幕間A
警視庁刑事部捜査一課に所属する籐藤剛は、四十路の肩書から手招きを受ける年齢になって、足音からその人の性格が読み取れることに気がついた。
性格を読み取るためにはその足音が生じている環境が最低限必要な情報となる。
例をだそう。切れ味鋭く甲高いスタッカートの足音が聞こえる。場所は美術館だ。この間隔の短い足音はピンヒールによるものだろう。革靴ならばかかとからつま先までを地面につけるので一つの音がもう少し長く伸びる。
どうやらこの足音の主は芸術作品にさほど興味がないらしい。美術館で流し見をするような者を芸術愛好家と呼ぶわけにはいかない。いや。彼女は芸術愛好家だ。ただ彼女は……そう、お花を摘みに急いでいるだけで――否否。環境をよく見たまえ。足音は手洗い場とは反対の方角に向かっている。つまり彼女は芸術に興味がないのに美術館を訪れた奇特な来場者というわけだ。
しかしなぜ。なぜ彼女は美術館を訪れた。
恋人に無理やり付き合わされたというわけではなさそうだ。それならば恋人に合わせて歩く速度も遅くなるはず。彼女は一人でこの美術館を訪れた。一人で訪れ――そうだ。彼女だ。彼女こそが犯人だ。
以上の顛末はほんの六か月前、梅雨の東京で起きた殺人未遂事件のクライマックスシーンだ。
美術館館長のもとに送られてくる幾枚もの脅迫状。『命を貰いうける』とゴシック体で印字された脅迫状に怯えた老館長の依頼で、籐藤は美術館に足を運んだ。
いっこうに犯人の正体が知られない事態に(色狂いの老館長の女性遍歴に犯人の正体が隠れていると籐藤は推測したが、体面が汚れることと館長の椅子から蹴り落されることを恐れたこの依頼人はその手の事情については頑なに口外を拒んだ)籐藤は憤りを覚え、最終的には老館長がガードを解いたと犯人に見せかけることで、犯人を美術館におびき寄せることにした。
一般市民の身を危険にさらすとは、警察官としてあるまじき処方と責められる謂れはない。『どんな手を使ってでも』と口にしたのは他ならぬ老館長なのだから。
とにかく。そんな六か月前の事件を経て籐藤は『足音が性格を表す』という知見を得た。
そして現在。その知見をもとに籐藤は耳をすました。重苦しい足音がコンクリートに包まれた空間に響く。廊下から階段に移ったその足音は段差の途中で一度止まり、数秒の間をおいて再び上り始めた。
どれだけ全身が疲労に染まろうと、事態が上手く運べばその身体は軽やかに動く。この足音は失敗を意味している。失敗。籐藤は静かに白い息を吐き出した。
階段を上りきった足音が一枚のドアの前で止まった。籐藤は屋上へと続く階段の暗がりから身を乗り出し、コンクリートの壁を中指で叩いた。
ドアの前で男が振り返った。銀色のディンプルキーを鍵穴に差しこんでいる。
ホコリ臭い建物の中、磨りガラスから差しこまれる白い朝陽が男の顔を照らしていた。
「あぁ。籐藤さんでしたか」
柔和な顔つきのその男は、赤いダッフルコートで包んだ長身を折り曲げて笑った。片方の手が大量の紙袋を抱えている。
「おかえり、法律」
籐藤がそう言ったその瞬間、十日間に及ぶ長旅から帰還した探偵――恒河沙法律は、ドアの中へ脱兎のごとく飛び込んだ。
刑事もまた同じ様に階段から飛び出し、閉じ切る寸前のドアに革靴を突き刺した。
「首尾は?」
ドアの中で引きつり笑いを浮かべる法律に、籐藤は無表情で訊ねた。
衝立に囲われた応接セットのソファーの上で、法律は自身の探偵事務所にいながら居心地の悪そうな表情をしていた。
「約束は九時だったはずです」
「ちょうど九時じゃないか」
給湯室の中から籐藤は粘度のある声を返した。勝手知ったる他人の事務所。長旅から帰ってきたばかりの法律をソファーに座らせて、籐藤は給湯室でコーヒーを淹れていた。
「捜査一課の刑事を朝の九時に呼び出すはずがないでしょう」
「夜の九時だったのか。勘違いしていたよ」
「警察ってやつはそんなに暇なんですか」
「暇じゃないさ。早朝に東京駅に着く夜行バスで帰ってくると聞いていたからな。夜まで待てないのでこうして先走ったわけだ。別にお前に会いたかったわけじゃない。これは仕事だ。警察の仕事だ」
木彫りのカップを両手に持って籐藤は応接セットの中に入った。籐藤は音を立ててブラックコーヒーをすする。法律は唇を濡らす程度にとどめた。
「あの、これ。お土産です。みなさんでどうぞ」
法律は持って帰ってきた大量の紙袋を差し出した。
「ちんすこうに南部煎餅。全国津々浦々ご苦労なこった」
部署ごとに小分けできるようにと気を使ったのだろう。紙袋の中は小箱であふれかえっていた。
「あ、ばか野郎。生八つ橋を買ってくるやつがあるか。賞味期限があと二日しかないじゃないか」
「え、あ。そうか。生って。すみません」
「まぁいい。残ったら若いのの口につっこむ。ありがとうな。それで、どうだったんだ。その様子から察するに、上手くいかなかったのか」
「上手くいかなかったわけではありません」
法律は両手を大げさにふってみせた。
「点数で言うならば二十点といったところでしょうか」
「落第点だ馬鹿野郎」
徳和大学女子大生誘拐連続殺人事件――通称『九相図殺人事件』が解決してから半月以上の時間が経っていた。
