをテーブルに置き、くり返しうなずいた。
「ありがとうございます。それから次に、皆さん。この数日間で、院内でおびただしい出血のあとを見かけませんでしたか。もちろん、健診センターの二階以外で」
「あるよ」
けろりとした表情で、救急救命センターの甲斐三紀彦が言った。
「一昨日な。頭にガラス片が刺さった患者が救急救命に運び込まれてきた。深く刺さったガラス片を取りだしたら、ブピューって噴き出して……ははは。そんな顔しないでくださいよ刑事さん。あんたの言い方が悪い。ここは病院だぜ。『おびただしい出血のあと』なんていくらでもある」
「それもそうですね」
フラットな音階で今江は言った。
「訂正します。『詳細不明なおびただしい出血のあと』は見かけませんでしたか」
室内の皆が首をふる。今江は鷹揚にうなずいた。
「ありがとうございます。これでもう一つ前提を加えることができます。下川さんは健診センター二階の待合室で殺された。何故なら、下川さんは胸から噴き出た自身の血の中に横たわり、かつ待合室以外で下川さんのものと思われる血の跡は見つからなかったから。よろしいですね」
「大げさに言いますけど、それって本当に大したことじゃないよなぁ」
茶化すように甲斐が言う。
「下川が殺されたのはどこか。それは遺体が見つかった待合室に違いない。何故なら、待合室には下川の血が流れており、それ以外の場所には血のあとはないから。そんなことを確認していったい……」
「おっしゃる通りです。当たり前だからこそ、皆さんに再認していただきたかったのです」
今江は口もとから指を離した。
「下川さんは健診センターで殺された。なるほど、確かに下川さんが渡り廊下を通って健診センターに向かう姿は監視カメラがとらえています。だが、犯人は? いいえ。犯人の姿はありません。もう一度考えましょう。下川さんは健診センターで殺された。しかし、事件当夜、健診センターに向かった人間は、被害者である下川さんの姿しか認められない。では犯人は、どうやって健診センターに入ったのでしょう」
「だから最初から犯人なんていなかったのでしょう」
足を開いてソファーに座る雲仙教授が声をあげた。白衣ではなく、フォーマルなスーツ姿だ。
「健診センターに向かったのは下川くん一人のみ。そしてその場で下川は死んだ。つまり、下川くんは自らその命を絶ったというわけです」
「落合院長が唱えた自殺説ですね。もしくは、院長が希望する……とでも言った方がいいかしら」
「何を――」
「自殺ではありません。あの夜、犯人はたしかに健診センターに現れたのです。健診センターで下川さんを殺し、健診センターから去っていった。自殺説なんてとんでもない。あの夜、現場には被害者と加害者の二人がいたんです」
「信じられません」
不安げな声が煙のように宙を舞う。
「どうしてそう思うの」
今江は声の主である谷岡看護師の方を向いた。
「だって、健診センターの入り口には監視カメラがあります。一階の入り口と二階の渡り廊下。それだけじゃない。この病院にはいたるところにカメラがあるんです。カメラに映ることなく、健診センターに入ることは不可能です」
「いいえ。可能です」
「まさか。そんなことできるはずがない!」
雲仙教授は飛び上がった。その拍子にテーブル上のカップが倒れ、黄土色のコーヒーがテーブルの上に歪な輪郭を描いた。
「今から皆さんには、犯人がどんなルートを通って健診センターに侵入したのか、実際にご覧になっていただきます」
「実際に……だと?」
雲仙教授の額に血管の筋が浮かびあがった。
「岡さん。いけますか」
今江は部屋の中央のテーブルでノートパソコンを構える岡に声をかけた。
「ちょっと待ってください。職場のパソコンで使うのは初めてで設定が……うん。いけそうです」
岡は足元の紙袋から金属製の四角い小さな箱を取りだした。箱には黒い縁に囲われたレンズがついている。
「プロジェクターですか」
谷本看護師が訊ねた。岡は小さくうなずく。
「その通り。これをちょちょいといじって……はい、どうぞ」
プロジェクターのレンズから放出された光がパーテーションに当たる。初芝が部屋の照明が落とすと、暗闇の中パーテーションに映像が写った。
パーテーションには、岡のノートパソコンのデスクトップ画面が映っている。岡がキーを叩くと、アプリが起動した。赤い円の中に三白眼が浮かぶアイコンが画面中央に表示される。三白眼がウィンクをすると、アプリのウィンドウに映像が流れ始めた。直線に伸びた白い廊下が映っている。
「これは、二階の渡り廊下ですか」
暗闇の中で誰かが言った。
「その通りです」
今江が指を鳴らすと、ウィンドウは細かく分割されて、複数のカメラの映像が同時に現れた。
「これらは院内の監視カメラの映像です。それも生中継のね」
プロジェクターの近くにいる谷本看護師が息をのんだ。白い光に照らされ、緊張した彼女の面持ちが今江にはよく見てとられた。
岡がマウスを操作すると、とある箇所のカメラがウィンドウいっぱいに広がった。
画面を見て室内の空気がざわついた。
画面の奥へと伸びる木製のカウンター。カウンターの上にはペン立てや書類ケースが並んでいる。
「ここがどこだかわかりますね。一階正面入り口の目の前。受付・会計のカウンターです」
今江の説明に驚くものはいなかった。カウンター自体は病院職員にとっては見慣れたものだ。
ただそのカウンターの前に、赤い野球帽を被った謎の人物が立っているとすれば話は別だ。
「刑事さん。この人はいったい」
慌てた様子で前に五反田が訊ねた。
謎の人物は紺色のスクラヴウェアを着ていた。体躯は細い。カメラの映像はテレビのように鮮明に映っているわけではないので、性別の判断はつかない。身長は高くもなければ低くもなかろう。
「この野球帽の人物は犯人役です。今からこの方に、事件当夜の犯人の動きを再現していただきます」
今江はスマートフォンを取りだした。画面の中の人物は左手を耳元に当てる。インカムマイクをつけているようだ。
「準備はいい?」
今江が言うと、画面の中の野球帽がうなずいた。
「それじゃあ、初めてちょうだい」
今江はスマートフォンを耳から離した。
今江の視線が岡に注がれる。岡が大きくうなずくと、映像が別のものに変わった。
画面の中央奥に両開きの自動ドアがある。その自動ドアが開き、病院職員と思わしき男性が一人室内に入ってきた。
自動ドアの向こうには、幅一メートルほどのベージュ色のれんが道になっており、れんが道の向こうにはコンクリートの地面が広がっていた。
「おっと。これはこれは。うちの庭先じゃないか」
声の主は、甲斐だった。
「ご明察。この映像は、救急救命センター前、夜間入り口を向いたカメラのものです。先ほどの犯人役は、救急救命センター入り口とドア一枚を挟んで反対側、受付・会計カウンターがある方に待機しています。初芝、例のものを」
「どうぞ皆さん、この資料をご覧ください」
初芝はクリアファイルから紙を取り出して皆に配った。プロジェクターの光を照らしながら紙を確認するものもいれば、スマートフォンのライトで照らすものもいる。
「これは、本館の地図ですか。しかしこの黒い跡は……」
五反田が訊ねると、鼻を鳴らしながら初芝が答えた。
「その黒い模様は監視カメラの撮影範囲です。丸印はカメラが設置してある場所です」
山吹医科大学附属病院 外部 カメラ撮影範囲
山吹医科大学附属病院 本館 健診センター カメラ撮影範囲
「今この映像は夜間入り口のカメラだ。カメラは受付・会計カウンターに続くドアの上にあって。なるほど。黒い模様の範囲に夜間入り口のドアが入っていますね」
「犯人は健診センターに向かうためにこのドアを通って本館の外に出ました」
今江の言葉に室内はざわついた。
「犯人の姿はこのカメラに映っていたのか。それならすぐに犯人の姿は洗い出せるじゃないか」
雲仙が怒声を発する。今江は雲仙の荒れた雰囲気に飲み込まれることなく静かに首をふった。
「映っています。ですが、このカメラは建物の内側から外側を向いています。本館から外へ向かう人間の姿は、後ろ姿しかとらえることができません」
「後ろ姿だから誰かわからないというのか。それだって体型や髪型でおおよその予想はつくものだろう」
「いえ。無理です。何故なら――」
高音のサイレンが今江の言葉を遮った。室内の医療従事者たちは反射的に腰を浮かした。
「救急か? こんな時に」
甲斐が白衣を整えながら前に出た。
「刑事さん。一度戻らせてくれ。様子を見て……」
「その必要はありません。あの救急車はわたしが呼んだものですから」
「は?」
初芝が甲斐に席に戻るよう促す。甲斐は眉を毛虫のように曲げながら席に戻った。
「近くの消防署に依頼して、空の救急車を一台回してもらいました」
「そりゃいったい、何のために」
「当然、事件解決のためです。ではご覧ください。犯人がどうやって外へ出たのか。そして、どうしてカメラに映りながらその正体がわからないのか。その全てが、今、このパーテーションに映し出されます」
現在の夜間入り口の姿を映す映像に皆の視線が集まる。
次の瞬間。画面の手前から、スクラブウェアを着た六人が、矢のような速度で右から左へ横切った。
「うちのスタッフだ。救急車が来たから救急救命センターから出てきたんだ」
甲斐が言った。
「その通り。救急救命センターのスタッフさん達は自動ドアの外に出て――」
開いた自動ドアの向こうで、ヘアネットを被った救急救命のスタッフが救急救命士に喰ってかかっている。一分ほどたち、救急救命のスタッフたちは釈然としない様子で自動ドアの内側へと戻ってきた。
「岡さん」
「はいはい」
岡が画面を切り替えた。一転して場面は外。規制用テープの奥にあるガラスの自動ドア。カメラが捉えているのは、健診センター一階の正面入り口のあたりだった。
そしていま、その入り口の前に、赤い帽子を被ったスクラブウェア姿の『犯人』が立っていた。
「あ、あれ。いつの間に」
谷岡看護師が驚きの声をあげた。
「いいえ。『いつの間に』ではありません。『犯人』が移動する姿をわたしたちははっきり目撃していました」
今江の言葉に甲斐は膝を叩いた。
「そうか。救急救命のスタッフの中に紛れ込んで外に出たんだな。『犯人』は紺色のスクラブウェアを着ていた。カメラに映った何人かもスクラブウェアを着ていた。そのうちの一人が『犯人』なんだ。そうだろう」
「正解です」
今江は無表情のまま手を叩いた。
「しかし、救急救命のスタッフは気づかないものかね」
雲仙教授が小ばかにしたような声を発した。甲斐は教授に身体を向け、嬉々とした表情で口を開いた。
「気づかないと思いますよ。わたしたちは救急車が来るとそちらに意識を集中させます。『犯人』はドア一枚を挟んで受付側で、救急救命センターのスタッフが出てくる様子を伺っていた。自動ドアの前を数人の人影が通ったところで、自分も中に入る。最後尾につけば顔を見られることもなく、病院の外に出られます。この犯人さんは赤い帽子を服の内側にでも隠していたんでしょうね」
「その通りです」
初芝が甲斐からバトンを繋いだ。
「一昨日の夜、ぼくは救急救命センターのスタッフさんが救急車から患者を受け入れるところを見学させていただきました。皆さん、さすがプロですね。ストレッチャーに乗る患者さんに意識を集中させ、すぐそばにいたぼくに目をくれることなく、救急救命センターへとストレッチャーを走らせていきましたよ」
「その通り」
今江は大きくうなずいた。
「いま『犯人』は救急救命センターのスタッフたちが空の救急車とはどういうことだと救急救命士たちに喰ってかかっている横を通って、健診センターの方に向かいました。そして事件当夜も、犯人はまったく同じ方法で本館から外へと脱出したのです。甲斐先生。こちらの病院は、院長先生の方針で救急患者の受け入れに積極的なそうですね。待ってさえいれば、必ず救急車は現れる。犯人は自動ドアの裏側で、その瞬間をずっと待っていたのです」
「わたしの質問に答えてないぞ。カメラには犯人の姿が映っていたんだろう。体型とか髪型である程度の予想はつかないのか」
ネクタイを乱暴に緩めながら雲仙が言った。
甲斐が教授の方を向いて『無理ですよ』と言った。
「教授。救急救命センターのスタッフの多くは、ヘアネットを被って仕事をしています。わたしもほら、この通り肌身離さず持ち歩いています」
甲斐はポケットから白い綿のような塊を取りだした。両手で広げると、大きく口の開いたドーム型のキャップに形を変える。これを頭にかぶり、毛髪が抜け落ちるのを防ぐわけだ。
「事件の犯人も、この『犯人』もこいつを被っていたんでしょう」
「では、雲仙教授のご所望に応えて、救急救命センターのスタッフたちと共に救急車へと向かう犯人の映像をご覧入れましょう」
今江が岡に『よろしく』とつぶやく。しかし、当の雲仙教授は鼻で笑った。
「何を言っているんだ。犯人の姿は救急救命センターのスタッフと見分けがつかない以上、その映像には何の価値もないじゃないか」
「いいえ。そんなことはありません。わたし達はまだ本館から外に出る方法を提示したに過ぎません。犯人が救急救命センターのスタッフにまぎれて外に出たという証拠をお見せする必要があります。これから流す映像はその証拠となります」
「だから、犯人の姿はスタッフと区別がつかんのだろ! そんな映像に何の価値が――」
雲仙教授の怒声を無視して映像が始まった。
病院の内側から夜間入り口をとらえたカメラのアングル。スクロールバーの下に表示されている時刻は22:40。
この映像は、昨日天神署で確認した映像と同じものだった。初芝は昨日覚えた違和感の正体をすでに捉えていた。自分の記憶と大きな齟齬をきたす何か。違和感の正体はこの映像の中にあった。
「よく見てください」
モニターの中で、六つの人影が流れ星のように右から左へと流れていき、数秒後、ストレッチャーの周りを六つの人影が囲み、左から右へ、救急外来センターへと駆けていく。
「以上です」
今江がつぶやくと、岡がキーボードを叩いて映像が止まった。
「これでおしまい? いったい今の映像のどこに証拠があるっていうんだ。なぁ」
雲仙教授が笑い声をあげながら周りに同意を求める。ある者はうなずき、ある者は苦笑し、あるものは 「たしかに」と言葉を以って同意を示した。
しかし、ただ一人だけ――
「こりゃ、たまげたな」
救急救命センター実戦部隊のトップを務める、甲斐三紀彦助教授だけは、雲仙教授に抗った。
「こんなにハッキリとした証拠が残っているなんて。いや、これは……刑事さんたちもそう簡単には気づかなかったんじゃないか」
「な、なんだ。甲斐。何を言っているんだ」
「教授はわからないのですか? みんなも? 冗談でしょう」
「一昨日の夜、夜間の病院の雰囲気を確認するためぼくはこの病院に残りました」
初芝がぽつぽつと語り始める。
「ぼくは夜間入り口で、救急車を受け入れるところを見ました。救急車からストレッチャーを降ろすと、救急救命センターのスタッフさんといっしょに、救急車に乗って病院を訪れた救急救命士が一人病院の中に入っていきました。単純な算数ですよ。六人の救急救命センターのスタッフが出てきて、戻る時はストレッチャーを挟んで救急救命士がプラス一人。七人です。映像には七人の人間が走っていなければいけないわけです」
「だけどこの映像は」
甲斐が岡に向かって、キーボードを叩くジェスチャーを送った。
再び映像が流れる。六人の人影が救急車に向かって駆けていき、ストレッチャーを囲って病院に入ってきた人影もまた六人。
「一人、足りないんだ。つまり、消えた一人が犯人だ」
室内がざわめきに包まれる。初芝は両手を広げて静粛を求めた。
「救急救命士は医師への処置の引継ぎのために病院の中に必ず入る。ストレッチャーも回収しなきゃいけないからね」
甲斐は両手で顔をぬぐい、初芝にサムズアップを送った。初芝はペットボトルの水で口腔を潤し、目を開く。
「こんな不自然な方法を取らざるをえない人間は、事件当夜一人しかいません。犯人です。二二時四十分。犯人はこうして病院の外に出たのです」
「あの、刑事さん。この夜間入り口は、外の立体駐車場に設置されたカメラが撮影しているはずです」
五反田が配られた地図を掲げながら言った。
「室内のカメラには背中しか映らなかった。だけど、こちらのカメラには、犯人の姿が正面から、それも健診センターの方へ向かう姿が映ってしまうんじゃないですか。つまりその映像を確認すれば犯人が誰かわかるんじゃ……」
「いえ。不可能ですよ」
初芝は両手でバツ印を作った。
「立体駐車場のカメラには、犯人の姿は映っていません。五反田さん。犯人が移動したその時、夜間入り口の前には救急車が停まっていたんです。立体駐車場と夜間入り口の間は救急車が目隠しとなって立っていた。カメラは移動する犯人の姿はとらえられなかったわけです。犯人はそこまで予測して行動していたのですよ」
「し、したたかな犯人ですね。そこまで計画して犯行に及んだわけですか」
ため息をつきながら五反田は地図を下ろした。
「その通りです。ですが五反田さん。犯人の『したたかさ』はまだほんの序の口です。犯人の『したたかさ』は、輪をかけて加速していきますよ」
3
「本館の外に出たあと、犯人は健診センターの方へと向かいました」
パーテーションに映る赤い帽子の『犯人』は、前に進み画面から消えた。
「それで犯人はどうやって健診センターに入ったのですか。なんだか楽しくなってきたな」
身を乗り出して甲斐が言った。白い光の中、顔が愉悦に歪んでいる。
「建物の裏口から入ったのです」
室内の数人が首をかしげた。裏口。そんなものが健診センターにあったのかと表情が語っている。
「裏口のことをご存じない方がいらっしゃるかもしれませんね。この裏口は普段は誰も使っていません。そのため、裏口前の通路には使わなくなった棚や機材といった不要な物が大量に置いてあります。誰も使わないから施錠の際にこのドアが確認されることもないそうです。ドアのそばにビニールシートで覆われた体重計があります。ほこりまみれのビニールシートの上を何者かが触れた跡がありました。犯人が事前に鍵を空けるために訪れた際に触れたのでしょう。健診センターが稼働中なら、この場所を訪れることは誰でもできます」
「えーと、あのぉ。刑事さぁん」
背もたれのない正方形のソファーに膝を揃えて座っていた女性が手をあげた。茶髪団子の看護師宇治家ちえだ。
「裏口が開いていたってことは、なるほどその可能性は納得できましたぁ。それにしても問題が残っているんじゃないですかぁ。だって健診センターの前の通路には監視カメラがあるんですよぉ。カメラに映らず裏口まで行くなんて不可能です。まだ事件が解決していないってことは、犯人の姿は映っていなかったわけですよねぇ。それじゃあいったい、どうやって犯人は裏口までたどり着いたんですかぁ」
「それはもちろん。健診センターの前を通ったのよ」
「だから、カメラに映ることなく……」
「できるの」
今江の言葉が快刀の如く振り下ろされた。
「カメラに映ることなく、裏口まで向かうことはできるんです。それを教えてくれたのは他でもない。宇治家さん、あなたなんですよ」
「わ、わたしが?」
室内の視線が宇治家に集まる。茶髪団子の看護師は両手をふって『知らない知らない』と繰り返した。
「一昨日の夕方。宇治家さんはここデータセンターから、うちの初芝に電話をかけましたよね」
今江は背中越しに立てた親指を初芝に向けた。宇治家は小さくうなずいた。
「初芝は健診センター前の通路にいました。宇治家さんはカメラに映る初芝の姿を見つけて電話で呼び出したわけです。そうでしょう」
「はぃ。となりの部屋でモニターを見ていたらぁ、広大さんの姿が映ったんですぅ」
「そして実際にわたしたちがデーターセンターを訪れてみると、宇治家さんは初芝と一緒に現れたわたしを見て驚きの声をあげました。そうでしたね」
「は、はい」
「それはどうして?」
「初芝さん一人が来ると思ったからですぅ。カメラには、広大さんしか映ってなかったから」
「やっぱり、そうだったのね」
今江はパーテーションに映る野球帽の『犯人』をしみじみとした表情で見つめた。
「わたしたちがデータセンターに来ると、休憩室のテーブルにはお茶が注がれたティーカップが一つだけ用意してありました。これはもちろん、初芝の分。そしてそのあと、宇治家さんは棚から桃色のティーカップを取りだして紅茶を注いだ。これはわたしの分。あなたはわたしが初芝と一緒に来るとは思わなかった。だから、初芝の分のお茶だけを用意して待っていたのね」
「そうですぅ。広大さんだけに手柄をあげようと思ったのに、わざわざ今江さんを呼び出すなんて信じられない」
「それは誤解です。宇治家さんから電話をもらった時、今江さんはぼくのすぐそばにいたんですよ」
初芝の言葉に宇治家は『え』と声を漏らした。
今江が岡に視線を送る。岡がキーボードを叩くと、パーテーションに三つのカメラの映像が同時に映った。一つは渡り廊下の下に設置されたカメラの映像で、健診センター入り口を映している。もう一つは健診センターの外部北東壁面に設置されたカメラだ。南東を向き駐輪場の端と渡り廊下の下を映している。最後の一つは二つ目のカメラの横に設置され、これは北東を向き、本館の後ろにある広いコンクリートの空間を映していた。
『いいわ』と今江はスマートフォンにつぶやいた。一つめのカメラに映っていた野球帽の『犯人』は画面の外へと消えた。
ほんの数秒の沈黙を経て、室内は驚嘆の声に包まれた。
三つ目のカメラ(本館の裏側を向いているカメラ)の左手、三つのカメラにとらえられなければ行けないと考えられていた健診センターの裏側から、赤い野球帽の『犯人』が現れたのだ。
「これは……これはいったい!」
雲仙教授が立ち上がって目をこすった。ネクタイは乱暴に解かれ、足元に落ちている。
「健診センター前の三台のカメラには死角が存在するのです」
初芝が前に出て語り始めた。
「ぼくが宇治家さんと電話をしている時、いえ、宇治家さんがカメラの映像にぼくの姿を見つけた時から、今江さんは偶然その死角に潜りこんでいたのです。だから宇治家さんは、カメラに映るぼくのそばに今江さんがいることに気づかなかったのです。『犯人』はその死角を通って、健診センターの裏側まで移動したわけです」
「だけど、どこに? どこに死角があるんですか」
谷岡看護師は手元の地図に視線を落とした。
「ポイントは渡り廊下の下についた一つめのカメラと、健診センターの南東を向いている二つめのカメラの撮影範囲です」
初芝が興奮した口調で言う。
「渡り廊下の下についたカメラの真下の位置。この場所は、通路側を向いたカメラの撮影範囲には入っていないのです」
「そんなばかな!」
雲仙教授が両目を埋める勢いで地図を凝視する。
「よく見てください。人間の身体一人分の、ほんの小さなすき間です。犯人はこのすき間を通り、通路の左側、健診センターの壁側に入ります。そして壁に背を合わせて、北東壁面の二台のカメラの真下を通ることで、三台のカメラに映ることなく健診センターの裏側に向かうことができるわけです」
4
「健診センターの裏側にたどり着いた犯人は、あらかじめ開けておいた裏口から健診センターに侵入します」
「そして犯行後はまたこの裏口から出たわけだ。いや、まて。おかしいぞ」
甲斐は無精ひげをさする指を止めた。
「犯行を終えた犯人は当然、この裏口から出ていくことになる。だけど犯人は鍵をもっていなかって聞いたぞ。鍵を持っていないから外側から施錠はできない。それなのに、事件発覚後は裏口の鍵はかかっていたんだよな」
「もちろんです」
「だったら、犯人はいつ、どうやって鍵をかけたんだ」
「甲斐先生の疑問は前提からして間違っています。犯人は一度しか裏口を通っていません。裏口から入り、鍵をかけ、その後は別の出入り口から外に出たのです。事件発覚後に、裏口の鍵がかかっていたのは当然のことなのです」
今江が言うと、甲斐はほほを吊り上げて笑った。
「刑事さん。あんた、矛盾したことを言っているのわかっているのか。他にカメラに映らず出入りできる場所があるなら、最初からそちらのルートを使えばいいじゃないか。いや、そもそもそんな場所が本当にあるのか。二階の渡り廊下はカメラが監視してるんだぞ。窓を開けて出ていったなんて馬鹿げたことを言わないでくれよ。今度は窓の外からどうやって施錠したのかって問題が……」
「いえ。窓ではありません」
今江は首をふった。
「単純です。もっと単純なルートで、犯人は健診センターをあとにしたのです。犯人は裏口を施錠して、犯行現場である二階の待合室に向かい、下川さんを待ちました。犯人と下川さんは約束をしていたのです。深夜の十二時。大切なことを話し合うために」
カタリと部屋の奥の方で音がした。見るとガラス製のコップがテーブルの上で倒れている。そのカップの持ち主は笑って言った。『空っぽだから』と。
「二十三時時四十八分に、本館から渡り廊下を通って健診センターに移動する下川さんの姿がカメラにとらえられています。その後下川さんは健診センターの待合室で一階の裏口から入ってきた犯人と対峙し、犯人が用意したナイフで胸を刺され死亡しました」
「それはありえません」
谷岡看護師と同じソファーに座っていた篠栗看護師が飛び上がった。
「何度もお話しした通り、下川くんは午前二時三十分頃までは生きていました。ナースセンターで彼の姿を見たんです。わたしだけじゃない。谷岡も見てます。ね、そうでしょ」
「は、はい。嘘じゃありません。あれはたしかに下川先生でした。声だって、ちゃんと聞きましたし」
「あなた達は間違っている」
今江は二人の看護師を正面から見据える。
「下川さんの死亡推定時刻は二十三時から一時までの二時間の間です。二時半まで、彼が生きていたなんてことは絶対にあり得ません」
「だから、わたしたちは見たんですってば!」
「その通りよ」