この事件の犯人は殺害した女子大生たちの遺体を、死者が朽ち果てていく姿を九つの段階に分けて描いた宗教芸術『九相図』を模した形で遺棄していった。悪辣を極めたこの事件の犯人を突き止めたのは、幾多もの難事件を解決してきた名探偵、『反謎』の名で知られる恒河沙理人の子息、恒河沙法律その人であった。
『九相図殺人事件』の最中法律は心に深い傷を負った。だが彼は事件解決のために共に奔走した籐藤剛によって立ち直った。
法律は籐藤に語った。十年の時を経て東京に帰ってきた目的。それは、父である恒河沙理人の十年前の悪行を告発し、彼に罪の意識を芽生えさせることであった。
籐藤は法律から恒河沙理人の悪行の詳細を聞いた。刑事は言葉を失った。それは常人には理解しえず、常人であれば罪の意識に苛まれ、常人であれば陽の光を浴びることさえ自身に許せなくなるであろう、極濁悪の行いであった。
しかし恒河沙理人の内に罪の意識なるものは生まれなかった。むしろ彼は十年前、自分の期待を裏切った法律に蔑視を向け、彼の探偵としての才能を見限ったのだ。
本人の意図せぬ形で『九相図殺人事件』の捜査協力を法律に依頼した、警視庁副総監桂十鳩は、今後も他に類をみない異常事件――まともな理性をもった人間では解決に達しえない事件――に警察が直面した際、恒河沙法律が所長を務める恒河沙探偵事務所に捜査の協力を依頼する旨を警視庁内で取りまとめ、同探偵事務所と密約を結んだ。
法律には早急になすべきことがあった。人員確保だ。現在、恒河沙探偵事務所に所属する人員は所長である法律ただ一人なのだから。
法律はこの十日間で全国に散らばる妹たちのもとを訪れていた。法律は探偵としての能力を備えた妹たちを必要とした。探偵事務所を稼働させるためだけではない。恒河沙理人との戦いの際に彼女たちの力が必要になることを法律は確信していたのだ。
妹たちをここ神保町の探偵事務所に連れて帰る。それが、この十日間に及ぶ長旅の目的だった。
しかし――
「反抗期か」
籐藤は犬歯をのぞかせながらコーヒーカップを掲げた。空いた手がテーブルに広げられた銘菓の上を浮遊し、生八つ橋をひとつ掴んだ。
「それとも。単に長男には人望がないのかな」
「あのですね。彼女たちには自分の生活があるんですよ。それを今すぐ投げ捨てて東京に来てくれだなんて、そんな都合のいい話があるわけないでしょ」
「つまり、今回一人として連れて帰ってこなかったことは、お前にとって何ら失敗を意味するわけではないということか」
「そのとおりです」
「それならなんで二十点なんだ」
法律の笑顔が凍りついた。
「一人として妹を連れて帰ってこなかった点は減点対象にはならない。それなら何が減点対象になるんだ」
「ちょ、ちょっと待ってください。説明。説明を先にさせてください。まずですね、一人からは確約を取りましたから……」
「たった一人か!」
籐藤は怒声を飛ばした。暴風を真正面から受け止めたような衝撃に、法律の首が後方に吹き飛んだ。
「こ、こっちだって大変だったんですよ。一人は伏見稲荷で目撃されたのを最後、京都市内で理不尽な失踪を続ける始末。やっと見つけたと思ったら自宅のベッドに戻ってすやすやと眠っちゃうんですから」
「たたき起こせばいいだろ」
「あの子、寝起き悪いんで」
ぼく、殺されちゃいます。法律はそうつぶやいた。
「それで他の妹さんは」
「一人は八甲田山にあるコテージで泊り込みのアルバイトをしていました」
「この真冬に八甲田山だと!?」
「そういう子なんですよ。なんでもコテージで殺人事件が起きたらしく、助けに向かおうとしたのですが、猛吹雪で足止めをくらい結局会えずじまいでした。ついさっき連絡をもらったのですが、事件は無事解決したそうです」
「ほう。それはさすがだな」
「えぇ。コテージが全壊するだけで済んだのです。あの子にしては上出来ですよ」
「今なにかものすごい物騒な言葉が聞こえた気がしたんだが」
「まぁ事件後のごたごたで、東京に戻って来るよう話をする時間はありませんでしたけどね。二人からは確約を得ることができませんでしたが、彼女たちの性格を考えたら大丈夫です。必ず協力してくれますよ」
法律は籐藤の引きつった笑顔を無視して話を続けた。
「それから、末っ子はぼくの依頼を快く引き受けてくれました。ただ学年末までは向こうにいたいとのことで、三月に沖縄から引っ越してくるそうです」
「学年末って、そいつは大学生か?」
「いえ。高校生です。高校一年生です」
籐藤は文字通り頭を抱えた。半月前に目の前の男に協力を誓った過去の自分を呪いさえした。
高校生。やっとこさ確保できた戦力が高校生一人ときたわけだ。
『九相図殺人事件』で籐藤は法律と、たった二人の独立愚連隊態勢で事件に挑んだ。結果として得た肉体的&精神的疲労は計り知れないものがあった。今後、恒河沙探偵事務所と共に事件に挑むことがあれば、一人でも多くの戦力が必要となる。それがまさか、高校生一人とは。
「待てよ」
籐藤が抱えていた頭を上げた。
「京都の眠り姫が一人。青森の爆弾娘が一人。沖縄のクソガキが一人。妹は四人いると聞いたぞ。おい法律。あと一人はどうしたんだ?」
「……断られました。今の仕事が忙しいから、探偵稼業を始めるつもりはないって」
籐藤は深いため息をつき、うぐいす色の生八つ橋をまとめて三つ、口に放った。
「その子はどこでなにをしているんだ」
「東京です」
法律は言った。
「東京の大学病院で働いています」