「……へ?」
一転した今江の態度に、篠栗は思わず呆けた声をこぼした。
「その通り。あなた達が見たものは、幽霊でも幻でも、ましてやゾンビなんて非科学的な存在でもない。それはたしかに、血の通った一人の人間だったの」
「ちょ、ちょっと。どういうことですか。言っていることがさっぱりわかりません」
「あら、どうして」
今江は首を傾げた。
「わたしは何もおかしなことは言っていないわ」
「言っていますよ! 下川くんが午前零時前に健診センターを訪れ、午前一時までの間に殺された。これを是として、わたしたちが午前二時半ごろに生きている下川くんを見たことも『是』とするなんて――」
篠栗の声を遮るように、室内に笑い声が響きわたった。
その声の主は甲斐だった。無精ひげを生やしたこの医師は、腹に両手を当てて高々と笑い声をあげていた。
「ま、まさかまさか。そんな馬鹿なことがありえるのか!?」
「その馬鹿笑いをやめろ。不謹慎なやつめ!」
雲仙教授が青筋を立てながら怒鳴りつける。ソファーに身体を沈めていた甲斐は、両足を天井に向かって伸ばしてから降ろし、その反動で立ち上がった。
「これが笑わずにはいられますか。そうか。そういうことか。なんて茶番なんだ!」
「どうやら甲斐先生にはご理解いただけたようですね」
今江が微笑む。甲斐も微笑む。部屋の奥で犯人も微笑む。初芝はくちびるを噛み、残りの皆は疑問符を浮かべる。
「犯人は下川さんを殺害した後どこから健診センターを去ったのか。その質問に、今お答えします」
「単純。その通りだ。これほど単純な脱出方法があってたまるか」
甲斐は歪な笑顔でそんな言葉を吐き出した。
そして次の瞬間、パーテーションに映る映像を視て、室内の者たちは息を呑んだ。
画面に映るのは、本館と健診センターを繋ぐ渡り廊下。そこに、赤い野球帽を被った『犯人』が立ちつくしていた。
「午前零時十分。犯人は渡り廊下を通って、健診センターから本館へと移動しました。どうしてこれほど明確に時刻が判明しているのか。答えは簡単。この監視カメラに犯人の姿が映っていたからです」
「だ、だけど刑事さん。その時間に渡り廊下を通ったのは……」
事件直後、ここデータセンターで今江たちといっしょに、深夜の渡り廊下の映像を確認した篠栗が震える声で言った。
「そうね。わたしたちは確かに見たわ」
紺色のスクラブウェアを着た、坊主頭の男。
「あれは、犯人が変装した姿なの」
5
「犯人は下川さんを殺した後、当の下川さんに変装して本館に戻りました。あなた達が会ったのは、偽物の下川さんだったわけ」
「偽物なんかじゃありません。あれは間違いなく下川くんでした」
篠栗は横に座る谷岡の手を握った。谷岡は先輩の顔を見てうなずく。
今江はソファーに座る篠栗と谷岡の前まで近づき、膝を曲げて顔を目の前に降ろした。
「事件当夜、三階東ナースステーションで当直をしていたお二人は、零時十分以降、何度か下川さんの姿を確認した。そうね」
「はい」
視線を交えて、篠栗が言う。
「それは、これぐらい近くまで寄って顔を確認したの」
鼻と鼻が触れ合うほど、今江は谷岡に顔を近づけた。谷岡は身体をのけぞらせ、ソファーのクッションに沈んだ。
「そうじゃないわよね。あなた達はこう言っていた。『気づいたら下川さんはナースステーション奥のテーブルに座っていた』と。資料の棚や薬剤棚のそばにあるテーブル。篠栗さんはこんなこともおっしゃっていたわね。あのテーブルは、当直の際に下川さんがよく座る特等席だって。よく似た格好の人間が、当直の時間帯に、『特等席』に座っていたら、それを本物の下川さんだと思い込むのは当然でしょう」
「待ってください。やっぱり、あれは下川くん本人ですよ。刑事さんにお話ししたでしょう。零時三十分頃、ナースコールが鳴って下川くんが対応してくれたんです」
「306号室の長峰さんね」
覚えているわ、と今江は言った。
「零時三十分にナースコールが鳴り、306号室の長峰さんだとわかると、坊主頭の下川さんと思われる男が、睡眠導入剤を持って306号室に向かった」
「そうです。長峰さんは、病室で下川くんから睡眠導入剤をもらったとおっしゃっていました。長峰さんは下川くんに会っているんですよ」
長峰氏が嘘をついているとでも言うのか。篠栗がそう訊ねると、今江は否定の言葉を返した。
「長峰さんは勘違いしていたの。病室は消灯されていたため薄暗く、照明といえば、廊下の電灯だけ。長峰さんから見ると、下川さんの後ろに廊下の電灯があるので、光の当たらない顔はよく見えなかった。加えて、長峰さんは眼鏡をされています。私が長峰さんとお話ししたとき、長峰さんは会話の途中に眼鏡をはずされました。極端に視力が悪いようではなさそうですね。夜、眠る際は当然眼鏡を外します。そしてナースコールを押して、睡眠導入剤を病院のスタッフが持ってくるその時、長峰さんはわざわざ暗闇の中で眼鏡をかけるでしょうか。」
「それは……」
篠栗は考えた。今江の言うとおり、長峰は老眼が始まっているだけで弱視というわけではない。目の前に人が立っていることは視認できるし、伸ばした手に薬と水が入ったコップを渡してもらえばそれでことは足りる。
「かけない。眼鏡をかけるとは思えません。長峰さんはいつもサイドボードの上に眼鏡を置いています。消灯した病室の中で手を伸ばして眼鏡ケースを取るのは一苦労でしょう」
「そうです。長峰さんは確かに、紺色のスクラブウェアを着た坊主頭の男を見ました。その男から睡眠導入剤をもらいました。長峰さんはその際、『眠れないのですか』とその男に声をかけられています。ですが、306号室は相部屋です。長峰さんの他にも就寝中の患者さんがいらっしゃる。必然的に声は小さくなります。囁くような、小さな声。普段から下川さんはおとなしい医師でした。長峰さんが偽物の下川さんを本物の下川さんと間違えるのは、至極当然のことなのです」
「でもわたしは、下川先生の声を聞いてるんですよ」
谷岡看護師が唇を尖らせた。
「一時前に下川先生は、ナースステーションの横にある休憩室に来て『下川です。仮眠室に行ってきます』とおっしゃいました。病室と違って、休憩室で声を抑える必要はありません。間違いなくあの声は下川先生のものでした」
「休憩室のカーテン越しに聞いた声ね」
「そうです。カーテン。たしかに姿は見ていませんが」
「谷岡さんは何も間違っていないわ。その声はたしかに下川さんのものだったの」
今江は矛盾したことを口にした。室内が疑問符で満たされる。沈黙の中で、突然鼓膜を割くような怒声が跳びはねた。
『その馬鹿笑いをやめろ。不謹慎なやつめ!』
雲仙教授の声だった。
しかし、誰よりも当惑していたのは当の雲仙教授だ。何故なら教授もまた、他の皆と同じく口を閉ざして室内の沈黙を形成していたからだ。
「い、今のは……」
「ごめんなさい、雲仙先生。ぼくです」
初芝がスマートフォンを掲げて液晶を撫でた。
『その馬鹿笑いをやめろ。不謹慎なやつめ!』
再び同じ声が発せられた。雲仙教授の咽喉からではなく、初芝が手にしているスマートフォンから。
「最近のスマートフォンには、録音アプリがデフォルトで搭載されているんです。ご存じでしたか」
「録音……そういうことか」
雲仙教授は貧乏ゆすりをしながら親指の爪を噛み始めた。
「下川さんに扮する犯人は、自分のスマートフォンに録音していた下川さんの声をカーテン越しに再生したってわけ。別に録音と再生ができるのならどんな機械でもいいけど、病院内で持ち歩いていても疑われないとしたら、スマートフォンでしょうね」
今江は初芝に視線を送る。初芝はスマートフォンをポケットに戻した。
「谷岡さん。下川さんは仮眠室に行く前に必ず休憩室にも声をかけてくださったそうね。犯人は事前に、下川さんが当直の日にスマートフォンをカーテンのそばに置いて、下川さんの声を録音しておいた。録音機の置き場所はきっと休憩室入り口そばにある棚ね。化粧品やら乾電池やら、いろんな小物がごちゃごちゃと置いてあったあの棚。スマートフォンが一台転がっていても、あなた達は気づかなかったんじゃない?」
「そんな、そんなことって……」
谷岡看護師は両手で口を覆い、黙り込んでしまった。
「犯人は下川さんに変装し、更に同僚の看護師や入院患者に自分を下川さんだと思い込ませた。人付き合いの悪い下川さんに、わざわざ近くまで寄ってきて雑談に興じる職員はいない。また、毎晩のように睡眠導入剤を催促する306号室の長峰さんは、その視力故に、薬を渡してくれた誰某を『下川仁』と思い込んでくれるのに最適な人物だった。あなた達は騙されたの。犯人の巧妙な罠によって、下川仁は生きていると思い込まされていただけなの」
6
「変装した犯人が仮眠室へと向かったのは、休憩室にいる谷岡さんに『声』を聞かせるきっかけを作るため。さらに言えば、『下川仁』が生きていることを十分印象付けたと判断し、顔を見られることのないベッドの中にもぐりこみたかったのかもしれません。犯人は二時三十分にナースステーションに戻り、この時刻でもまだ『下川仁』が生きていると印象づけます。そしてその後、三時までの間に姿を消しました」
パーテーションには渡り廊下の映像が映り続けている。紺色のスクラブウェアを着た『犯人』は、カメラに背中を向けて立ちつくしていた。
「二時五十八分の渡り廊下のカメラの映像に、本館から健診センターへと向かう『坊主頭の男』が映っていました。これは、もちろん変装した犯人の姿です。この映像を最後に、『下川仁』の足取りは途絶える。下川さんが死亡したのは、二時五八分以降だと推測するのが当然というわけです」
今江はスマートフォンに『行って』とつぶやいた。『犯人』は赤い野球帽のつばを触りながら、健診センターへと消えていった。
「しかし、犯人はどうやって健診センターの外へ出たのですか」
両手をすり合わせながら五反田が言った。
「一階の裏口は侵入時にしか通らなかったと、先ほどおっしゃいましたよね」
「はい。それから、二時五八分以降、渡り廊下は誰も通りませんでした。再び別人に変装して、本館に戻ったなんて言いませんのでご心配なく」
「それじゃあ、犯人はいったいどこから健診センターを出たのですか」
甲斐が口をはさむ。
「だいたいさ、更に別の脱出ルートがあるなら、侵入する時もそこを使えばよかったんじゃないのか」
皆は一様に甲斐の言うとおりだとうなずいた。
「いえ。このルートは一方通行です。侵入の際には使えません。さらに言えば一度だけしか使えない、あまりにも大胆な帰り道なのです」
「意味が分かりません。どういうことか説明をお願いします」
五反田はジャケットのボタンを二本の指で撫でている。糸がよれて、ボタンは今にもとれそうだ。
「初芝」
今江は振り向き、初芝に視線を送る。
初芝は自分のスマートフォンを耳に当てた。
「もしもし。はい、準備はよろしいですか。わかりました。お待ちください」
今江のスマートフォンは『犯人』につながっている。では初芝のスマートフォンは誰に。彼はいったい誰に合図を送ったのかと、室内の皆は訝しんだ。
「午前二時五十八分。健診センターに戻った犯人は、とある方法で本館に戻ります。今から『犯人』にその方法を実践してもらいましょう」
「実践と言ったって」
雲仙教授が鼻で笑った。
「カメラに映らないんじゃ、どんな方法かわからないじゃないか」
「はい。ですから、見るのではなく、お聞きください。かの老人がそうしたように」
初芝はスマートフォンをテーブルの上に置いた。スピーカーモードに変えたらしく、通話先の雑音が聞こえてくる。
次の瞬間。スマートフォンから、金物を叩くようなかん高い音が飛び出した。
耳をつんざくような高音がリズミカルに繰り返される。
皆が困惑に表情を歪ませる。その困惑は次の瞬間さらに輪をかけて加速する。
「先生だ! ビーチャム先生が来てくれたんだ!」
かん高い音に合わせて、男性の声がスピーカーから発せられた。
室内のほとんどの人間が、その声の持ち主に思い当たった。越前乩京老人だ。
「これはいったい、何の音だ」
スピーカーの向こうから乩京老人の息子、雷京の戸惑った声が聞こえる。
ほんの数秒でかん高い音は止んだ。すると乩京老人ののどが歓喜の歌声を奏で始めた。
「タムチィヴェー プリヴォーリニィピエーシニャー トゥイトゥダー イーウリタァー」
老人の澄んだ歌声が室内に響く。禍々しい殺人事件の話にはそぐわない美声だ。
パーテーションの映像が渡り廊下の映像から切り替わった。エレベーターホールだ。左手奥にエレベーターのドアが二枚並び、その間の壁に大きな『3』の看板が貼ってある。三階の北側エレベーターホールの映像だ。
再び室内がざわめきに包まれた。
カメラの手前の方から、赤い野球帽の『犯人』が現れたのだ。
「移動した。い、いったいどうやっだんですかぁ?」
宇治家は人形のように首を傾げながら訊ねた。その視線はがっちりと初芝に向けられていた。
「どうやって移動したか。それを理解するためには、先ほどの高音の正体を探れば、自然とわかります。電話口の相手は、こちらの病院に入院されている、越前乩京さんとその息子さんです」
初芝はスマートフォンに近づいた。
「越前さん。今お二人はどちらにいらっしゃいますか」
「二階の自販機コーナーです」
雷京の声が聞こえる。
「わかりました。もう結構です。ご協力いただきありがとうございました」
通話が終わり、初芝はスマートフォンをポケットに戻した。
「越前乩京氏は、事件当夜ベッドから抜け出し二階の自販機コーナーにいらっしゃいました。防犯カメラが、午前三時頃に自販機コーナーでたたずむ乩京老人の姿を捉えています。そして今、『犯人』には午前二時五八分に健診センターに入った犯人が、センターから脱出した方法を実践してもらいました」
「つまり、事件当夜の犯人と越前さんの行動が再現されたわけだな」
ほほをわずかに歪ませながら甲斐が言った。
「それで、あの音はなんだったんだ。越前さんはなんだってあんなに興奮していたんだ」
「あの音は、犯人の足音です」
「足音?」
「地図をよく見てください」
皆が手元の地図に目線を下ろした。
「二階の……自販機コーナーにあんな音を立てるものがありますか?」
篠栗看護師が訊ねる。その視線は地図に固定されたままだ。
「そっちの地図ではありません」
「え?」
今江は手元にあるもう一枚の地図――病院敷地内の俯瞰図を指さした。
「篠栗さん。二階自販機コーナーの周りに何があるのか、こちらの地図をご参考に考えてみてください」
「二階の……あ!」
篠栗はその場で飛び上がった。
「二階の自販機コーナーの外には、駐輪場があります」
「その通りです。では篠栗さん、駐輪場の屋根にはどんな資材が使われているのか、覚えていらっしゃいますか」
「トタンです。駐輪場はトタン屋根で覆われています」
篠栗の瞳は真相に気づいていた。今江は満足にうなずき、室内を見回した。
「犯人は健診センターの屋上から、本館外部の北東にある駐輪場の屋根に飛び移ったのです。先ほどの高音は、犯人がトタン屋根の上を歩いた時に発生した音です。では犯人はトタン屋根からどこへ移ったのか。今度は本館内部の地図をご覧ください。駐輪場の屋根の部分には、何がありますか。北西の階段です。昼間でも人通りの少ない薄暗い階段。この階段には窓がついていました。犯人はあらかじめ窓のカギを開けておき、トタン屋根から窓に飛びついて本館に戻ったのです」
「越前さんの反応はなんだったのですか。どうしてトタン屋根の音に、あれほど反応されたのですか」
篠栗が訊ねる。室内の多くの者が同じ質問を今江に視線で投げかけた。
「『ダッタン人の踊り』です」
今江は答えた。平然と。
「オペラ『イーゴリ公』の第二幕で流れるクラシックの名曲だそうね。越前さんが歌っていたのは、この組曲の『序奏』の後半部分なの」
「わ、わけがわかりません。どうして越前さんは、その、オペラを?」
「越前さんは事件の当夜にあの場所で『序奏』に続く『娘たちの踊り』を聴いたのです。再びその曲を聴くために、彼は『娘たちの踊り』の直前、つまりは『序奏』の後半部分を歌っていたわけ。自分が歌い終えれば『娘たちの踊り』の演奏が始まると思い込んでいたのね」
「トタン屋根の上を歩く犯人が音楽を流していたわけですか」
からかうように甲斐が訊ねた。だが今江は『ある意味では』と答えた。
「越前さんは犯人がトタン屋根を歩く音を『娘たちの踊り』と勘違いしたのです」
「勘違い? オペラとトタン屋根の音をですか。笑わせる。『娘たちの踊り』とは、そんな単調な曲なんですか」
「いいえ。一般的な『娘たちの踊り』しか聴いたことがなければこんなことにはならなかったでしょうね。だけど越前さんは幼いころにイギリスに留学し、著名な音楽家であるビーチャムに師事していました。ビーチャムが指揮をとる『娘たちの踊り』には顕著な特徴があります。それは、ビーチャムの『娘たちの踊り』はシンバルを強く鳴らすの。ひときわ大きく、うるさいくらいにね」
「シンバル……トタン屋根!」
「そうです。越前さんは、トタン屋根が発するかん高い足音を耳にして、思い入れのあるビーチャム版の『娘たちの踊り』を想起したのです。だから彼は歌った。今は亡き師が戻ってくると信じて、『序奏』を歌いあげたのです。越前さんは事件の夜、三時ごろに二階の自販機コーナーでビーチャムに出会ったとおっしゃいました。そして事件の翌朝から『娘たちの踊り』を歌い始めた。何故か。事件当日、真夜中にシンバルの音を聴いたからです。シンバルの音とは何か。かん高い音、そんな音を鳴らすものはあの場所には一つしかありません。窓の外にあるトタン屋根。越前さんは、事件があった夜に、何者かがトタン屋根の上を通ったと間接的に証言されているのですよ」
室内がざわめきに包まれた。
「ビーチャム版のダッタン人の踊り……刑事さん、クラシックに詳しかったんですね。よくそんなマニアックなことをご存じで」
篠栗が言った。しかし今江は首をふり、『知るわけがないでしょ』と鋭くつぶやいた。
「なるほど。おじいちゃんの歌声についてはわかりました。だけどね、やっぱり納得がいかないな」
甲斐が口元を抑えて身体を揺らす。
「健診センターから本館の壁までは六メートルほどの幅がある。センターの屋上からジャンプして、駐輪場まで届くと思うか。ちなみに三十代男性の立ち幅跳びの平均は、だいたい二・五メートルといったところだ」
「走り幅跳びの要領でいけば、届くのではないですか」
五反田が横やりをいれた。しかし甲斐は首をふる。
「わかってないなぁ事務課長は。そりゃアスリート並みに身体を鍛えた成人男性なら五メートルくらいは飛べるよ。駐輪場の屋根にはぎりぎり届くかね。だけど、走り幅跳びには助走が必要なんだ。本気で飛ぶには四十メートルほど助走をつけなきゃならない。健診センターの屋上ではそれほどの距離はとれないよ」
「な、なるほど」
五反田が肩をすくめて縮こまった。
「刑事さん。あんたてきとうなことを言って事件を終わらせようとしたね。センターの屋上から駐輪場の屋根に飛び移るなんてどだい無理な話だ。画面の『犯人』は二人いるんじゃないか? 健診センターに一人。本館に一人。健診センターから移動したと見せかけて、それまで本館のカメラに映らない場所で待機していたもう一人の『犯人』がカメラに映っただけなんじゃないか」
「甲斐の言うとおりだ!」
雲仙教授が青筋を立てながらどなった。
「だいたい、トタン屋根に飛び移ったのなら、着地の際の衝撃でトタン屋根がひと際大きな音を立てるはずだ。先ほどのスマートフォンからの音では、屋根の上を歩いた音は一定の大きさだった。これを一体どう説明するんだ」
雲仙教授は勝ち誇ったように腕を組む。しかし、顔色一つ変えない今江の様子を見て、両腕は自然にほどけていった。
「わたしは、走り幅跳びだなんて一言も口にしていません」
「え?」
甲斐は雲仙教授と顔を見合わせた。
「走り幅跳び云々は五反田課長がおっしゃったことですよ」
「し、しかし……」
「健診センター屋上は、三階の床と同じ高さにあります。そこから走って飛ぶなんて、失敗して落下したら死亡する確率は非常に高い。それぐらい小学生でも想像がつきます。人間心理としてあまりにも不自然です」
「あんたも無茶苦茶言うね。それじゃあ一体、犯人はどうやって六メートルの空間を移動したんだ」
「ロープです」
「……ロープ?」
雲仙教授がオウムのように繰り返した。
「犯人は事前に、本館屋上で手すりにロープを固定して、そのロープを三階の高さにある健診センターの屋上に向かって投げ落としておいたのです。午前三時ごろ。犯人はそのロープを握り、ターザンジャンプの要領で、六メートルの幅を飛び越えます。本館の壁に身体を当てて止まり、駐輪場のトタン屋根にゆっくりと着地する。北西階段に入った犯人は、そのまますぐに階段を上り、屋上からロープを回収します。六階から三階までの長さとなると数十メートルの長さになるでしょう。そんなものを持って歩き回ってはすぐに犯人だと露呈します。犯人はロープの束を屋上に隠したに違いありません」
初芝は、以前今江に披露した自身の仮説を想起した。
――本館の屋上から健診センターの屋上にロープを渡して移動したのではないか――
そんな初芝の仮説を今江は一蹴した。屋上の手すりは、強度こそあれど手で握ると前後に揺れ動き、ところどころは錆びて塗装が剥がれていた。この手すりにロープを固定して降りていくなど、人間心理として不可能だ。
今江の指摘を初芝は納得した。いま再び、人間心理に照らし合わせて犯人の行動を考えてみる。ロープをつたい、六メートルの幅を飛び越える。三階の高さはあるが、人殺しの罪から逃れられると思えば、賭けてもいい選択肢ではなかろうか。
「あの。でも。そんなロープがあったら、誰かしら気づくんじゃないですか」
谷岡看護師がこめかみをさすりながら訊ねた。
「本館の屋上から、健診センターの屋上までロープを走らせるわけですよね。でも本館の西側には二階から五階まで病棟があります。夜とはいえ、真っ暗闇の中にロープが張っていたら、窓の外をたまたまのぞいた人間に気づかれるのではないですか」
「ロープを“張る”必要はありません。たしかに二つの屋上を直線で結ぶほどの長さがあれば、駐輪場の屋根まで渡るには十分です。しかしこれでは、谷岡さんのおっしゃる通り誰かに見られるかもしれない。ですがこの問題は難なく解決できます。長いロープを使うのです。ロープの先端を本館屋上の手すりに固定してから、残りのロープを健診センターの屋上に向かって放ります。健診センター側には十分な量のロープが束になっていると想像してください。その後、本館の屋上からロープを引きます。すると、ロープはどうなりますか」
谷岡は驚嘆の表情で両手を叩いた。
「重力!」
谷岡の答えに満足した今江も、思わず両手を叩いた。
「その通り。本館の屋上から引っぱると、ロープは重力に従い、本館の壁を這うようにして垂れます。犯人はロープを設置してから、ターザンジャンプに使うまでの間、本館の壁際にロープを這わしておいたのです。これなら本館の病棟の窓からロープを目撃することはできません。本館の壁から健診センターの屋上までの間には、渡り廊下に沿うようにロープを走らせます。これにより、本館の壁から健診センターの屋上までの間のロープも隠すことができる。一度限りの脱出ルート。これが犯人の逃走経路です」
初芝は下唇を強く噛みしめた。
自身のロープ説を今江に一蹴された際、初芝の頭から二つの屋上の間にロープを張るというアイディアは姿を消した。だが、今江が否定したのは『六階の高さからロープを頼りに降りる』という説であり、『ロープを張る』というアイディアそのものではなかったのだ。
外れていたことは否めない。だが発想自体は限りなく近いものがあった。侵入ではなく脱出。入り口ではなく出口。ほんの少しだ。ほんの少しだけ発想を変えればこの答えにたどり着けたのではないか。
初芝はここに、刑事としての未熟さを自覚し、そして、刑事としての成長を誓った。
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「ロープを屋上に隠すと、犯人は変装を解き、何食わぬ顔で“本来”の職務に戻りました。ロープは時間のある時に回収し、かばんの中にでもいれて病院の外に持ち出したと思われます。犯人の仕事はすべて終わりました。警察に事件当夜のことを訊かれても、知らぬ存ぜぬを押し通せばいいだけです」
「犯人は事件の日の夜に当直をしていた人の中にいるってことですかぁ」
宇治家の甘ったるい声が室内に響く。その声色とは相容れない猜疑の帳が室内に降りた。
「ちょうどいい。宇治家さんにお聞きしましょう」
今江が人工的な笑顔を浮かべた。それを見て宇治家の表情が歪に歪む。
「例えば宇治家さんが当直中に、今わたしが説明した方法で殺人を犯すとするわね。そんな怖い顔しないで。仮定よ仮定。宇治家さんが当直中に仕事を抜け出して健診センターまで人を殺しに行くとしたら――どこから行く?」
「ど、どこから?」
宇治家だけではない。室内の病院関係者全員が疑問符を掲げた。奥のソファーに座る犯人を除いて。
「想像してください。宇治家さんは五階東のナースステーションで当直の作業中です。いつも通りの当直です。そんな日常に『殺人』を加えてください。書類を書き、ナースコールに対応し、同僚の看護師と小声でおしゃべり。はい。ここから殺人です。シミュレートしてください。犯人は夜間入り口から外に出たのよ。夜間入り口まで、宇治家さんはどうやって向かいますか」
「と、とりあえずぅ。中央エレベーターで一階まで降りるかなぁ」
「それ、駄目じゃない?」
篠栗がほほに手を当てて言った。
「だってそれじゃあエレベーターホールの監視カメラに映っちゃう。後で警察がカメラの映像を確認した時に、一階のエレベーターホールから夜間入り口がある救急救命センターに向かった宇治家さんの姿が映っていたら、すぐに犯人ってバレちゃうじゃない」
「おっしゃる通りです」
今江は大きくうなずいた。
「エレベーターホールのカメラだけではありません。全てのデータを確認したところ、事件当夜、院内で不自然に夜間入り口に向かった方はいらっしゃいませんでした」
「えっと。それじゃあ……え? どういうこと?」
「単純な話です。健診センターに侵入する時と同じです。犯人は、防犯カメラに映らない特殊なルートを通って、救急救命センターの前にある夜間入り口にたどり着いたのです」
「それは無理だぜ」
不機嫌な口調の男が右ひざを揺らしながら言った。白衣で身を包み、後頭部から逆立ちした稲妻のような寝癖が立っている。第二外科医局の寺内医師だ。
「なるほどここまでの話は納得できた。無茶苦茶で、あまりにも滑稽だが、現実的に実行可能ということでよーく理解した。だけどな、本館の中のカメラの数は尋常じゃねえ。至るところにカメラはある。加えて深夜の病院ってやつは刑事さんが思うほど人手がないわけじゃない。ナースステーションにはたいてい人がいるんだ。もし一階へ向かう不自然な姿を看護師に見られたらどうする。カメラにも、看護師にも、誰にも見られずに救急救命までたどり着くなんて不可能だ」
「いえ、可能です」
逡巡の間もなく今江は応えた。
寺内は猛禽類のように目を引きつらせ、大きく一度舌打ちをした。
「犯人はいかにして、救急救命センター前までたどり着いたのか。しかしそのためには、まず犯人のスタート地点を皆さんに把握していただく必要があります」
「スタート地点?」
谷岡看護師が眉を曲げる。
「寺内先生の言う通り、この病院の中には無数のカメラが存在します」
今江は室内を見渡しながら言った。
「一度もカメラに映ることなく一晩の当直を終えることは不可能でしょう。ならばカメラに映る一人ひとりを確認し、不自然な方向に移動した人間がいないか確認をすることは、捜査の方針として正しく、実際に我々はそれを行いました。この看護師はどうして階段を上っているんだ。あぁなるほど。上の階の看護師と打ち合わせをしたかったんだ。この医師はどうして手術室の前を通ったんだ。あぁなんだ。自販機に飲み物を買いにきただけか。先ほども申しました通り、不自然な行動をとられた方はいらっしゃらなかった。犯人も同じです。犯人はカメラに映る限りはごく自然な、犯人とは思われないよう行動をとりました。一階までエレベーターで向かうなんてことはしません。ごく普通に。真面目に当直業務をこなしていた。それでも一か所だけ、ごく真面目に当直業務をこなしながら、同時に犯行に運びうる場所がこの病院にはあるのです。犯人はその場所で善良なる医療従事者から、殺気にあふれる殺人鬼に変貌を遂げた。その場所がスタート地点です。犯人は自身がこのスタート地点にいると思わせ、カメラに映らないよう夜間入り口まで向かったのです。実際にわたしたち警察に、犯人は犯行時間帯はこのスタート地点にいたと証言しました」
「そんな場所が……いったいどこなんですか」
五反田事務課長の悲痛な声が響く。
パーテーションの画面に、今江が作成した本館の地図が映し出された。
今江の丸い指が一点を差す。
「ここです」
今江の指は、四階にある男性用仮眠室を差していた。
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パーテーションにエレベーターホールの映像が映る。閉じたエレベーターの横には4のサインが飾られていた。
エレベーターが開き、赤い帽子の『犯人』が現れる。顔を伏せ、足を止める。こつりと壁に頭を預けた。
「皆さんも寺内先生と同じ疑問をお持ちでしょう。カメラにも映らず、ナースステーションの看護師の目にも触れず夜間入り口までたどり着くなんて不可能だと。そう思うのは当然です。わたしだって昨夜までは……」
今江はスマートフォンを耳に当てる。二言三言の会話の後、赤い帽子の『犯人』はカメラの前から姿を消した。
カメラの映像が切り替わる。病室の入り口のドアが左手に並ぶ廊下がパーテーションに映った。
「お手元の地図をご覧ください。このカメラは四階の南東部、男性職員用仮眠室の下にある病棟の廊下を映しています」
その廊下に赤い帽子の『犯人』が現れた。
「男性職員用の仮眠室は、四階の南東部西側の廊下を入ったところにあります。この廊下にはカメラはありませんが、確かに周囲には至るところにカメラがあります。ですが、よく見てください。まず左手の壁に沿って北の方へ向かいます」
皆は地図の上で指や視線を動かした。今江はスマートフォンに声をかける。赤い帽子がサッと動き、画面から消えた。
岡がマウスを動かす。パーテーションのカメラの映像が十一個に増えた。四階の北側半分に設置してある全てのカメラの映像だ。もちろん。そのどれにも赤い帽子は映っていない。
「最初の曲がり角で左に曲がります。この時点ではまだ進行途中にカメラがないので映らないのは当たり前です。エレベーターの裏側の廊下を通り、ここを右に、地図上では北の方へと曲がります」
「曲がってどうする。ナースステーションの前を通るのか」
寺内は挑発的なまなざしで言った。
「はい」
今江の言葉に寺内は絶句した。右足を激しく揺らしながら刑事の顔を見つめる。
「カメラには映らないよう気をつけるくせに、他人の目には映っても問題ないってか。犯人はその時間、仮眠室にいたと思わせたいんだろ。あんたの言うことは矛盾しているよ」
「篠栗さん。一つ、よろしいですか」
唐突に名指しされた篠栗はハッとした表情を浮かべた。
「犯人がその前を通ったと主張するナースステーション、西四階ナースステーションですが。このナースステーションの当直における勤務態度はどのようなものでしょう」
「よその悪口は言いたくありませんが。よろしくありません。重症患者がいらっしゃらない日は、病室で患者さんと談笑に興じる時もあるようで……」
「実際にわたしが――」
初芝が手を挙げながら口を開いた。
「一昨日の夜、四階で落とし物のカギを拾って西側のナースステーションに届けようとしたのですが、カウンターの内側にはどなたもいらっしゃいませんでした」
「常時スタッフが席を外しているというわけではないでしょう。ですが、四階西のナースステーションにはサボり癖がついていた。そして犯人はそんなナースステーションの特性を把握しており、誰もいない隙を狙って、ナースステーションの前を通過したのです」
今江の説明に谷岡や宇治家が大きく首肯した。同じ看護師たちにとって、四階西ナースステーションの悪癖は諒とし難いところがあるのだろう。
「犯人はカメラの撮影範囲に入らないよう、気をつけて北西の階段へと向かいます。特にナースステーションの前を向いているカメラには気をつけなければなりません。ご覧の通り撮影範囲が、ナースステーションの前から、手前の廊下の先までかかっています。エレベーター側の壁に身体を沿わせて行けば、カメラの撮影範囲に収まることはありません」
十一に分割した映像のうちの一つ――北西にある自販機コーナーのカメラの映像に赤い帽子の『犯人』が現れた。カメラに映ることなくここまで来たことをアピールしたのだろう。数秒間その場にたたずみ、消えた。
「北西の階段を降りていきます。先ほど申しました通り、この階段を使用される方は少ない。ひととすれ違う心配もありません」
「降りてどうする。一階の地図を見てみろよ」
寺内は地図をテーブルの上に叩きつけた。
「北西階段の一階部分は、正面からカメラに捉えられている。だがこのカメラにも犯人の姿は映っていなかったんだよな。一体、犯人はどうやって南側にある救急救命センターまでたどり着いたんだ」
「一階まで降りるなんて言ってませんよ」
「へ?」
呆けた声をあげたのは寺内ではない。雲仙教授だった。
「だがしかし、北西の階段を降りると言ったじゃないか」
「降ります。ただし、二階までです」
「二階?」
十一のカメラの映像が消え、ウィンドウが一つに集約される。
そこにはエレベーターのドアが映っていた。エレベーターの横のサインは『2』だ。そのサインの前に、赤い野球帽の『犯人』が現れる。
岡が『二階北エレベーターです』と言った。
「犯人は二階で北西階段からフロアに出ます。そして犯人は――」
「ちょっと待った。刑事さん。二階で階段室を出ただと。そんなこと納得できるか」
寺内が両目を赤くして吠えた。
「よく見ろ。二階の階段を降りたら、その真下にナースステーションがあるんだよ。階段室から出てきた人間がいれば、ここにいる看護師達が気づくに決まっている。それとも何か。四階西と同じで、ここの看護師達も席を外していたなんて言うつもりか」
「まさか。そんな都合のいいことは言いませんよ」
今江は視線を部屋の奥へと向けた。
「泗水さん。よろしいかしら」
丸椅子に腰かける泗水みずき看護師が、びくりと身体を揺らした。狼狽の色に染まる二つの瞳が、当てもなく床の上をさまよう。
「泗水さん。あなたは事件当夜、二階西のナースステーションにいらっしゃいましたね」
唾を飲み込んでから泗水はうなずいた。
「あなたは事件当夜について、変わったものは見なかったと証言されました。この考えは今も変わりませんか」
「か、変わりません」
寺内はほほを上げて満足そうな表情を作った。表情をそのままに、今江の方へ顔を戻す。
今江は顔色を変えず、ただ静かに泗水を見ていた。
「変わらない。そうでしょう。そうでなければおかしいのです。何故なら泗水さん、あなたはとっても勉強熱心で、事件当夜も当直中に勉強に励んでいましたね。ナースステーションの奥のテーブルで」
「奥のテーブルだと」
寺内の獣のような視線が泗水を襲う。泗水は救いを求めるように今江に顔を向けた。
「二階西のナースステーションは勤勉な方が集まっていらっしゃるそうですね。当直の際は皆さん、時間が許す限り奥のテーブルで勉強会を催していると伺いました。皆さんに伺います。事件当夜、ナースステーションの奥にあるテーブルで三人の看護師が顔をつき合わせてテキストを広げていました。この時北西の階段から、静かな足取りで何者かが現れます。この時三人は『何者』かに気づくでしょうか。いいえ。気づかなかった。犯人は知っていた。泗水さん達の勤勉さを知っていた。もちろん、当直中全ての時間を勉強会に費やしているわけではないでしょう。もしかしたら犯人は階段の暗がりのなかで、勉強会が始まるのを待っていたのかもしれません。少しでも時間があると勉強会を始める。そうでしたね、泗水さん。とにかく犯人は、泗水さん達の目を盗んで階段室を出た。犯人は階段からまっすぐ正面に進みます。そうです。地図で見ると右手の方向。二階診察エリアの方です」
「語るに堕ちたな刑事さん」
あごひげを悠然と撫でつけながら雲仙教授が笑い声をあげた。
「診察エリアとは馬鹿げている。自分で配った地図をよく御覧なさい。診察エリアには至るところにカメラが設置してある。だが犯人の姿はカメラには映らなかったのだろう。それともなんだ。この晩に限って、カメラが故障していたとでも言うのか」
「故障はしていません。しかし、限りなく近い答えですね」
「ち、近いだと」
雲仙のひげを撫でる指がぴたりと止まった。
「どうやら雲仙教授は長いこと当直業務をお務めになられていないようですね。ねぇ泗水さん」
自分の名前を呼ばれた泗水看護師は、顔半分で笑ってみせた。
「実際に二階でお仕事をなされている泗水さんにお伺いします。犯人は二階診察エリアへと向かい、カメラに映ることはなかった。この話を聞いてどう思われますか。そんなはずはないと一笑に付しますか」
泗水は首を振った。その様子を見て雲仙が両目を大きく見開いた。
「刑事さんがおっしゃりたいのは、一九時以降の話ですよね。そうです。カメラに映るはずがありません。何故なら、その時間、二階の診察エリアは電気が消えていますから」
パーテーションの映像が切り替わる。がらんと広い空間に、同じ形のソファーが整列して並んでいる。二階の診察エリアにあるカメラの映像だ。第三土曜日の今日は病院が休みのため、いつもは患者でごった返すこの場所にひとの姿はない。
今江がスマートフォンに向けて指を鳴らす。次の瞬間、パーテーションの映像が暗転した。暗転。見紛うことなき漆黒の闇。文字通り、映像が暗闇に転じたのだ。
「診察エリアの照明を消させていただきました。事件当夜の再現です」
二、三分の間沈黙が続いた。今江のスマートフォンからぼそりと小さな声が発せられた。
岡がキーボードを叩くと、パーテーションの映像が切り替わった。木製のカウンターが横に長く伸びている。カウンターの向こうには、短い通路を挟んで一枚のドア枠が見える。
カウンターの上に置かれた観葉植物が空調の風に葉を揺らしている。五反田がハッと息を呑んだ。
「これは一階の会計・受付カウンターだ。事務室の前ですね」
「その通りです。そして皆さん、ご覧ください」
画面の右手から、赤い野球帽の『犯人』が現れる。アンニュイな雰囲気を醸し出す『犯人』は、力のない手をカウンターの上に滑らせた。
「北西階段から二階に降りた犯人は、ナースステーションで勉強会に励む泗水さん達の目を盗み、電気が消えていた診察エリアへと入ります。暗闇の中ソファーの間を縫って進み、南東部にある螺旋階段から一階へと降ります。ここまで来れば、夜間入り口は目と鼻の先です。事務室の正面を捉えているこのカメラは、地図を見るとなるほど、救急救命センターまでの道を監視しているように見えます。だが忘れないでください。二階の診察エリアが消灯時間のため電気が消えている時、一階も照明は消えているのです。犯人はカメラを気にせず、螺旋階段から救急救命センターへと向かうことができる。暗闇の中で犯人は救急車が来るのを待ち続けられるわけです」
今江は仁王立ちの体勢で室内を見回した。
「やりやがった」
ぽつりと一言、言葉が落ちる。
「やりやがった。本当に仮眠室から救急救命センターまで来やがった」
声の主は甲斐だった。両手を叩いて喝采を博する。
「甲斐先生。ふざけるのはやめてください」
寺内が苦言を呈した。その手は焦燥を隠すためか口もとをおさえている。
「こんなの茶番だ。看護師がナースステーションにいなかった? 勉強会をしていたから気づかなかった? 偶然に頼ってばかりじゃないか。ふざけている。馬鹿げている。こんな与太話につき合わせるために、おれたちを呼んだっていうのか」
寺内の表情に狼狽の色がにじみ出る。顔じゅうから玉のような汗が吹き出し、ゆらゆらとあごへと滴っていった。
「与太話とはごもっとも。人が人を殺すなんて、この世にこれ以上馬鹿げた話がありますか」
今江は手のひらをテーブルの上に叩きつけた。
「犯人は仮眠室にいた人間です。しかし、事件当夜は何人もの職員が仮眠室を利用しました。その中から犯人を見抜くことはできるでしょうか」
今江の視線が部屋の奥に注がれた。見開かれた両目はまばたきを忘れたのか、長いこと彫刻のように固まっていた。
「できます。これまでに判明した事実を当てはめていきましょう」
踵を返し、指を鳴らす。天井の照明が短く音を立ててから白い光を放ち始めた。初芝は、照明のスイッチのある部屋の入り口からいそいそと戻ってきた。
「犯人が仮眠室に入ったのは、夜間入り口カメラの映像から二二時四十分よりも前となります。また、犯人が健診センターに戻ったのは、同じく渡り廊下のカメラから二時五八分だとわかります。つまり犯人は、二二時四十分よりも前に仮眠室に入り、二時五八分以降に仮眠室から出てきた人物ということになります。また、偽物の下川さんは、午前一時前にナースステーションから仮眠室に向かっています。そうでしたね」
今江の視線が谷本看護師に向けられた。谷本は大きくうなずいた。
「そんな犯人は二時三十分頃になると再びナースステーションに戻り、その後は三時前になると健診センターへと向かいました。なぜ犯人は、一時前に仮眠室に戻ったのでしょう。決まっています。犯人の目的は、実際に下川さんが殺された零時以降も、下川さんが生きていたという誤った認識を二人の看護師に植えつけることでした。実際に姿を見せて、声を聞かせることでその目的は達せられた。下手にボロが出る前に、姿を消すのは合理的な判断です」
今江の声が迫真の色を帯びて発せられる。
「検視によると、下川さんの死亡推定時刻は二三時から午前一時の間でした。しかし、午前一時以降も下川さんの姿は本館内で確認され、さらには監視カメラのデータという物理的な証拠まで残っていました。われわれ警察は、犯人が何かしらの方法を使って、死亡推定時刻をずらしたのではないかとも考えました。しかし違った。検視の結果は正しかったわけです。目撃証言が誤っていたわけです。事件当夜に仮眠室を使った人間は数人います。しかし先ほどの条件、二二時四十分以前に仮眠室に入り、二時五八分以降に姿を現した職員は一人しか該当しませんでした」
「誰だ。それはいったい誰だ」
雲仙教授が唾を飛ばしながら立ち上がった。
その様子を寺内が嫌悪感に溢れた瞳でにらみつける。
「お答えする前に、一つだけ言わせて下さい」
今江は口もとに人差し指を当てた。
「わたしは今から犯人の名前を挙げます。しかしもし、もしあなたが皆の前で告発されることを拒むというのなら、つまり、自首してくれるというなら、ウィンクでも親指を立てるのでも構いません。何かサインを送ってください」
室内が騒然となった。
「この部屋の中に、犯人がいるの?」
篠栗看護師がサーチライトのように首を回す。しかし、何かサインを今江に送るそぶりをみせるものはいない。
「よろしいのですか」
今江が訊ねる。誰に。もちろん、犯人に。
「ならば、お名前を呼ばせていただきます」
今江の視線が部屋の奥へと注がれる。部屋の奥にあるソファーの上で腕を組み、無言を貫き続けていたその男の名は――
「下川さんを殺したのはあなたです。秋月先生」
9
「言いがかりはやめろ!」
怒声が室内を飛び交った。ただし、秋月ではなく、寺内医師ののどから。
「秋月先生が下川を殺した? そんな馬鹿な話があるか」
寺内は今江に喰いつかんばかりの勢いで詰め寄った。甲斐が素早く立ち上がり、寺内の腕を取って押さえつける。
そんな寺内とは対照的に、告発された秋月はソファーに腰を深く沈め、とろりと眠そうな表情で天井を見つめている。
「ですが、考えてみてください。秋月先生が犯人だとすると、変装した犯人の行動について上手く説明ができるのですよ」
充血した両目で初芝が言った。
「秋月先生にとって下川さんは同じ医局の部下です。彼と共に仕事をする機会には十分恵まれていた。周囲の人間にどんな風に接するのかも、当直の際にナースステーションでどこの席に座るのかも容易に観察できる立場にあった。下川さんの〝フリ〟をするくらい訳ないはずです。306号室の長峰さんに睡眠導入剤を渡しに行くのも、秋月先生なら容易にできます。実質的な第二外科医局のトップであるあなたが、自分の医局が担当している患者が恒常的に睡眠導入剤を接種していることを知らないはずがありません」
秋月は天井を見上げたまま、大きくあくびを吐き出した。その姿を見て今江の眉がひくついた。
「同じ医局にいる秋月先生なら、当直時における看護師達の行動についても把握していて当然です。三階東ナースステーションの看護師は、休憩の際にナースステーションのそばにある休憩室に行く。入り口にものが乱雑に置かれた棚がある部屋です。そしてまた、下川さんが仮眠室に向かう際は必ず休憩中の看護師に声をかけることもあなたは知っていた。そうではないですか」
「あれ。でも待ってください」
篠栗看護師がハッと目を開いた。
「刑事さん。回覧板です。事件があった夜、午後二時半ごろに、わたしは下川……くんに回覧板を渡して、その場でサインを書いてもらいました。刑事さん達にも見せましたよね」
「もちろん。覚えているわ」
何枚もの告知が挟まれたファイルのことだ。
「あのサインは下川先生のものでした。間違いありません。下川先生の字は特徴的な右上がりの、一目見ただけで……」
篠栗の顔がみるみるうちに青ざめていった。
「ま、まさか」
篠栗の問いかけに今江がうなずく。
「『西東京一のメスさばき』と名高い外科医がこちらの病院にはいらっしゃるそうですね。なるほど。それほどまでに手先が器用なら、繊細さを求められる作業もお得意なんでしょうね」
今江の右手が、胸ポケットに入ったボールペンを掴む。
「例えば、模写とかも」
室内の視線が秋月の右手に集まった。細く、白く、幾多もの難手術を乗り越えてきた名医の手。
「ここに事件当夜、犯人と思われる者が書いたサインがあります」
初芝はプラスチックファイルに入った用紙を一枚取り出した。紙の上部には『第二回地域フォーミュラリ検討委員会報告書』と印字してある。
「院内職員の皆さんにこのサインの意味を説明する必要はありませんね。二時三十分頃に偽物の下川さんがサインをし、その一時間前、一時三十分に研修医の糸島さんがサインをしました。では、糸島さんの前にサインをしたのは誰でしょう。ご覧ください。秋月先生です」
寺内が駆け寄り、プリントを凝視する。下唇を噛みしめ、刃物のような目で今江を見つめた。
「秋月先生は自身の手で下川さんのサインを書くことで、二時三十分の時点でも下川さんが生きていたことの物理的な証拠を残そうとした。篠栗さんは、回覧板を糸島さんが持ち歩いていた推測しましたが、それは間違いです。秋月先生が、生きている下川さんにサインを書かせないため、彼が亡くなるまで確保していたのです」
「だけど糸島くんは一言も……」
「当然です。自分も先ほど受け取ったばかりだと言えば、それじゃあ誰から受け取ったという話になります。そこで正直に答えると思いますか。第二外科の実質トップたる秋月先生ですと、医局という純然たる縦社会に籍を置く研修医に、そんなことが言えますか」
篠栗看護師は口をへの字に結び押し黙った。
「秋月先生は事件当夜、下川さんに変装してナースステーションに戻った際にクリアファイルを室内に戻した。そして一時頃、仮眠室に向かう途中に館内をうろついている糸島さんに、すぐにサインを書くようPHSで伝えた。糸島さんがサインを書いた後、二時三十分ですね、下川さんに変装している秋月先生はナースステーションに戻り、下川さんのサインを書きこむというわけです」
「いくぶん、眠気が覚めてきましたよ」
そんな言葉とは裏腹に、秋月は大きくのびをして、とろりとした表情で微笑んだ。
「なるほど。ぼくが下川を。ふーん。ぼくが下川をねぇ」
「秋月先生と下川さんは共に体型が痩せ型で、身長もほとんど変わりません」
一歩前に出て初芝が言った。
「色が白い所も同じです。年齢の差はありますが、下川さんが実際の年齢より老けてみえたのに対し、秋月先生は若くみえる。年齢の齟齬を二人の見た目がある程度解消してくれたわけです。下川さんに変装するのにあなたほど適した人はいません」
「よく見ているね。だけど、大切なことを忘れている。刑事さん。ぼくは下川にはなれないよ。あまりにも特徴的な差異がぼくたちの間にはあるじゃないか」
「髪型だよ、髪型」
自身の黒髪を引っぱりながら寺内が叫んだ。
「秋月先生をよく見てみろ。肩まで伸びるロングヘア―だ。それに対して下川は? お前らちゃんと下川の死体を見たのか。下川は坊主頭だ。いつも頭を綺麗に刈っていた。ロングヘア―と坊主頭じゃ天と地ほど違うだろ。それとも何だ」
寺内は篠栗と谷本の方を向いた。
「お前らが見た下川はロングヘア―だったのか。肩まで髪を伸ばした人間を、下川と見間違えたっていうのか」
「まさか。そんなはずありません。わたしたちが見たのは、確かに坊主頭で……」
「待て待て。整合的に解決するアイディアがあるぞ」
頬を緩めて甲斐が言った。
「秋月は犯行直前に頭を丸めたんだ。事件当夜にご自慢のロングヘアーを捨てて、ご覧の通り現在は元の長さに生えそろったというわけだ。たったの四日でな!」
甲斐は腹を抱えて笑い始めた。雲仙が一喝すると、甲斐はひぃひぃと笑い声をかみ殺した。
「さ、どうするんですか。刑事さん」
秋月はちろりと舌の先を今江に向けた。今江は両腕を組んだまま静かに秋月と対峙し――
「今野さん」
――室内の誰もが予想だにしなかった者の名前を呼んだ。
放射線科技師の今野が濁音混じりの返事をした。
「あなたにお願いしたいことがあります。可及的速やかに、ね」
それまで黙って成り行きを観ていた今野は、突然話題の中心に突き出され、生ぬるい汗を流した。
「はぁ。わたしにできることなら」
「放射線科に戻って、MRIの準備をしてください」
「……なんで?」
今野はこくりと首を捻った。
「秋月先生には今から健康診断を受けていただきます。健康診断の項目に、MRIを用いた検査がありましたよね」
「え、いや。どういうこと? だって事件と、MRIが? どうして」
「どうも捜査に行き詰まり、刑事さんの頭はおかしくなっちまったようですなぁ」
雲仙教授が下卑た笑い声を室内に響かせた。つられて他の者もくすりと笑い声をあげる。
しかし、秋月だけは笑っていなかった。
秋月は眠気が去った力強い両目で今江を睨みつけ、微かに開いた二枚のくちびるの間から、ぎりりと噛みしめた前歯をのぞかせた。
「秋月先生は毎年、下の医師たちが受診しやすいように、率先して健康診断を受けていました。それなのに今年はまだ受診しておらず、今野さんからクレームを受けていました」
二人の刑事と長峰氏の病室を訪れる前、秋月は看護師に早く健康診断を受けるよう促されていた。
「どうして今年はまだ受診されていないのでしょうか」
「今年は特に忙しかった。それだけだろ」
破顔を止めた雲仙の表情は、再び険しいものに戻っていた。
「かまわん。秋月。今から検査を受けてこい。それで刑事さんの気が晴れるなら……おい、聞いているのか」
秋月は何も言わない。ただ反抗的な目つきで今江をにらみつけている。
「秋月先生。わたしには分かっています。あなたは放射線科には行けない。何故なら、今のあなたが受診したら、あなたの欺瞞が今野さんに露見してしまうからです」
室内にどよめきが走った。
「ここで話は秋月先生の髪型に戻ります。確かに秋月先生と下川さんの髪型は全く違う。しかし、髪を急速に伸ばすことは不可能としても、髪を短くすることはいつでも可能です。秋月先生は事件当夜、ご自慢のロングヘア―を切り落とし、坊主頭で犯行に及んだのです」
「だけど現に先生の髪は今も長いじゃないか」
寺内が叫ぶ。しかし今江は動じない。
「寺内先生は大きな勘違いをされています。秋月先生は長いこと、髪を肩まで伸ばしていらっしゃった。それ故、皆さんは秋月先生の髪はロングヘアーで当然と認識するようになった。もうお分かりでしょう。秋月先生は、ご自身の髪型と同じカツラを用意したのです。一般的にカツラは変装のために使われます。しかし秋月先生はまったく逆の使い方をした。髪を剃ることで下川さんに変装し、カツラをつけることで本来の自分に戻ったのです」
「カツラね。そういうことか」
今野の表情に緊張が走った。
「坊主頭にカツラを付ける場合は、ヘアネットを被り、カツラ自体とネットを固定するための金属ピンを使う必要がある。だけどMRIに金属はご法度。もし秋月先生のその髪がカツラだというなら、MRIの磁場の中でピンが飛んでいくかもしれない。仮に強固にピンを固定しても、金属を装着した部分の画像データは黒くなるのでぼくには一発でわかる」
「だけどそれなら、健康診断を受けてから頭を丸めればいいじゃないですか。どうして秋月先生はそうしなかったんですか」
谷岡看護師が若く純粋な目で訊ねる。
「同じ髪型とはいえ、実際の髪とかつらとでは質感が異なります」
初芝が腕を組みながら言った。
「秋月先生は髪質の変化に気づかれるわけにはいかなかった。前々から頭を丸め、かつらをつけて日常業務をこなし、かつらの髪質が本来の自身の髪質であると、病院の皆さんに認識してもらう必要があったのです。誰かが自身の頭について疑惑を抱き、それが警察の耳に入ることを避けたかったのです」
「秋月先生」
今江が力強い声を発した。
「わたしの意見が間違っているというのなら、どうぞMRIの検査を受けてきてください。恙なく検査が終了したならば、わたしは自分の過ちを認め、捜査を打ち切る所存です」
秋月の口から笑みがこぼれる。どす黒い笑みが、粘度をもった笑みが、どろりと、どろりと――
「やれやれ。こんな形でバレるとはなぁ」
秋月は自分の頭に手を回す。パチリという音と共に、肩まで伸びるロングヘア―が外れた。
黒いヘアネットを外して坊主頭が晒された。小さな悲鳴を誰かが発っする。秋月は周囲の驚嘆の表情を見て、満足げにヘアネットとカツラを被りなおした。
「皆さんが落ち着かないようですからね、カツラを戻させてもらうよ。はい。いつもの秋月清玄です。どうぞみなさんお見知りおきを」
「秋月。本当にお前が犯人なのか」
呆然とした表情の雲仙教授が、震える指を秋月に突き立てる。秋月は雲仙に一瞥を投げつけるにとどめた。
「だけど刑事さぁん。どうして秋月先生は下川先生を殺したんですかぁ」
宇治家が眉を潜めながら訊ねる。
「ホスピス建設をめぐる意見の相違です」
「ホスピスって……来年の春に竣工する建物のことですかぁ?」
「その通り。ホスピスの主な目的は、完治の見込みが亡くなったガン患者のクオリティオブライフ、人生の質の向上を手助けすること。医療従事者の皆さんには釈迦に説法でしょうが、がん治療には多大な負担が患者さんの身体にかかります。見込みのない治療のために、患者を苦しめるわけにはいかない。ホスピスの理念は、最新医療の限界を見極めた、至極合理的な判断の元に形成されています」
「その通り。我々はホスピスによって、一人でも多くのがん患者の人生をより良きものにするために尽力する所存だ」
雲仙教授が胸を張って声を張り上げる。
「そして、ホスピス建設にはもう一つ暗黙の目的が組み込まれていました。外科医局の過重労働の解消。そうですね」
今江がそう口にすると、雲仙教授の顔色が急速に白く透けていった。そして次の瞬間、顔色は一転して憤怒の色に染まった。
「何を……何を馬鹿なことを言っているんだあんたは!」
「教授。既にわたしは把握しています。この四日間、院内を見学してよくわかりました。医療現場は多忙を極めている。ほとんどの職員が自身の休養を削り取り、過重労働に身を費やしていらっしゃる。人員補充といった医療資源の供給は非現実的。とはいえI市における地域医療の中心を自他ともに認める山吹医科大学附属病院にとって、一日の診察数や入院患者の数を減らすわけにもいかない。それどころか、落合院長は患者の受け入れを推奨しているくらいです」
その通りだな、と救急救命センターの甲斐がうなずいた。
「医療資源は足りない。しかし病院の評判を保つためには受け入れ患者の数を減らすわけにはいかない。そこで生み出されたアイディアがホスピスの建設です。外科医局はホスピスを仕事量の調整弁として利用するつもりなのです」
「調整弁」
谷岡看護師がぽつりとつぶやいた。
「まさかそれって……」
「お察しの通りです。治療の可能性のあるがん患者もホスピスに送り込む。完治の可能性があろうとも、治療は不可能とあえて誤診を下すわけです」
室内が今日一番のざわめきに包まれた。ある者は大きく開いた口を両手で覆い、ある者は瞠目のあまり全身を震わせる。またある者は呪詛の意志が込められた形相で眼前の刑事をにらみつけていた。
「そんなのは非現実的だ!」
事務課の五反田が声をあげた。
「実際にご自身が当院で診察を受けたと想像してください。がん治療の見込みはないと診察されて、そうですかそれは仕方がないと受け入れますか。まさか。ひとによってはセカンドピニオンを求めて別の病院を訪れるかもしれない。そちらで治療が可能と診察され、実際に完治したりしたら……山吹のメンツは丸つぶれです!」
「ですから、患者を選抜するんですよ」
初芝は身を乗り出して言った。
「地域医療の中心たる山吹医科大学附属病院は、この地域一帯で絶対的な信用を得ています。信頼する山吹の医者が『治せない』と言ったのです。こちらの病院を信用している患者さんは、納得して誤診を受け入れるでしょう」
初芝の脳裏に警備員の小島の姿が現れた。一昨日の夜、制帽を握りしめて小島は言った。
『この病院で警備員として働けることに誇りをもってる。地元のみんながこの病院を頼りにしてるんです』
彼のような、純朴な人間ならば簡単に騙されるに違いない。そして彼のように『山吹』の威信を信奉する人間はこの地域にはいくらでもいるのだろう。
「山吹でダメなら他でもダメだ。それどころか、山吹ではホスピスを用意して余生の面倒まで診てくれるという。誤診は誤診のまま、院内全てでその患者の人生は終結するわけです。そういった患者だけを選んでホスピスに送り込む。患者が少しでも診察に疑いを抱くようなら、通常通りの診察を行えばいい。外科医局の目的は、全てのがん患者をホスピスに送り込むことではありません。都合のよい患者は見殺しにして自分たちの労働を減らす。第一、第二外科医局内ではこのような暗黙の誓いが浸透していました。一人の医師を除いてね」
「それが、下川先生?」
谷岡看護師が目を丸くした。
「そうです。谷岡さん。桜井鼓太郎くんのことを思い出してください。三か月前、寺内先生は鼓太郎くんの横紋筋肉腫は完治の見込みがないと判断し、治療の打ち切りを提案しました。しかし下川さんは反対した。彼は鼓太郎くんを治してみせると宣言し、ご両親の信頼を勝ち得た。寺内先生――」
初芝は憮然とした表情の寺内に声をかけた。
「正直に答えてください。鼓太郎くんは、本当に完治の見込みはなかったのですか」
「あんたらが疑っているのは分かるがね」
寺内はソファに沈めた身体を起こして、燃えるような瞳で応えた。
「鼓太郎くんは絶対に治らない。嘘だと思うなら、カルテをやるから他所の病院にでももって行け。まともな医者ならおれと同じ判断を下す。絶対にだ」
寺内の声から嘘偽りのにおいはしなかった。
「狂っているよ」
寺内は言った。
「鼓太郎くんの治療を続けるなんて、下川は狂っている。あいつは何だったんだ。その自信はどこから来るんだ。治るはずもないのに、鼓太郎くんを意味もなく苦しめて」
「そう。下川さんは狂っていた」
今江は視線を足元に落とした。
「彼は外科医局に浸透するホスピスに関する密約に断固として反対した。誰よりも何よりも生き続けることを尊重する下川さんは、自分たちの都合で患者を見殺しにする外科医局の企みを看過することはできなかった。下川さんは外科医局の反逆者でした。間もなく二つの外科医局が再統合して、院内における絶対的な権力を手にしようという時に、医局内からとんでもない異分子が生まれたわけです。絶対的なトップダウン組織たる病院組織で、彼のような反逆者が誕生することは予想だにしない事態だったのでしょう。どんな説得にも応じない彼に手を焼いたのは、下川さんが所属する第二医局の実質的なトップである秋月先生です」
「何を根拠に……でたらめだ! 今すぐその口を閉じろ!」
雲仙が糾弾の声をあげる。だが、今江は止まらない。
「下川さんの死後、第一、第二外科医局合同で緊急ミーティングを行ったそうですね。当初は下川さんが亡くなったことに関する情報伝達に過ぎないと思われましたが、糸島さんが自殺された際は合同のミーティングは行われなかった。何故でしょう。必要がなかったからです。下川さんの死後、外科医局は箝口令を敷いた。ホスピスに関する思惑が露見したら、外科医局は院内の信頼と地位を失うだけではなく、下川さんへの殺意を抱いていたと警察に疑いをかけられる可能性が生まれる。だから、徹底した箝口令を敷くためのミーティングが行われたわけです。対して、糸島さんの死に関して憂慮する点は何一つありません。外科医局の皆さんは、糸島さんが自殺された理由を、あの遺書の内容を理解していたのではないですか」
今江は三人の外科医局の人間を順番に見つめた。瞋怒の表情たる雲仙を、愁容の表情たる寺内を、そして愉悦の表情たる秋月を。
「『こんなことをするために医者になったんじゃない』。そうでしょう。欺瞞を繰り返すために糸島さんは医者になったのではありません。彼は知っていた。外科医局の人間は知っていた。下川を殺したのは外科医局の人間だ。外科医局だけが彼を殺す動機がある。医者の家系に生まれ、医者以外の道を知らない糸島さんは苦しみました。自分の生きる道は欺瞞に溢れている。だから彼は自らの命を絶ったのです」
「刑事さん。一つ、いいかな」
秋月は挙手しながら言った。
「その与太話、いったいどこから仕入れてきた。誰があんたらに教えた。もしかして――あの赤い帽子か」
秋月の視線がパーテーションに移る。今はパーテーションにはプロジェクターの映像は何も映っていない。
「そうです」
「なるほど。あいつは誰から聞いたのかな。寺内。お前か」
「冗談はやめてください」
「下川さんですよ」
今江が答えた。
秋月はあご先をかきながら天井を見つめた。
「なるほど。自分一人じゃ解決できないとよそに協力を求めたわけか。やっぱり下川はぼくたちの裏切者だな」
「あ、秋月先生。その口ぶりは、刑事さんのお話を認めるということですか」
五反田事務課長が震える声で訊ねた。
「外科医局は本当にホスピスを……そんな不純な目的で利用するつもりなのですか」
「まさか。全面的に否定しますよ。外科医局がそんな不埒な考えに至ったという証拠でもあるのですか。ない。ならば知らぬ存ぜぬを突き通すまでです。五反田課長、ご安心ください。仮にわたしたちがそんな悪事を働こうと画策していたとしても、警察の手により皆さんの脳裏に外科医局への疑いの芽はしっかりと埋め込まれたわけです。こんな状況で刑事さんのおっしゃる悪事を働くわけがないでしょう。ははは。ほら笑って。大丈夫ですよ。ホスピスは問題なく運営されますから」
――もっとも――
「その頃にはわたしは別の病院で勤務しているでしょうがね」
「先生。それはどういう意味ですか」
寺内が上司に向かって叫んだ。
「当たり前だろ。警察はぼくが下川を殺したと糾弾した。真実ではないにしても、明日から皆がぼくを犯罪者と疑ってかかる。こんな息苦しい所にいられないよ。というわけで五反田課長。退職の手続きを後で教えてくださいね」
「犯行を否定されるつもりですか」
今江が訊ねた。秋月は満面の笑みで首肯する。
「刑事さん。あんたらはもっともらしい与太話でぼくを犯人に仕立て上げようとしている。なるほど、ぼくに犯行が可能だってのはよく分かった。だが、あんたらの話は全部ただの推測だ。物的な証拠は何一つない。ぼくを犯人だと指し示す証拠はないんだろう」
「だけど先生、カツラが……」
「カツラを被っていることと、下川を殺したことの間に論理的な繋がりはない」
寺内の弱々しい声を秋月は一喝した。
「ぼくは自分の趣味でカツラを被っているだけだ。この主張を覆すことができるのか。不可能だ。刑事さん、証拠だ。ぼくを犯人にしたいなら証拠を持ってこい」
「お時間があればすぐに見つけてきますよ」
淡とした口調で今江が言った。
「屋上から垂らしたロープは、犯行直後の朝にご自宅に持ち帰られたのでしょう。先生と初めてお会いしたのは、当直明けでお帰りのタイミングでしたね。肩にかけた大きなトートバッグの中に、屋上から垂らしたロープが入っていたのではないですか。もうロープは処分しましたか。家宅捜索を行ってもよろしいですか。わたしのお話しした推理が正しければ、一階の裏口のカギを開けるために秋月先生は健診センターを訪れたはずです。健診センターの職員たちに、秋月先生の姿を見なかったか確認しましょう。何のために健診センターを訪れたのですか。お答えする準備はできていますか。犯行に及んだナイフはどこで買ったのですか。捜査員が関東一帯のナイフ売り場をあなたの顔写真を手にローラー式に回っていきます。それともネットショッピングで購入されたのですか。オンライン上の捜査も抜かりなく行っていきますよ」
――秋月先生――
「時間です。時間の問題なのです。時間さえあれば、あなたの犯行はすぐに露見します。無駄な抵抗はやめてください」
「そう、時間だ」
秋月は腕を組んでくつくつと笑う。
「あんたら警察には時間がない。落合院長が今日の昼食の会合で、下川の死を『事件』ではなく『事故』として扱うよう天神署の上層部に掛け合ってくださる。あんたらに残された時間は残り少ない。それまでにおれが下川を殺した証拠が見つけられるのか?」
「無理ですね」
今江の返事に、秋月は大きな笑い声をあげた。
「無理だから、こうしてお願いをしているのです。秋月先生。自首してください。下川さんを殺したのは自分だと認めてください。そうしないと、あなたは……」
「ぼくが、なんだって?」
秋月が問いかけると同時に、パーテーションの向こうから、豪快にドアが開かれる音が聞こえた。
「言いましたよね。説得なんか無理だって」
パーテーションのすき間から赤い野球帽が現れた。
10
「あぁ、やっぱり。きみだったのか」
舌打ちの後に秋月がそう吐き出す。憎しみの瞳の奥に、諦観の色がにじんでいる。すなわち、『こいつなら仕方がない』。そんな想いが。
「ひどいじゃないか。よくも嘘八百を警察に吹き込んでくれたものだね」
「たしかにわたしは嘘をついていました。自分を偽り、過去を拒絶し、それが過ちなのかどうかは今もまだわかりません。だけどこれだけは言える。秋月先生。あなたの嘘は看過されていいものではありません」
細い手が赤い野球帽のつばを握る。帽子の中にまとまっていた黒髪がはらはらと背中に垂れていく。糸のように細い双眸が鋭利な意志をもって秋月を見つめる。
瞬間、室内の空気はたしかに凍りついた。
刑事の今江と横並びになって立つ赤い野球帽の『犯人』。その正体は、手術室所属の看護師、剣淵氷織だった。
「秋月先生。わたしは全てを知っています。下川先生は秋月先生と事件当夜に健診センターで会う約束を取り付けた。そこでどんな会話が交わされる予定だったのかも、わたしは既に知っています。下川先生から聞き及んだのです」
「ふぅん」
秋月は目を丸くした。
「下川先生は他言しないとあなたに約束しましたね。ですがわたしは特別です。わたしは下川先生からある依頼を受けていた。その依頼を受ける際、下川先生の一挙手一挙動、これから何をするつもりなのか、そのすべてをわたしに伝えることを条件としました」
「ぼくは下川と健診センターで会う約束をしていた。つまり事件の夜に健診センターを訪れたのはぼく。故に下川を殺したのこのぼくだ。おいおい。そんな無茶苦茶なロジックがあるかよ」
氷織は応えない。
「それで? 剣淵さんが来たことで何かが変わるっていうのかい。警察はぼくを犯人呼ばわりした。証拠もなしに、可能性だけを理由にね。警察はぼくを逮捕できない。だからぼくに自首を促してきた。こんな情けない話があるか。仮にぼくが犯人なら、自首なんてするわけがないじゃないか」
「そうですね。証拠なんてありません」
氷像のようにそこに立つ氷織は、冷たく、抑揚も、感情も、憐れみも持たない言葉を、白い息吹のように吐き出した。
「ただ、あなたにあなた自身の罪を告白させる準備は既に整っています」
「……なんだと?」
「わたしは最初からこの方法を選択するべきだと警察に申し上げました。それなのに警察は――」
「駄目だ。やっぱり駄目だ」
初芝が声を荒げて前にでた。
「秋月先生。下川さんを殺したことを認めてください。自首してください。今ならまだ間に合う」
「おいおい。なんだよ。なんなんだよこの茶番は」
秋月は足を組んで嘲笑を漏らした。
「そんなブラフでぼくを陥落できるとでも思ったのか。罪を告白させる準備? 拷問でもするつもりかい」
「拷問。そんなかわいいものを想像されているわけですか」
氷織は力なく首をふった。
「この世で最も恐ろしいものとは何でしょう。博識な先生はどのようにお考えですか」
秋月は答えない。彼の視界の中に逡巡の色が浮かんだ。
「この世で最も恐ろしいこと。それは――真実です」
氷織はスマートフォンを取りだしてどこかに電話をかけた。数十秒後、データセンターのドアが開いた。
「おい。もういいのか」
パーテーションの向こうからスポーツ刈りの男が顔をのぞかせた。くたびれたスーツ姿のその男は、険しい顔つきで室内を一瞥する。
「待ってください。籐藤さん。もう少し待ってください」
初芝が両手を前に出して籐藤巡査部長を制する。籐藤は顔をしかめた。
「おい。どうなってんだ。おれは何のために真夜中に能登半島まで車を出したんだ」
「籐藤巡査部長」
初芝の背後で、今江が言った。
「最後に一度だけ、チャンスをください」
踵を返し、前へ進む。
休憩室の最奥。横長のソファーに座る秋月の目の前に立ち、今江は口を開いた。
「秋月先生。自首をしてください。下川さんを殺したことを認めてください」
「やってないものは認められない」
間髪入れずに秋月は応えた。
言葉もなく今江は振り返る。その顔は、死人のように冷たかった。
今江が籐藤にうなずく。籐藤はパーテーションを越えて部屋の外に出た。
ほどなくして籐藤が戻ってきた。彼の横には一人の女性がいた。
おぼつかない足取りのその女性は、小じわの走る白い顔にハンカチを当てて涙を拭っていた。漆黒の着物に微かに光沢が入った帯。喪服だ。その女性は喪服を着ていた。
何者とも知れぬ部外者の登場に室内の空気が神妙な色に染まった。皆の視線が謎の女性と秋月に分散する。秋月も皆と同じく、困惑した様子をみせていた。
女性は部屋の奥にいる秋月を見て、ハッと顔を光らせた。後ろにまとめた白髪混じりの黒髪を揺らしながら秋月に近づくと、彼の手を握って頭を垂れた。
「秋月先生。秋月先生ですね」
女性が声を発した。弱々しく、小さな、細雪のような声だった。
その声を聞き、秋月の表情が凍りついた。
「あぁ先生。お久しぶりでございます。息子がお世話になっておりましたのに、一度も挨拶に伺いもしませんで……」
「そんな、そんな馬鹿な。どうしてあなたがここにいるんですか」
秋月は立ち上がり、三人の刑事に向かって叫んだ。
「どうしてここに、小宮さんがいるんだ!」
「小宮……小宮だと! ま、まさか!」
雲仙教授が両目を剥き出しにして立ち上がった。
「二十年前。心臓病を患った小学一年生の小宮少年が、ここ山吹医科大学附属病院の外科医局を訪れました」
氷織が語り始める。その背後で、今江と初芝は沈痛な面持ちで秋月を見つめていた。
「小宮少年は山吹に来る前に五つの病院で治療を断られていました。手術自体の成功率が低く、更に少年の虚弱体質が手術の成功率をさらに下げていたのです」
「どうして、どうしてその話を今ここで……」
寺内が汗ばんだ手で合皮のソファーを握りしめた。
「当時の外科医局長の落合院長も、前の病院の医者と同じく手術は不可能と匙を投げました。しかし、一人の医者が匙を拾い上げた。皆さんご存じですね。今は亡き、神原教授です」
「『だって、かわいそうじゃないか』」
秋月の口からそんな言葉が漏れでた。震える手で秋月は自身の口をふさいだ。
もう遅い。室内の皆が聞いてしまった。
その声は、秋月の声であって、秋月の声ではなかった。棄てられた匙を拾い上げた一人の医師の声。弟子の心に確かに刻まれていた名医の声。
「神原教授は二人の医師とチームを組み、少年の治療にあたりました。一人は関現教授。そしてもう一人は、秋月先生です」
「そうです。研修医だった秋月先生は無愛想なあの子をよく気にかけてくださいました。先生はお若いのにわたしの相談にもよく乗っていただき、先生の言葉にわたしがどれほど救われたか。本当に感謝してもしきれません」
小宮婦人の嗚咽が室内に響く。
「神原教授の手術は成功。無事、小宮少年は心臓病を克服しました。少年は家に帰り、やがて彼は母親の再婚に伴い遠く石川県へと生活の場を変えます。中学三年生になった少年は、自分の心臓病を治してくれた医師に憧れ、単身東京へ生活の場を移します。そして彼は高校を卒業し、山吹医科大学に入学。その後も真面目に勉学に勤しみ、見事医師国家試験に合格したのです」
もう、お分かりですね。氷織は言った。
「小宮少年の下の名前は、仁。小宮さん。奥様の今のお名前をうかがってもよろしいですか」
「下川です。あの子が十二歳の時に、わたしは石川県で会社を経営する下川宗一郎と再婚いたしました」
「二十年前、小宮少年は七歳の時に山吹に来た……」
指の爪を噛みながら雲仙教授が言った。
「そして下川は今年で二十七歳。年齢も一致している」
「下川先生がホスピスについて強固に反対していた理由がこれでおわかりになったでしょう。少年の頃、下川先生は名医によって命を救われた。諦めなければどんな命も救い得ると彼は信じていた。だから彼は鼓太郎くんの治療を継続させたのです。どんなに苦しくても、諦めなければ病は治る。諦めた瞬間、可能性は閉ざされる。彼にとって生きることは絶対的な命題だった。だから『調整弁』なる外科医の仕事に――医師でありながら『命』を諦める仕事に断固として反対したのです」
氷織の口調は一定していた。激するでも冷めるでもなく、ただひたすらに伝えていた。
そう、伝えていた。言葉を。真実を。死者の想いを。
「下川先生は、ホスピスに対する外科医局の指針を撤回させるために秋月先生を味方につけようとした。下川先生は秋月先生を信じていた。自身を救ってくれた三人の医師。一人は亡くなり、一人は臨床の現場から離れ、秋月先生だけが残っていた。下川先生は秋月先生に秘密裡に伝えたいことがあった。そのために、あの夜、健診センターに秋月先生を呼んだのです」
「伝えたいこと? そりゃいったい何だ。自分の正体か」
甲斐が眉間にしわを寄せながら訊ねる。
氷織は首をふった。
「違います。ですが、答えることはできません。これは非常に扱いが難しい情報であり、そして今回の事件の真実を明かすためには、必要な情報ではありません」
「だけど、剣淵さんは知っているんだな」
甲斐はにかりと微笑んだ。
「わかるよ。あんたが調べたんだろ」
氷織は応えない。応えず、秋月に向き直る。
「秋月先生が〝あの〟情報をご存じかどうかはわかりません。秋月先生は下川先生を殺すつもりで健診センターを訪れた。凶器が、トリックが、全てがそう物語っています。下川先生が情報を伝える前に殺したのかもしれない。後かもしれない。わかりません。だけどわたしは確信している。秋月先生が下川先生を殺した。この事実だけは、確信している。先生、あなたはこの事実に耐えられるのですか。この真実を胸の奥にとどめて生きていく覚悟があるのですか」
「嘘でしょう。秋月先生が、あの子を? そんなの。嘘ですよね」
下川婦人が震える手で秋月の白衣に掴みかかる。
「先生はあの子を救ってくれた。神原先生と、関先生と、三人であの子を救ってくれたじゃないですか。そんな先生が殺した? 嘘です。嘘と言ってください。あんな女の言葉、戯言だと否定してください」
「ぼくは……ぼくは……」
秋月の顔から粘度のある汗が滴り落ちていく。彼は下川婦人を振り払い、弱々しいうめき声と共に、部屋の角へと転がるように逃げていった。
氷織が口を開きかけたところで、今江が彼女の肩に手を置いた。今江はうなずき、静かな足取りで秋月に近寄る。
「下川さんは、胸部をナイフで刺されて死亡しました」
子どもを諭すような優しい口調で今江は語り掛けた。
「そして二十年前。神原教授は手術の最後、術部の縫合を研修医のあなたに任せた」
――わかるでしょう――
「あなたは自分で縫い合わせた傷口を、二十年の時を経て、自分の手で切り裂いたの」
次の瞬間。獣のような叫喚が室内に轟いた。
悔恨の想いに狂うその叫び声を耳にしながら、今江は、救うことのできなかった目の前の男を見つめていた。




